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黒魔術師と3つのルール  作者: 寺町 朱穂
隠されたルール
72/77

70話 死にたがりの老婆


 私は愕然とした。

 たった数日、たった数日なのだ。

 数日前まで、香奈子は犯しがたい美しさを放っていた。内面から滲み出る美しさ、というのだろう。それが確かに存在した。しかし、これは何が起こったのだろうか。

 牢獄からは、どことなく鼻を覆いたくなる臭いが漂ってきている。少しでも近づいたら、病気になってしまいそうな――そんな死の空気に満ちていた。



「か、香奈子? いったい、どうしたの?」

「あぁ、澪ちゃん……よかった、無事だったんだね」



 何を勘違いしているのか、香奈子は少しだけ頬を緩めた。

 いまだに、澪とミールが同一人物だと気がついていないのか。それとも別の勘違いしているのか。助けを求めるように、手を伸ばしてくる。



「良かった――無事だったんだね、澪ちゃん」

「何が起きたの?」



 伸ばされる手を見下ろしながら、小さな声で問いただす。

 香奈子にではなく、後ろに控えるナナシに向けて。たった数日で、人がここまで変わり果てるなんて考えられなかった。私の問いかけに、ナナシは淡々と



「何も起きてない」

「嘘っ! ありえない。たった数日で、こんなこと!!」



 深編笠の中の表情は、私からは見ることが出来ない。

 ナナシは、嘘をついているのだろうか。いや、この状況で嘘をつく道理が思いつかない。悩んでいると、香奈子が消えそうな声で



「分からないの」



 と囁いた。

 私は腰をかがめ、香奈子の目線に立つ。視るに堪えない程に落ちぶれた香奈子は、ゆっくりと語り始めた。



「数日前――ヴェーダ帝国が襲ってきたの。城に内通者がいてね、その人が――混乱を引き起こしたの」

「食糧庫を燃やして、籠城戦も出来なくさせたことは知ってる。私が知りたいのは、その後! アルフレッド達と一緒に貴方も捕えられて、その後どうしたの? いったい何が――」

「何もないわ」



 薄紫色の唇は、ゆっくり言葉を紡ぐ。



「ここに閉じ込められて、いただけ。気がついたら――でも、そんなに私、変になってるの?――もう、死にたいよ」



 異様なまでに大きな瞳から、涙が零れ落ちる。

 すっかり崩れてしまった香奈子だったが、その涙だけは真珠のように美しかった。

 何故だろうか。 蹲って涙を流す香奈子と、誰かが重なって見えた。

 それは、一体誰だろう。



「死にたいよ――私、何にも悪いことしてないのに」

「――香奈子」



 そうだ。

 今の香奈子は、昔の私だ。

 香奈子に裏切られて、エドネスの波打ち際に打ち付けられた時の私に――でも、違う。どこかが違う。その違和感に眉をしかめる。私は、香奈子を見据えた。



「どうして、悪いことをしてないって言いきれるの?」

「私は――だって私は、世界を平和にしようとしたの。血を流さずに、平和的に――女神さまに言われた通り、世界を統一して、幸せな世界を作り上げようとしたのに――。

もう駄目、もう、死にたい」



 ほろほろと涙を流す。

 私は、香奈子から目を逸らした。もう見ていられなかった。

 私は――香奈子が同じ目に合うことを望んでいたはずだ。しかし、実際に目にすると――何とも言えない感傷に浸ってしまう。



「こんな状態になるまで――放置してたの?」



 心なしか、声に熱がこもった。

 香奈子は憎い。善意とはいえ、私を裏切って――善意とはいえ、私を死に追いつめた。親友が書いたという嘘の手紙も見極めることが出来ないで、ただのうのうと城で幸せに暮らしていた。それは、許せない。思い出すだけで、沸々と怒りが込み上げてくる。


 だけれども――これはない。



「何も起きてない、とは言わせないですよ」

「何も起きてない」



 しかし、かたくなにナナシは言い放つ。

 数日前の――たとえ逆ハーの加護なんて無くても気品と美しさに満ちていた香奈子は、何処へ行ったのだろうか。誰かが何かしたとしか考えられない。私は、ナナシに詰め寄った。



「嘘に決まってる! いったい、香奈子に何をしたの!?」

「だから、何もしてない。ただ食料と水を与えていただけだ。トイレも侍女が案内した。それ以外は、特別何もない。扱いも、他の囚人と同じだ」

「そんなわけない!」



 ここに来るまでに、何人かが収容される牢を通り過ぎた。

 恐らく、香奈子と同じ時期に収容された兵士たちを、何人も見た。項垂れて、気力こそ失っていたけれども、ここまで変わり果てた様子は無かった。



「兵士達より、酷い扱いをしたの?」

「いや、違う。同じ扱いだ」

「それが、数日でこうなるわけないじゃん!!」



 現実が信じられなかった。

 しかし、現に目の前の香奈子は異様なまでに美しさを失っている。肌は干からび、頬はくぼんでいる。ニキビ1つなかったはずの顔には、深い皺が幾本も刻まれていた。



「本当に、何もしていないの? 急激に老いる薬、とか飲ませたんじゃない?」

「そのような物はない」

「澪――ちゃん」


 香奈子の声は、身体の奥から絞り出したような声だった。

 鈴のように軽やかな声は、もう影も形も見当たらない。私は唇をかみしめていた。ナナシの手が、私の肩を叩く。



「あとで原因を調べる。今は、女神について聞きだせ」

「そうだけど――分かりました」



 ナナシの声で、冷水を浴びせられたかのように目的を思い出す。

 ここに来たのは、女神についての情報を引き出すためだ。香奈子の変わり果てた様子を見に来たわけでは、無い。

 それに、香奈子の状況は、ソニア辺りに頼み込めば何とかなる気がした。この有様に怒りを覚える私がいる反面、もう少しこの状況で苦しめばいいと思う私もいる。状況が改善できる可能性があるならば、もう少し――この状況でも良いではないか。



「香奈子――女神と会った時のこと、もう一度話してくれる?」



 飛び出さんばかりに大きな瞳を、私は覗き込んだ。



「女神、様と?」



 香奈子の声は、酷く掠れていた。

 まるで、身体の奥から絞り出すような声だった。注意して聞かないと、聞きそびれてしまう。私は香奈子の放つ言葉の一言一言に注意を向けた。



「事故に、巻き込まれて――気が付いたら、不思議な空間にいたの。女神様は――元の世界に、戻させてあげたいけど、そのためには今から――送る、争いの多い世界を鎮めて統一しなさい、って。だから、加護を授けます――って言って、リゾットを御馳走して、くれたの」

「リゾット? 何それ」



 初めて聞いた内容に、私は身を乗り出した。伸ばされた手をつかみ、香奈子に問いただす。



「教えて、リゾットって何?」

「ぎゃくはーの加護を、受ける儀式、なんだって――鍋からお椀によそって、くれたの。――あまり味はしなかった、けど――金色に光る不思議な、リゾットだったよ」



 しかし、現状――明らかに「逆ハーの加護」が効いているとは思えない。

 私がつかんだ香奈子の手は、田舎の祖母の腕のように干からびていた。骨と皮ばかりとはまさにこのことだろう。血も通っているとは、思えないくらい冷たかった。このような状態の人には、確かに庇護欲が沸きそうだが、世間一般的な「逆ハー」とはかけ離れている。美しさは愚か、気品すら感じられなかった。

 何故、加護が切れたのだろうか?



「澪ちゃんは――食べなかった、の?」

「食べなかったもなにも、女神のことを覚えていないの。女神は――私が来たって言ってた?」



 疑問をぶつけてみる。 

 本来ならば、初日に聞かなければ無かった質問だ。胸に秘めることなく、あの時素直に聞いていれば――その後、違った結末になっていたかもしれないのに。いや、それでも同じ結末を迎えていたかもしれないが。



「澪ちゃんは―――来たの? 何処にいるの?って聞いたら、もう行ったって」

「行った?」

「てっきり、先に行ったんだと思ったの。私、澪ちゃんに追いつけるかって聞いたの? そしたら、女神様は――その娘も一緒の場所に、連れて行くか? ――って。もしかしたら、澪ちゃんは――別の所に、行く予定だったのかも、しれないの。

ごめんね――私の、我儘、で」



 香奈子の手が震える。

 いや、私の手が震えているのかもしれない。

 香奈子の言うことが本当ならば、私は――別のどこかに飛ばされる予定だった。だけれども、香奈子の頼みで同じ世界に落とされた。この世界に落とされたのは、香奈子の願いだったのだ。

 いや、驚くところはそれだけではない。

 女神は、私を知っていた。女神は「もう行った」と言った。つまり、私は女神に会っている。会っていなくても、すれ違うくらいはしていた? 頭を抱えて記憶を遡るけれども、トレーラーが迫ってきてからグランエンド城で目覚めるまでの記憶が、まったく思い出せなかった。



「澪ちゃん、ごめんね――でも、田舎で――幸せになって欲しかったの」

「香奈子?」



 枝ように節が目立つ指が、私の腕に絡みつく。

 もう香奈子は、とてもではないが美少女には視えなかった。美少女どころか、16歳の少女にさえ見えない。完全に、見た目が80歳を遥かに超えた老婆に成り果てていた。冷や汗が、背筋を伝った。



「戦いに――巻き込まれない、幸せな時を――過ごして欲しかったの。私にしか、加護はないみたい、だったから。最期に、会いに来てくれて――」



 皺くちゃな顔を、更に皺だらけにする。

 香奈子は何か言おうとしていた。言葉を続けようとしていた。

 しかし、その言葉が口から出ることはなかった。顔中皺だらけにした香奈子は、私をつかむ手に力を少し込めた途端、さらさらっと身体の端から砂になって消え失せてしまった。



「香奈子?」 



 何が起こったのか、分からなかった。

 ただ漠然と――手に残った砂を見る。博物館で見たサハラ砂漠の砂よりも、沖縄の砂浜の砂よりも、ずっと軽く細かい砂は、床に零れ落ちて消えてしまった。後に残ったのは、薄汚れた高級そうなドレスと頑丈な鉄枷だけだ。ナナシが檻を開け、中に飛び込んでいく。ドレスからは、大量の砂が地面に落ちた。

 とてもではないが、つい数秒前まで人間がいたとは思えない。私も、ふらりふらりとおぼつかない足取りで牢に入る。香奈子が先程まで座っていた場所に腰を下ろし、床を触ってみる。

 冷たい。

 人がいたとは思えないくらい、冷たかった。





 この日以来、山崎香奈子を見た者は誰もいない。







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