#23 失われし十番目
告げられた意味が飲み込めず、颯太の思考は一時停止した。
真名とは、古の世に九つしか確認されていないもので。
今では、五曜の祓師のみが受け継ぐ不思議な力の原始。
――の、はずが。
「……ちょ、ちょっと待ってください。俺の魂に真名……って、何かの間違いじゃないですか?」
「君が混乱するのも無理はないね。しかし、これは疑いようのない事実。芙蓉、説明して差し上げなさい」
静流の指示を受け、芙蓉は僅かに頭を下げると、颯太に向き直った。たおやかな大人の女性の眼差しが、穏やかに颯太を包む。
「先ほどの大広間では、あなたは魂だけの存在でした。しかしながら、魂とは本来、肉体から離れることはありません。肉体が滅びれば魂も滅ぶ、逆もまた然り。魂が肉体から離れるとすれば、それは魂だけが人としての死を迎えたとき――つまり、闇に堕ちた時だけ」
「闇に堕ちる?」
「ええ。人の魂は穢れを溜めると肉体に留まれなくなり、零れ落ちてしまうのです。それを『闇堕ち』と呼びます。そうなれば、闇に潜み生きていくことを余儀なくされる。妖魔の源となる、『影喰い』と呼ばれるものがそれです」
丁寧に説明する芙蓉の言葉一つ一つに、颯太は顔を青ざめさせた。
「ま、まさか俺は闇堕ちして影喰いっていうものになってるんですか?妖魔の源に……!?」
「いいえ。それは違います」
取り乱しかけた颯太を制するように、芙蓉は口角を僅かに上げ、言葉を続けた。
「あなたの魂は肉体から離れても闇に染まることなく、確かなものとして存在していました。肉体も滅びていない。これは、魂自体に何らかの強い力が存在するということにほかなりません。つまりそれが、真名の力です。私共、黛一門の巫女は、古来より五曜の者の魂を視てまいりました。これを開眼術と申しますが……、あなたは魂の姿だったとき、光を秘めていましたね」
芙蓉の指摘に颯太は驚いた。颯太にしか感じ取れなかった、薄い光の膜のことを指しているのだろうか。
「芙蓉さんにもあの光が見えたんですか?」
「ええ。あれは間違いなく、真名の刻印が持つ気です。そして肉体と同化した今、その光は見えなくなっています。真名が器の名に隠れ、その力を失っているためです」
「器の名?」
「あなたの名前――『颯太』という名です。生まれた後に付けられる名前を、便宜上、器の名と呼んでいます。真名と区別するために」
「……なるほど」
「あなたの真名は、器の名の下、眠っていました。そこに交通事故という生命の危機があり、強制的に目覚めたのでしょう」
「そうか、事故が原因で……」
そういえば、颯太の魂が真夜中に散歩するようになったのは、交通事故に遭った日の夜からだ。
「本来であれば、真名を認識することで真魂として目覚めた魂を支配下に置けます。しかしながら、あなたの場合はそれがなく真魂が一人歩きしてしまっています。不完全で制御できていないがゆえに、身体から魂が分離するという現象を引き起こしたのです」
清水が流れる川のように、静かに淀みなく芙蓉が言葉を紡ぐ。耳を傾けながらも、颯太は自分が真名を持っているということに半信半疑だった。だが、信じるほうへと徐々に気持ちが傾いてくるのも否定できない。
それは芙蓉の話に納得したというよりは、身体から魂が抜け出すという異常な状態に何らかの説明をつけてもらえたことへの安心感からくるものが大きかった。颯太は一つの疑問をぶつけた。
「俺は、誰かに名前を刻まれた記憶はありません」
「ええ。先ほど静流様が仰ったように、現代において刻印の儀は禁忌。あなたは生まれながらにして、真名を持っていると考えるべきです」
「そ……そんなことが現実にあるんですか?」
信じられずに呟いた一言に、芙蓉は深く頷く。そしてついと上座に顔を向け、静かに告げた。
「ここにおわす静流様もまた、生まれながらにして古の真名をお持ちです」
「えっ……!?」
颯太はこれ以上ない驚きをもって、静流に視線に向けた。当の静流は、その反応を予期していたらしい。なんら動じることなく、芙蓉の発言の後を引き取る。
「僕だけではない。何の因果か、遠い昔に存在した真名を持って生まれた者――『蘇芳』の名を持つ周防直弥、『鵜帥』の名を持つ碓氷遊璃、『鵬将』の名を持つ宝生莉華子。今、五曜には四人の『名持ち』が存在する」
「な、なんで九曜の真名を皆さんが……?」
「それは今のところ僕たちにもわからないことだ。生まれながらにして真名を持っていた、それだけが動かしようのない事実。数百年続く五曜の歴史の中でも、前例がない。そして、君の真名の存在。おそらく、何らかの意味があることに間違いはないだろう。だが……」
静流たちが持つ真名。颯太が持つという真名。
この二つに何か関係があるとして、それが意味するところとはなんだろうか。颯太には皆目見当もつかない。静流もまた、その先を言い淀んだ。
「俺が持っているのは、九曜の真名ではないんですよね。さっき、失われた真名が関係していると」
「おそらく。消去法でいくとそういうことになるからね。まず、九曜の真名はあくまでその血統を持つ者に現れている。念のために蓮見家の家系図を遡って調べてみたが、五曜のいずれの家系とも交わることはなかった。五曜に数えられない九曜の真名である可能性も低い。特に、『匡』『那由多』『計都』である可能性はほとんどない」
いつの間に家系図を、と思わないでもなかったが、それは今聞くべきところではなかった。颯太は静流が告げた名前の数だけ指を折り、五曜の数と足したところで首を傾げた。
「あと一人いますよね」
「そうだね。仮に、あるとすれば『白嶽』の家系である石動家になるが……。まず違うだろう。石動家は五曜に連なりこそしないが、その動向は常に把握している。あの家系と蓮見家に関連はないはずだ」
「じゃあ、俺が持つ真名とはどういうものなんですか?」
「とても特殊なものだよ。同じく九曜の時代に、祓師でもなんでもないただの名もなき男に刻まれたもの。それによって男は唯一無二の存在となった。しかし、ある時を境に、男は突如として表舞台から姿を消すことになる。――ゆえに、失われし十番目」
――それが、自分の持つ真名だとは。
五曜盟主である静流の口から聞きさえしなければ、到底信じられないような話だ。しかも、結月たちのように真名の恩恵である能力を使ったこともないのだから、何の実感も湧いてこなくても当然かもしれない。
「君の真名は、いずれ君自身が思い出すはずだ。そうすれば、君は力をその手にできる」
「力を……。でも、どうやったら思い出せるんだろう……?」
「我々は、自我が完全に確立し物心つく幼少期に、自分の中に存在するもう一つの“名”を自然と認識した。ただ、これは参考にならないだろうね。君は僕たちとは違う、稀なケースだ」
あまりにも颯太が不安そうな顔をしていたのだろう。静流は言葉を切ると優しく微笑んだ。
「君の真名は、既に目覚めている。強く求めれば、きっと応えてくれるだろう」
そういうものなのだろうか――なんの気配も感じられない、自分の真名の存在を心の中で探りながら、颯太は頷くと静流に礼を言った。戸惑うことが多かったとはいえ、色々な話を聞かせてもらったのだ。今まで知らずにいた事柄が次々に明らかになり混乱してはいるが、少しずつ理解し始めていた。
(その昔に九曜がいて、大戦を経て五曜になって、皆はその末裔。なぜか古の真名を持つ『名持ち』がいて、俺にもその気があって……。俺は、失われし十番目……)
颯太は頭を振った。話は理解できたが、だからどうなるというわけでもない。颯太の手に負えないようなことばかりだ。
「あら、静流様。縹たちが戻ってくるようです」
まるで空気と同化していたかのように、何も語ることなく控えていた柑子が、庭を指し示した。視線を向けると、鍛錬していた縹たちと、うんざりした顔の遊璃がこちらへ歩いてくるのが見える。庭の地面に開いた穴はすっかり綺麗に均されていた。太陽もかなり斜めに落ち、夕焼け色を帯びている。
「ああ、もういい時間だね。そろそろ蓮見君も帰宅したほうがいいだろう」
「はい。貴重なお話をありがとうございました」
改めて礼を言い、颯太は鞄を手に立ち上がった。柑子に連れられて縁側に出たところで、部屋の中の静流に声をかける。
「もし、真名を思い出したら、すぐに連絡します」
「そうだね。待っているよ。もしかしたら……君も真名以上のものが思い出せるかもしれない」
「真名以上のもの?」
思わず聞き返した颯太に、静流は逡巡の後、短く答えた。
「真名が持つ、記憶だよ」




