第19話:二戦目
昼間の狂騒が嘘のように、夜の帳が下りたエボル闘技場は、ひっそりと静まり返っていた。
吸い込まれそうな闇が満ちる広大な空間。そのすり鉢状の観客席の最上段に、二つの影だけが並んで座っていた。
「くらーい。お客さんもゼロだし」
退屈そうに足をぶらつかせ、プリメッタが唇を尖らせる。その声は遮るもののない広大な空間に虚しく吸い込まれていく。
「今回の試合は、告知していませんからな」
ガリノミアは深く椅子に腰掛けたまま、穏やかに応じた。
「なんか盛り上がらないなぁ。クッキーあげるから、ちょっと遊ばない?」
「ほっほっほ。プリメッタ嬢のお菓子をいただけるなら、なんでもしますよ」
冗談めかした好々爺の笑みを浮かべるガリノミアに、少女の瞳がいたずらっぽく輝いた。
「なんでもとな!? それじゃあ──」
数分後。プリメッタから『とある難題』を指示され、ガリノミアは満足げに頷く少女の横で、密かに耳たぶまで赤く染めていた。
最高権力者としての威厳を取り戻そうと、彼はわざとらしく、コホンと軽く咳払いをしてから夜の空間へ視線を向けた。
「ところでプリメッタ嬢は、夜目が利くほうですかな?」
「そんなに得意じゃないよぉ。あ、あそこに食べカスが落ちてる! ちゃんと掃除してるの?」
少女が何気なく指差したのは、距離にして百メートル近く離れた、漆黒の闇に沈む対面の一般客席だった。
豆粒ほどにしか見えない暗がりの座席にこびりついた、微小なゴミ。それを平然と見つけ出した少女の異常極まる視力に、ガリノミアは背筋に冷たいものを走らせ、戦慄を隠すように笑みを引きつらせた。
「か、観戦に支障はないようですな」
「で、なんでわざわざこんな深夜に試合を組んだわけ?」
なおも目敏く広大な客席の汚れをチェックしようとするプリメッタの横顔を盗み見ながら、ガリノミアは彼女から提供されたクッキーを一つ、自身の口へと運んだ。
「残る三戦。対戦相手は、いずれもバロン王国の戦士です」
「へ〜、あのアーギル紋の」
「はい。亡国の姫カティナ様、親衛隊員グレイ。そして、グレイの師でもある親衛隊長バルドリクです」
最後の名を聞いたその瞬間、プリメッタの形の良い眉がぴくりと跳ね上がった。
「バルドリクって……『無紋のバルドリク』?」
「そのバルドリクです。彼の異名に冠する『無紋』とは、戦士としての成熟度を表しています」
「A級の異名持ち……確かに強敵だけど──」
世界の頂点近くに位置づけられる数少ない戦士。その実力は、間違いなく大陸屈指の領域にある。
だが、それを十分に理解していながらも、プリメッタは言葉の先を濁さざるを得なかった。
ガリノミアは、彼女の脳裏にある考えを完全に肯定するように、静かに頷いた。
「えぇ。彼らでは、万に一つもドレイク殿に勝ち目はありません」
それは確信だった。ドレイクの武力と、それを支える底知れない覚悟は、ガリノミアの想定を遥かに凌駕していた。
だが、このまま一方的な蹂躙で終われば、『強者を求め、さらなる成長を望む』というドレイクとの約束を違えることになってしまう。
帝国公爵として、一人の男として、そして将来の臣下として──約束を違える選択肢など存在しない。
だからこそ、ガリノミアは冷酷な思案を巡らせ、この異様な舞台を調えたのだ。
「まずはグレイ殿。次にバルドリク殿。そして最後に、カティナ様と戦っていただく予定でした」
「ってことは、順番を変えたんだ?」
「えぇ、そうです。方針を変えることにしました」
「……?」
並外れた知性を持つプリメッタをして、公爵の真意までは測りかね、小首を傾げる。
その時、静寂に満ちた闘技場の対角線上に、二つの足音が響いた。
片方は、闇に溶け込むように現れたドレイク。
そしてもう片方は──
「あなたがドレイクね? もっと明るい場所で顔を見たかったわ」
夜闇を焦がすような、鮮烈な焔の赤髪。
美しく波打つ長い髪は戦いの邪魔にならぬよう丁寧に束ねられており、その一房一房にいたるまで、気高き王族の血統を感じさせる気品が宿っていた。
白磁のようになめらかな肌、形の良い横顔。伏せられた長い睫毛の奥にある蒼い瞳は、静かな湖面のように澄み渡り、冷徹なまでの知性を湛えている。
その佇まいだけを見れば、華やかな夜会へと赴く高貴な姫君そのもの。
だが──彼女がその身に纏っているのは、優雅な花の香りではない。周囲の空気を歪ませるほどの、張り詰めた剣呑な熱量だった。
純白の生地に銀の繊細な装飾が施された軽装の鎧。その外套の背には、かつての王家の紋章が誇らしげに刻まれている。
そして、その白く細い右手に握られていたのは、彼女自身の背丈を容易に超える、重厚な黒鉄の棍であった。
その圧倒的な存在感と美しさに、プリメッタはたまらず席から身を乗り出す。
「女の人!? じゃあ、あれがカティナ姫ッ──」
「このままでは、ドレイク殿の敵にはなり得ない。ならば、敵に成長してもらいましょう」
ぽつりと、ガリノミアが残酷な音を紡いだ。
亡国の残党である二人の親衛隊にとって、カティナ姫は絶対的な護衛対象であり、復興の希望そのもの。その心の拠り所である姫が、真っ先にドレイクの手によって命を落としたとなれば──
「ガリ公! あんた、まさか──ッ!?」
自身の肩に掴みかかるプリメッタには目もくれず、ガリノミアは指先で摘み上げたクッキーを、容赦なく噛み砕いた。
骨を砕くような冷たい音が闇に響き、公爵の口端が吊り上がる。
「少々心苦しくはありますが、カティナ様には礎になっていただきましょうか!」




