第17話:vs ボーンミル
冷え切った石壁に囲まれた控え室──出番を待つドレイクの背中は、静止画のように微動だにしない。
その傍らで、補佐官のミルタンは表情に影を落としていた。
「ドレイク様、本当によろしいのですか?」
ミルタンの視線が、ドレイクの傍らに置かれた『それ』に向けられる。
無数の刃こぼれを刻んだ古びた剣。もはや鋭利な殺意は失われ、鉄の棒に近い成れの果て。怪物ボーンミルを相手にするには、あまりに心もとない代物だった。
だが、振り返ったドレイクの口元には、陽だまりのような静かな微笑が湛えられていた。
「はい。これでいいんです」
「しかし、相手のボーンミルは大国エリュイの戦士をも殺害した強者です。体格はドレイク様の倍以上、更にエリュイ人には守護神の加護が──」
ミルタンの言葉には、情報の裏打ちがある。相手はただの巨漢ではない。神の恩寵を歪んだ形で振るう怪物なのだ。
その脅威を説こうとしたミルタンを制するように、ドレイクは静かに腰を上げた。
「相手は殺人鬼……それだけ分かれば充分です」
「申し訳ありません。補佐官として、ドレイク様には万全の状態で戦って頂きたく、せめて武器だけでもと……」
「ありがとうございます。でもミルタンさん、ぼくは今の状態で万全ですよ」
四肢を拘束する重々しい鉄輪、そして斬ることの叶わぬ剣。
それでも万全と言い切るドレイクの瞳を見て、ミルタンは喉元まで出かかった異論を唾液と共に飲み込んだ。
ドレイクは掲げた愛剣を慈しむように見つめる。その表情は、これから死地へ向かう戦士のそれではなく、旧友と最後の言葉を交わす少年のようだった。
「人を殺してしまったぼくには、もうこの剣を握る資格はないのかもしれない。でも、最後にお礼を言っておきたくて……」
「最後にお礼……?」
その独白に混じった奇妙な響きに、ミルタンは胸騒ぎを覚える。
「じゃあ、行ってきます──」
★ ★ ★
──地を揺るがす轟音。
開始を告げる銅鑼の音の代わりに、その暴力的な衝撃が闘技場に響き渡った。
ボーンミルの筋骨隆々とした巨腕が、異常な角度でしなる。黒光りする棍棒が爆砕音と共に地面を穿つたび、爆風に煽られた砂塊が弾丸と化してドレイクに襲いかかる。
「あーッ! きたなーい!!」
観客席からプリメッタが身を乗り出し抗議する。だが、そんな少女の叫びなど、ボーンミルの耳には届かない。
彼の意識にあるのは、眼前の獲物をどう磨り潰し、どう喰らうかという欲望のみ。
棍棒を振るう腕が打撃のたびに伸びていく。関節の概念を無視し、鞭のように空気を切り裂く異様な音が闘技場に充満した。
「なにあれッ……腕が!」
「あれこそがエリュイ人が持つ異能の力。『豊穣の女神ルクシュリア』に与えられし加護──【獣の権能】です」
「あれのどこが獣なんだよぉ!」
「確かに。あれでは、まるで蟲ですな」
筋肉が液体のように流動し伸縮する。その様は、獣というよりは脱皮を繰り返す蟲に近い。
砂塵の弾幕に、ドレイクの姿は完全に呑み込まれた。後方の堅牢な壁すらも、ヤスリで削られるようにその形を失っていく。
「──ッ──ッッ!!」
砂塵の向こう側から、鉄錆に似た血の香りが漂う。
ボーンミルの理性が吹き飛んだ。猿轡を噛みちぎり、口端から欲望の唾液を撒き散らしながら、獲物にトドメを刺すべく砂のカーテンへと突撃する。
生死などどうでもいい。その若い肉体が、無惨に潰れた残骸へと変わる瞬間を、彼は渇望していた。
視界を遮る砂塵の奥に、影が見える。
ボーンミルは棍棒を天高く掲げ、全身の異能をその一撃に凝縮した。
だが──振り下ろした瞬間、世界が変質した。
荒れ狂う砂粒の一つ一つが空中で静止する。全力で振り下ろしているはずの棍棒が、まるで深海を進むかのように緩慢に、重く、止まって見える。
その無音の中で……少年の声だけが、あまりにも優しく響いた。
「──今まで、ありがとう」
剣閃が奔る。
砂塵を真っ二つに割り、砂塵の中心から何かが放り出される。
それは、絶命する暇さえ与えられなかった、ボーンミルの身体だった。
「斬った!?」
ガリノミアが驚愕のあまり立ち上がるが、すぐさま異常に気付く。ガリノミアが目にしたのは『斬撃』による切断面ではなかった。
ボーンミルの強靭な肉体は、刃で分断されたのではない。圧倒的な膂力によって、無理やり吹き飛ばされたのだ。
砂塵がゆっくりと晴れていく。そこに立っていたドレイクの手に、『剣』は握られていなかった。
肉体と刃が衝突した瞬間、強固な骨肉を粉砕すると同時に、剣そのものもまた、主の力に耐えきれず霧散したのだ。
ドレイクの手には、かつての相棒の遺骸──折れた『柄』だけが、虚しく残されていた。
「あ、あれが……攻めに転じたドレイク殿の力……」
ガリノミアの指先が、抑えようのない昂揚に震える。
「わたくしは彼と共に、試練を乗り越え頂点を目指すのだと思っていたッ。しかし違う! 彼は既に上り詰めているのです! ロヴァニア帝国の頂点ッ……武の頂きに!!」
全身を駆け抜ける戦慄。ガリノミアの狂喜は、帝国の権力者としての損得勘定を焼き尽くし、ただ一人の武人として、絶対的な【王】の誕生に酔いしれていた。
一方、勝利の余韻を味わうこともなく、ドレイクは静かに踵を返す。
その寂しげな背中を追いかけるように、プリメッタは誰よりも早く、客席を飛び出していった。




