◆第1話『“交際0日”婚と、彼女の秘密』
役所の自動ドアが閉まる音が、やけに静かに耳に残っていた。
どこか現実味のないまま、手元の書類を見下ろす。
――婚姻届、受理済み。
ただそれだけの文字に、まるで世界が反転するような、妙な感覚を覚えていた。
「……これで、ほんとに私たち“夫婦”になっちゃったね」
そう言って微笑む彼女の横顔を見ながら、俺はようやく、自分がとんでもない決断をしたことを実感しはじめていた。
彼女の名前は――如月美咲。
世間では“人気清楚派No.1”と称されるAV女優。
甘い声、整った顔立ち、そしてなにより――演技とは思えないリアルさと美しさ。
男なら一度は耳にしたことがある名前だろう。かく言う俺も、例外ではなかった。
だが、今日から俺は、そんな彼女の「ファン」でも「担当マネージャー」でもなく、「夫」になった。
「ねぇ悠人くん。そんな顔しないで。嬉しくないの?」
隣から覗き込むようにして、彼女が俺の顔を見てくる。
その瞳の奥に、少しだけ不安の色が混じっていた。
「……いや、違う。実感が、まだ湧かないだけ。嬉しいよ、すごく」
「ふふ、そっか。よかった」
まるで本物の新婚夫婦みたいな会話。
でもその中にある“空白”を、俺たちは互いに気づきながら、あえて触れないままにしていた。
そもそも――
俺たちは、交際していない。
付き合ったことも、手を繋いだことすら、籍を入れるその日まで一度もなかった。
きっかけは、二ヶ月前。
映像制作会社で営業をしていた俺は、AV業界に携わる仕事の現場へ臨時に派遣された。
慣れない環境で右往左往していた俺に声をかけてくれたのが、彼女だった。
「無理しなくていいよ。笑顔つくるのって、案外、疲れるよね」
カメラの前ではなく、スタッフ控室のソファに座っていたときの彼女は、まるで別人のように静かで、優しかった。
その姿が俺には、なぜかやけに印象に残っていた。
その後、縁あって彼女のマネージャーに転職した。
……そこまでなら、ありふれた“業界話”かもしれない。だが、
1ヶ月後。
彼女は俺に向かって、こう言ったのだ。
「悠人くん、私と結婚しない?」
「……は?」
「ちゃんと籍入れるやつ。交際はしてないけど、交際って必要?」
あのときの彼女は、冗談にも見えたし、本気にも見えた。
結婚という言葉を軽々しく口にしながらも、その目は少しも笑っていなかったから。
「これからも私は女優を続ける。でも、ひとりでいるの、少し疲れたの。私、誰かに隣にいてほしかった。信じられる人に」
その“信じられる人”に、自分が選ばれたのだと知ったとき、なぜか涙が出そうになった。
だから――俺は頷いた。
そして今日、婚姻届を提出した。
ただの契約じゃない。だって、これは彼女が望んだ“現実”だったから。
……けれど、俺にはもうひとつ気づいていることがある。
それは、彼女の身体の異変だった。
最近、彼女は撮影中に何度も控室に戻っていた。
帰宅後、洗面台でえずく声が聞こえる日もあった。
そして、ある日――スケジュール表から、過激なシーンが一斉に消えた。
そのとき俺は、確信した。
彼女は、妊娠している。
だが、彼女はそれを俺に言わない。
マネージャーにも、夫にも。誰にも打ち明けず、笑っている。
「ねえ悠人くん。私さ、辞める気はないの」
その夜、彼女が唐突に切り出した。
「子どもができたって、私は“如月美咲”をやめる気なんて、ないよ。……辞めたら、私じゃなくなる気がして」
俺はその言葉に、怒ることもできなかった。
なぜなら、それは彼女の覚悟だったから。
「それでも、そばにいてくれる?」
震える声で、彼女は言った。
強いふりをしても、きっと怖いのだ。
女優として、妻として、母になることを、ひとりで全部抱えようとしている。
「俺は、どっちもやるよ。マネージャーも、夫も」
俺は答えた。嘘じゃない。本気だ。
だから――俺はこれからも、この人の隣にいる。
“秘密の妻”を支えるために。
“秘密の妊娠”を誰にも知られず守るために。
そして、なにより――この人が、この人らしく笑って生きていくために。
例え、AV女優であり続けても。
俺の知らない姿で、他人の前で微笑んでいても。
この人を、誰よりも知っているのは俺だから。
――だから、俺はもう迷わない。
これは、交際0日婚から始まった、誰にも知られてはいけない、
だけど誰よりも“本物”の夫婦の物語だ。
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