第29話:三戦目
闘技場へと続く薄暗い地下通路。その片隅にひっそりと設けられた一室に、一人の男が控えていた。
粗末な木椅子に腰を下ろした男の手には、一通の手紙が握られている。護衛対象であり、バロン王国復興の希望でもある、カティナ姫から届けられた手紙だ。
綴られた文字は震え、所々が涙で滲んでいた。王国復興の悲願を抱きながらも敗れ去ったカティナ姫の無念は、どれほどのものだったのか……伝わってくる悲痛な想いに、手紙を読む男の手に力が入る。
文字の一つ一つに目を走らせ、その一語一句を深く胸に刻み込む。やがて読み終えた手紙を綺麗に折り畳むと、男は決して疎かにせぬよう、それを懐へと収めた。
託された主の想いを胸に、男は傍らの剣を手に取る。その太い腕は、小刻みに震えていた。
高まる闘争心か、あるいは王家への忠誠から来る精神の高揚か。バロン王国が誇るアーギルの戦士の手が震える理由は、武人としての『誇り高き理由』であると誰もが想像するだろう。
だが、男の手が震える真の要因は『恐怖』だった。
王家の魔導具を手にしたカティナ姫の戦闘力は、アーギルの戦士と互角、あるいはそれを凌駕する。そのカティナ姫を真正面から打ち倒した相手と、自分は今から戦わなければならない。
男は元来、臆病な性格であった。だからこそ最悪を想定して慎重に立ち回り、無益な争いを避け、血が流れぬよう努めて生きてきたのだ。
剣を強く握りしめながら、震えの止まらない己の手に男は自嘲気味な苦笑いを浮かべる。戦いを前にして震え上がる戦士など、笑い話にしかならない、と。
だが、男は知っていた。
恐怖を強靭な意志で律する精神力。その克己の先にこそ、人間が持ち得る『真の強さ』があるのだと。
そして、男は理解していた。
心を蝕み、身体の自由を奪うこの『恐怖心』こそが、己の有する『共鳴魔力』であることを。
恐怖と共に腹の底から湧き上がってくる力をその身に感じ取り、男はさらに力強く剣の柄を握りしめた。
立ち上がり、闘技場へと続く長い通路を歩き始めた男の身体から、もはや一切の震えは消え去っていた──。
★ ★ ★
巨大な円形闘技場──『エボル闘技場』。閑散としていた第一戦や、極秘裏に行われたカティナとの第二戦とは打って変わり、三戦目となるこの試合は大々的に告知されていたため、観客席はそれなりの熱気と賑わいを見せていた。
その闘技場を一望できる最上段の特別席で、支配者であるガリノミア・レイスと、影の支配者であるプリメッタ・チャフは、優雅なティータイムを楽しんでいた。
「ほほう、中々に盛況ですな。ロヴァニア人としての自覚が出てきたと言ったところでしょうか」
「ドレーくんには油断しないよう言ったけど、実戦経験のない弟子が相手じゃね〜。みんなが期待するような試合にはならないかもね」
「さて、どうなりますかね。まぁ、じっくりと見物させていただきましょう」
「そだね。あ、お菓子食べる?」
「食べます!」
目を輝かせて即答するガリノミアに、プリメッタがバスケットから取り出した手作りのお菓子を差し出す。
それは、ドーナツ状に薄切りした林檎に軽く焼き目を入れ、艶やかな飴を絡めて固めた美しいお菓子だった。
琥珀のようにきらきらと輝き、胸のすくような芳醇な香りを纏ったそれを見て、ガリノミアは思わず感嘆の息を漏らす。
「琥珀林檎飴だよぉ」
「な、なんという高貴な香り。それにこれは……」
促されるままに一口齧ると、極上の食感と口いっぱいに広がる香りに、ガリノミアは顔を真っ赤に上気させて立ち上がった。
「おほほ! パリパリとした飴の食感に、歯ごたえを残した林檎のシャキシャキ感! 林檎本来の香りに焼き目による香ばしさも加わって……もぐもぐ。しかしなんと言っても、この飴の香りが! これは酒ですか?」
「そそ。アルコールを飛ばしたブランデーを、飴に混ぜたの」
「なるほどなるほど。しゃくしゃく……しかし、素晴らしい香りです。余程良いブランデーを使ったのでしょうなぁ」
「あぁ、それ? 『光の王冠』だよぉ。香り付けに使うと美味しいね!」
「げえぇッッ!?」
ガリノミアの悲鳴にも似た絶叫が闘技場にこだました。それとほぼ同時、闘技場に姿を現した二人の戦士の姿に、観客席からも大きなどよめきが巻き起こった。
右手と左足に重い鉄輪をはめ、武器を持たずに立つ少年ドレイク。そして、その対角には、身の丈ほどもある巨大な剣を携えた壮年の男が立っていた。
周囲のどよめきに一切惑わされることなく、男はただ静かにドレイクを見据えている。アーギルの戦士の象徴『アーギル紋』は肌の奥底に沈み込み、力を内包したまま不気味なほどの静けさを保っていた。
祝福なき国の出自でありながら、A級の異名持ちに位置付けされる屈強なる戦士──『無紋のバルドリク』の登場に、観客席から一気に割れんばかりの歓声が上がった。
「え!? あれ、無紋のバルドリクじゃん!!」
「有名な異名持ちですからな。ここにいる観衆も知っていたようで」
驚きで目を丸くするプリメッタの横で、ガリノミアはこぼれた飴の欠片をせっせと拾い集めつつ、ニヤリと笑みを浮かべた。
「そうじゃなくて! 弟子と戦うんじゃなかったの!?」
「ほっほっほ。いつの世も、思いを受け継ぐのは『若者』なのですよ」
観客の熱狂が最高潮に達する中、眼前のドレイクを鋭く見定めるバルドリクは、静かに口角を上げた。
「……なるほど。私は、完全に当て馬というわけか。しかし──」
一流の戦士であるバルドリクの目は、目の前の少年が秘めた規格外の戦闘力を的確に見抜いていた。大人しげな風貌に惑わされることなく、少年の奥底に眠る魔力の強大さを肌で感じ取る。
想像を遥かに凌駕する、絶対的な強者。その事実を前に、底知れぬ恐怖が男を襲った。
「──解き放て」
喧騒の中、静かに紡がれた解放の言葉。
途端、バルドリクの肌の下から淡い光を放つアーギル紋が浮かび上がる。しかしそれは刹那の輝きを見せただけで、再び肌の奥深くへと沈み込んでいった。
それは、見せつけるための力ではない。己の恐怖を律し、湧き上がる魔力を一滴たりとも外部へ漏らすことなく、全て自身の強化に転用するための洗練された技術。
堰を切ったように溢れ出す力が五体の隅々にまで染み渡り、バルドリクの肉体を強靭に作り変えていく。
「ふふふ。かつてない力が出せそうだよ」
全ての感情を力に──。
バルドリクが剣を正眼に構えたその瞬間、闘技場に戦いの開始を告げる重厚な銅鑼の音が響き渡った。




