八章
朝食を済ませると、響の屋敷の人間は揃って病院へと向かった。今回は、彩も同行した。鮮の具合は、大分良くなっているように見えた。昨日の容体が嘘みたいに、これまでで一番具合が良いんじゃないかと思えるほどに。実際、連が手を貸すまでもなく、鮮は一人で立って、動くことができた。検査の間も、連の支えはまったく不要だった。
一通り検査が終わって、彩と再は診察室に呼ばれた。鮮本人が呼ばれなかったので、なにか悪いものでも見つかったのかと警戒したが、出迎えてくれた染衣はちっともそんな素振りを見せなかった。
「やあ、彩くん。君も来てくれたんだね。どうかな、久し振りのこの場所は?」
ここは、町から少し離れたところにある、緑に囲まれた病院だ。病院自体はすでに年末年始の休業期間に入っているから、見かけるのは入院患者とその家族くらい。それなりの広さがあるのに人気があまりないから、やたらと静かだ。
どうでもいいとばかりに、彩は低く返した。
「どうもしない。俺が入院していたときから、少しも変わらない場所だ。殊更目を引くものなんて、ありはしない」
彩の素っ気ない反応に、染衣はいつものように疲れた笑みを見せる。
「まあ、そうだね。ここはあまり変わらない。患者さんも、中央の大病院と比べれば少ないし」
適当に喋りながら、染衣は鮮の検査結果を彩たちに見せる。ただの名前と数値の羅列に、染衣が必要な箇所について説明を加えていく。
「なかなか、驚くべき結果だよ。――全くと言っていいほど、異常がない」
「異常が、ない……?」
怪訝と顔を上げた彩に、そう、と染衣は頷く。
「今日の尿検査では、蛋白も潜血もない。血液検査でも、白血球、赤血球、血小板、ともに正常。レントゲンも綺麗なものだよ。熱もない。紅斑はまだ残っていたけど、あの様子だと、しばらくすればなくなるかな。ほぼ正常。治療の必要もないだろう」
印をつけられた箇所を前の数値と比べると、そのあまりの変化に愕然となる。全くの正常。昨日まで重症だったとはとても思えないほどに。
――昨夜の見張りが効いたのか?
まさか、とも思ったが、この結果を見せられては軽く流せない。
鮮は、ただの病気ではなかった。何者かの、襲撃を受けていた。……響崇が言うところの『響の呪い』…………。
彩は目を閉じることで意識を切り替え、無表情のまま染衣のほうへと顔を向ける。
「治療は、必要ないのか?」
「どこにも異常が見つからなかったからね。紅斑が気になるかもしれないけど、あれもほとんど治りかけだ。しばらく様子を見て、完全に消えれば心配ないだろう」
「こんなふうに、急に良くなるものなのか?」
途端、染衣の表情に陰りがさす。やや間を置いて、ようやく染衣は口を開く。
「普通は、あり得ないね。ああ、鮮さんの症状がSLEだったら、かな。でも、他の病気だったとしても、昨日、あれほど症状が悪かったのに、今日になって急に良くなるなんて……。正直、異常だよ」
理解に苦しむ、といった風情の染衣の口振りに、しかし、彩は驚かない。むしろ、自然の帰結であるかのように、この結果を受け止めている。
――昨夜は、襲撃がなかった。
――きっと、一昨日の晩は襲撃があったのだろう。屋敷の中にいなかったせいか、その夜の様子は夢に見なかったが。
――三日前は、なにもなかったのかもしれない。あれは、ちょうど彩が屋敷を出た夜だ。襲撃者も、彩の存在に気づいて動けなかったのかもしれない。
――三日前は、失敗に終わった。だから、一昨日の晩はいままで以上に、酷かった。毎晩続いていたのが、急におあずけをくらったのだから。
……なら。
ああ、と染衣が申し訳なさそうに苦笑を漏らす。
「異常は、ちょっと言い過ぎたね。すまない」
染衣の言葉で、彩は思考を止められる。会話は記録しているから、染衣が言った意味も、すぐに理解できた。が、彩はそんなこと、大して気にしていなかった。……重要なのは、鮮の体調が良くなったということ。――そして、その理由。
ついでと、彩は染衣の会話につきあった。
「鮮の具合は、良くなったんだろ?だったら、なんで本人に直接伝えない?悪い知らせじゃないんだ。俺たちだけに伝える必要はないだろう」
鮮が快方に向かっているなら、わざわざ隠す意味もない。いままでは原因不明で、確かなことがなにも言えなかったせいだ。
染衣はまた、疲れたように肩を下ろす。
「急に良くなった、というのが少し引っかかるんだ。それに、昨日も急に悪くなったようだしね。――明日もいまの状態が続くか、全く予想ができない」
染衣は、一体どこまで気づいているだろうか?鮮が病気だと、本当に思っているのか?崇が考えていた呪いについて、なにか知っているのではないか?あるいは……。
「もう少しだけ、様子を見させてほしい。それで、経過が順調であれば、鮮さんにも伝えよう」
それは、もう襲撃がないということなのか?それとも、彩が今晩も見張ることを予見してのことか?
「もし、悪化した場合は?」
それでも、襲撃があったなら?昨晩は彩が見張っていたせいで諦めたが、今晩はなにか打開策でも用意するのか?彩が見張っていても襲撃できると、そういう算段……。
うん、と染衣は言葉なく、頷く。
「その場合も、鮮さんに伝える。そのときには、治療も開始することになるだろうから。前も話した通り、データが揃ってなくても、のんびりはしていられないと思うんだ。――崇さんのことがあるからね」
まだ油断はするなと、そういうことなのか――?
とにかく、もう一日の辛抱だ。そのくらいなら、彩の身体も保つだろう。睡眠を我慢するのはこれが初めてだが、いまのところ、身体の不調はなさそうだ。
その後、再のほうで、身の回りの世話についていくつか質問があった。主に、食事や蓄尿のことだ。基本的には、これまでどおり。食事は消化のいいもの、蓄尿も念のため継続。鮮の体調が突然良くなっても、周囲でやることは少しも変わらない。
――警戒は怠らず。
それが、今日の始まりに彩たちが得たものだ。
屋敷に戻ったときには、すでに昼食の時間になっていた。食事は、これまでの習慣通り、薫と彩は食堂で、鮮だけ自分の寝室で病人食だ。
「もう食堂で、家族揃って食事をしても大丈夫だと思うんですけど」
ベッドに入った鮮は、そう愚痴を漏らす。
いまは昼食も終わって、彩は鮮の寝室にいて、ベッドのすぐ隣の椅子に腰かけているところ。他に寝室にいるのは、当の鮮だけ。最初は連もいたのだが、お茶をテーブルに置いて、昼食の片付けと一緒にすぐに出ていってしまった。……気を遣っているつもりなのだろうが、至極どうでもいい。とてもいい笑顔をしていたようだが、彩はほとんど無視した。
「今日一日くらいは、様子見だ。明日も大丈夫なら、食堂に来ればいい」
「わかっています、そのくらい。言ってみただけです」
ぷい、と外方を向く鮮。そんな鮮の子どもっぽい仕草に、彩はついつい笑ってしまう。
昨日、一日中寝込んでいたとは思えないくらい、鮮の容体は安定している。いまだって、ベッドに入ってはいるが、鮮は上半身を起こして彩と話ができている。これだって、様子見の一環でしかない。鮮本人は、もうベッドから出ていつもの生活に戻りたいはずだ。
「でも、具合が良くなって安心した」
そう、心からの感想を漏らすと、鮮は目をパチパチと、驚いたように彩の顔を見つめる。
「心配……してくださったのですか?」
「ああ。……なんだ、その意外そうな目は」
彩は薄目で鮮を睨む。いえ、と鮮は急に俯き、返す言葉に窮したように目を泳がせている。
……まあ、自覚はあるがな。
こんなにも、誰かのことを気にかけるのは、彩にとっては珍しい。それを、こうもあっさりと口にするなんて、あまりにもらしくない。
――でも。
かまわない。これが、響彩の偽りない本心なのだから。それを誰かに吐露したところで、彩はちっとも気にしない。
――鮮は、無事なんだ。
無事で、いてくれる。頬にまだ紅斑の痕があるが、それもほんのわずかなもの。しばらくすれば、もうすっかり良くる。もしかしたら、明日にはその名残さえ消えてなくなっているかもしれない。
……そんな、楽観。
だが、その希望を得るためなら、彩はどんな努力でも支払おう。
一日くらい寝ていなくても、身体は動く。もう一日くらいは、十分に保つ。こういうとき、自分の感覚遮断は大いに役立つ。寝不足の苦痛を、彩は感じなくていいのだから。
どれくらい沈黙が続いただろうか。この静寂に耐えられなくなったのか、鮮は顔を上げて、覗き込むように彩の顔を凝視する。
「でも、兄さん。兄さんのほうこそ、お身体は大丈夫ですか?目の下に隈がありますよ」
鮮に指摘され、彩は壁際の姿見に目を向ける。隈は、確かにはっきりと見える。それ以上に、自分の顔がいつもより白っぽく見える。
……確かに、万全ではないだろうが。
そう冷静に判断して、しかしまだ身体は大丈夫だと、彩は微笑って鮮に向き直った。
「このくらい、大丈夫だ」
「寝不足なんじゃありませんか?もしかして、昨日寝ていないとか……」
「そんなことはない。確かに、いつもより遅く寝たかもしれないが。ちょっと本に熱中していただけだ」
あっさり、彩は嘘を吐く。一晩中、外にいたなんて、とても言えるわけがない。
鮮も、特に疑っているようには見えず、呆れたように溜め息を吐く。
「ほどほどにしてくださいね。それでお身体を壊してしまっては、後まで引きずりますから」
「ああ、わかってる」
簡単に頷いて見せる彩に、まだ納得がいかないのか、鮮は眉間に皺を寄せて不平を曝す。
「もし明日もお顔が優れなかったら、面会をお断りさせていただきますからね」
「そこまでしなくても大丈夫だ」
「いいえ。兄さんはご自分のことを軽んじるところがありますから。今晩は夜更かしなどなさらないようにしてください」
わかった、と、ついつい笑みが漏れてしまう彩。
十二月になり、周囲がコートやマフラーをつける中、彩だけはいつもと変わらず、制服一枚で登校している。そのことを混ぜ返しているのだろう。彩から言わせれば、寒いという感覚がないのだから、余計なものはつける必要がない、という判断なのだが。
彩の態度に、ますます鮮の表情が険しくなっていくという、悪循環。それこそ、挑むように睨みつけてくる鮮は、しかしどこかむきになった子どものようにも見えてくる。
「なにがおかしいんです?」
口調だけはお嬢様然とした鮮。そのギャップが一層滑稽に思えてしまうが、今度こそ彩はぐっと堪える。
いや、と口元の震えを隠しつつ、彩は返した。
「鮮の小言を聞くのも久し振りだと思って。ここのところ、鮮が食堂に来ないから、毎回賑やかなものだ」
「……薫ですね。あの子は、本当にお喋りですから」
明日からちゃんと注意しないと、そう漏らした鮮の口元は、やはり不機嫌そうに曲がっている。
――ああ。
なんだが、久し振りだ――。
もうずっと、鮮は寝込んでいたような気がする。実際には、まだ一週間も経っていないのに。
鮮とこんなに話をしたのは、もしかしたら初めてかもしれない。食事の時間はお喋り厳禁でも、お茶の時間は、会話をしても良かったんだ。だが、彩は鮮が話しかけるのに対して、ただ頷いているばかりで、彩から話しかけようなんて、少しもしなかったんだ。……彩から、話題を提供しようなんて、これっぽっちもなかったんだ。
……嘘みたいだ。
一昨日、屋敷を飛び出したときには、もう鮮とは会えなくなるかもしれなかった。
昨日、鮮の容体が悪化したときには、もう話ができなくなるかもしれなかった。
それが……。
彼女は、ここにいる。普段はお嬢様らしく振る舞っていても、根の部分は幼い頃から、変わっていない。高校一年になっても、彩の前では時折、その幼さが顔を出す。
――十年前は、できなかったこと。
住む場所も、違っていた。会うことも、基本的に許されていなかった。当時の出逢いも、別に望んだわけではなく、だから、彩は彼女と出会ってからも、距離を近づけようとはしなかった。
……それでも。
覚えている……。
彼女は、ずっと彩を見ていた。
臆病なのか、人見知りが激しいのか、子どもたちの輪の中にあっても、自分から話をしようとしなかった彼女。他の連中に引っ張り出されて、連れ回されて。彼女は黙って、それに従っていただけで。
――でも。
鮮は、彩を見ていた。
黙って見下ろす彩に怯えることなく、鮮は見返していた。
――にいさん。
と。
そう、呼んでくれていたんだ。
「ところで、兄さん」
鮮の呼びかけに、彩はハッと顔を上げた。そんな彩の挙動不審に、しかし鮮は気づかなかったようだ。むしろ、鮮のほうが周囲を窺う素振りを見せて、それどころではなかったらしい。
改めて他に誰もいないことを見て取って、鮮はわずかに声を落として、続けた。
「――お父様の遺言は見つかりましたか?」
彩は、反応に遅れた。内心の動揺は、なんとか表情には出さなかっただろう。彩自身には、確かめる術などないが。
――なんて、答えるべきか。
数瞬の迷いも、しかしすぐに決断しなければならない。彩は感覚を遮断したまま、口を開いた。
「……いや、まだだ」
言えるわけが、なかった。
十年前の真相。その事実を、自分の父親がどう思っていたか。
……言えるわけが、ない。
以降の彩の沈黙をどう受け取ったのか、鮮は「そうですか……」と漏らして、俯いてしまう。と、急に顔を上げて繕ったような笑顔を彩へと向ける。
「気になさらないでください。もともと、わたしが見つけなければならないものなんですから。明日からわたしが探しますので、兄さんは、もう気にしないでください」
その笑顔に、彩はなんて返せばいいだろうか。
……鮮だって、響崇の遺言の内容が尋常なものではないことくらい、予想がついているのだろう。
病の床に臥していた中、響崇は鮮に遺言の存在を報せる。しかも、遺言は他の人間には見つからないように隠してあり、鮮に伝えたのも、その隠し場所を見つけ出すためのヒントがある場所だけ。
彩が数時間のうちに解いた暗号だ。鮮だって、一カ月もあれば解けているはず。
それを、解いていないということは……。
いや、止めだ。
鮮には、真実を伝えないと決めたんだ。その後、鮮がどうするかは彼女自身の問題。
そうだな、と、だから彩は微笑を作って彼女に応じた。
「このまま良くなって、明日にはベッドから出られるといいな」
「兄さんも、朝のお茶の時間に出て来れるよう、ご自愛くださいね」
その悪戯っぽい言葉を口にした鮮の表情は、もうお嬢様然とした気品のある色をしていた。
「こんなに早くここに来るとは思わなかった」
不意打ちに声をかけられて、しかし彩は特段驚きもせず、その声の主のほうへと振り返った。その声は彩の記録にあったから、間違えはしない。命は気配もなく、本棚のすぐ手前に立っていた。
彩がいるのは、地下の図書室。鮮の見舞いが終わった後、自室に戻った彩は医学書を借りっぱなしだったのを思い出して、返しに来たのだ。返す本は連に渡すように言われていたが、秘密で借りたモノなので、こっそりと自分で戻しておく。……すでに連にはバレて手遅れだということは、なかったことにする。
彩は半眼のまま、低く命に問うた。
「なぜここにいる?」
「ここは図書室。あたしがいても、おかしくはないでしょう」
あっさりと返す命。……いや、現れるんだったら足音くらい立てて普通に現れろ。
「立入禁止の場所には近づいていないぞ」
いまなお、彩は医学書の棚に本を返している途中だ。図書室に入ってから、まだ十分も経っていない。命の登場は、あまりにも不意打ちだった。
薄く睨む彩に、しかし命はこれまで通りの無表情で応えた。
「しばらく来ないと思ってた。暦から崇の記憶を見せられて、慌てて逃げ出していたから」
不服と、彩の口元が歪む。確かに、あれは逃げ出したと言われても仕方がない。だが、こうもあっさりと指摘されると、まるで彩が臆病者のように聞こえるから納得がいかない。
……あんなものを見せられて、落ちついていられる人間がいるのか。
これまで事故だと教えられてきた十年前の出来事が、実は殺人事件で。――自分は、異母を殺し。――自分は、父親に銃殺されかけていた、なんて――――。
――ハッ。
その記憶を再生しても、もう彩はぐらつかない。あれは、響崇の視点でしかない。彩が佐久間の家で見た夢――記録――は、別の可能性を示唆している。
……それを確かめるために、戻ってきたんだ。
無表情のまま見上げてくる命に、彩は自身の決意を口にしてやる。
「やらないといけないことができたからな」
「やらないといけないこと?」
ああ、と彩は頷く。
「響崇が重病だったことは知っているな?暦に記憶を渡したんだから」
「ええ。そのせいで亡くなったから、いまは響鮮が当主なんでしょう?」
「そうだ。――その鮮も、崇と良く似た病気にかかっている」
その情報は、命も初耳だったらしい。「そうなの?」とすぐに反応はあった、が、彼女の無表情は一向に崩れない。ああ、と彩は頷いてみせる。
「崇は、発症してから十日で亡くなった。鮮も、発症してからその半分以上が経過している。昨日は、かなりヤバかった。これまでにないくらい、病状が悪化したんだ。その前日は、これまでにないくらい容態が良かったのに」
命の表情は、相変わらず無表情のまま。ただただ、彩の話を聞いているといった風情。
彩は一度言葉を切って、そして続けた。
「で、今日になったら、また容態が良くなっていた。昨日までの病状が、嘘みたいに」
感情を一切挟まない、事実だけの報告。その平坦さに、命も気づいただろうか。考え込むように黙っていた命は、十秒ほどしてようやく口を開いた。
「良くなったり、悪くなったりする病気?」
「それにしては、間隔が短すぎる。一日おきに体調が変わるなんて、どう見ても異常だ」
異常――。それは、染衣も言っていたこと。それを、そのままの形で命にも伝える。
ふーん、と気のない声を漏らしながらも、命は律義に黙考していた。また十秒ほど固まったのち、ふと、命は声を漏らす。
「異能、かな?」
「……なんだって?」
いきなりな話題に彩が訊き返すと、命はちゃんと説明を返した。
「異能のせいで、体調を崩しているのかもしれないと思ったの。でも、それだと崇のことは説明できない。崇は異能者ではなかったから。でも、崇も鮮のように、体調に波があったの?」
彩は首を横に振った。
「それはわからない。崇が病気だったとき、俺はこの屋敷にいなかった」
その情報は初耳のはずなのに、しかし命はふーんと、また気のない声を出して黙考する。
「崇と似ているようだけど、崇のことは関係ないかもしれない。鮮が自分の異能のせいで体調を崩している可能性もある」
ほう、と彩は内心で感心する。響の呪いのことばかり考えていたが、なるほど、その根本である異能については考えていなかった。響なら、まずその点を疑っても、おかしくはない。
……命は、そのためにここにいるんだったな。
その点を考察しようと、彩は命に話を振った。
「異能の暴走ってやつか?それで、自分自身を傷つけることなんて、あるのか?」
「異能を制御できないとき、その力はどこかへ向かう。それが他人なのか、自分なのか、それだけの違い」
自然、彩は立入禁止に設置された石膏像を思い出す。穴だらけの首なし像も、ハリネズミのような人形も、もともとは響の人間だったか。
「制御できていないなら、それはもう、当の本人ではどうしようもできない。無意識化での暴走だから。本人が異能を自覚することで、くいとめられるかもしれないけど」
「……どうすればいい?」
「きっかけを与えればいい。本人の意識が起源に呑まれないうちに、自分の異能を自覚させる。客観的に自身を認識するというわけ。それで、あとは抑制をかける。自分で自分をコントロールする、その感覚が掴めれば、暴走は抑えられる」
もっともそれも可能性だけど、と命は付け足す。
ふーんと、彩も抱えた本を戻しながら黙考してみる。
鮮自身の、異能の暴走――。十年前の響奏や、一カ月前の響崇の問題を除いて考えれば、それも一つの可能性か。
そもそも、響の呪い云々というのは、響崇の記憶から来ているものだ。それが唯一解と決まったわけでもない。
……だが。
そうだとすると、彩がこれまで見てきた夢はなんだったのか。あれは全くの無関係なのか。彩が無意識のうちに感じていた不安が、ああいう形で現れただけなのか。
――違う。
そんなものじゃ、ない。
あれは、あの視点は、あの意識は。確かに存在している。そう、確信できてしまうくらいに、あれは生々しかった。
では、それも併せて別の仮定を置こう。――あれが、鮮本人だったとしたら。
奏と同じだ。鮮もまた夢遊病にかかり、夜な夜な外を徘徊していたとしたら。奏も、日中は体調を崩していた。奏の場合は寝不足ていどだったが、鮮の場合はより重症だった、というだけの違いでしかなかったら。
夢に見た部屋は、どう説明する?あの視点では、ベッドの中に誰かがいるかはわからなかった。単純に、鮮が自分の部屋に戻ってきた場面ということは?あるいは、別の部屋だったのかもしれない。部屋の造りは、どこも同じだ。部屋全体を見渡せば違いがわかったかもしれないが、あれだけの映像では、その違いも判然としない。
……そもそも、あんな夢だけではなにもあてにならないということか。
では、別の可能性も考えてみよう。異能の暴走は、なにも鮮だけに限った話ではない。
――この三姉妹だって。
言ってみれば、命たちも異能者だ。命の異能がどういうものかは教えてもらっていないが、もしかしたら、彼女の異能によるものかもしれない。『運命』『未来を司る異能』。ギリシャ神話のモイラのうち、未来が担うのは『鋏』だ。人の一生を裁断する、無慈悲な女神。
だが、彼女たちは地下にしかいないのではないか。いや、それも彩が思っているだけなのか。命なら、無意味に外に出たりしないかもしれない。だが、他のやつらはどうだ?過去を司る暦は、とても全うとは思えない。『若返り』幼児退行が進み、まるで獣のように地を這う少女の姿を、彩は思い出す。言葉は話せるようだが、それも崇の記憶に触発されたせいかもしれない。――彼女はすでに異能に呑まれ、理性を失っているのではないか。
いや、より不確定な存在が、もう一人いるではないか。……三姉妹のうちのもう一人。現在を司る、異能者。
彼女には、彩も会っていない。彼女はまともなのか?彼女はどんな異能を持っている?全くの未知数だから、どんな可能性だって否定はできない…………。
――いや。
彩は思考を切った。
そういう犯人捜しをしたって、意味はないんだ。会ったこともない誰かを犯人に仕立てていては、無限の可能性に潰されてしまうだけ。
いまはっきりしていることを考えよう。昨晩、外で見張っていることで、鮮の具合は良くなった。そこに因果性があるかはまだはっきりとしないが、ひとまず成果だ。それに、なにかあればすぐにわかる位置でもある。
……もう一晩だけ。
それだけ、彩は考えていればいい。原因がなんだったのかは、そのうちわかることだ。――わからなくても、鮮さえ良くなれば、それでいい。
全ての本を返し終わると、彩は改めて命のほうへと体を向ける。命は、まだ本棚の前に立っている。本棚のラベルが見える、本棚同士の交差点。すぐにでも消えてしまいそうな存在の薄さで、彼女はぽつんと、その場に突っ立っている。
もう、彩の用は済んだ。すぐにでも、地上に戻ってしまおう。
……その前に。
彩は、ついでのように彼女に質問する。――ついでにするくらいどうでもよく、これまでの会話で最も重要な質問を。
「――響鮮は、異能者なのか?」
命は無表情のまま、さして重要でもないとばかりに、答えた。
「そう――」
「今日もお兄様は、お姉様のところに行っていたんですか?」
夕食の時間。薫は当然のように彩に話しかけてくる。静寂を好む性質の彩にとっては、あまり習慣化してほしくないイベントだ。
それでも、疑問の形を取っている以上は、仕方なく、彩も応じてやる。
「そうだ」
「お姉様の具合はどうでした?悪くなったりしていませんでしたか?」
不安そうに、その幼い顔を曇らせる薫。そういえば、薫はここのところ、鮮の部屋には行っていないのか。最初の頃は、部屋が近くだから鮮の様子を見ていたようだったが。彩が忠告をしたせいか、それとも彩が鮮の部屋にいるようになったせいなのか。
「変わりない。ずっと調子がいいみたいだ」
薫だって、今朝の鮮の様子は見ている。だから、彩が返すのもこれで十分。
途端、ぱあっと薫の顔が明るくなる。……こういう感情の起伏の激しさは、彩にはないものだ。
「明日も良いままなら、お姉様も一緒に食事ができるんですよね」
ああ、と彩は頷いてやる。薫の表情は、わかりやすいくらいに喜色に満ちている。
「良かったです。新年からお病気なんて、もったいないですもの」
「もったいない?」
薫の発言の意味がわからなかったから、つい彩は訊き返してしまう。
はい、と薫はさも当然とばかりに解説を返す。
「初詣も行けませんし、それに、おせち料理も食べれませんし」
なるほど、そういうことか。納得し、しかしそれはあり得ないと、彩は訂正を入れる。
「どちらにせよ、来年の祝い事はなしだ。父さんが亡くなったからな」
「ああ、そういえば喪中でした。年賀状を出さないというのは知っていましたが、そうですね、お祝い事をするのはおかしいですね」
話題が尽きたのか、食事のほうに集中力を戻す薫。
今年最後の夕食。出てきた料理は、当然のように年越しそば。屋敷は洋館なのに、ここは和風なのかと思いつつ、だからといって不平もないので、彩は黙々とそばをすする。
……今年も、もう終わる。
世間では節目とされる日時の一つだが、響彩はこういうイベントごとに、特別意識を向けない。というより、興味がないといったほうが正しいか。
――どうせ、なにも変わらない。
年が変わっても、三樹谷夫妻が彩を無視するのは、変わらない。響彩が周囲の連中を無視して、そんな孤立した彩を攻撃する輩も、なくなりはしなかった。
それが、響彩のこれまでの日常。
彩自身がそれを変えようとしなかったのも、要因の一つかもしれない。――だが、それのなにがいけない?
響彩という異端児――異能者。感覚しただけで、あらゆるモノを破壊してしまう。そこに、彩の意思も、選択権もない。ただ、感覚したという一点だけ。それだけで、彩は無差別に、破壊する…………。
だから、彩はあらゆるものから関心を排除した。誰かに近づくことも、拒絶した。そうすれば、響彩はなにも破壊しなくて済む。なにも得られない彩の、それが唯一の抵抗――――。
しばらくして、黙っていた薫が再び彩のほうへと振り返った。困惑したように眉根を寄せたまま、
「……いいことが思い浮かびません」
なんて、素直に漏らす。……本当に、薫の性格とは相容れない。
――静寂を尊び、他人を寄せつけないようにしてきた彩。
――賑やかなことを好み、誰とでも打ち解けようとする薫。
彩は溜め息を吐き出し、半目のままに返した。
「無理に話を続けようとしなくていい。鮮が元気になれば、こんなふうにお喋りするのも禁止されるんだから」
「ああ、そうでした……。じゃあ、いまのうちにたくさんお話をしておかないと……」
なんて、会話を続けるために話題を考え始める始末。
……本当に。
彩は溜め息を漏らしつつ、食事に専念しようと心がける。
相容れないな……。
「どう?久し振りのティータイムは?」
再は自分の紅茶を一口飲んでから、対面する彩に向けて微笑を振りまく。
夕食後のティータイム。鮮が病気になってからは、なくなってしまった習慣。鮮はまだ自室で食事を取っているから、リビングに彼女の姿はない。代わりに、彩の前に座っているのは猪戸再。――鮮の定位置に、彼はなんの抵抗もなく腰をおろしている。
彩の前には、再が淹れた紅茶が置かれている。ルビー色の水面。揺らめき、明かりを反射する白を刻々と変える紅茶を、しかし彩は一瞥もくれない。それ以前に、彩はカップに触れてすらいない。
「別に、なにも」
じっと再と対峙したまま、彩は返した。
いつも通りに無愛想を貫く彩に、こちらもいつも通り、微笑を讃えた再が苦笑を漏らしながら応じる。
「まあ、僕もお茶の違いがわからないから、なんともコメントしかねるね」
所詮、使用人だから、と再は紅茶をもう一口。味わっているというよりは、喉を潤すていど。あるいは、手持無沙汰を埋めるための行為か。再はずっとカップを持ったまま、しかし紅茶を飲むのは会話の合間合間、といったていど。
「で、用はなんだ?ただお茶を飲んで時間を潰そう、ってわけじゃないんだろう?」
もともと、お茶に誘ったのは再のほうだ。話があるから残ってほしい、とかなんとか。で、実際にリビングに行った途端、お茶を出されてずっとこんな感じ。……まるで、話を始めようとしない。
再は、今度は紅茶に口もつけず、表情をさらに歪める。
「まあ、そうだね。用は、あるよ。もちろん。……ただね。色々と微妙な話だから、どう話したものか、ってね」
弄ぶように紅茶を回すこと、十秒。再は、結局紅茶に口をつけることなく、そのままカップをソーサーの上に戻した。
「……考えていても始まらないか。じゃあ、話すよ。――彩。君はいまの鮮様の容体を、どう思う?具体的に言うと、このまま治るか、否か」
彩にとって、その問いは考えるまでもなく自明だった。だが、再の意図を読み取るべく、ワンテンポ遅れて、答えた。
「治ると思ってる。今日の検査でも異常はなかったんだ。おまえだって、それは見ただろう。一緒に染衣の説明を聞いたんだから」
ああ、と再は頷く。
「先生の説明は、僕だって理解している。鮮様の体に異常はない。このままいけば、明日には完治、の予定だ」
そう応えつつ、しかし再の口調はどこか懐疑的だ。……いちいち、語尾に残るものがある。
「でもね。君は一昨日の鮮様のご容体を知らないから、そんなふうに信じていられるんだ。一昨日だってね、鮮様は今日みたいに具合が良かったんだよ」
「それが、昨日急に?」
再が言いたそうなセリフを彩が先に口にしてやると、再は我が意を得たり、とばかりに、重々しく頷いた。
「明日も、今日のようにいいままかはわからない、というのが僕の実感だ。もしかしたら、鮮様の容体には波があって、回数を重ねるごとに悪くなるんじゃないか、って心配もしている」
「つまり……?」
彩は本題を促した。猪戸再が、本当に言いたいこと。わざわざ彩を呼びとめた、その理由。
うん、と。再は言葉なく頷いた。
「仮定の話だ。――もしも鮮様のご容体が悪化したら?――もしも、響崇様と同じ道を歩むことになったら?」
仮定の話――。もしも、鮮が…………。
「――――それを考える意味があるのか?」
低い音が出た。
ギクリ、と再が身を引いているのが見える。が、彩にはそんなこと、どうでもいいことだった。
仮定の話――。
――それすら、彩には許容できない。
彩の声音と視線に気圧され、しかし、再もいつまでも怯んでなどいない。口元を引きつらせながらも、なんとか声を出す。
「前当主の崇様が亡くなられて、いま、鮮様が響家の当主になっている。響家には、当主が必要だ。一族をまとめるという、重要な役割がある」
響の一族――。そこには、響から派生した親戚たちも範囲に入る。古くからの繋がりでは、染衣もその一つ。当然、響に連なる一族は、他にも数多く存在する。
「崇様の代でこの屋敷で暮らしていた親戚の方々を、鮮様は追い出してしまわれたから、君は実感が湧かないかもしれない。でも、響の一族というのは巨大だ。この町はもちろん、他の町にだって、影響力を及ぼすことができる。基盤となる医療関係は当然として、企業や、政治にだって。――――そういう一族なんだ、響家は」
「それで、おまえは次期当主を早々に決めておきたい、と?」
再の口元がわずかに吊り上がる。彼は癖で、よくこんな表情を見せる。
「理解が早くて助かるよ。本当は、鮮様に次期当主を指名していただくのが筋だろうけど。鮮様は現在、重病。……ああ、もちろん、完治の兆しが見えている、というのはあるよ。でも、だからこそ、鮮様にお伺いを立てるというのは気が引けてね。もう良くなりそうだというのに『次期当主は誰になさいますか?』なんて」
響家の次期当主――。それは当然、響の名を持つものだ。どれだけ響に近しかろうと、親戚の人間では、その役を任せられない。そうなると……。
「だったら、なぜ俺にだけこんな話をする?次期当主候補なら、他にもいるだろう」
「薫様はまだ小さいからね。まずは、君の意思を確認しておきたくて」
薫は小学生で、先週十歳になったばかり。その歳で響の一族、次期当主、なんて話は荷が重すぎる。
が……。
……関係ないだろう。
彩は、そんなものは無関係だと思う。
むしろ、薫は幼少の頃から響としての教育を受けている。――医者の家系。その事実を、薫は正しく教えられている。
彩とは違う。彩は、まだ屋敷にいた小さい頃、そんなことは一言も知らされなかった。勉学は続けてきたが、医学書だけは隠蔽されてきた。つい最近、響家に戻ってから、そんなことを聞かされたていど。
――いまさら、医者になる気もないしな。
すでに高校はおろか、大学の基礎教育も済ませた彩だ。いまから医学の勉強をしても、大学に入る前に十分な知識は得られるだろう。
しかし、彩はその必要性を感じない。……そもそも、響を継ぐとか、そういう考えを、まるっきり持ち合わせていないのだから。
ハッと吐き捨て、彩は口を開く。
「まさか俺に、次期当主になる、なんて言わせるつもりじゃないだろうな?響崇から勘当されていた、この俺に」
自嘲じみた彩の言葉に、しかし再は予想とは違う反応を示す。さも、同意を示すように微笑を湛え、
「うん。言わせるつもりはない。――むしろ――そんな発言はしてほしくない」
そう、断言する。
「理由は、いま君が言ったとおり。――先代の当主から追放された人間を次期当主にするなんて、そんな危険な真似、僕はするべきではないと思っている」
怪訝と見返す彩に、再は丁寧な解説を添えてくれる。
「鮮様が君をここに呼び戻すと言ったときもね、親戚の人たちは反対したんだ。猛反対、と言っていい。先代が追放した人間を呼び戻すなんて、ってね。……それを、鮮様は強引に押し切った」
ついでに親戚の人たちも追い出すなんて暴挙をやってくれて、なんて、再は苦笑を漏らす。それは、心底理解に苦しむ、といった、老執事の素振りだ。
「いまの響家はね、鮮様による独裁政権で成り立っているんだ。まあ、いまのところ成り立っている、ってところだけど。当然、追い出された親戚の方々はいい気分じゃない。いつかやり返してやろうと、その機会を狙っている」
そんなところに、と再は語気を強める。
「今回の鮮様のご病気だ。まだ、親戚の方々にはご一報を入れていないけどね。まだ状態がはっきりとしないし、ちょうど年末年始に入った、というのもあるし。で、もちろん、このまま鮮様のご容体が安定すれば、それで終わり、なにも問題はない。でも『仮に』鮮様にもしものことがあれば、その次は、一体誰が立つべきか?」
誰が立つべきか――?
疑問の形をとってはいるが、再の意図は明白だ。
彩も、その考え方に異論はない。いや、賛成と言ってもいい。崇に勘当された自分が響の当主になるなんて、とても考えられない。そもそも、こんなふうに響の屋敷に戻ってこれるなんて、思ってなかった。彩はずっと、三樹谷家にいたはずだ。もちろん、いつかは追い出される、なんてことは承知の上で。大学か、就職のときか。仮屋は所詮、仮屋だ。響彩が存在を許される場所なんて、最初からなかったんだ。
だから……。
「――――くだらない」
「え――?」
彩は、吐き捨てる。再の当惑した表情が見えるが、そんなこと、知ったことじゃない。
「くだらない、と言ったんだ。次期当主だとか、響の一族だとか、そういうのがそもそも、くだらない」
鮮のやったことは、確かに横暴だったろう。だが、それは昔からの『響』というものに固執した人間の考え方だ。
今後の響の在り方を決めるのは、現当主。いや、当主という呼び名も、いい加減、なくなればいい。
鮮は、決めた。だから、彩はここにいる。親戚連中がいたとか、そんなものは、すでに過去だ。鮮が、そう決めたんだ。――家族は一緒にいるべきだ、と。
そこに、他人の介在は認めない。無関係な連中が無遠慮に関わってこようなんて、そんなものはおかしい。……そう、鮮は決めた。
当惑、いや、狼狽したように、再の眉根が寄る。
「それで済まされないんだよ、響家ではね。ちゃんと、他の人たちも納得してもらえる形で当主を決めないといけない。そうしないと、回っていかない」
「そんなこと、おまえが心配するまでもなく、鮮が心得ている」
再の口元が引きつる。その耐えられない不満を、再は口にする。
「僕は、万が一を考えて……」
「それくらい、鮮だってわかっている。あいつは、先代の跡を継いだんだから」
「……鮮様のやり方は、少々強引なんだよ。親戚の方々も、鮮様のなさっていることには、納得していらっしゃらない」
「だからどうした?それがいまの響の在り方だろう。そう、鮮が決めたことだ」
彩は立ち上がる。こんなこと、いつまで話していたって、意味がない。……こんなこと、彩たちが勝手に決めることじゃ、ない。
リビングを出ていこうとする彩に、再も慌ててソファーを立った。
「おい。話はまだ終わって……」
「無意味だ」
扉を開け、リビングを出ようとした直前で、彩は振り返った。再は、テーブルを避けて彩を追いかけようとした途中で止まっている。いや、彩に睨まれて、足を止めてしまったのか。
彩は平坦な声で、その続きを口にした。
「全ては、鮮が決めることだ。俺たちがどうこういって、決めるものじゃない」
「……全責任は、つまるところ鮮様にあると?仮に、万が一があったとしても?」
彩の両目が、自然、さらに細くなる。対する再は、硬直したまま動かない。表情も強張ったまま変わらないから、一体なにを思い、感じているのか、定かではない。
……いや。
確かに、彩は二日前の鮮の容体を知らない。どれだけ彼女の体調が安定していたのか、実際には見ていない。
鮮が当主になったとき、彼女が親戚たちに向かってどんな態度を示したのか、彩は知らない。それに対する、親戚たちの反応も。
――今まで平然と暮らしていた場所を追い出される。
――前当主に勘当されていた人間を再び屋敷に呼び戻す。
どれほど不満を感じているか、そんなものは想像するしかない。しかし、情報がないからそんな想像も大して役に立たない。彩は幼少の頃、ずっと西館に押し込められていて、本館には入ったことがないのだから。
再の危惧は、彩にはわからない。だからこの話も、再にとっては重要なことかもしれない。それは、彩だってなんとなくわかる。が――――。
「――――おまえは、信じることができないのか?」
唖然と、再の表情が止まった。
それ以上、言うことはないと、彩はリビングをあとにした。二階へ向かう階段を上り、自室に向かいながら、彩は再の表情を思い返していた。
――再が驚くのも、無理はない。
だって。
彩自身、あんな台詞を吐くのはらしくないって、わかっているんだから――。
「失礼します。彩様、ベッドメイキングに参りました」
扉が開くと、連は一礼して彩の寝室に入ってくる。言葉通り、連の腕には白いシーツがかかっている。
一カ月もこの屋敷で生活しているおかげで、彩もこの対応には慣れたもの。隣の椅子に座って本を読んだまま「ああ」とだけ応じる。視線は、ずっと本に向けたまま。いま読んでいるのは、地下の図書室から借りたサドの続き。ここのところちっとも読書に専念できなかったせいで、いまだにハードの本を読んでいる。いつも通りのペースなら明後日には読み切れるが、いつも通りに読書の時間が取れるかは、わからない。
すぐ隣では、連がテキパキとシーツの交換を行っている。いつもなら無言のまま作業を終える連が、しかし今日は珍しく、仕事をこなしながら彩へと声をかける。
「彩様」
「なんだ?」
珍しくはあったが、しかしそのていどで彩は集中力を乱さない。視線は本に向けたまま、声だけで連に応じる。
そんな彩の無愛想に、しかし連は気にした様子もなく、あくまで作業をしながら、話を続ける。
「彩様は、昨日と今日と、ずっと鮮様の看病をされていましたね。あと、お屋敷を空けられた前の日にも。それ以前には、鮮様にお近づきになろうともしていませんでした。鮮様が最初に病院に向かわれたときも、彩様は一人でお屋敷に残られました」
「…………」
彩は本に視線を向けたまま、黙って連の一人語りを聞いた。だから、連も勝手に、好きなように話を続ける。
「わたしは最初、彩様の態度にショックを受けていたんです。鮮様がご病気だというのに、ずっと平気なように見えましたから。わたしがお誘いしても、彩様は鮮様のお傍に向かおうともしませんでしたから」
でも、と。連の言葉は途切れず、続く。
「彩様は、本当は鮮様のことを、とても心配に思っていたのですね」
彩はページをめくる。視線は、一向に本の上に置いたまま。
「地下室から医学書を借りられて、鮮様のご病気のこと、調べていらっしゃったんですよね。お屋敷を空けられたときも、なにをなさっていたのかは存じませんが、鮮様のため、だったんですよね。だって、彩様が戻られてからずっと、鮮様のお傍にいらっしゃったんですから。それに、戻られた日に彩様がまず向かわれたのは、鮮様のもとでしたから」
彩はしおりを挟んで本を閉じた。開いたページの半分も読んでいないが、一応、区切りが見つかった。書簡形式だから、手紙と手紙の境がそのポイントになる。
本を抱えたまま、彩は首だけを連のほうへと向ける。ベッドメイキングを終えて、連はじっと、彩のことを正面から見ている。
「わたしは、とても安心したんです。彩様は、決して無関心なのではない。彩様は、鮮様のことを心から案じていらっしゃる、って」
「そんなもの、おまえの勝手な想像だ」
ようやく、彩は連の言葉に割って入った。いい加減、一方的に勝手なことを話されるのも、耐えられなくなったからだ。
「医学書を持ち出したのは、染衣と話すときになんの知識もないままでいたくなかったからだ。鮮の様子を見たのも、染衣に正確な症状を伝えるため。屋敷を空けたのは、俺個人の理由だ。……鮮は、関係ない」
彩の反論を、果たして連はどう受け取ったのか。彼女はやんわりと微笑んで、なにか得心がいったように頷き返した。
「そうですね。いまお話したことは、わたしの勝手な想像です」
そんな連の笑みに、彩はただただ憮然とする。これ以上、彩がなにを言っても無駄だし、なにか言うごとに状況が悪くなる一方だと、彩も気づいているから、黙っているしかない。
と、連の表情が反転したように、曇る。
「でも今朝から、その安心が、逆に不安になってきたんです」
意味がわからず、彩は目を眇める。そんな彩の態度を見ているのかいないのか、かまわず、連は言葉を続けた。
「彩様は、鮮様のために少々ご無理をなさっています」
「そんなことはないが。どうして、そう断言できる?」
「だって……。彩様、ご自分のお顔を鏡でご覧になられました?」
彩は大きめに息を吐き出した。
……ああ、そのことか。
日中、鮮にも指摘されたことだ。だから、彩は自室にある鏡には、見向きもしない。連に指摘されるまでもなく、彩は自分の顔色を把握している。
「少し寝不足なだけだろう」
「少し?」
すかさず、連が反応を示す。彼女の表情が、見る見る青ざめていく。
「そんなふうに簡単に済ませられる状態ではありません、彩様。……彩様は昨日からお休みになられていませんよね?」
疑問の形をしているが、それはもはや断定に近い。連は、確信をもって彩に訊いている。
だから、彩も誤魔化せない。目を半目に落として、低く連に問う。
「……気づいていたのか?」
途端、連は困惑したように俯いて「いえ……」と漏らす。
「なにをなさっているのかは、わたしも存じません。ただ、あまりにも顔色がよろしくないので、つい…………。でも、彩様が昨日からずっと起きてらっしゃるというのは、確かなのですね」
そう、急に目を険しくする連。
……鎌をかけたのか?
連にしては珍しい。そんな器用な芸当ができるとは、彩も思っていなかった。
だが、事実は変わらない。それに、すでに手遅れだ。彩は溜め息を吐き出し、不満と諦観を隠しもせず、連に向き直った。
「確かに、俺は昨日からずっと寝ていない。だが、それは確かめたいことがあったからだ。で、因果関係はまだわからないが、それなりの成果が出たと思っている。――今朝、鮮の容体は良くなっただろ?」
きょとんと、連は両目を瞬かせる。
「鮮様はご病気ですよね?彩様がなにか治療をなさった、ということですか?」
彩は答えない。別に、理解してもらおうとは、彩も思っていない。ただ、連の中で納得がいけば、それでいいだけ。
だが、連もそこまで馬鹿ではない。理解できず、ただただ狼狽を言葉にする。
「そんな……。お医者様でも鮮様のご病気はわからないのに……?」
「俺だって、鮮の病気の正体はわかっていない。まだ、憶測の範囲だ。――だが、効果はある」
そう、断言してみせる。
効果があったらしく、連の狼狽はぴたりと止まり、硬直してしまう。だから、彩は一拍おいて、畳みかける。
「あと一晩だ。それで、鮮も完全に良くなるだろう。明日の検査で、それをはっきりさせる。……そうすれば、俺も夜更かしする必要はなくなる」
それが、響彩の決定。今晩も、彩は鮮の寝室を見張る。鮮や連が心配しても、それは揺るぎない。
彩の態度に、連も反応に窮したように黙り込んでしまう。五分近く悩んだ末に、連はようやっと、口を開く。
「それは、彩様の代わりにわたしがやっても、大丈夫なものですか?」
彩は、一瞬返事に遅れた。だが、それは悩んだわけではない。悩むまでもなく、返答は決まり切っていたから。……ただ、連の申し出が意外だっただけで。
「無理だ」
はっきり、彩は断じる。
――まだ、誰が襲撃者なのかわかっていない。
襲撃があるのは、たぶん間違いない。だが、犯人が誰なのか、までは彩も掴めていない。
……そもそも。
彩だって、その容疑者の一人なのだから……。
彩が眠りに就くのは、あり得ない。そんなことをして意識を手放してしまうのは、もっての外だ。
だから、彩は起きているしかない。起きて、鮮の寝室を見張っていなければならない。屋敷の外から、寝室の窓を――。
それからも何度かの説得があったが、最後には連も諦めざるを得なかった。せめてもの協力と、連は見回りの時間を教えてくれた。「いつも通り、昨日と同じ時間です」と。彩はただ「そうか」と頷きを返すだけ。連の遠ざかっていく足音が聞こえなくなって、彩はようやく閉じていた本を開いた。
外気に浸っていても、響彩は寒さというものを感じない。十二月の深夜であっても、彩は特別な防寒などせず、普段着のままで屋敷の外にいる。いや、すでに翌年の一月か。除夜の鐘を大分前に聞き終えた。
風はないから大丈夫、というわけではない。真冬の深夜に、防寒もなしに外にいるなど、普通の人間なら考えられない。彩が寒暖を感じないからこそ、できる芸当なわけだが。
時計がないので正確な時刻はわからないが、そろそろ丑三つ時になった頃か。普段の散歩なら、すでに部屋に戻っている時刻だ。
彩が寝室の窓から外に出たのは、昨日と同じ頃。猪戸兄妹の見張りがなくなり、屋敷の人間が眠りに就いた頃。昨日と同じく、彩は鮮の寝室の窓が見える位置に陣取っている。隠れようとはしていない。むしろ、彩という存在が目について、襲撃者が外を出歩くのを控えてくれるなら、彩はいくらでも的になるつもりだ。
――そのために、見張っているんだから。
夜な夜な、鮮の寝室に侵入する襲撃者。それは、きっと寝室の窓から侵入している。屋敷の外壁を伝って、だ。
証拠は、ない。根拠は、彩が見た夢。――道の上を歩き、空を見上げる視点。そこは道などではなく、屋敷の壁だ。鮮の部屋は二階だから、落ちたらひとたまりもない。だが、その視点はなんでもないように、壁を伝っていた。実際、彩だって壁伝いに外に出られた。響の屋敷は古城のような洋館で、その壁は煉瓦でできている。隙間を見つけて指を差し込んでいけば、上り下りは可能だ。
――それを、一体誰がやっているのか。
それは、彩も知らない。彩が夢で見たのは、そいつの視点だけ。そいつが寝室に入ったときも、それは鏡を見ていなかった。だから、そいつの正体がなんなのかは、まだ不明……。
……まったく、証拠にならない根拠だ。
そもそも、根拠とすら呼べない。それは直感に近い。彩の思い込みと、そう言われても仕方がない。それでも、彩は信じる。その思い込みに、賭けてやる…………。
――響崇も、そいつに殺られたのか?
少なくとも、響崇は十年前からの呪いを疑っている。響奏を殺し、そして響崇を病死に見せかけて殺した、響の呪い……。
その呪いを、響崇は鮮に断ってほしかったんだろう。だから、遺言という形で鮮に伝えようとした。まさかそれが、呪いの第一容疑者に知られようとは、思ってもいなかっただろうが。
「はぁー…………」
吐き出した息は白い。当然だ、いまは真冬で、一月になったばかりの深夜。十年振りに実家で迎える新年が、まさか屋外とは思っていなかった。
もとより、彩は初詣なんて行かない。あんな人混みだらけの場所、好き好んで行く彩ではない。三樹谷夫妻からも特別の注意を受けたことがないから、彩は留守番を務めていた。町中なんて、とても出歩ける状況ではない。どこへ行っても人だかりで溢れるのが正月というものだ。
――今年はお参りをしなくてすむが、次の年はどうなるんだろうか。
年末に年越しそばが出るんだ、新年は初詣やおせちというのが通例なんだろうか。彩が西館にいた頃は、そういう習慣はなかった。もっとも、彩を軟禁していたのだから、そんなイベント、やる意味もなかっただろうが。
――鮮は、どうだろうか。
薫の誕生日会は開いた。もしかしたら、初詣も行くのかもしれない。だったら、そればかりは遠慮したい。いくら感覚遮断ができるとはいえ、自ら人混みの中に入ることは、できるだけ避けたい。
「――――」
息を吐き出し、自分の右手を目の前にかざし見る。白い手袋は、まだしている。いや、普段からずっとしているものだ。唯一の例外は入浴時だが、それも、風呂から出ればすぐにつけてしまう。必要なとき以外は外してはいけないと、十年前に教わった。
――そう、必要なときだけ。
まだ、そのときではない。
辺りは静かで、なんの異変もない。このまま、なにごともなく夜が明けてくれればと、そう願う。
実際、今夜もなにもないかもしれない。最後に襲撃があったのは、おそらく一昨日。彩が響の屋敷に戻ったとき。その前後、彩が夜中に屋敷を出たときと、見張りを始めたときには、鮮の容体は悪化しなかった。
――つまり、鮮を襲う何者かがいたとしたら、そいつは他の人間の目があるときには動かない、ってわけだ。
なら、彩は今夜だけ見張っていればいい。明日になれば、鮮も入院する。染衣の病院なら、彩も十年前に入院していたから、構造がわかる。あそこなら、この屋敷と違って、窓の外から侵入することもできまい。
夜中には、看護師たちの見回りもある。もっとも、小学校に上がる前の彩が抜け出せたのだから、完璧とは言えないかもしれない。それでも、すぐに彼らの見張りを突破されることはないはずだ。しばらくしたら、彩か猪戸兄妹が泊まり込みでもすればいい。
……ああ、鮮が駄々をこねるかもしれないな。
検査入院ですら、断り続けていた鮮だ。本格的な治療が始まっても、拒否する可能性が高い。
だが、今回ばかりは彩も鮮を説得しよう。毎晩、誰かが近くで泊まってやると言えば、さすがの鮮も折れるだろう。いや、泊まり込むなんて言ったら、気位の高い鮮は余計に拒否してくるだろうか。
――だったら、心配かけさせずに、素直に入院しろと、そう言ってやろうか。
自然、彩の口元は緩んでいる。
もちろん、明日になって鮮の容体がさらに良くなっていれば、彼女が入院することはない。朝食だって一緒に食べられるし、お茶の時間だって、また再開される。
だから、今夜だけ――。
気晴らしに白い息を吐き出して、
――ソレは無防備な獲物に照準を合わせた。




