第16話:一戦目
死を以て完結するはずの『回避戦』。その絶望の淵から這い上がった戦士の再演だというのに、闘技場を包んでいるのは熱狂ではなく、肌を刺すような冷気だった。
本来ならば、武を尊ぶこの帝国において至高の狂宴となるはずの舞台。だが、観客席を埋めているのは、まばらな影に過ぎない。
原因は、ただ一つ。
かつてドレイクが見せた、凶虐な『力』。その残像が、富と権力に溺れた貴族たちの脳裏に焼き付き、生存本能という名の重石となって彼らの腰を重くさせていたのだ。
しかし、帝国人としての闘争本能をくすぐられ、喉を鳴らす者たちもいた。
圧倒的な力に恋焦がれる者。最強の駒を渇望する野心家。あるいは、未来の脅威を屠らんとする冷徹な策略家。
思惑は違えど、『断鎖のドレイク』という特異点に惹き寄せられた者たちが、値踏みするように眼を光らせていた。
貴賓席の最上段。この殺戮の円形劇場を支配する最高権力者、ガリノミア・レイスは、深紅の椅子に深く沈み込み、眼下の空虚を見つめていた。
そしてその隣。布地を飾る緻密なレース、幾重にも重なったフリル。まるで精巧な人形が呼吸を始めたかのような、静謐な美を湛えた少女が佇んで──
「スーパーメイド! プリメッタ見参!!」
闘技場の視線が、憐憫と困惑を混ぜた色で一点に集中する。ガリノミアは、自身の名誉にヒビが入るのを感じながらも、あくまで冷静を装う。
「レイス家のメイドという立場であれば、セルミア教団のシスターよりも自由がきくはずです。実にお似合いですよ、プリメッタ嬢」
「くっふっふ。アタイの歴史に、また1ページってやつだね!」
プリメッタは衣装の裾を跳ねさせ、幼い満足感に瞳を輝かせる。しかし、彼女の視線がスカスカの観客席に向けられた瞬間、その輝きは急速に萎んでいった。
「すっくな~」
「みな、ドレイク殿を恐れているのですよ。この国で何が起きようと他人事、意志も勇気もない、決断力の乏しい連中です」
彼の落胆は、単なる興行不振への嘆きではない。強き者への敬意を失った同胞たちの、精神的な退化に対する嫌悪だった。
「ならばこそ、今ここにいる連中はまだ優秀と言えるでしょう。敵にしろ味方にしろ、彼らは覚えておいて損はないかもしれません」
「そうだね。ちょっと行ってくる!!」
「えっ?」
止める間もなかった。プリメッタは重力から解放されたかのような足取りで、バスケットを手に駆け出す。ガリノミアは、ただその後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。
「はーい! こんにちわー!」
「な、なんだね君は?」
ターゲットとなった貴族の前に、突如現れたメイドの笑顔。その無邪気なオーラに、貴族も困惑が隠せない。
「アタイはプリメッタ! レイス家のスーパーメイドだよぉ!」
「そういえばさっき叫んでたね。で、なんの用かね?」
「これ、ご主人様からの差し入れだよぉ」
差し出されたのは、鮮やかなベリーが並ぶタルト。クッキー生地の香しさと甘酸っぱい誘惑。警戒心よりも食欲を優先させてしまう、抗いがたい魔力がそこにはあった。
「ほほう、どれどれ。……んん!? こ、これは美味い!」
「ほーん……食べたね?」
「え?」
☆ ☆ ☆
「お、終わりましたか?」
手にした誓約書をうちわ代わりに仰ぎながら、誇らしげに帰還する少女。
ガリノミアは何があったのかを想像し、冷や汗を拭いつつも、プリメッタに着席を促した。
「いやぁ~。レイス家の名前を出したら、みんな快くサインしてくれたよぉ」
「みな項垂れているように見えますが……」
視線の先では、先程の貴族たちが肩を落としている。ガリノミアはそれ以上の追及を諦め、意識を闘技場の中央へと向けた。
「さぁ、対戦相手の入場ですよ」
「むむ!」
ドレイクの枷を外すための、最初の試練。
入場門から現れたのは、『人間』という定義を嘲笑うかのような異形だった。
身長は2メートルを優に超え、鋼鉄のような皮膚の下で、筋肉が芋虫のように蠢いている。
口に嵌められた頑強な猿轡。そこから漏れ出るのは、言葉ではなく、獣の咆哮を押し殺したような湿った呼吸音。滴り落ちる唾液は、飢餓という名の本能そのものだった。
彼が引きずる巨大な棍棒は、自然の造形を無視した歪な硬木。美しさを一切排除し、ただ効率的に骨肉を砕くためだけに存在する殺意の結晶だ。
「あ、あれ! 【ボーンミル】じゃん!!」
「なんと。ご存知でしたか?」
それは、大国の一つ『エリュイ』を恐怖に陥れた食人鬼。
彼にとって他者はただの食糧、あるいは暗い欲望の捌け口だった。
鋼に匹敵する硬度の棍棒で獲物を叩き潰し、その残骸を胃に収める。
名もなき怪物は、その凶行から『ボーンミル』の名を与えられた。
「ボーンミルは、アリアス大全のD級に登録されてるからね」
「ほう。異名持ちにD級が存在したのですか?」
「掲載はされてないけどね。D級の『D』は、【Desperado】のD。異名認定士への注意勧告として登録されてるんだよぉ」
「なるほど。危険極まりないから接触するな……ということですかな?」
「そーゆーこと。行方不明だったけど、まさかロヴァニア帝国にいたなんて……」
「わたくしと同じ公爵の一人が、ああいう手合いを集める趣味がありましてな。今回の為に借りてきたのですよ」
「よく手懐けれたね~」
「暴力には暴力。その点に関して、ロヴァニア帝国はどの国よりも優れていると言えるでしょうなぁ」
ガリノミアの唇に浮かぶ、冷酷な貴族としての笑み。一方、プリメッタは眼下の怪物を見据え、隠しきれない懸念を表情に滲ませた。
「ドレーくん……大丈夫かなぁ」
「相手は殺人鬼です。ドレイク殿にとっては分かりやすい『悪』。戦いやすい相手だとは思いますが……む?」
ざわめきが波紋のように広がる。
対角線上から現れたドレイクは、四肢に重厚な鉄輪を嵌めていた。
そしてその右手に握られていたのは、数多の戦いを潜り抜けた相棒──刃こぼれが目立つ、人を斬ることができないあの剣だった。
「ドレーくん、あんな武器でッ……」
「まさか不殺を……いや、しかし……」
鈍色の剣を握るその手、静止した背中。そこには、言葉を介さない暴力の権化を前にしても揺らがぬ、鉄のような覚悟が宿っていた。
「ドレイク殿には何か考えがあるのでしょう。彼の覚悟を乱さない為にも、ここは黙って静観するとしましょ──」
「ドレーくーん!! 頑張ってーー!!」
鼓膜の奥まで痺れるような声援。ガリノミアは、その衝撃で椅子から滑り落ちた。
「ぷ、プリメッタ嬢。わたくしの話を──」
「何しとるんじゃい!? 早くガリ公も応援して!」
「えッ!? えーと……が、頑張ってください~」
レイス家の威厳を守ろうと声を潜めるガリノミアだったが、スーパーメイドの容赦ない追撃が飛ぶ。
「腹から声出さんかい!!」
「がッ、がんばえー!!」
最高権力者の腹を、メイドの小さな手がポンポンと叩く。その常識外れな図に、周囲の貴族たちは戦慄し、戦場に立つドレイクまでもが、毒気を抜かれたようにふっと口元を緩めた。
──その、一瞬の弛緩を狙ったかのように。
いつの間にか棍棒が空を裂き、大量の砂塵がドレイクの眼前へと襲いかかっていた。




