29話 救出を求ム
どこからか、犬の吠え声が聞こえてくる。
あぁ……そうだ、そろそろ朝食を作らなくては。ベーコンっぽい奴を炒めて、昨日の残りの野菜スープを温めればいいや。……そろそろ、パンじゃなくて、米が食べたい。醤油をつけた刺身が食べたい。豆腐が入った味噌汁を啜りたい。
だけど、それは贅沢な話。今は、目の前の朝食と言う課題をクリアしなければ―――
「…ん?」
瞼を開けると、目の前には男が転がっていた。
一瞬、何が起きているのか分からなくて、瞬きをする。そこに転がっているのが、ナナシということと、ハヤブサの鳴き声はいつも通り隣からではなく、はるか上空から降ってきていることを認識した途端、バッと跳ね起きてしまった。
「朝!?」
視れば、空は薄らと明るさを帯び始めている。
星々は1つ、また1つと姿をけし、月は崖の向こう側へと姿を隠していた。
時計がないから分からないが、もう朝ということには変わりがないようだ。
そして、いつもの習慣でハヤブサが目覚まし代わりをしてくれたのだろう。
「ハヤブサ、ありがとう」
寝入っているナナシを起こしたら、気の毒だ。吠えるのをやめるように、手で合図を送る。
その合図が視えたのだろう。こちらを覗き込んでいたハヤブサは、ピタリと吠えるのを辞めた。
……なんて利口な犬だ。
祖父が飼っていた隼は、こんなに言うことを聞かなかったような気がする。
「―――っ」
崖の上のハヤブサに向けていた意識を、再びナナシへと戻す。
ナナシは、僅かに動いていた。痛みに堪える様に、ゆっくりと瞼を開けている。
「あっ、ナナシさん。起きたんですか?」
「……」
相変わらず、返事はない。
もしかして、喉をやられているのだろうか?……いや、言葉数が少なかったのは前からのような気もする。
「あんまり動かないでくださいね。傷に障りますから。
えっと……その前に、私が誰だかわかりますか?」
忘れていたら、自己紹介をし直そう。
というか、忘れているに3000点。エドネスの国から逃がしたことくらいは覚えているかもしれないが、名前まで憶えているとは思えなかった。
「……」
ナナシは黙って頷く。
つまり、私を覚えているということだ。それだけで、安堵が心に広がる。
なんで、安心しているのか分からないけど。
「ナナシさんは崖に落ちていたんです。
ルーシェさんに救援を頼みましたから、もうすぐ来ると思います。……たぶん、ですけど」
「……」
「気分はどうです?何か飲みますか?」
そう言いながら、懐から竹筒を取り出してみせる。
しかし、ナナシは何も答えない。ただ黙って私を視ていた。
これは、本当に声帯を傷つけてしまっているのだろうか?それとも、ただ話すのが億劫なのか?
(もしかしたら私のことを警戒しているのかもしれない)
薄らと、そんな考えが横ぎった。
人は裏切る生き物だ。
私が、何かの目的のために親切の皮を被っている可能性もある。差し出した飲み物の中に毒が入っている可能性だって、ないわけではない。
もし、私がナナシの立場だったら警戒する。いくら傷ついていても、善意には裏があるはずだって。
「水が入っているんです」
だけど、私はナナシを助けたいから崖を降りてきた。
なんで、ナナシが私を助けたのか知りたいから。そのためには、彼を生かさなければならない。死人に口なしという言葉がある様に、死んでしまったら話を聞き出せない。
……いや、黒魔術を使えば何とかなるかもしれないが、まだそこまでの技量がないのだ。
「ただの井戸水です」
ナナシの耳元で、軽く竹筒をふる。
ぴしゃりぴしゃりという水音が、竹筒の中で木霊していた。
「師匠さんの家で汲んだ水を詰めました。毒なんて入っていません」
そう断言してから、竹筒の蓋を開けた。
実際、私自身が水を求めているのだ。口の中も何から何までカラカラで、干からびてしまいそうだ。
竹筒に口を着けず、宙で孤を描く水を上手く飲み干す。
冷たい水は、まるで生き返らせてくれるみたいだった。まだ、どことなく寝ぼけていた脳内が、一気に目覚めた気がする。そのように、半分ほど飲み終えると、私はナナシへ差し出した。
「飲みますか?」
「……」
こくり、とナナシは頷いた。
私はナナシの頭を支え、竹筒の水を流し込む。ナナシは貪るように、その水を飲み干した。
余程喉が渇いていたのだろう。幾分か、顔に血の気が戻ったように見えた。
「食べ物はないんです。ここまで持ってこれなくて……
でも、もう少ししたら助けが来ますから」
相も変わらず無表情に、語りかける。
ナナシは、黙って見上げていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「――ありがとう」
ナナシは掠れて聞きにくい声で、囁いた。
どうやら、話すことが出来るらしい。私は自然と微笑を浮かべていた。
「無事に、辿り着かれたのですね」
「おかげさまで。3か月ほど前に。あの時は、ありがとうございました」
……この3か月、ナナシはなにをしていたのだろうか。
「てっきり、貴方は死んだと思いました」
正直に言おう。
実際に、あの爆発に巻き込まれて死んだと思った。
すると、ナナシは僅かながらに苦笑を浮かべる。
だけど、口は開かなかった。何か言うのかと思ったが、何も言わないで黙っている。
仕方ない、私の方から聞くことにしよう。
「あの……前から気になっていたんです。なんで、私を助けたんですか?」
ずっと気になっていた質問。
これを聞くために、私は彼を助けたのだ。ナナシは苦笑を引っ込め、無表情に戻った。
それは、返答しないと口を固く閉じたようにも見えたし、言葉を選んでいるようにも見えた。
そして、ゆっくりとナナシが口を開く。
「俺は――」
「お~い、生きてるか、2人とも!!」
その先の言葉をかき消すように、上から声が降ってくる。
ルーシェの声だ。
面倒くさそうに煙草を咥え、こちらを見下ろしている顔が視えた。
「はい!2人とも無事です!!」
私は言葉を返す。すると、ルーシェは……気のせいか、笑ったように見えた。
「そうか。では、私がそいつを助ける」
そう言った途端、ルーシェはふわりと飛び降りる。
そうまるで、風に乗る羽毛のようだ。
太陽の光で、紅く照らし出された崖を背景に、ふんわりと舞い降りてくる。
あっという間に、ルーシェは私が苦心して降りてきた岩棚まで辿り着いた。その顔には、まったく『徒労』の二文字が視えない。
テキパキとした仕草で、ナナシの傍に腰を掛けた。
「今のも黒魔術ですか?」
ナナシの怪我の具合を調べる師匠に問いかけてみる。
すると、呆れたような顔を浮かべた。
「私の髪の色を忘れたか。黒魔術だよ、黒魔術。魂を軽量化するのさ、それで風に乗る。
修行を積めば、自由自在に飛べるようにもなるよ。……未熟なうちは試さない方がいいぞ。
……軽くなり過ぎた魂が、肉体から抜け出そうになる上に、一定時間経つと魂の重さが元に戻って、転落死のお待ちかねだ」
背筋に冷たいモノが流れる。
しっかりと制御しないと、『死』へ一直線ということなのだろう。
「てっきり、飛行魔術かと思いました」
「飛行魔術に似ているけどね。パッと見は、同じだよ。飛んでるんだから」
そうだ……そういえば、槍兵に捕らわれかけた時……
ナナシが私に飛行魔術をかけてくれた。
あの時は、私も槍兵たちも飛行魔術だとばかり思っていたけど、身体が軽くなるあの感覚は、黒魔術で魂を軽くしたからだったんだ。
「さて……と。ミオ、お前は自力で上がってこい」
「はい!」
ナナシを担ぎ上げたルーシェは、再び飛ぶ準備を始める。
ここで、私は疑問を覚えた。
ルーシェはどうやって降りてきた?
答え
私には扱えない超高度黒魔術で降りてきて、それで上へ戻ろうとしている。
……つまり、縄を使って下りてきたわけではない。
「あの、私……どうやって戻ればいいんですか?」
その答えは、何となく分かる。
だけど、念のため聞いておこう。もしかしたら、私の思い違いかもしれない。というか、そうであってほしい。
「ん?自力であがれ。ここまで来たときみたいに、な」
なんでもないように、ルーシェはそう言い放つ。
そして、あっさりと飛び立っていった。再び風に乗る様に、いや、今度は風の上を歩くように―――
「嘘、でしょ」
ぐぅっと腹の虫が声を上げる。
お腹も減り、寝たとはいえ疲れが完全に拭い去られていない状態で、再び崖を登れと?
1人岩棚に残された私は、茫然と立ち尽くすことしか出来なかった。




