28話 岩棚の夜
「……っと」
ようやく、地面に両足が付いた。
だけど、油断は禁物だ。
しっかりとした地面に足がついた途端、がくりっと膝が笑ったのだ。ぐらりと身体が傾く。
だけど、こんな所で倒れたら死んでしまうではないか。助けに来て自分が死ぬなんて、冗談ではない。何のコメディだ?
何とか崖にしがみつき、体勢を建て直すことに専念する。
だから、両足ともしっかりと地面に吸いついてようやく、ホッ吐息を溢すことが出来た。
「やっと、ここまで着いた」
ナナシが倒れている岩棚に辿り着いたときは、もうすっかり夜が更けてしまっていた。
満月は雲に隠されてしまい、手元を視るのがやっと。
足元なんて、ほとんど分からない。気配で、どのあたりに男がいるのかは探ることは出来たが……念のためだ。懐の小瓶から魂を取り出す。ぼぅっと怪しげに光る燐光が、僅かながらも辺りを照らしてくれた。
「狭っ」
燐光に照らされて、改めて思う。
ここは私とナナシらしき男がいるのが、やっとの狭い岩棚だった。
その隅の隅で這うように動き、そろりそろりと顔の位置まで移動する。崖から足を踏み外さないよう、それでいてナナシの様子にも注意を向けて。
深編笠のせいで、顔は見えないが……弱弱しくも胸が上下しているので、呼吸はしている。
とりあえず、生きているみたいだ。
だけど、安堵するには、まだ早い。
着物の擦り切れ具合から見て取れるように、全身傷だらけ。こうして近づいてみると、あちらこちらが、どす黒く血に染まっているのが視てとれた。
「まいったな」
手当てする道具なんて、持っていない。
そもそも私は医師でも看護師でもない。異世界ファンタジー特有の『回復魔術』なんて知らないし、そもそも異世界にあるかどうか分からない。
今さらになって、応急措置を学んでおけばよかったと後悔する。
この世界に来て、後悔することばかりだ。
どうしたらいいのか分からなくて、その場にしゃがみ込む。
すると、どっと疲れが押し寄せてきた。視界に星が散り始める。それに呼応するかのように、耳鳴りがし始めた。……貧血を起こしているのかもしれない。私は、しばらく動かないでそのままナナシの頭の……すなわち、深編笠の傍で屈みこむことにした。
やがて、耳鳴りは遠ざかる様に収まり、視界も正常に戻っていく。
そこでホッと一息ついた私は、改めて深編笠に目を向ける。
「……苦しくないの?」
ふと、疑問が芽生えた。
編笠を被ったことはあるが、ナナシみたいに顔まですっぽり覆う奴ではない。
お面を被っているみたいに、息苦しくならないのだろうか?
ずっと昔……縁日で母親にキャラクターのお面を買ってもらった記憶が、ボンヤリとよみがえる。最初は嬉しくて被っていたのだけれども、夏の暑さと熱気で蒸れてしまい、呼吸もしにくく、結局我慢できなくなって外したのだ。
「……」
改めて深編笠を視てみよう。
いくら呼吸はしているとはいえ、明らかに弱弱しい。しかも、傷だらけだ。
これは、少しでも呼吸しやすい状態にした方がイイのではないか?
……いや、でも、顔を見られたくないから笠をしているわけで、外されたくないのではないか?
「あの……笠、外していいですか?その方が、呼吸しやすいと思うんですけど?」
どうしたら良いのか分からないので、とりあえず声をかけてみる。
案の定と言うべきか……返答はなかった。
再度、尋ねてみたが結果は同じ。生きてはいるのは、分かる。だけど、寝ているのだろうか?それとも、気絶だろうか?はたまた、意識はあるが身体を動かすことが出来ないのか?
それを確かめるためにも、まずは顔を見なければならない。
だけど、本人の意思を出来るだけ尊重したい。
さて、どうするべきか……
『伝令!』
その時だ。
上空から先程の小鳥が舞い戻ってきた。私の肩へゆっくり降り立った小鳥は、その小さな嘴を開く。そして、まるで囀る様にルーシェの声で語り始めた。
『弟子へ伝令:夜遅い、朝になったら救援に向かう。傷の有無より、呼吸の確保を最優先せよ:ルーシェ・アナスタシア』
役目を終えた小鳥は、そのまま私の肩にとどまり続けていた。
ルーシェに伝令が伝えられたのだ。魔術が成功したという何とも言えない喜びが、心の中に満ち溢れてきた。それと同時に、全てを見通されているかのような気味悪さも。
ルーシェは、一体なんて先を呼んでいるのだろう。
まるで、今現在何が起きているのか視ているみたいだ。……水晶玉でこちらの様子を見塔しているルーシェの姿が、かなり鮮明に浮かび上がってくる。あながち、間違った推測ではないような気もしてきた。
……これが事実だったら、いずれ教えて貰おう。
「……師匠から呼吸確保を命じられました。編笠を外します」
今は呼吸確保のため、仕方ない。
師匠の命令に逆らうことは、怖くて出来ないのだ。
幸いにも、雲の切れ間から満月が顔を見せ始めている。燐光の灯りとは比べ物にならない青白く力強い月光が、崖を万遍なく照らし出した。そのおかげで、手元が良く視える。
「……よし」
編笠に手をかけ、ゆっくりと外していく。
「ナナシ?」
月明かりに照らされたナナシの顔は、明らかに弱っていた。
ナナシの眼は、弱弱しく閉じられている。
その上に顔色は悪く、血の気がなかった。それが、拍車をかけているのかもしれない。
さらに、額に大きな十文字の傷が伸びている。そのさまが、痛々しくてたまらなかった。
「……とりあえず、身体を温めた方がイイかも」
自分の上着を脱ぎ、ナナシの上に被せた。
寒暖の差が激しい崖っぷちで、吹き付ける風に震えあがってしまう。だけど、今は私よりナナシの方が体力回復に努めなければならない。熱が逃げにくいように身を丸めて、うずくまった。
このまま、ルーシェの救援を待つとしよう。
「それにしても……」
お世辞にも、ナナシは美形と言い難い顔である。
輪郭は整えられているが、鼻は少し曲がっている。目を開いたとしても、優しい瞳なんて想像できない。白くきめ細かい肌ではなく、良く言えば健康そうな褐色の肌。この世界では、黒髪同様、あまり見ない肌の色だった。
だが、何故だろう。
こんなにも、無表情で気難しそうな顔立ちなのに。不思議と、引きつけられるような魅力があった。その魅力が、いったい何なのか分からないけど。
月明かりに照らされたナナシの横顔を、黙って見つめていた。
そのうちに、瞼が猛烈に重くなってくる。
まるで、この崖の深さに匹敵する程の深い眠りに吸い込まれてしまいそうだ。
私は大きく欠伸をすると、後ろを振り向く。
……大丈夫、寝返りを打たなければ落ちはしない。私は、そこまで寝相が悪いわけでもないのだ。この狭い空間でも、寝てみせる。
というか、寝たい。
ナナシの脇に、ゆっくりと慎重に横たわる。
そして、瞼を閉じたことを覚えていない程、深い眠りへと落ちて行った――――




