003:父と娘
「お父さん! 小麦がもうあんまりないよ」
「街に行って買わにゃあならんなあ。ミルァイ、一緒に行くか」
ツヴァイとミルァイが暮らし始めて、一週間と少しが経った。
最初は遠慮して縮こまっていたミライもツヴァイがあまりにも過保護でずぼらなもので、つい緊張を解いてしまい逆に叱るときもあった。
両親はミライがまだ子供の頃にいなくなったので、ツヴァイのことをお父さんと呼ぶことに違和感は殆んどなかった。
呼び方が変われば距離も変わるもので、一週間が過ぎた頃にはすっかり父と娘のような関係になっていた。
傍から見ればお祖父さんと孫の方が近いかもしれないが、この世界では年の差のある親子もあまり珍しくない。
ミライはツヴァイについてなるべく危なくない薪割りの仕方も覚え、非力でもなんとか出来るよう練習を重ねて水汲みの仕方もしっかりと覚えた。一人でも生活のために必要なことがどんどん出来るようになっていた。
それでも、ツヴァイはことあるごとに自分が行くと言ってミライの仕事を奪おうとするのだ。
きこりの仕事は小柄なツヴァイからは想像もつかなかったくらいに重労働で、筋力の足りないミライにはできなかった。
ツヴァイは普段、体力を使い硬い木を切っているのだから、と家事などは全面的にミライが担当すると何度も言っている。それなのに、なかなか頑固でツヴァイはミライの言うことを聞かない。
だからこそ、料理だけは絶対にさせないとミライは意気込んでいた。
これだけはお父さんが最初に言い出したことなんだからね、と。
ツヴァイのパンの作り方はシンプル過ぎる。
絶対に作り方が違うとミライは何度も思っていた。
曖昧だが、ミライの記憶ではパンは一次発酵と二次発酵と必要とするものだ。間にベンチタイムやら何やら入っていたような気もするが、うろ覚え感は否めない。
それでもツヴァイの作り方は絶対に違うと確信できる。
小麦に水を加えて、捏ねてすぐに焼くのだ。生地を休ませることもしない、捏ねる回数も極端に少ない。
だからパンが固いのではないかとミライは思っていた。
「ミルァイの作るパンはうまいなぁ」
「もっとうまくなるから待っててね」
「ああ……楽しみだ」
試行錯誤を繰り返してなんとかミライが作るパンはそれっぽい雰囲気にはなったけれど、ツヴァイのパンより柔らかいというだけでミライの世界で売っていた柔らかくてもちもちしたパンとは雲泥の差があった。
ドライイーストがないのだから、そもそも発酵自体が無駄なのかと思ったこともあったが、やっぱり食べ比べてみると、多少は柔らかくなっているような気がした。バターや砂糖といったものは高くてそうそう買えるものではない。それでも、出来る限りのことをしてツヴァイにもっとおいしいパンを食べさせてあげたいのだ。
この世界でたったひとり、ミライを優しい目で見てくれる大好きな人に。
本当にごくたまに白米が恋しいと思うことはあっても、帰りたいと思うことはなかった。
地獄に帰るくらいならば、多少の我慢なんてなんのその。
ミライはツヴァイとの生活を心の底から楽しんでいた。
「また待ってなきゃだめ?」
ツヴァイを振り返ってミライは尋ねる。
街へ行っても何故かツヴァイはミライを連れ回そうとしない。
街の外の荷馬車置き場の付近で待っているようにと言いつけて置いていく。馬の管理をしている人はちらほらいるが、会話をしたことはない。いつも忙しそうだ。話しかけてくることもないし、話しかけることも遠慮して出来ない。不思議なことにツヴァイには感じないが、生きてきた環境のせいで人に対して恐怖や緊張を感じることのほうが多い。
そういった事情もあって、街自体は何度も見たことはあるが歩き回って楽しんだことはなかった。
「……いいや、今日は一緒に行くぞ。ミルァイもそろそろ覚えなきゃならん」
何も知らない――ツヴァイにとっては「覚えていない」だが、そんなミライにツヴァイはいろいろと教えていた。
硬貨の種類や物の値段、どんな商売があり、みんながどんな生活をしているか。
ミライは話を聞いては覚え、教えてくれるツヴァイに感謝した。
普通の生活、というものを聞いてツヴァイとの今の生活がかなり質素であることを知ったが、贅沢をしたいとは全く思わなかった。
ツヴァイは何も持っていないミライを厚意で住まわせてくれているのだ。文句を言える筋合いではないし、ツヴァイが一緒にいてくれるだけでなんだかいつも満たされた気持ちだった。
ここに来てから一週間と二日が過ぎ、その日初めてミライはツヴァイと一緒に街へ入った。
ツヴァイは先々でミライを紹介して、自分の娘だ、宜しく頼む、と言い回る。
ミライはその度に嬉しいような恥ずかしいような、誇らしげな気持ちになった。
これからもっとツヴァイと思い出を作り、お父さんにして欲しかったことをツヴァイにやって貰うのだ。
頭を撫でて、と急にミライが言ったとき、ツヴァイはひどく驚いたような顔をしたが、何も聞かず何も言わずただミライの頭を優しく撫でて照れくさそうに笑っていた。
もっとして欲しいことがミライには沢山ある。
父親との記憶は殆ど薄れてしまっていて全然覚えていない。
だからツヴァイと作るのだ。
楽しい、思い出を。
ツヴァイは木こりで肩をよく使うから肩車は仕事に支障をきたすだろう、だからおんぶして欲しかった。
もちろん、ツヴァイは許してくれるのであれば、だが。
小麦を買い、ミライの新しい服を買い、ツヴァイとミライは小屋に戻った。
――その次の日の朝だった。
ツヴァイがとても幸せそうな顔で永遠の眠りについたのは。
「おと、さん……おとうさん……」
朝、パンを焼いて、ツヴァイを呼びに行った。
ミライはその死にすぐ気が付いた。
ミライが起きたときには、まだ息をしていた。
寝息がきちんと聞こえていたのだ。それなのに、なぜ?
ミライがパンを焼き終えるまでのたった数時間、その数時間でツヴァイは逝った。
きっとパンの焼ける良い匂いを嗅ぎながら、今日の出来はどうだろうと思いながら、静かに息を引き取ったのだ。
「お、おとうさん、ねぇ、うそだよね」
数回同じことを繰り返した。
気が遠くなりそうな息苦しい感覚がきて、ハッとしてツヴァイを揺らす。
触って、確かめて、開かない目に愕然とする。
「まだ、教えてもらいたいこと……いっぱい、あるんだよ……」
ねぇ、おとうさん。
――何度揺らしても、ツヴァイは起きなかった。
ミライは何かを堪えるように深呼吸をして、そっと傍を離れた。
焼きたてのパンをひとつ手にしてツヴァイの隣に戻ってくる。
「まだちょっとあついけど、見て。あのね、えへ、えへへ」
ツヴァイの眠るベッドの脇に座り込み、泣きながら持ってきたパンを貪った。
大きな口でひとくち。よく噛んで、飲み込む。さらにもうひとくち。
――当たった。
じわっと染み出したそれをしっかり味わって、飲み込む。
「昨日、街に連れて行ってくれたでしょ。おこずかいで、こっそり買ったの。私の世界ではドライフルーツって言うんだよ……パンに、味がないから……入れたらお父さん喜ぶかなって、干しぶどうを買ったんだよ」
干しぶどうはツヴァイの好物で、酒を飲まないツヴァイが唯一自分へのご褒美にと買っているものだった。
食べているのは一度しか見たことがない。
一週間と少しも居たのにたったの一度しか見てないのだから、本当にご褒美としてたまにしか食べていなかったのだろう。干しぶどうは街ではおやつのようなもので、高いものでもなかったのに。
初めての買い物だった。
ツヴァイの喜ぶ顔を見たかった。
こんなことなら、昨日の夜に干しぶどうを渡しておけば良かった。
――喜ぶ顔が、見たかったのに。
あんまりだ。
こんなに早く、傍からいなくなってしまうなんて。
「お父さんが、やっとできたのに」
こんな別れ方は、あんまりだ。
美味しいけれど、美味しくないパンを口の中に押し込んで、込み上がってくる吐き気を我慢して飲み込んだ。
絶望の味がした。けれども、幸せな味でもあった。
自分が代わりに食べるのだと何故かミライは強くそう思った。
そして、代わりに笑うのだ。
干しぶどうはうんまいなあ、と。
ツヴァイの遺体は小屋から少し離れた場所に埋められた。
ミライの世界では僧侶とも言えるだろうか、その職業の人間をミライは街へいって呼んだのだ。
帰ってきたとき、ツヴァイの遺体は少し異臭を放っていて、かなり身体は冷え切っていて、かけていった薄い布団はあまり意味を成さなかったらしい。
ミライとツヴァイのお別れは決して短くなかったが、邪魔をすることなく僧侶は無言で見届けてくれた。
ツヴァイの故郷を、家族を、ミライは何も知らない。
僧侶はそれを聞くと、残念そうに「そうですか」とだけ言った。
「これから貴女はどうされるんです?」
「お父さんの、後を継ごうと……」
「きこりの仕事は女性には向きませんよ」
「……わかってます」
そんなことは、わかっている。できないだろう、ということも。
それでもツヴァイと過ごした日々を忘れたくはなかった。
同じことをして、ここにいればツヴァイだって嬉しいかもしれない。
近くにいたいと思う反面、そんなことをしたらツヴァイに叱られそうだともミライは思った。
「街で働くのであれば、仕事を紹介しましょう」
三十代後半あたりに見える僧侶はミライを気遣うように言ったが、すぐにそんな気にはなれなくてミライは丁重に断った。
僧侶が帰ってからも小屋の中でぼうっとしていたミライだったが、ふいにツヴァイの大事にしていたものを見たくなってベッドの下から木箱を取り出した。
木の結晶。樹液が土の中で固まってできるものだ。
ミライの世界では琥珀とも呼ばれ、アンバーとも呼ばれる石である。
薄い茶色の石は手のひらに乗るサイズの小さなものだが、宝物を見るようにしてツヴァイが眺めていたのを覚えている。
木箱の中には数個の琥珀と―― 一通の手紙があった。
紙はとても高価でインクだって高いのに、どうして手紙が入っているのかミライには分からなかった。
折りたたまれた手紙を開くと、最初に「ミルァイへ」と書いてある。
文字が読めないと思ったのは一瞬で、次の瞬間には全ての文字がきちんと頭に入っていた。
まただ、とミライは思う。
ツヴァイと過ごしていた間も度々こんな感覚があった。
知らないはずのことを知っている、妙な違和感。
今はそれより手紙の方が気になって、ミライは早々に考えることを放棄した。
ツヴァイの文字はとても汚かった。それでも、内容はちゃんと頭に入ってくる。
森でミライと出会えたことを感謝していると始まり、途中では娘のように思っているとミライのことを語っていた。
過保護で、心配性で、ミライの仕事を横取りしていたツヴァイがどれだけミライを大事に思っていたか、恥ずかしくなるほどに繰り返し書かれていた。
「街へ行き、仕事を見つけ……」
終わりに近づくにつれて、ミライの先のことをツヴァイは書いていた。
街へ行き、仕事を見つけ、自分の居場所を作ること。
木箱の中身はミライへ贈ること、道具箱の底にお金がはいってること、小屋もお金もあるもの全てをミライへ譲ること。
自然と涙があふれてくる。
ツヴァイの優しさに、思いに、心配に。
たった一週間と少しでこんな手紙を書いたツヴァイ。
ありえないほどお人好しで警戒心がなさすぎる。もし、ミライが悪い人間だったら一体どうするのだろう。
お父さんのばか、お父さんの考えなし、――お父さん、かえってきてよ。
お願いだから、また一緒に暮らしてのんびりご飯を食べよう。
もっと料理も頑張るから、仕事の手伝いも頑張るから、一緒に暮らそうよ。
まだ、始まったばかりだった、まだ、一緒にいたいよ。
ねぇ、お父さん。
子供のように駄々をこねて、それでも言うとおりにしなければならないとミライは理解していた。
けれど、自分の家は、帰る家は、この先も一生ツヴァイが残した小さな小屋だけだと決めた。




