第九回
★第九回全体:考察
ここは脂評がない(あるいは極めて少ない)
男色を扱っているからかもしれないが、おそらくは儒学の本質に触れる部分があったこと、秦氏の秘事に触れる箇所があったからだろうと思う。儒学、そしてその代替としての“侠”の文化、さらにそれが両者とも欠落した場合どうなるかを実験的に示した回と言える。
〇冒頭の宝玉と晴雯との会話:翻案
後述する襲人との対比のために晴雯を配した。晴雯は実に動かしやすい。
〇襲人と宝玉のやり取り:考察、
明白だが襲人は学堂に行ってほしくない。そのためにこれみよがしに勉強の用意をしてみせるのだが、それを晴雯に喝破されるという筋書きにした。この構図は「めぞん一刻」の音無響子と六本木朱美の会話を参考にしている。宝玉が黛玉のことにあてつけるのは襲人への薬が効きすぎているような気がする。(襲人の本心を知るために反応を見たかったのかも)
〇宝玉が言い残したこと:考察、翻案
晴雯と麝月に言い残したことを本文では明示されていないが襲人へのフォローだと思う。晴雯と麝月という人選はアクセル役、ブレーキ役とバランスがよく、宝玉の人を見る目の正しさがあらわれている。
〇賈政と宝玉;考察
父子間の軋轢が描かれる。宝玉に対する賈政の態度は「教育」ではないのもポイント。「理」の人であるように見せて、賈政は「理」を「情」に転化する悪癖がある。
〇賈政と食客
さしずめ清代のサロンといったところ。
〇野の萍を食む:考察
詩経・小雅に見え、来賓をもてなすための詩である。「鹿鳴館」の由来となっている。それを誤るというのは表面的には賈政の客たちへの不敬にあたり、李貴の不勉強が浮き彫りとなる。ただその直後に宝玉が誤りを訂正していることから、賈政の思う宝玉像と、実際の宝玉が乖離していることがうかがえる。
〇四書と詩経:考察
四書を読ませるようにという賈政の言は「理」に重きを置いた発言である。忠恕の境地にいたるためには「詩」も含めた情理を学ぶべきという作者の思想がうかがえる。
〇宝玉と黛玉、秦鐘;考察
義塾に向かう前に黛玉のところへ向かうことから、宝玉が秦鐘(仮情)よりも黛玉(真情)を選択したことを意味する。鏡越しの会話は前回の宝釵の場合にも見られ、「真と仮」を表し、黛玉の言が嘘であることを示していると思われる。
〇薛蟠のふるまい
薛蟠の家塾でのふるまいは漢の高祖劉邦を思わせる。中華における侠とは、「水滸伝」に代表されるとおり法に拘泥されない義心を意味し、世が乱れたとき、儒か侠が糺すという思想が第九回全体の作者の思想として見え、薛蟠は「俗としての侠」、「情寄りの侠」が反映されていると思われる。
〇薛蟠と金栄:考察
薛蟠のような「侠」のつながりが一たびその「情」をなくしてしまったとき、瓦解してしまうことを表していると思う。この場合の「情」はあくまで内側に向いていて、当人が興味を失ったとき、本文のとおり簡単に壊れてしまう。
〇玉愛と香憐:翻案
本来この厠の場面は秦鐘と玉愛の場面だった。もともと私のミスから生まれた場面であるが、「四人(秦、宝、玉、香)が視線を交わす」という描写があったことから、玉愛が香憐を無視して秦鐘との関係を形成しようとするのは不自然な気がしたため、誤りをそのままとし、現行のとおりにした。
〇蒙求:翻案
我れ童蒙を求むるに匪ず、童蒙我れを求む。から誤った師を求めること(賈瑞、賈代善)の暗示とした。
〇青青たる我が衿、悠悠たる我が心、縦ひ我往かずとも 子寧ぞ音を嗣がざらんや:翻案
秦鐘を深掘りするために差し込んだ。この文だけだとただなる恋詩になる。後段まで進めば真理追求の志も含まれていることが分かるのだが、秦鐘の理解がそこまでしか及んでいないことの暗示とした。
〇君のおうちなら~:翻訳、考察
原文:家裡的大人管你交朋友不管? 直訳すれば「家の中の大人たちは友達になることを気にしない?」
この言い方から秦鐘が同じように別の「朋友」に接触し、家のことを理由に断られたことがうかがえる。
〇秦鐘の魔性
私は秦氏と秦鐘を表裏一体だと考えている。秦氏の行動は秦鐘の行動であり、秦鐘の“不貞”は秦氏の不貞である。この後賈珍に触れられることからもこの時期の秦氏の不貞は間違いないだろう。
〇市と獄~:翻案
もともとは前漢の曹参の言、黄老の術(道家思想)をもって世を治めることを旨とした。薛蟠のやり方が劉邦のやり方に近いと思う私の考えを補強するものとして挿入した。ただし、このやり方はその為政者がいなくなると無効化する。その欠陥を作者は指摘したかったのだと考えている。
〇賈薔の立ち位置
私は賈薔も「侠」の(記号の)人だと思う。ただし、彼には「かくあるべき」という考えがあり、薛蟠にくらべ「理」に近いスタンスをとっている。近現代の我が国のやくざの言う(任侠)に近いものだと考えればよい。それは薛蟠と異なり、極めて対他的に行われる。ただし、その「理」が誤っていた場合、その正しさは失われてしまう危うさを秘めている。
〇賈珍、賈薔、秦氏:考察、翻案
原文を読むとなぜ賈薔は別邸に住まないといけなかったのか、にもかかわらずなぜ、家塾に通うことを許されているのかという疑問に思いあたる。ここで原文中に「賈珍想亦風聞得些口聲不大好,自己也要避些嫌疑(賈珍は良くない噂が広がることを想い、また自分に嫌疑がかかることを避けるため)」、という気になる一文がある。賈薔の噂を思って彼を遠ざけるのは分かるとして、賈珍自身への疑いを避ける、というのは秦氏との不貞のことだと考えて間違いないだろう。賈薔に恩を施したように見せて、その実、不貞の罪を賈薔にかぶせたというのが真相ではないか。
〇秦氏と賈蓉
秦氏は“情”の人である。ただしそれは自分自身に向けられる“情”に限定されている。一方、賈蓉はその“情”に対して受け入れるけれど、多くは無関心でありこの夫婦がうまくいかなかったのは当然だと思われる。




