30話 郷愁と病人食
「……死ぬかと思った」
口から零れた言葉は、正直な感想だった。
敷きっぱなしの寝具に倒れ込みながら、ここ数時間の死闘を思い返してみる。
よくもまぁ、帰還したと自分を褒めてあげたい。
1人岩棚に取り残されてからの、決死のロッククライミング。
一歩でも踏み外したら死への一直線。
空腹とわずかに残る眠気と戦いながら、崖を登る。それは、まさに神経をすり減らしていく作業だった。
あれをスポーツで楽しむ人がいるなんて、どうかしていると神経を疑ってしまう。
……もちろん、そういうアクティブな人たちは、しっかりと食事を終えたうえで、ちゃんとした装備をしているのだろうけど。
両掌は傷だらけで、泥と血に塗れている。足だって、ふらふらだ。
もう、1歩も歩けない。
ここまで帰宅するので、精一杯だったのに、それなのにあのババァ、もとい師匠の奴、
『そうだ、食事の準備を早くしろ。昨晩から酒しか腹に入れてないんだ。代わりに、今日の修行は取りやめにするから。
あと、私の部屋の掃除と洗濯。大急ぎで頼む。特に食事をな』
と、命令してきたのだ。
もちろん、全てこなしたからこうして寝ることが出来る。
いつもより幾分か多めに野菜と肉を軽く炒め、潰した豆を牛乳で煮込みポタージュを作り上げる。それをルーシェが食べている最中にたまった洗濯と、部屋の掃除を大急ぎでこなす。
そしてようやく、私の食事が赦された。
お腹をいっぱいに膨らませた私は、そのまま倒れこむように自分の部屋へと戻ってこれたというわけだ。
私は、さっさと休みたい。
いくら弟子がいるとはいえ、師匠も多少は家事をやれよ。
酒だけで夕飯を終わらせるんじゃなくて。
……もちろん、そんなこと口が裂けても言えない。
私を慰めるかの様に、ハヤブサが頬を舐めてきた。重い腕を持ち上げて、ハヤブサの頭をゆっくり撫でる。すると、ハヤブサはうっとりした様に瞼を閉じた。
「ナナシ……無事だったかな」
ハヤブサを撫でながら、隣室で眠るナナシのことを思い返してみる。
ルーシェ曰く、ナナシの傷は思った以上に深く、そして何日も食べてない状態らしい。
だから、数日間は安静にし、食事も消化に良いモノを用意しろとのこと。だから、ポタージュを入れた椀を届けた。
その時、少しでも話が出来たらいいなっと淡い期待を抱いていたのだけれども……生憎と静かな寝息を立てていたため、会話は断念することとなった。
果たして、食べてくれただろうか?
「……」
もう、考えるのはやめる。
とりあえず、今は眠ろう。疲れは取れる時に、出来るだけ取っておくこと。
いつ何が起きるか、分からないのだから―――――
「ミオ~。夕飯は、まだか?」
「もうすぐ出来ますよ」
ルーシェは、椅子に座り込んで煙草を吹かしている。
気がつくと、もう窓から差し込んでくる陽光は蜜色。夕飯の支度をする時間となっていた。故に慌てて、いつもの仕事をこなしている。
だけど、ぐっすり眠れたからだろう。
いつになく身体は軽く、頭もすっきりしていた。掌の傷が時折痛むけど、耐えられないわけではない。我慢できる範囲内だ。
疲れがない状態が、ここまで清々しいモノだったとは……
「それにしても、病人食ってスープで良いんですか?」
適度に切ったレタス似の葉物と鶏肉を煮込みながら、ルーシェに尋ねてみる。
「当たり前だろ。
さっきみたいな、ポタージュでも構わん。お前は、風邪を引いたときに何を食べたていたんだ?」
「記憶喪失ですから、覚えていません。だから、師匠に聞いたんですよ」
そう言い返しながらも、瞼の裏に浮かぶのは粥やうどん。
雪がちらつく夜、私は一人毛布にくるまっていた。
学校を休めて嬉しい気持ちもどことなくあったけど、それ以上に熱で苦しくて、動くのが怠くて、部屋で寝るのは淋しくて……いつもは鬱陶しい喧騒が、懐かしく思えてしまう。
そんな時、お母さんは心配そうな顔で塩味の効いた粥や、半熟卵を乗せたうどんを運んできてくれる。薄味のはずなのに、どこか優しい味がしたものだ。
思い出すだけで、目元がうるんできた気がする。
……あぁ、お母さんの手料理を食べたい。
米やうどんが食べたい……早く、元の世界に帰りたい……
「……」
郷愁の気持ちを無理やり押しこめ、柔らかく煮込み終えたスープを椀に分け始める。
一度にいくつもの鍋を振るう技量は、私にはまだない。
それに、そこまで個々の調理場は広くないのだ。
もちろん、この野菜スープだけだと腹は減るだろう。だから、他にも食卓に乗せる物を作らなければならない。それも、今からなので簡単にパッとできるものでなくては―――
「ん、起きて平気なのか?」
その時、後ろからドアが開く音が聞こえてきた。
振り返ってみると、ナナシが起きたらしい。
顔色はだいぶ良くなり、足取りもしっかりしている。
だけど、まだ疲れが取れ切っていないのだろう。彼の瞳の奥には疲労の二文字が浮かんでいた。
「……」
問題ない、といわんばかりに椅子に腰を掛ける。
本当に、無口な人だ。
そんなことを考えながら、残った鶏肉やらプチトマト似の野菜を串に刺していく。
炭火でしばらく焼いていると、鳥の脂がじゅわりと堕ちる音が目立つようになってくる。プチトマトは、ひび割れを起こし始めて、中の果肉が顔を覗かせて見栄えは悪いが……まぁ、気にしなくていいだろ。
「ミオ、デザートは?」
「ありませんよ。作る時間もないですし。というか、食べたいなら、自分で買ってきてくださいよ」
そう言いながら、焼き串を火からおろした。
あとは、パンを数枚用意すれば完成だ。
戸棚に手をかけた時、後ろから椅子が引かれる音が聞こえてきた。ルーシェが酒でも取りに行くのだろうか、と思って気にも留めないつもりだったが……
「けが人は座ってろ。下手に手伝って皿を割ったらどうするんだ」
どうやら、ナナシが立ち上がった音だったらしい。
ルーシェの言う通り、けが人は黙って座っていればいいのだ。……手伝ってくれるという気持ちは、とっても嬉しいけど。
「出来ましたよ」
スープの椀をそれぞれに配り、真ん中の大皿に焼き串とパンを置く。
もちろん、床にハヤブサ用の椀を置くことも忘れない。
「さてと、では食事にするか」
言うや早い。
ルーシェは煙草の火を消すと、焼き串に手を伸ばした。
この世界には『いただきます』の文化は無い。ヨーロッパでは食べる前に神に祈りをささげるようだけれども、そのような習慣もなかった。
食卓に着き、料理が運ばれて来たら食べる。
まぁ……私が席に着くまで、ルーシェは待ってくれるけど。
「おかわりが欲しかったら、遠慮なくいってくださいね」
ナナシに一言告げてから、私はスープを啜った。
……うむ、悪くない。しっかりと鳥の味が出ている。それに、煮込んだ葉物というのは美味いものだ。
よく、レタスをしゃぶしゃぶにして食べたな……あれ、美味しいんだよね。
『野菜をしゃぶしゃぶになんて、ありえない!』って香奈子は憤慨してたけど、レタしゃぶは最高だと今でも信じている。
そうだ、今度、なんちゃってロールキャベツ、いやロールレタスでも作ってみるか。
ロールキャベツなら、そこまで難しくないし。
茹でたレタスで、肉を巻けばいいんだから。
「……美味い」
次に何を作るか考え込んでいる私の耳に、ナナシのつぶやきが飛び込んできた。
ナナシは、まるで何か発見したような表情になっている。
三白眼が大きく見開かれ、スープを凝視していた。時が止まったかのように、しばらく固まっているのだ。
「ナナシ?」
「ほっとけ。色々と思うことがあるんだろ」
ルーシェはさほど気にすることなく、鶏肉を頬張った。
ナナシもしばらくしてから、かっ込むように食べ始める。
鍋一杯に作ったはずのスープだったが、3人で食べるとあっという間に無くなってしまった。
「さてと、そろそろ本題に入ろうか。……ミオ、お茶」
「用意してますよ」
もう3か月もここで暮らしているのだ。
食事の後に、茶を飲むことくらい想定済み。すでに茶の準備は整えてある。
私は空っぽになった皿を水に浸し、代わりにカップを置いた。
「それで、本題ってなんですか?」
「決まってる。なんで、アンタが倒れていたのかってことを聴くためさ」
「……まだ聞いてなかったんですね」
急須の中で茶葉を蒸らしながら、呆れてしまう。
てっきり、とうの昔にその理由は聞いたものだと思っていた。
「全員そろった時に聞いた方がいいだろ?そう思わないか」
どうやら、珍しく私を待っていてくれたらしい。
ルーシェにも優しいところがあるものだ。少し感心しながら、それぞれのカップに茶を注いでいった。
その間、ナナシは無表情だった。
とにかく怖いくらい表情が変わらない。これだと、深編笠を被っていた時と大差ないではないか。
「この3か月間、アンタは何をしていた?」
だけど、ルーシェの据わった眼差しに睨みつけられ、ようやく決心したように口を開いた。
淡々とした声で、今まで何があったのかを語る。
その口から飛び出た言葉に、私は唖然としてしまった。
「もう1人の少女を探していた―――天から落ちた少女の片割れを」




