#12 最悪の中の最善
颯太は、視界から外れかけていく波流を咄嗟に目で追った。男が悔しそうに歯噛みする。
「やってくれたな……!」
なおも攻撃を繰り出そうとする狐少女に対して牽制の一撃を放つと、男は相手が間合いを取ったのを見届けてから、膝を付いた波流のそばへと駆け寄った。
颯太も同じようにしたいが、そうできないのがもどかしい。せめてもと声を張り上げた。
「大丈夫ですか!?」
「……大丈夫。少しかすったくらいだから」
「傷はどうだ?」
「問題ない。少し油断した……すまない」
男の問いかけを手で制止し、波流は気丈にも立ち上がった。先ほどまでの険しい表情はそこになく、いつも通りの冷静さが保たれている。それでも、それは強がりだろうと思えた。波流の右手は、まだ傷を負った左腕から離れていないからだ。少しも安堵できない状況下で、少年少女の笑い声が響いた。
「もう少しだったみたい」
「次は、齧っちゃおうか」
くすくすと漏れる楽しそうな囁きに、男の口元がピクピクと歪んだ。
「躾のなってないクソガキ共だな」
「……それは否定しないけれど、あなたの口の悪さにもほとほと呆れるわ、縹。さっきから聞いていれば、面白みのない暴言を吐いて」
すっと、颯太たちの目の前に女が現れ出た。今しがた聞いたばかりの声だ。
どこからどうやって出現したのかは定かでないが、あまりの唐突さに颯太は声も出なかった。女は先ほどの男と同じように、おかしな装いを平然としている。
女は波流に近づくと、腕の様子を看ながら、仏頂面になる男を尻目に見た。
「その口から出る言葉は静流様のお耳に触れるのだから、気をつけてといつも言っているはずよ」
「つい、な。以後気をつける。ところで、波流」
男は、それ以上の苦情を拒む構えのように、早口で切り出す。
「そいつ連れて、さっさと退け。俺たちはここで少しばかり時間を稼ぐ」
「縹……!でも……」
「大丈夫。それに、私たちはここに残り、あの妖魔たちの情報を幾らか得なくては。気になることがあると、静流様が仰っているの」
女が波流の言葉を遮る。それは有無を言わせない力を持っていたようで、波流は小さく息を吐いた。
「……わかった。では二人とも、後を頼む」
傷を負っていない波流の右手が、颯太の腕を掴んだ。颯太にも、もうわかっている。ここから脱出する、ということだろう。颯太もこの“物”扱いにだんだん慣れてきたせいで、動揺したりすることもない。むしろ、持っていってもらえるだけありがたい。
「逃げるの?駄目だよ、みんな捕まえるんだから」
「そうよ、駄目よ。トモダチを置いてくの?」
少年少女の憤嘆にも、波流は立ち止まることはなかった。屋上から真横の別のビルへ、華麗に飛び移る。颯太が後ろを振り返ると、残された男の手がヒラヒラと前後に振れていた。早く行け、ということらしい。
「逃げた!どうしよう?追いかける?」
「でも、こいつらも捕まえないと」
屋上には、少年少女と大人の男女。
可笑しな組み合わせだが、しようとしていることはどちらも同じだった。
「威勢がいいな、小童共。俺は久々に機嫌が悪い。旗色悪過ぎだってそろそろ気づけよ」
「なんだよ。ハタイロってなに?小狐丸」
「うーん。わかんない。でも、なんかムカつくからぶっとばそ?小烏丸」
少年少女のやり取りに、縹の目尻が上がった。柑子はそれを抑えるように一歩前に出ると、口元を袖で隠して微笑む。
「身の丈に合わないことをするのも、若さゆえのこと。しばし、我らが遊んで差し上げましょう」
かくして、四人の戦いは始まり――柑子の言葉を違え電光石火の勢いで、それは終わった。
「……具合がだんだん悪くなってませんか、南雲先輩」
颯太は自分を連れ歩く波流を見やった。
ビルの谷間を縫って移動している二人には、月の光が差してこない。それだけでも充分顔色が悪く見えるというのに、今の波流は額に汗を浮かべ、息遣いを少し荒くしていた。
「……問題ない。それより、早く……倉間の屋敷に着かなければ……」
波流は颯太のほうを向きもせず、前だけを見据えている。うわ言のように聞こえるその言葉に、颯太は生きた心地がしない。
「本当に辛そうですよ。少し休憩するとか」
「駄目。力が切れた今、追いつかれては一貫の終わり……」
力が切れた、とは、つまり昨日の結月のような状態を指すのだろう。
波流ともあろう人間が、この逃亡劇にて無計画に能力を使い切るようには思えなかった。が、事実、移動の途中から徒歩になったことを考えれば、申告通りと見て間違いない。その時点で力を失ったのであれば、これ以上無理をさせるわけにはいかなかった。
幸い、あれからあの少年少女が追いかけてくることはない。味方であるあの不思議な男女がうまく足止めしてくれているのだと信じて、颯太は少しでも支えになればと波流の腕に手を添えた。
(――え……!?)
ぬるりとした感触が手を伝った。血だ、とわかってはいたが、想像していた出血の比ではないことに驚いて掌を凝視した。暗くておぼろげにしか見えないが、そこには大量の血痕が残されている。
「……先輩!やっぱり酷い怪我じゃないですか」
「かすっただけ、だと、言った」
「そんなわけないです!こんなに血が出てるのに!」
「騒がないで。頭に響く」
「す……すみません。でも、こんな状態じゃ倉間さんの家には行けませんよ」
颯太は肩で息をしている波流を前におろおろする。自分の肩を貸したいのは山々だが、今の颯太の状態ではそれもままならない。
倉間の屋敷を目指しているという波流にその住所を聞いたのは、つい先刻のことだ。倉間家に迎えを頼もうにも、波流の携帯電話は斬り付けられたときに落としたらしく、その衝撃で無残な姿になっていた。もちろん電源は入らない。颯太の携帯電話も、狐少女に取り上げられたままで、成す術ない。
となると、必然的に選択肢は徒歩ということになる。しかしながら、今居る場所からではどう見積もっても軽く一時間はかかる見込みだった。手傷を負った上に能力切れを起こしており、早急に休みを必要としている人間が、自ら歩いていける距離ではない。それを裏付けるように、波流の足取りは時間が経つごとに重くなってきていた。
「……すまない、蓮見君。早く逃げ切らなくてはならないのに……迷惑をかけて」
「迷惑だなんて。先輩が怪我したのは、俺があの場に呼んだからです。いつも助けてもらって、迷惑をかけているのは俺のほうだ……」
「それは違う。あの時、考えに気をとられていて……迂闊だった」
波流は脳裏から何かを振り払うように頭を振った。自らの失態を思い起こしていたのだろう。
不意に、波流の身体が揺れた。かろうじて建物の壁に手をつき、体勢が崩れるのをこらえる。続く言葉の勢いにも翳りが見え、呼吸が浅く速くなってきていた。
「先輩!?」
「……ふ……これは本格的に、君だけを逃がす方法を考えたほうがよさそうだね……」
「な、なに言ってるんですか!」
颯太はぎょっとして波流の肩を掴んだ。そんなことは望んでいない。掴まれて腕に痛みが走ったらしく、波流が微かに眉を顰めた。その顔に颯太はハッとして手を離す。
「と、とにかく、俺より自分のことを考えてください。絶対に助けますから……!」
今の颯太になにができるのか、と聞かれれば言葉に詰まる。だが、波流を助けるためにも、今は状況を打開するべく対策を考えなくてはならない。このままでは、そのうち波流が動けなくなることは確実だ。
脳みそを絞れるだけ絞りきった成果か、颯太の頭の片隅にあることがひらめいた。思い付いてみれば平々凡々な考えだが、今はそれしかないように思えた。
「……他に行ける場所って、ないんですか」
「他に……」
「そうです。行くのは、絶対に倉間さん家ってわけじゃなくてもいいですよね?さっきの人たちみたいな味方はこの近くにはいないんですか?」
倉間家に行くことはもう絶望的といっていい。ならばせめて、どこか別のところへ身を寄せるしかない。波流たちの人間関係はよくわからないが、先ほどの男女と同じような関係の人物が他にいてもおかしくはないだろう。
颯太の問いを受け、波流が無言になった。当てを探しているのか、他に味方などいないのか。
暫しの沈黙のあと、深い溜息が漏れた。
(いないのか……)
「いるには、いる……」
「いるんですか!?それ早く言ってくださいよ!!」
「……ただ、そこに行くのは……」
颯太の剣幕も介さず、波流は言葉を渋った。気が重いのか、躊躇うような素振りだ。だが、颯太にはそんなことはどうだっていい。
「なに迷ってるんですか!ここで先輩が死んだら、あいつらから逃げてきた意味ないんですよ!」
「……いや、でも……」
「でも、じゃない!先輩は倉間さんの護衛でしょう、なのに倉間さんを残していくんですか?すごく悲しい思いをさせていいんですか?」
颯太は必死に説得を試みた。波流の心に引っかかりそうなことをいくつも並べる。それで気が変わってくれることを祈った。今は何よりもまず、波流の命が大事なのだ。
「南雲先輩!事情はわかりませんが、決断のときです!」
「…………ははっ」
颯太の渾身の一押しに、下を向いている波流の身体が揺れた。笑ったらしい。
波流はゆっくりと身体を起こした。汗がすうっと首筋に伝う。身体の辛さはまったく軽減されてはいない。それでも、顔を上げた波流の瞳に宿る光は決して弱々しくはなかった。
「蓮見君の言うとおりかもしれない。今は、それが最善。今は……」
自らに言い聞かせるように呟きを繰り返し、心を決めたらしい。波流はとある方向を見つめ、行き先を告げた。
「――周防家へ向かう」




