18話 お前に名前を
結局、娼館ではなく普通の宿屋だった。
ただ、この世界でも珍しい動物同伴可能な宿屋だ。
何故、そこまで分かったかというと、食堂には各種様々な動物と戯れる客で溢れかえっていたからだ。
そして、
『久々に一緒に泊まれるね!』
と猫なで声で語りかける客が多いこと多いこと。
獣臭さには壁壁としたが、グッと堪えることにする。
宿は素晴らしい所だった。……いや、獣臭いことこの上ない場所で、元の世界で宿泊していた旅館・ホテルとは比べ物にならないくらい粗末極まりない空間だったけど。
それでも、常に吹き付けてくる風なく、雨を恐れる心配もない。
数週間ぶりに暖かな風呂に入ってこびり付いた汚れを落とし、清潔感も取り戻せた。
柔らかいパンや良い香りのするスープを飲み、寝具にくるまった時、とうとう涙を堪えることが出来なかった。
今まで、自分はどれだけ恵まれていたのか。
『今の生活が辛い』とか元の世界で言っていた私は、本当にあまちゃんだった。
親が三食用意してくれる上に、寝床や風呂に困ることもない生活のどこに不便があるのだろうか?
この日……本当に屋根があることの素晴らしさを、心身ともに悟った。
だからこそ、香奈子が赦せなくなった。
今ものうのうと平穏な異世界ライフを過ごしている香奈子が、たまらなく憎くてたまらない。
同じ異世界に来ているというのに、頬が落ちるくらい美味なる3度の食事を満喫し、風呂に困ることもなく、何か不満があればハーレム陣に一言、告げるだけでいい。
同じ異世界から来た、親友同士とはいえ天と地ほどの差がある待遇。
それは、ただの逆恨みかもしれないけど……でも、許せなかった。
復讐してやる。何があっても、少しでも私の苦しみを与えてやりたい。
まだ、その方法は思いつかないけど……
いつかきっと、復習してみせる。
胸に再び誓いながら、私は再び夢の世界へと堕ちて行った。
さて、本来なら宿代や食事代、風呂代は全て私が支払うことになる。
しかし、不思議なことに全て額に傷のある女が先払いしてくれたらしい。
もっとも、1日分なので私はすぐに旅立つことになる。せめて、お礼だけでも………と思ったが、時は既に遅し。私を救ってくれた額に傷がある女の消息は不明。
なんでも、昨日の晩には出立したと宿屋の親爺は言っていた。
(名前くらい聞いておけばよかった)
少し後悔しながら、足を進める。
いや、でもこれでよかったのかもしれない。
今度会った時に、裏切られるかもしれないし。
「おい、どきやがれ!!」
後ろから罵声に近い声が飛ぶ。
声につられて振り返ると、馬車が土煙を立てながら駆けてくる。映画の画面でみたように、馬車が大きく目の前に迫ってきた。そして同時に、迫りくる大型トレーラーが脳裏にフラッシュバックする。
(轢かれる!)
考える間もなく身体が動いた。ボヤーと近づく馬車を眺める子犬を抱え上げ、飛び込むように縁へ避ける。
その瞬間に、盛大な土煙と振動を全身で感じる。どうやら、先程まで私達がいた所を馬車が通過したようだ。遠ざかる振動を感じながら、顔を上げてみる。
みると、西洋劇にでも出てくるようなホロ馬車が遠ざかって行った。
……ツッコむのも面倒になってきたが、ここは和風なのか西洋風なのか統一して欲しい。
それとも、何か理由でもあるのか?
「くぅん」
腕の中の子犬が鳴き声を上げた。
私の腕まで震えるくらい、怯えている。どうやら、急なことだったので怖がってしまったのかもしれない。
「まったく、怖がりだな…子犬」
子犬を撫でながら、私は立ち上がった。
毎度思うことだが、毛並みは上等とは言えない。だけど、こうして撫でていると心が落ち着くというか、冷静になるというか……これが噂のアニマルセラピーという奴なのか?
そっと撫でれば、子犬も心地よさそうに目を閉じる。
どうやら、心地よいのは子犬もらしい。
「そういえば、まだ名前を付けてなかった」
もちろん、このまま『子犬』と呼び続けても構わない。
ただ、ここまで私を慕ってついてきてくれているのだ。いや、慕っているのか分からないが……とりあえず、ついてきてくれているのには変わらない。……このまま『子犬』と呼び続けていかがなるものなのか?
下手に愛着がわいてしまい、別れる時が辛いかもしれない。いや、辛いだろう。
だけど、このまま『子犬』と呼び続けるのも面倒だ。
「名前とかあるの?」
そう問いかけてみる。案の定、子犬は不思議そうに顔を傾けるばかり。
いや、ここで逆に『僕の名前は○○だワン』といきなり話し始められても困るけど。
「まぁ、野良犬っぽかったし」
改めて子犬の全身を眺めてみる。
パッと見た感じは、黒色の柴犬だ。凛々しい顔立ちで、くるりと巻き上げられた尻尾。
昔、ペットショップで親に強請った柴犬にそっくりだ。もっとも、
『ウチはマンションだから飼えません!!』
って言われてしまったけど。その柴犬が入っていたケージは1週間後にペットショップへ足を延ばした時、既に空っぽとなっていた。
『誰かに飼われたんだね、良かった――!』と、母親を見上げたのだけれども、母親は淋しそうに顔を歪めていた。
あの時は、どうしてかな……と思っていたけど、今思えば、あの柴犬は殺処分されたのだと予想がつく。
「……っと、そんなことはどうでもいい」
私は子犬を降ろすと、再び道を歩き出した。
ほんのりと暖かなぬくもりが離れていく感覚は、ちょっと惜しい。だけど、子犬とはいえずっしりと重い。綿の詰まったぬいぐるみを抱いているのではないのだ。
子犬を降ろさないと、せっかく多少戻った私の体力がなくなってしまう。
子犬はいつも通り、トテトテと私の後をついてきた。
川が近いのかもしれない。どこからか水の音が聞こえてくる。草の香りが混じった初夏の風を肌に感じながら、私は名前の候補を考え始める。
「黒い子犬……クロ?柴犬っぽいからシバでもいいかも?いや、ここはスタンダードにポチ?」
そう思ったが、……安易だと頭を振るう。
実際に、私の半歩後ろを歩く子犬も、微妙そうな顔をしている。
さすがに安易すぎた名前は、子犬も嫌らしい。せめて、もう少し凝った名前を付けてくれ!!と訴えかけているみたいだ。
(じゃあ、ジョン、レオ、モモ?)
よさそうな名前候補が上がるが、良く考えてみたら……この子犬がオスなのかメスなのかすら、分からない。
調べてみようかと子犬を持ち上げようとしたが、何かを察したかのように私の腕を飛び越える。
……性別を知られるのが嫌なのか?それとも、大事なところを視られるのが嫌なのか?
「じゃあメス?いや、オスってことも考えられるけど……」
何故たかが名づけで、ここまで考え込まなければならないのだ。
「もういい、オスもメスもどっちにつけても大丈夫な名前を付ける」
そう宣言すると、どことなくホッとした表情になる子犬。
未だ警戒しているようだが、もう性別を確かめるような真似をしない。ついてくる以上、確かめる機会は何度だってあるのだから。
(それにしても、いざ考えると思いつかない)
悩んでいるうちに、時間は刻一刻と過ぎていく。
馬車に轢かれそうになった時は真上だった太陽が、いつの間にか傾き始めていた。気がつくと、川音に混じって町の喧騒も聞こえてくる。
……ここまで名前を考えるのに悩むとは思わなかった。
もういっそのこと、パパッと決めてしまおう。
私は歩みをいったんとめると、子犬の前に膝を立てた。急に歩みを止めた私に対し、子犬は疑問を抱くような眼差しを向けてくる。
「よし、お前は今日から『ハヤブサ』だ」
そう言いながら撫でると、子犬はわんっと一吠えした。
その返答が『了解』なのか『断る』なのか、分からるわけがない。でも、不満そうではないので、これからは『ハヤブサ』と呼ぶようにしよう。
名前の由来は、元の世界で祖父が飼っていた秋田犬の名前だ。祖父に由来を尋ねたところ、永延と1時間近く語りはじめたから、それだけ由緒正しき名前なのだろう。
それ以外、他に犬の名前というものが思いつかなかったので、拝借させてもらった。
それはそれで安易だ!とか、雄犬の名前だろ!とか抗議の声が来そうだが、気にすることか。
祖父の隼は、立派に5匹の子犬を産んだメス犬だったのだから。
「ハヤブサ、ついておいで」
私は、再び歩き始める。
ハヤブサは嬉しいそうに一吠えすると、私の隣に並ぶ。
気のせいか、名前を付ける前よりも表情が輝いているように見えた。




