第5章 「境界を越える影」
1
アディスたちが山へ向かった夜、
アミールは眠れずにいた。
窓の外は真っ暗で、
時折、遠くの丘で閃光が瞬く。
「今ごろ、どこを歩いているんだろう」
彼は胸の奥で呟いた。
14歳の少年に託した“街の叫び”。
それが無事に届く保証はどこにもない。
だが、他に方法はなかった。
サラエボは四方を封鎖され、
道路も橋も検問だらけ。
外へ出るには、“山の獣道”か“地下の排水トンネル”しかなかった。
アディスたちは、地元の子どもだけが知る“獣道”を選んだ。
2
夜明け前、アディスたちは山の中腹にいた。
霧が濃く、視界はほとんどない。
だが、それが幸いだった。
霧は、狙撃手の視界も奪う。
「急げ。日の出までに越える」
先頭を歩く少年が囁いた。
彼らは、足音を殺しながら岩場を進む。
途中、地雷原を避けるため、
古い木の枝で地面を軽く叩きながら進んだ。
この街の子どもたちは、
“遊び”ではなく“生存”として
地雷の見分け方を覚えていた。
アディスは胸元のカプセルを握りしめた。
その中には、子どもと妊婦が高額、老人は無料という“価格表”が入っている。
「これを落としたら、全部終わりだ」
彼は自分に言い聞かせた。
3
山を越えると、そこは“国境の灰色地帯”だった。
どの勢力が支配しているのか、
地図にも載らない曖昧な場所。
アディスたちは、
廃れた小屋の裏に隠された“合図”を探した。
そこには、国外のジャーナリストたちが密かに残す白い布切れが結ばれているはずだった。
「……あった」
アディスは小さく息を吐いた。
布切れは風に揺れ、
“ここで待て”という合図を示していた。
しばらくすると、
森の奥から足音が近づいてきた。
現れたのは、外国の通信社の記者――
灰色のコートを着た中年の男だった。
「君たちが……サラエボから?」
アディスは頷き、カプセルを差し出した。
「これを、世界に届けてください。
街の人たちが……死んでしまう前に」
男は震える手でカプセルを受け取った。
中身を確認すると、その表情が一瞬で変わった。
「……これは、世界が黙っていられない内容だ」
アディスは静かに言った。
「黙っていたから、こうなったんです」
4
その日の午後、
カプセルの中身は衛星通信で本国へ送られた。
“料金表”の画像は、複数の国際メディアの編集部に同時に届いた。
編集者たちは最初、それを“悪質なフェイク”だと疑った。
だが、軍の印章、日付、文書形式――どれも本物と一致していた。
そして翌朝、世界中のニュース番組で同じ言葉が読み上げられた。
「サラエボ包囲戦の裏で、富裕層向けの“狙撃ツアー”が存在した可能性」
「子ども・妊婦が高額、老人は無料という“価格表”が確認される」
「市民を標的とした娯楽行為の疑い」
アミールは、壊れたラジオの雑音越しにそのニュースを聞いた。
彼は目を閉じ、深く息を吸った。
「……届いたんだ」
その瞬間、
彼の胸にあった重石が、
ほんの少しだけ軽くなった。
5
だが同時に、街の空気は緊張を増した。
真実が外へ出たということは、誰かが“漏らした”ということでもある。
軍関係者は怒り、検問はさらに厳しくなり、市民の間には不穏な噂が広がった。
アミールは覚悟した。
「これからが、本当の闘いだ」
だが彼は後悔していなかった。
あのカプセルは、サラエボの闇を破る最初の光だったのだから。




