003:干しぶどうのパン
「お父さん。小麦がもうあんまりないよ」
「街に行って買わにゃならんな。ミルァイ、一緒に来るか」
「行く!」
ツヴァイとミライが暮らし始めて、1週間と少しが過ぎた。
最初の数日は、何をするにも遠慮があった。ミライは椅子に座ることも、パンを1切れ多く食べることも、いちいちツヴァイの顔色をうかがった。
ツヴァイはそのたびに顔をしかめた。
「食え」
「座れ」
「寝ろ」
命令のような口調なのに、そこに悪意はない。
だからミライは、少しずつ力を抜いた。
3日目の夜だった。
ツヴァイが薪を運びながら、ぽつりと呟いた。
「娘がいたら、こんな感じだったのかもな」
その続きは聞いていない。
聞く前に、ミライの胸がいっぱいになった。
気づけば、ツヴァイのことを「お父さん」と呼んでいた。
ツヴァイは最初、目を丸くした。
次に、困ったように髭を撫でた。
最後に、少しだけ笑った。
「俺みてえなのを父親にしていいのかよ」
「お父さんがいい」
「……そうか」
それだけだった。
その日から、呼び方は変わった。
呼び方が変わると、距離も変わった。ミライはまだ遠慮を残していたが、それでも以前よりよく話すようになった。
ツヴァイもまた、ぶつぶつ文句を言いながら世話を焼くようになった。
傍から見れば、祖父と孫のほうが近いかもしれない。
けれど、この世界では年の離れた親子も珍しくない。何より、ミライにとってはツヴァイが父だった。
ミライは、ツヴァイから生活の仕方を教わった。
皿を洗う場所。水を捨てる場所。乾いた枝と湿った枝の見分け方。火をつける時に使いやすい薪の太さ。
大きな斧は持てないので、細い枝を短く折ることから始めた。水汲みも覚えた。井戸から水を引き上げるのは思ったより重く、腕が震えた。
何度もこぼして、服を濡らして、ツヴァイに笑われた。
「笑わないで」
「笑ってねえよ」
「笑ってる」
「そりゃまあ、ちょっとはな」
ミライがむっとすると、ツヴァイは咳払いをした。
「最初からできる奴はいねえ。こぼして覚えりゃいい」
「お父さんもこぼした?」
「俺はこぼさねえ」
「うそ」
「……少しだけだ」
そんな会話が増えた。
木こりの仕事は、ミライには無理だった。ツヴァイの身体は小柄に見えるのに、木を切るときだけは別人のようだった。
斧を振るう腕は強く、足腰も安定している。息を切らしても、目は鋭い。
ミライは真似をしようとして、すぐに諦めた。
斧を持ち上げるだけで精一杯だったからだ。
だから、家のことは自分がやると決めた。
掃除、洗濯、水汲み、食事の支度。
少しでも役に立ちたかった。
それなのに、ツヴァイはすぐ仕事を奪う。
「お父さんは仕事で疲れてるでしょ」
「俺がやったほうが早い」
「早いとかじゃなくて、私がやるの」
「倒れたら面倒だ」
「倒れない」
「信用できねえ」
過保護で、頑固で、口が悪い。
けれど、ずぼらでもあった。
食事に関しては特にそうだ。
ツヴァイのパンの作り方は、あまりにも単純だった。
小麦に水を入れる。少し捏ねる。すぐ焼く。
それだけだ。
ミライの記憶では、パンにはもっと工程があった。1次発酵と2次発酵。間に生地を休ませる時間もあった気がする。
ただ、記憶はかなり曖昧だった。
ドライイーストもない。砂糖も高い。バターも簡単には買えない。
それでも、ツヴァイの作り方が乱暴すぎることだけは分かった。
「お父さん、これはパンじゃなくて、焼いた小麦の塊だよ」
「腹に入れば同じだろ」
「違うよ」
「俺はこれで何十年も生きてる」
「だからもっとおいしく生きて」
ミライが真剣に言うと、ツヴァイは妙な顔をした。
怒ったような、照れたような顔だった。
それからミライは何度も試した。
生地を長めに捏ねる。少し寝かせる。火加減を変える。水を増やす。焼く前に形を整える。
結果として、少しだけ柔らかいパンができた。
「ミルァイの作るパンはうまいなあ」
「もっとおいしくなるから待っててね」
「ああ。楽しみにしてる」
ツヴァイは心からそう言った。
その言葉だけで、ミライは1日中頑張れた。
ごくたまに、白米が恋しくなることはある。
温かいご飯と味噌汁を思い出す日もあった。
けれど、帰りたいとは思わなかった。
地獄のような日常へ戻るくらいなら、硬いパンでもいい。粗末な小屋でもいい。
ツヴァイがいるこの場所が、ミライには世界で一番安全だった。
その日、街へ行くことになった。
「また外で待ってなきゃだめ?」
ミライは小屋の戸口で尋ねた。
これまで街へ行くとき、ツヴァイはミライを中まで連れて行かなかった。街の外の荷馬車置き場の近くで待つように言い、ひとりで買い物を済ませてきた。
馬の世話をしている人はいたが、誰も話しかけてこない。
ミライも話しかけられなかった。
人はまだ怖かった。
ツヴァイには感じない緊張が、他人にはすぐ湧いた。
「……いいや。今日は一緒に入るぞ」
「本当?」
「ミルァイも、そろそろ覚えなきゃならん。硬貨の使い方も、店の場所もな」
ツヴァイは視線をそらしながら言った。
どこか覚悟を決めたような声だった。
ミライは胸が弾んだ。
街へ入るのは初めてではない。けれど、ツヴァイと並んで歩くのは初めてだった。
街は小さかった。
石と木で作られた家が並び、道には荷車の跡が残っている。パン屋、布屋、道具屋、肉を扱う店。
どこからか香草の匂いがした。
人の声は多い。
けれど、学校のざわめきとは違った。
誰かを責める声ではなく、生活の音だった。
ツヴァイは行く先々でミライを紹介した。
「俺の娘だ。ミルァイっていう。よろしく頼む」
そのたびに、ミライは胸の奥が熱くなった。
嬉しくて、恥ずかしくて、誇らしい。
何度も頭を下げた。
「ツヴァイに娘?」
「そうだ。文句あるか」
「いや、ねえけどよ。急だな」
「俺の娘だ」
ツヴァイは頑としてそれ以上説明しない。
店の者たちは首をかしげながらも、ミライに優しくした。
小麦を買った。塩も少し買った。
針と糸を見せてもらい、布屋でミライの服を選んだ。
「服なんて、今ので大丈夫だよ」
「大丈夫じゃねえ。つぎはぎだらけだ」
「でも高いよ」
「金はこういう時に使うんだよ」
ツヴァイは迷わず、丈夫そうな服を選んだ。
飾り気はないが、柔らかくて動きやすい。
ミライには十分すぎるものだった。
買い物の途中、ミライは小さな袋を見つけた。
中に干しぶどうが入っている。
以前、ツヴァイが一度だけ食べていたものだ。
酒も飲まず、甘いものもめったに買わないツヴァイが、それだけは大事そうに食べていた。
「お父さん、これ好きなの?」
「まあな。たまに食うとうまい」
「たまに?」
「贅沢品ってほどじゃねえが、なくても困らん」
そう言って、ツヴァイは買わなかった。
ミライはそれを覚えていた。
だから、ツヴァイが店主と話している隙に、こっそり小さな袋を買った。
ツヴァイから渡されていたお小遣いを使った。
初めての買い物だった。
帰り道、ミライは何度も袋を触った。
明日のパンに入れよう。
味のないパンに干しぶどうを入れたら、きっとツヴァイは喜ぶ。
そう考えるだけで、胸があたたかくなった。
帰る前、ミライは勇気を出した。
「お父さん」
「なんだ」
「頭、撫でて」
ツヴァイはひどく驚いた顔をした。
けれど、理由は聞かなかった。
大きな手が、ぎこちなくミライの頭に乗る。
木を切る手は硬く、少しざらついていた。それでも、触れ方はとても優しかった。
「これでいいのか」
「うん」
「変な娘だな」
「もっと」
「……仕方ねえな」
ツヴァイは照れくさそうに笑った。
ミライは、まだまだしてほしいことがあった。
おんぶをしてほしい。
失敗しても笑ってほしい。
おいしいと言ってほしい。
ただいまと言えば、おかえりと返してほしい。
父親との記憶は、ほとんど残っていない。
だから、ツヴァイと作ればいいと思った。
楽しい思い出を。
これから、たくさん。
その翌朝だった。
ツヴァイは、とても幸せそうな顔で眠っていた。
「お父さん」
ミライは焼き上がったパンを机に置き、寝台へ向かった。
朝、起きたときには寝息が聞こえていた。
確かに息をしていたはずだ。
だから、いつものようにパンを焼いた。
今日は干しぶどう入りのパンだ。
「お父さん、できたよ」
返事はなかった。
ミライは首を傾げた。
寝台に近づき、ツヴァイの顔を覗き込む。
目は閉じている。
顔は穏やかだ。
まるで良い夢を見ているようだった。
けれど、胸が動いていなかった。
「……お父さん?」
声が震えた。
手を伸ばして、ツヴァイの肩を揺らす。
返事はない。
「ねえ。うそだよね」
もう一度揺らした。
それでも、ツヴァイは起きなかった。
身体はまだ完全に冷え切っていない。
だから余計に信じられなかった。
少し前まで生きていたのだ。
ミライがパンを焼いている数時間の間に、ツヴァイは静かに逝ってしまった。
「まだ、教えてもらいたいこと……いっぱいあるんだよ」
声がかすれた。
「お父さん。ねえ、お父さん」
何度呼んでも、ツヴァイは目を開けなかった。
ミライは息ができなくなった。
胸の真ん中を強く押されたようで、空気が入ってこない。
視界が揺れ、足元が遠くなる。
それでも、倒れなかった。
倒れたら、ツヴァイが困ると思った。
ミライは震える手で、焼きたてのパンをひとつ取った。
それを持って寝台の脇に戻る。
「見て。今日のパン、いつもと違うんだよ」
返事はない。
「昨日、街に連れて行ってくれたでしょ。あの時ね、こっそり買ったの」
ミライは泣きながら笑おうとした。
うまくいかなかった。
「私の世界では、ドライフルーツって言うんだよ。こっちでは干しぶどうかな。お父さん、好きだったでしょ」
パンを割る。
中から、小さな干しぶどうが顔を出した。
「パンに味がないから、入れたら喜ぶかなって」
ミライはそれを大きく口に入れた。
まだ少し熱い。
舌が痛い。
それでも噛んだ。
干しぶどうに当たると、甘みが広がった。
おいしい。
そう思った瞬間、喉の奥が詰まった。
「こんなことなら、昨日の夜に渡せばよかった」
喜ぶ顔が見たかった。
うまいなあと笑う声が聞きたかった。
たったそれだけだったのに。
「お父さんが、やっとできたのに」
声が崩れた。
こんな別れ方は、あんまりだ。
ミライはパンを食べ続けた。
吐きそうだった。
それでも飲み込んだ。
これは、ツヴァイに食べさせたかったパンだ。
だから、自分が代わりに食べるのだと思った。
代わりに味わって、代わりに覚えておくのだと。
「干しぶどう、うんまいなあって……言ってくれると思ったのに」
ミライは泣きながら、最後の一口まで食べた。
その日のうちに、ミライは街へ向かった。
足は震えていた。
人に話しかけるのも怖かった。
それでも、ツヴァイをそのままにはできない。
僧侶のような役目を持つ男を呼ぶと、その男は静かに小屋まで来てくれた。
30代後半ほどに見える、穏やかな人だった。
ツヴァイの遺体は、小屋から少し離れた場所に埋められた。
ミライとツヴァイの別れは短くなかった。
僧侶は急かさず、黙って待ってくれた。
ミライは何度もツヴァイの名前を呼んだ。
ありがとうも、ごめんなさいも、まだ嫌だも、全部言った。
それでも足りなかった。
土がかけられていく間、ミライは声を出せなかった。
口を開くと、壊れてしまいそうだった。
すべてが終わったあと、僧侶は静かに尋ねた。
「ツヴァイさんの故郷や、ご家族についてはご存じですか」
「……知りません」
ミライは首を横に振った。
たった1週間と少し。
大好きだと思うには十分だったのに、知るには短すぎた。
ツヴァイの生まれた場所も、若いころの話も、家族の名前も知らない。
僧侶は残念そうに目を伏せた。
「そうですか。では、これから貴女はどうされますか」
「お父さんの後を継ごうと、思っています」
「木こりの仕事は、女性には向きません」
「……分かってます」
分かっている。
ミライには斧を扱えない。
森で暮らし続ける力もない。
それでも、ここを離れることが怖かった。
同じ小屋にいれば、同じ水を汲めば、同じパンを焼けば、ツヴァイがまだ近くにいるような気がした。
「街で働くのであれば、仕事を紹介できます」
「ありがとうございます。でも、今は……」
丁寧に断ると、僧侶は無理には勧めなかった。
「困ったら、街の礼拝所へ来なさい」
「はい」
僧侶が帰ったあと、小屋は急に広くなった。
昨日までと同じ場所なのに、何もかも違って見える。
椅子も、机も、鍋も、寝台も。
全部にツヴァイがいるのに、どこにもいない。
ミライはぼんやりと小屋の中を見回した。
ふと、ツヴァイが大事にしていた木箱を思い出す。
寝台の下に置かれていたものだ。
ミライは膝をつき、木箱を引き出した。
中には、木の結晶が入っていた。
樹液が土の中で固まったものだと、ツヴァイが教えてくれた。ミライの世界では琥珀と呼ばれる石に似ている。
薄い茶色の小さな石を、ツヴァイは宝物のように眺めていた。
木箱の底には、数個の琥珀と、一通の手紙があった。
紙は高価だと聞いていた。
インクも安くない。
どうして手紙があるのか、ミライには分からなかった。
震える手で開く。
最初に、「ミルァイへ」と書かれていた。
文字は読めないはずだった。
けれど、次の瞬間には内容が頭に入ってきた。
まただ、とミライは思った。
この世界に来てから、時々こういうことがある。
知らないはずの言葉が分かる。
知らないはずのことを、なぜか理解できる。
今は考えられなかった。
手紙の続きが気になって仕方なかった。
ツヴァイの文字は、ひどく不器用だった。
けれど、言葉はまっすぐだった。
森でミライと出会えたことへの感謝。
娘のように思っていること。
短い間だったが、ひとりで終わるはずだった生活が明るくなったこと。
ミライが作るパンを楽しみにしていること。
水をこぼして怒った顔も、遠慮して小さくなる姿も、全部かわいかったこと。
恥ずかしくなるほど、何度も書かれていた。
「街へ行き、仕事を見つけ……」
終わりに近づくにつれ、手紙はミライのこれからについて触れていた。
街へ行き、仕事を探すこと。
自分の居場所を作ること。
木箱の中身はすべてミライに譲ること。
道具箱の底に、少しだけ金が入っていること。
小屋も、道具も、残せるものはすべてミライに渡すこと。
涙がこぼれた。
たった1週間と少しで、ここまで考えていたのか。
もしミライが悪い人間だったらどうするつもりだったのだろう。
警戒心がなさすぎる。
お人好しすぎる。
あまりにも優しすぎる。
お父さんのばか。
お父さんの考えなし。
お父さん、帰ってきて。
お願いだから、また一緒に暮らそう。
もっと料理を頑張る。
水汲みも練習する。
薪だって、少しずつできるようになる。
まだ始まったばかりだった。
まだ、一緒にいたかった。
ミライは手紙を胸に抱いた。
子供のように駄々をこねたい。
嫌だと言って泣きたい。
ツヴァイの言うことなんて聞きたくないと、わがままを言いたい。
それでも、手紙の最後の言葉が目に焼き付いていた。
――生きろ。俺の娘なら、ちゃんと生きろ。
ミライは声を殺して泣いた。
その夜、ミライは寝台に入れなかった。
そこにはまだ、ツヴァイの匂いが残っていた。
古い木と煙と、かすかな干しぶどうの匂い。
布に顔を押しつけると、涙がまた出た。
けれど、手紙を握っていると少しだけ息ができた。
明日になったら、街へ行こう。
僧侶の言葉を思い出す。
仕事を見つけるかは分からない。
けれど、ツヴァイの言うとおりに生きるなら、まずは知らなければならない。
この世界で生きる方法を。
ミライは琥珀をひとつ握った。
小さな石は、手の中で少しだけ温かくなった。
ツヴァイが残したものは多くない。
それでも、ミライには十分すぎた。
父と呼べる人がいた。
たった1週間と少しでも、確かにいた。
それだけで、ミライはもう、以前の自分には戻れないと思った。
この先どこへ行くとしても。
どれだけ遠くへ離れるとしても。
帰る場所は、この小さな小屋だけだ。
ここが、ミライの家だった。




