68話 はじめてのお留守番
濃姫。
日本人なら誰もが名前を知っている「織田信長」の正室だ。
しかし、その一生の多くは謎に包まれている。
斉藤道三の娘で、美濃から来た娘――故に「帰蝶」と呼ばれていたことまでは分かっている。しかし、ほとんど資料が残されていないのだ。若くして病死したとか、斉藤家の娘という事で殺されたとか、本能寺の変の時も信長と一緒に戦ったとか、徳川家康が幕府を開く時まで生きていたとか、私が知る限りでも様々な説が飛び交っている。
だけれども、まさか――
「日本から異世界に飛ばされていたなんて、ね。そんな説は、さすがに無かったな」
空を見上げて、ポツリとつぶやく。
あまりにも、予想外過ぎる展開だ。いつ彼女が異世界に来たのか、私にはわからない。だけれども、歴史から消えるように異世界に飛ばされ、ここで一生を過ごしたことには違いないのだ。
そう――元の世界に帰れないまま。
「なんと!?
キチョー殿がノウ姫と呼ばれていたことは、ヴェーダ一族に連なる者だけが読むことを許される「秘伝の書」にしか書かれていないことでござる。
まさか―――ミオ殿がキチョー殿とお知り合いだったとは!」
ソニアが、感心した様な声を上げる。心なしか、彼女の眼が爛々と輝いているように見えた。
「いや、別に知り合いというか、一方的に知っているだけなんですけどね」
「それでも、伝説の御方と同郷というだけで凄いでござるよ!
そうか!そういえば、ミオ殿の家名は『サイトウ』だったでござるな? 確か秘伝の書によれば、キチョー殿の父上殿の家名も『サイトウ』だったでござる!!」
「いや、それは単なる偶然で……というか、日本に斉藤と言う名字は沢山いるんですけど……」
「キチョー殿は、世界の改革者と呼ばれるくらいの功績を残しているでござる!
さっそく、このことをエリザベート陛下に伝えて来るでござる!!」
興奮した様子のソニアは、静止する間もなく駆けだしてしまった。
ぽつん、と丘には私だけが残される。風が吹いて、草が揺れる。すこし伸びた髪を抑えながら、ぼんやり空を見上げた。青い空は、どこまでも澄み切っている。
私も、香奈子も空から降ってきた。
濃姫も、空から降ってきたのだろうか?
あの空を登って行けば、元の世界に帰れるのだろうか?
――いや、それは無い。
今は昼間だが、夜になれば星々が輝き始める。きっと、このまま術か何かで空に昇って行ったとしても、この上に広がるのは膨大な宇宙だろう。
「本当に、どうしたらいいんだろう」
その問いに答える人は、誰もいない。
私は、しばらく空を眺めていた。
『伝令!!』
霊体の小鳥が囀ったのは、夜の帳が降りてからだった。
夕食は保存食で済ませ、もう寝ようかと思う頃――天幕の隙間から半透明の小鳥が入り込んできたのだ。そっと手を伸ばせば、小鳥は臆することなく私の腕の上に止まる。そして、ルーシェの声で囀り始めた。
『弟子へ伝令:至急、城の会議室まで来い。以上:ルーシェ・アナスタシア』
城の会議室というのは、いつぞやかアルフレッド達が会議をしていた場所だ。
何回も霊体の眼を通して訪れた場所なので、よく覚えている。私は軽く深呼吸をすると、鳥に言葉を吹き込んだ。
『師匠へ伝令:了解しました。すぐにそちらへ参ります:澪』
そして、天幕の隙間めがけて鳥を飛ばす。
半透明の鳥は、そのまま夜空の彼方へと消えて行った。それを見届ける間もなく、私は急いで身支度を整える。そして、鳥の後を追うように天幕から飛び出そうとした。
しかし――
「……くぅん」
寂しそうに鳴く声が、背中にかけられる。
振り返れば、ハヤブサが起き上がるところだった。黒い目を潤ませ、ゆっくりこちらへ近づいて来ようとする。白い包帯で覆われた身体が、あまりにも痛々しい。まだ歩くことも難しいだろうに、よたり、よたり、と近づいてくる。
たった数歩の距離だ。
いつものハヤブサなら、この瞬間にも私の腕の中に飛び込んでくる。
だけど、それが出来ない位――ハヤブサは弱ってしまっていた。
「ハヤブサ」
呼びかけると、一層懸命に近寄ってきた。
顔を上げることも辛いだろうに、私をしっかり見上げて歩いてくる。私はしゃがむと、ハヤブサに手を伸ばした。
こんなことをしている時間は無い。早くいかなければ、ルーシェに何と言われるか分かったものではない。ハヤブサなんて放っておいて、さっさと行けと叫ぶ私がいる反面、ハヤブサに手を差し伸べる私もいた。
「くぅん、くぅん」
置いて行かないで。
潤んだ瞳は、私に訴えかけてくる。
別に連れて行ったところで、特に問題は起きない。だけれども、今のハヤブサは満身創痍だ。ナナシが助けてくれたおかげで、なんとか命をつなげたような状態だ。少しでも安静にしていなければならない。抱いて連れて行くにも、ハヤブサは昔よりも成長している。子どもの体格とはいえ、出会った当初より成犬に近づいてきているのだ。
ここから城まで抱えて行くのは、さすがに無謀な試みだろう。
「ごめんね、ハヤブサ」
包帯の巻いていない場所を撫でながら、そっと囁いた。
傷だらけの身体を撫でながら、ふと――ずっとハヤブサの傍にいたい、と思う自分がいた。無理だと分かっているけれど、一緒にいて欲しい。
ずっと――独りぼっちで雨宿りしていた時から、国境越えに利用されても、こんなに痛い思いをしても耐えに耐え、ずっと私の後ろを着いてきてくれた忠犬に。
だけれども、今度ばかりは連れて行けない。ハヤブサに、選択肢を与えることは出来なかった。
「大丈夫、すぐに帰ってくるから。――ここで待ってな」
別に、重要ではあるが、生死にかかわるような呼び出しではないだろう。
ルーシェに呼び出され、会議室に行ってくるだけだ。
大方、ソニアの報告が彼女の耳に入ったのだろう。日本のことや、それまでの生活のことを根掘り葉掘り聞かれることは予想できているし、それ以上のことは要求されるとは思えない。
夜明け前には、この場所に戻ってくる。
どんなに遅くても、数日以内には戻ってくることが出来る。
「留守番、よろしく」
最後に一撫でして、立ち上がる。
ハヤブサは、まるで敬礼するかのように背筋を伸ばした。その姿を目に焼き付け、私は走り出す。早く行かなければ、ルーシェに何を言われるか分からない。
以前、グランエンド城に投降した時とは異なり、今回は隠れながら行く必要はない。すでにグランエンド王国は占拠されているのだ。そして、私は戦勝国側の人間だ。身を隠すことなく、グランエンド城へ駆ける。
故に、前回よりも遥かに短い時間で、城に辿り着くことが出来た。
「遅い、ミオ」
それでも、ルーシェに遅いと言われてしまった。
霊体を借りて何度も訪れた会議室には、エリザベートとアーニャの姿を借りたルーシェが待ち構えていた。エリザベートの後ろには正装のソニアが、ルーシェの後ろにはナナシの姿があった。
ぴりぴりと肌が痛いのは、気のせいだろうか。いや、気のせいではない。ナナシの表情は視えないが、普段へなっとした表情をしているソニアでさえ表情をひきつらせているのだ。あまりにも緊迫した空気に、ごくりと唾をのむ。
「さて、話して貰おうかミオ・サイトウ――お前の素性を」




