52話 焼け石に水
空高くに上る入道雲を眺めながら、エリザベートは微睡んでいた。
その対の椅子に腰かけるアーニャも、優雅に羽扇子を仰いでいる。
エリザベートに寄り添うように立つ私と、同じくアーニャに寄り添う侍女も同じ気持ちを抱いているだろう。互いに笑みを浮かべているのに、眼は全く笑っていない。
のどかな空気を醸し出しているのに、火花が飛び交っているようだ。『触ると危険、大火傷に注意せよ』という看板を立てても、違和感を感じないだろう。
「それで……最近のヴェーダはどうです?」
いまにも折れそうな声のアーニャが、問いかけてくる。
だけど、眼光は鋭く岩の壁でも貫くようだった。この人の病弱は、演技なのではないかと思えてしまうような……そして、自分の知る誰かに似た空気を纏っているというか……
「ええ。お蔭さまで、さらなる発展を目指せそうです。
丁度数日前、『建国の儀』に向けて、帝都から隊商が旅立ったという連絡が届きましたの」
「まぁ、ぬかりがないこと。
この国も順調に進んでいますの。他の国は、長が留守で大変らしいですがね」
「あらあら」
「まぁまぁ」
ほほほ、や、ふふふという上品な笑い声。
だけど、何故か冷や汗が背中を伝う。前に佇む次女も同じらしく、どことなく顔色が青ざめていた。……というか、あの侍女、香奈子に仕えていたんじゃなかったっけ?
「あら、貴女の護衛士は……どこか顔色が悪いように視えるのですが」
アーニャは気遣わしげに、私を見上げてきた。
その底知れぬ瞳に、私はぶるりっと身体を震わせた。なんとか笑顔の仮面を被るが、この冷汗は収まりそうにない。
「お気遣い、感謝いたします。ですが、何も問題はありません」
「むしろ……アーニャ様の侍女さんの方が、体調が優れないように見えますよ?」
エリザベートが口元にのみ笑みを浮かべながら、問いかける。
アーニャの侍女は、びくりっと身じろきする。そして、こちこちに固まった人形のような笑顔で、強張った言葉を紡いだ。
「い、いえ。御心配には及びません」
「あらあらナンシー。疲れたなら休んでも結構――」
「いえ!私は断じてつかれてなんかいません!」
アーニャの一声で、ビシッと背筋を伸ばす侍女ナンシー。
まるで、全身全霊をアーニャに捧げているような……そんな感じがした。
「まぁ……それは良しとしましょう」
アーニャが、上品で気品あふれる仕草で紅茶を口に運ぶ。
……アーニャという女性は、どことなく恐ろしい人だと思う。
彼女の仕草、ふるまい、言葉づかい、その全てが王族にふさわしい優雅さを携えている。
金砂の髪は麗しく、黒い瞳は儚げに白い顔に映えていた。深窓の姫君とは、まさに彼女のことを指す言葉だろう。
しかし―――アーニャはただ美しいだけの姫君ではない。
アーニャは、グランエンド王族であり王位継承者でありながら国をヴェーダ帝国へ売ろうとしている。
だからだろう、瞳から感じるのは底知れぬ闇色。アーニャとエリザベートが先程から交わしている情報交換も、薄気味悪いモノだった。
例えば、エリザベートの『帝都から隊商が旅立った』という言葉は、
『帝都から隊商に扮した帝国精鋭軍が旅立った』ということを意味している。
アーニャの『他の国は、長が留守で大変らしい』という言葉の裏にも、
『他の国は、ヴェーダ密偵が起こした内乱が酷いのに、肝心の国長は香奈子に夢中で戻る気配は一向に無し』という意味が隠されていたりする。
「それで、隊商の規模はいくほどなのです?
場合によっては、御出迎えした方がよろしいかと思いまして」
「そうですね……ざっと400程でしょうか。少しばかり、大きな隊商になってしまいました。まったく、金儲けに目がない人達だこと」
「いえいえ、当然の行動だと思いますわよ」
帝国精鋭軍の規模は400程。
以前、ゼクスに見せて貰った軍略の地図を頭の中に思い浮かべる。
ヴェーダ帝国が常時準備できる軍隊の規模は約10万程。あまり大きく動けないから、400程まで収めたのは分かるが……
「グランエンドは、確か80万以上……なんですよね?」
記憶の糸を辿り、ほろりと疑問を口にする。
確かその横に、『測定不可能』の文字が並んでいた気もする。
たった400人の兵隊で、何が出来るというのだろうか。内乱が発生させられ、右往左往している他国の援助を存分に得られないとはいえ……それでも、その差は目を覆いたくなるほど開いている。
護衛士としてエリザベートの周囲を警護する私やソニアを合わせても、せいぜい20人が増えるだけ。まさに『焼け石に水』だろう。
「いいえ、それは違いますわ」
アーニャが私を見据えてくる。
羽扇子で口元を隠してはいるが、その下の顔は笑っているように思える。
「『建国の儀』に全ての隊商が集まるわけではありません。せいぜい、グランエンド城の周りにいるのは―――1から2万人しかいませんよ」
いや、桁が2つほど違いますよ。
例え、これから行うことをしたとしても、本当に―――大丈夫なのか?
せいぜい、1つ桁が縮まればいい方であり、戦力差は格段にある。その不安を読み取ったのだろう。今度はエリザベートが優雅に微笑みを浮かべた。
「大丈夫です、あの作戦が成功すれば―――士気が十分に削れますから」
「ですが……」
不安には変わりがない。
勝つためには犠牲が必要だということは、重々承知している。
しかし、また谷での惨劇の再来をみるのは―――かなり、気が引けてしまう。論理的には可能なのに、斉藤澪が不可能だと訴えていた。
「不可能という言葉は……愚か者の辞書にある言葉です」
エリザベートは、私を鼓舞する様にハッキリと告げた。
「『不可能』と思う理由を外せば、それは『可能』に転じます。
数が多すぎるなら、向こうを減らせばいいのです。そのために、コレを用意したのですから」
ことんっと小さな小瓶を、ナンシーの前に差し出す。
小瓶の中の透明な液体が、ちゃぷんと揺れていた。ナンシーは恐々とアーニャに視線を向ける。すると、アーニャは有無言わさぬ速さで頷いた。ナンシーは
「分かりました」
と頷き返し、指先を震わせながらも、どことなく決意を固めた表情で受け取る。
小瓶を服のポケットに滑り込ませるように終い、目をつぶった。あの小瓶を受け取ったということは、彼女も覚悟を決めたのだろう。
なら、私も覚悟を決めなくてはならない。
「100年前の儀式の再演、いえ……似て非なる新たな劇を作りましょう」
アーニャが満足げに微笑む。
まただ。
私の耳がピクリっと動く。100年前に、何が起こったというのだろうか?
聞き出したい。だけど、答えてくれるだろうか?いや……ここで聞かなければ、意味がない。私は勇気を振り絞って、口を開いた。
「あの、気になることが―――」
「大変です!」
コンコンっとドアが叩かれる。
エリザベートがさっと私に確認の視線を向ける。私は首を横に振るった。警戒音は聞こえてこなかったので、問題がないだろう。恐らく、味方だ。
「入りなさい」
それでもか細い声を演出するエリザベート。
その声と共に、転がり込むように駆けこんできたのは、使節団に属する兵士だった。名前まで憶えられてはいないが……ソニアに忠誠を誓う武将だったと思う。
兵士の後ろに続くように、ソニアが息を荒げて跳びこんできた。
「何があったのです?」
エリザベートは、滑り込むように入ってきたソニアが、震えながらドアを閉め終わってから尋ねる。
すると、ソニアと武将は顔を見合わせて、ほぼ同時に告げた。
「「じ、実は―――」」
その先に続いた言葉に、私も驚愕の意を隠せなかった。
ナンシーは口を覆い、アーニャとエリザベートは目を丸くさせる。
「どうするでござる、陛下?」
ソニアの震えながらも、その瞳は、まっすぐエリザベートに向けられていた。
エリザベートはその真摯に受け止めながら、考え込む。彼女の頭が高速回転している音が、聞こえてくるようだ。
「そうですね……」
私もエリザベートの言葉を待つ。
状況は、こうしている間にも刻一刻と変化していく。
即座に動かなければ、すぐに首を取られる。ここは、そんな世界なのだ。
「ミール、……いえ、ミオに命令します」
この作戦のために用意された偽名ではなく、本名で呼ばれたことに内心驚きながらも、私はエリザベートの前に跪く。
『澪』と呼ばれたということは―――黒魔術を使って始末しろ!との命令なのだろうか?内心、今後の展開を予想しながらも黙って言葉を待つ。
「命令です。『ミオ』として、接触しなさい。
そして、今の言葉の真意を引き出すのです。それが、天女の差し金なのかを確かめるために」
それは、かなり難しい注文なのでは?
と思いながらも、この命令を実行できなければ、今後の作戦変更も考えられる。
「分かりました」
『建国の儀』まで、あと5日。
その5日を、大事に過ごさなければ―――私の未来、いや、ヴェーダ帝国の未来はない。
「必ずや、『彼』の真意を問いただして見せましょう」




