七章
彩は森の中にいた。どうやら、響の敷地の中らしい。木陰に腰かけた彩は、しかし普段よりも視点が低い。ぐらりと視界が揺れると、隣で座っているのは再だった。……それも幼い、十年前に戻ったような。
再は何事か喋っているようだが、ノイズ交じりでよく聞き取れない。――きっと、記録が破損しているんだ。
そう、すんなりと理解してしまう。――ここが、夢の中である、と。
しかし、こんなふうに記録が壊れているなんて、初めてだ。場面としては、十年前、彩がまだ響の屋敷にいた頃だ。再とこうして会うようになったのがその頃だから、間違いない。
……なら、鮮たちもいるのか?
それを確認したくても、身体は動かず、首さえ自由にならない。……当然だ。これは彩の内に蓄積された記録。すでに起きてしまった事実だから、現在の彩の意識からは変えられない。
と――。
――男の悲鳴が轟いた。
再の言葉にはノイズがかかっているのに、その悲鳴だけは少しの歪みもなく、はっきりと聞こえた。
ハッと、目の前の再が声のした方角へと振り返る。いままで生彩を欠いていた線画のような風景が、途端に色づき、活気づく。――まるで、ここからがこの記録の本番だとでも告げるように。
「なんだろう、いまの声」
遠くからの音にも関わらず、彼女の声はしっかりと、彩の記録の中に刻まれていた。視界がぶれ、彩の視点は向こうの木陰で休む少女たちのほうに固定される。
…………十年前の、鮮と連。
声を上げたのは、連だった。まだ使用人ではなく、あくまで使用人の子どもでしかなかった頃。無理矢理、彩を外へ引っ張り出した押しの強い少女。
「あっちからだよ。ね、行ってみよ」
相手の意見など聞かず、連は鮮の手を引っ張って森の奥へと走り出した。鮮は同意も拒否の意見も言えず、ただ動揺したまま微かに声を漏らすばかりで、そのまま連に連行されてしまう。
響の次期当主として、両親に愛された少女。人形のようにドレスで着飾った彼女は、森の中で遊ぶ四人の子どもたちの中でも、浮いていた。
少女たちが森の中へ消えてしまうと、隣に座っていた再が慌てて立ち上がって、声を張り上げる。
「おい!連!」
だが、走り出した連がそんなもので止まるはずもない。彩のほうへと振り返った再の顔にいつもの微笑はなく、眉根を寄せて深刻な色を見せていた。
「まずいな。二人を追いかけよう」
再の提案に、彩も「ああ」と応じて見せる。
まずい――と漏らした再の言葉の意味を、彩は正確に理解している。連が連れていった鮮は、本来、屋敷の外にいるはずがないのだ。彼女は自室で勉学に励んでいなければならない。それを、猪戸兄妹がこっそり外へ連れ出している。
その事実を当の連だって知っているはずなのに、しかしいまの彼女はそんなこと、気にもかけていない。突発的に生じた悲鳴に心奪われ、周囲の状況など、まるで見えていないのだ。
そして、もう一つ――。
これは、より根本的な問題。
――悲鳴の先にあるのは、危険だ。
悲鳴を上げた主は、きっと使用人の男性だ。大の男が悲鳴を上げるような事態なんて、かなりヤバいということはすぐにわかる。あるいは、すでにヤバいものを見て、男は悲鳴を上げただけなのか?それなら、まだいい。連と鮮が男の前に飛び出して、鮮は屋敷に連れ戻され、連は怒られるだけだ。それなら、彼女たちに危険はない。
……危険?
なぜ、彩はそんな事態を想像している?危険なんて、あるはずない。ここは、響の屋敷の中だ。部外者が無許可に立ち入ることなど、できはしない。危険を撒き散らすような不審人物を、響がそう易々と通すはずがない。
彩たちは、先を行く連たちに追いつこうと必死に走る。が、その後ろ姿はちっとも見えない。彼らが走る場所に道はなく、木々が生い茂る隙間を縫って走っているせいで、あまり速度が出ない。それは、先頭の少女たちも同じだろうが、外で遊ぶことに慣れている連には、それほど障害にならない。お荷物であるはずの鮮も、どうやら連に引っ張られるまま、素直に従っているみたいだ。
不意に、再は足を止めた。追走していた彩も、彼に従って立ち止まる。
「まったく、どこへ行ったんだ」
どうやら、再は彼女たちを見失ってしまったらしい。彩の記録だと、この先をしばらく進むと、整備された大きな道に出てしまう。隠れて遊んでいる身からすれば、あまり出てはいけない場所だ。そんな場所に、連が不用心に通ったとしたら、ちょっとした騒動が聞こえてきそうだ。が、それもない。
困惑したように振り返った再に、彩は森の奥を指し示してみせる。
「あの悲鳴は、向こうから聞こえた」
再の口元が微かに吊り上がる。
「ご指摘ありがとう。でも、連もそっちに行ったかな?」
再の疑問ももっともだ。だが、連たちがいた場所のほうが声に近かった。それに、連なら障害物なんて気にせず、真っ直ぐ目的地に向かっただろう。再は、そういう点では、安全なほうに進もうとして、結局道を誤ってしまった。
そう、彩が自身の解法を示そうとした、とき――――。
――――また、悲鳴。
二人は同時にその方角を見る。今度は、もっと近く。どうやら、途中のルートを間違えただけで、それほど大きな誤りは犯してなかったようだ。
だが、二人は少しも安堵などできなかった。なぜなら――――――その悲鳴は――――――連のものだった。
「向こうか!」
再の叫び声が背後から聞こえた。彩のほうは、再が声を上げるより前に、すでに走り出していた。もう、振り返らない。事態は、彩が予感していたとおりに、危険なものだった。
聞こえたのは、連の悲鳴だけだ。最初に聞こえた、男の声はもう聞こえない。男も、近くにいるんだろう?なぜ、連が傍にいるのに声が聞こえない。まさか、小声で話しているわけではあるまいし。
それに……。
どうして、鮮の声が聞こえない?連のすぐ後ろにいたはずだ。彼女の声も聞こえないと、おかしい。
……鮮!
もう、それほど距離はないはずだ。なのに、木々が邪魔をして真っ直ぐ走れない。もどかしい。苛立ちが募る。
――ああ、そうだ。
当時は、まだ感覚遮断なんて身につけていなかったから。まだ、彩の破壊も酷くなかったから。……だから、まだ彩も人間らしい感情を持っていた。
――莫迦を言え。
なにも感じなければ、感情は消えるのか?感覚を殺し続ければ、心は死ぬのか?
――同じなんだ。
――十年前も、現在も。
だから、彩は知りたい。あのとき、本当はなにがあったのか、を。これは、彩の記録だ。崇の記憶じゃない。いままで喪われていた、彩だけの記録。十年前、事故だと教えられ続けたあれは、本当はなんだったのか。本当に、彩が元凶なのか。それを、彩は自分の目で――――。
視界が晴れた。どうやら、森の中に用意された空間の一つに出たらしい。まず目につくのは、噴水。家の敷地内に噴水まで用意するなんて、さすが大富豪。
――いや、いまはそんなこと、どうでもいい。
その噴水の向こう側に、人の姿が見える。いや、あれは……。
……鮮。
無事な、彼女の姿。横顔しか見れなくて、彼女も、彩のことなんて、目に入っていない。まだ怯えたように腕を胸の前で組んでいる。
けれど――。彼女が無事だと。まだ無事でいてくれたのだと。そう理解して。思っただけで。彩の焦燥は、消し飛んだ。
――ああ。
が――。
噴水の飛沫から、その影が姿を見せる。正面から返り血を浴びたように、全身血塗れの、それは確かに人だった。が、それは人の形をしているというだけで、本当に人なのだろうか。服も、腕も、顔も、髪の先まで血塗れで、しかし、その影は平然と、鮮へと近づいていく。――まるで、次の獲物を求めるかのように。
「……!」
彩は駆け出した。噴水の淵に沿って弧を描くように。一直線に進めないのがもどかしい。鮮に迫る怪物が一歩、また一歩と近づくのが嫌でも見えてしまう。血塗れの、その顔。たったそれだけで、その顔は怪物じみて見える。……とても、同じ人間だとは思えない。
「鮮……!」
彩は手を伸ばし、そのまま飛び込むようにして鮮を抱えて、血塗れの人影から距離を置く。間一髪。もう少しで、鮮の白い顔に、赤く濡れた指先が触れるところだった。
「鮮!」
連の絶叫が聞こえた。振り返ると、木々のすぐ前に連が立っていた。きっと、連は怪物を目にしてすぐに逃げ出せたのだが、鮮のほうは恐怖のあまり固まってしまったのだろう。
彩が人影のほうへと一瞥してから、鮮を引っ張り起こして連の元へと駆け寄った。
「鮮を連れて、さっさと逃げろ!」
「……!……うん……!」
鮮を連に押し付けて、彩はすぐに人影の前へと駆け戻る。……二人が逃げるまで、時間稼ぎをしなきゃいけない。
なのに……。
背後で、我に返った鮮が声を上げ始める。
「ぇ……ぁ……そんな……!いや…………!」
連がなんとか鮮を連れて逃げだそうとしているが、鮮は駄々をこねてばかりでちっとも動こうとしない。
――なにやってんだ……!
内心で悪態を吐くが、振り返る余裕はない。
目の前の人影は、それほど背は高くない。といっても、当然、子どもの彩よりはずっと背がある。大人の女性くらいだろうか。確かに、髪も伸ばしている。だが、その表情はやはり異常だ。瞳は虚ろで、そもそも彩を見ているのか、あるいは背後の鮮たちを見ているのか、判然としない。
人影は、すぐに動こうとしない。彩が立ち塞がったことで警戒しているのか。そうなると厄介だ。無闇に突っ込んでくるのではなく、理性でもって攻撃をしかけてくる相手。硬直していた鮮に対しては、急ぐ必要がなかったから、ほとんど歩くような速度だった。だが、実際にはそうはいかないと、彩は警戒を緩めない。目の前に立つ相手は、少しも隙なんてない。身体能力も、見た目通りなのか、あるいはそれ以上か。厄介だ。未知の相手とやり合わないといけないというのは……。
……あの男は、どうした?
目の前の相手を牽制しながらも、彩は周囲の状況を観察する。最初に、男の悲鳴があった。なら、その男はどうした?うまく逃げ出すことができたのか?彩は、その楽観を即座に否定する。もしそうなら、逃げ惑う男の声が聞こえてもいいはずだ。だが、彩たちが鮮たちを追っているときも、こうして現場に駆けつけてからも、そういった気配はない。
なら…………。
ふと。
彩の視線が、それに止まる。
影の、背後。この開けた空間の、淵。木々が周囲を囲む、そのうちの、一本。
彼女は、木陰に倒れていた。まるで、木陰で休んでいるように、腰を下ろして。――――心臓の位置を、赤黒く濡らして。
――あれは。
男ではなかった。二十代の、若い女性。使用人たちのような恰好ではなく、薔薇色のドレスをまとった、モデルのような女性。
その美しく着飾った姿も、たった一つの汚点のせいで、全てが台無しだ。その赤黒い染みは、ただ濡れているだけではなかった。ぽっかりと、風穴が開いたみたいに、ドレスの布地が沈んでいる。
彼女にできた欠陥は、ただそれだけだった。彼女の美貌には一つの傷もなく、内から溢れた自分の血液を口元から零しているていど。
――――カ、ア、サ、ン、
年に数回しか会わなかった人。一方的に彩の部屋を訪れて、言いたいことだけ言って去っていく、身勝手な人。普段、どこにいるのかも知らない。きっと、屋敷にはいないんだろう、という理解だけはあった。いつも、派手な格好で現れる。今日も、普段と変わらずめかしこんでいる。
母親ではあったけど、正直、彩にとっては他人も同じだった。接点らしい接点もなく、互いに互いのことはなにも知らない。そう、彩が彼女のことを知らないように、彼女も、彩のことなんて知らなかったはずだ。あんな、一瞬会うだけで、彩のなにを理解してくれていたというのか。――だから、他人、だった。
はず、なのに――。
彩は、動けなくなった。その光景から、目が離せなくなった。どうしてだ。どうして、彩は血塗れのまま動かない水花の姿を凝視しているんだ?どうして…………。
「にいさん……!」
ハッと、彩は我に返った。目の前に、人影のどす黒くネバついた腕が迫ってくる。糸を引いた黒々とした滴が、まるで致死性の毒牙のように――――。
「……っ」
反射的に、彩はその凶器をかわす。勢いに任せて、芝の上を転がって相手と距離を置く。
かなり、際どかった。しかし、まだ油断してはいけない。追撃があるかもしれないのだ。彩は今度こそ警戒を怠らないようにと、素早く身を起こす。
が……。
相手は、彩のことを見ていなかった。人影は彩に襲いかかってきた勢いのまま、止まらない。――彩の後ろにいた、鮮のほうに向かって。
一秒かかって、彩はようやく事態を理解する。結局、連は鮮を連れて逃げ出すことができなかった。どころか、鮮が暴れたせいで、一メートル近くも木々の影から前に出てしまった。その隙を、敵は衝こうとしている――――。
「――――――――ッ!」
なにを叫んだのか、彩にもわからない。こんな大切なときに、記録は破損したせいで閲覧できない。だが、現在の彩だって、そんなことを気にしてなんかいない。重要なのは、彼女が助かったかどうかで…………!
――ドン。
と、衝撃。
上から、振り下ろされて。背中から、貫かれる感触。
外からの威力が、身体の内側まで浸透し。内を駆けずり廻り、末端まで拡散していく。
痛い、痛い、痛い!背中を起点に、腹まで貫通して、脚まで、腕まで、首を駆け昇り、頬の裏側、こめかみ、頭上まで。
その、感覚。痛みという感覚。身体中が、砕かれようとしている。衝撃、感触。それらが、響彩という個体を破壊し尽くそうとしている。触れた場所を中心として、その感触が伸びていく。触れられる、握られる、握って、潰される。そう、相手は潰そうとしている。無遠慮に、撫で廻る。這い廻って、包み込む。掌握される、身体中を、感触に…………。
――そう。
彩は、感覚する――。
ブチ。
と。
鈍い
音が。
背中で。
――――弾けた。
絶叫が聴こえる。それは、獣が激痛に悶える咆哮に似ていた。ビリビリ、という大気の震動で、彩はようやく自分の内から痛みが失せたことに、気づいた。
目の前で硬直する鮮や連たちのことなど忘れて、彩は呆と背後へと振り返った。
――怪物が、絶叫していた。
一撃をくらわせんと振り下ろした、自身の右腕。それが、通常の関節とは逆の方向に、九十度曲がっていた。さらに、腕の先へと目を向ければ、血塗れだった右腕は、手首の先から消失していた。
「…………」
わけが、わからなかった。襲われたのは、彩のほうだ。怪物の一撃を、彩は無防備な背中に受けたはずだ。あれほどの威力、彩は背中を貫かれたと錯覚した。実際、自分の胸から赤黒い腕が伸びていても、不思議ではなかった。
彩は、視線を自分の胸元へと落とす。なんともなかった。風穴が開いているふうでもなく、血糊で汚れているところは見られない。
……どうして。
疑問を抱いている余裕はない。怪物は咆哮を上げながら、再び彩たちへと襲いかかる。彩が障害になろうとも、もはやかまわない。三人まとめて八つ裂きにする腹か。
「――ッ」
彩は振り向きざま、自分の右腕を突き出す。回転が加わって、彩の手は人影の首元を押して――――裂いた。
「え――――?」
突然のことに、彩は呆けたように声を漏らす。
ごっそりと、シャベルで削られたみたいに、首と胸の間が抉られている。そこから、風船が破裂したように、紅が立ち上る。まるで、噴水だ。紅に染まった、噴水。
その光景を、彩は呆と見上げていた。髪に、頬に、目に降りかかってきても、たいして気にしなかった。身体中が血糊で汚れても、まるで意に介さず……。
……温かいな。
それが、唯一の感想。
人間の血液は、温かい。人の体温は、温かい。
だが、聡い彩は知っている。血液を喪えば、人は冷たくなってしまう。いまは冬だから、なおさら早く、体温は奪われてしまう。
……ああ、そうか。
いまは、冬なのか。冬だから、寒いのか。
あまり、意識したことがなかった。もともと鈍感なほうだから、そんなこと、気にしたこともなかった。
なのに……。
いまは、無性に暑い。暑くて、寒い。こんなにも、周りのことを感じ取れる。
ふと、彩は視線を落とす。もう、赤い噴水は上がらない。人影は上向いたまま止まっていて、もう、それが人影だったかわからないくらい、赤黒く染まっている。
ぴくりとも、動かない。動かず、熱が奪われていく。この寒さに、すぐに冷たくなってしまう。
……ああ。
ふと、彩は思った。
水花も、冷たく……。
――――ガォン。
衝撃を、聴いた。
グラリ、と躯が傾いで、視界が、墜ちていく。
なにも、聴こえない。なにも…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………なのに。
彩は跳ね起きた。起きたばかりでも、彩は自身の呼吸が荒れていることに気づいた。動悸も激しい。額も、薄ら汗ばんでいるだろうか。
「……うるせぇな。朝からなんだ……」
隣で佐久間の声が聞こえるが、かまってなどいられない。彩は目を閉じて、一度だけ深呼吸をして自身を落ちつかせる。
……慣れた行為。それだけで彩は、なにも感覚しない。
彩は目を開ける。そこは、佐久間の家の居間だった。いや、正確には佐久間の姉のものか。一部屋しかないから、居間もなにもないが。
――記録通り、か。
昨晩、彩は佐久間の家に泊まったから、この光景はなにもおかしくはない。だが……。
「おい。どうした?」
また佐久間の声が聞こえたが、彩はさらに無視して自分の右手を持ち上げて眺め下ろす。
白い手袋をはめた、自身の右手。十年近く、続けている行為だ。普段から肌身離さず、寝るときだって、外しはしない。唯一の例外が風呂に入るとき、という徹底ぶり。入浴後だって、長時間外すのは好まず、真っ先にはめ直すくらい。
――その手が。
紅く濡れる幻視を見る――。
一瞬のフラッシュバック。だが、彩は驚かない。動揺もしない。ただ、その事実を冷静に受け止めようと努めるだけ。
……初めて観る記録だ。
いままで欠落していた、十年前の記録。これまでその記録がなかったから、彩は自分が事故に遭ったと言われても、そう信じるしかなかった。
だが昨日、崇の記憶を暦から見せられて、それは嘘だったと知った。……そして、今朝の夢で、彩は自分の視点から、当時の記録を再び観た。
なぜいままで記録がなかったのかは、わからない。暦と接触して、記録が修復されたのか。もっとも、いまはそんなこと、二の次だ。重要なのは…………。
…………十年前の事件、あの犯人は、響奏――――?
彩の記録だけではわからなかったが、崇の記憶と照合すると、そういう解答に至る。だが、そうだとすると、まだ謎が残る。
――彼女は、身重ではなかったか?お腹も膨れ、そもそも、あの日に薫は生まれたのではなかったか。そんな状態で、彼女が人を殺せるだろうか?
確かに、彩が見つけたときには、彼女は血塗れだった。しかし、使用人を殺した瞬間も、響水花を殺した瞬間も、彩は見ていない。そんな記録は、なかった。
……なら、犯人は?
鮮や連ではないはずだ。彼女たちは、返り血を浴びていなかった。
では、やはり奏なのか?だが、どうやって?彼女は素手のみで、凶器など持っていなかった。なんらかの異能?だが、確か奏は異能者ではないはずだ。
それに……。と、彩は思考を付け足す。
響崇は、十年前の事件を響の呪いだと考えていた。それは現在まで続いていて、それが崇を殺し、そして鮮まで――――。
いや、それは崇の推測だし、彩の予想だ。だが、一カ月前に崇が亡くなり、鮮までも同じ症状を見せているというのは、単なる偶然か?
症状からは、SLEだと考えられる。自分で自分を壊してしまう、免疫異常の病気。……自己抗体が見つからないという異常を、度外視すれば。
――なら。
呪い――。
ハッと、彩は吐き捨てた。
呪いと言っても、別に目に見えないなにかに絞殺されるわけでもないだろう。空気感染、というなら、あの屋敷にいる全ての人間が当の昔に滅んでいる。
だが、実際にはそうなっていない。十年前は、惨殺死体が転がった。そして現在は、真綿で絞殺されるように、謎の病気で一人が命を落とした。もう一人も、同じように死に向かっている……。
崇の記憶だけなら、彩は自分が犯人だと思い込めた。覚えは、あるのだ。響の屋敷で観ていた、夢。誰かの部屋に忍び込み、誰かを殺そうとしていた夢。一瞬で命を奪ろうとはしない。少しずつ、少しずつ。それこそ、真綿で首を絞めるように、じわりじわり、と。
あれが、夢ではないとしたら?現実に、起きていることだとしたら?もしも…………彩が夜な夜な、鮮の部屋に忍び込み、彼女の体を少しずつ■していたら?
もしそうであったなら、彩はあの屋敷には居られない。響に舞い戻って来た呪い。それが、鮮の命を奪おうとしている…………。
だから、彩は家を飛び出したんだ。手袋をつけるのと同じ。触れただけで、壊してしまう。なら、誰も近づけず、誰かに近づいてもいけない。
……だが。
それは、本当に……?
確かに、彩は奏を殺してしまった。しかし、奏はそれより以前に血塗れで、彼女の様子は、助けを求めるそれではなかった。――虚ろな瞳。鮮たちを襲おうとした彼女。鮮たちを庇った彩に、彼女は容赦なく腕を振り下ろした。
――まるで、正気ではなかった。
水花が口走ったように、ドラキュラでも巣食っているのか?それとも、いまはカーミラか?どちらでもかまわない。もしも、響崇が考えるような呪いの大元がいるなら…………。
……それを、確かめないと。
失笑などしない。ただ自身の白い手を見つめたまま、その決意を固めるだけ。
彩はタオルケットを脇に退け、隣で横になっている佐久間へと振り返った。佐久間は、起き上がってなどいない。ただ、彩のほうへと首を向けたまま、怪訝と見上げ返すだけ。さも鬱陶しそうに見上げる佐久間は、それでいて律義に彩の言葉を待っている。だから彩も、無表情を張り付けたまま、彼に返してやる。
「悪い、佐久間。用事ができた」
待ちくたびれたであろう佐久間は、しかし、ふーんと気のない声を出すだけ。その辺をうろついていた手が置時計を掴むと、佐久間の真正面に掲げて時間を教える。
「……まだ四時かよ。俺はもう少し寝るぞ」
ごろり、と佐久間は彩に背中を向ける。二秒もすると、気持よさそうな寝息が聞こえ始める。
――いつも通り、か。
彩は立ち上がって、この家で唯一の扉へと向かう。見送りはない、鍵は開けたままでかまわない。それは、佐久間が彩の事情も内心も訊かないのと同じくらい、いつものことだ。
彩もまた、振り返らずに佐久間の家を後にする。十二月末では、辺りは夜の闇だ。かまわず、彩は向かう――――響の、屋敷へと。
まだ陽も昇らぬうちに、彩は響の屋敷に着いた。黙って出ていった手前、玄関から堂々と戻るわけにもいかない、彩は塀を乗り越えて敷地内に入る。それから、自分の部屋に直行する代わりに、しばらく森の中をうろついていた。
もちろん、なんの目的もなく時間を潰していたわけではない。――響崇がいうところの、呪いの手掛り。響奏の夢遊病から始まり、響崇を殺し、いまなお、鮮を蝕み続ける、その正体。
だが、結論から言ってしまえば、なんの手掛りも得られなかった。
響奏が夢遊病で、夜な夜な森の中を徘徊すると崇の記憶の中にはあったが、それももう、十年前の話だ。いまさら、証拠とか、手掛りとか、そんなものが見つかるはずもない。昨日、目にした十年前の事件現場も、彩は正確に記録しているから、新たに得るようなものもない。
十年前の遊び場を巡り――もともと人の入らないところらしく、特に変化はなかった――墓地を巡り――つい最近見たのだから、なにも新しい情報はなく――他の空間も手当たり次第に見つけて観察したが、特に気になるものはない。
……そもそも、なにを見つければいいのかもわからないのに。
ヴァン・ヘルシングなら、ドラキュラの隠れ家を周って、棺桶を探すのだろうか。
もっとも、彩が相手にしているのは、果たして吸血鬼なのか。十年前の事件は、昼間におきている。なら、相手は日光の有無なんて、気にしないということではないか。
……水花の洒落に引きずられ過ぎだ。
それでも、彩は森の中を歩き回った。わざわざ、東館、本館裏の離れ、森の奥にあるもう一つの離れ、そして幼い頃に暮らしていた西館まで周ってみたが、なにも怪しげなものは見つからなかった。――どこもかしこもきっちり鍵がかかっていたから、中までは確認できていないが。
念のために確認したもう一つといえば、奏の部屋だ。正確に言えば、奏の部屋から直接外へ下りられるかどうか、だ。
彩が実証したところでは、不可能ではない。響の屋敷は西洋の城にも似たレンガ造りだから、隙間に指を引っ掛けて登ることができた。
だが、このロッククライミングが身重の奏にできたか、という点には、疑問が残る。それに、体力のある彩だから、五分ていどで済んだこと。他の人間にも平等にできる方法とは、とても言えない。
――一応考慮に入れておくが。
そんなふうに一通り見て回って、結局なにも得られなかった彩が自室に戻る頃には、周囲も明るくなり始めていた。彩の部屋に戻るのに、玄関は使っていない。――屋敷の外壁を登って、だ。
夜の散歩用に、寝室の窓は開けっぱなしにしてある。おかげで、彩は誰にも見つからずに帰宅を果たせた。
寝室に、特段の変化はない。ベッドメイキングも、どうやら忘れられているみたいだ。別に、そのことで連や再を責める気はない。鮮が重病で、そこに彩が姿を消せば、そんなルーチンワークを忘れても仕方がない。
彩は寝室の天井近くにかかった時計に目を向ける。――六時。普段なら、食事前のティータイムも終わって朝食の時間か。
彩は自分の部屋を素通りして、廊下に出た。一応、周囲の音を確認したが、静かなものだ。冬休みだから、では、もちろんない。響家の規律を守っている鮮が病床に臥しているために、時間が乱れてきたのだ。――そのおかげで、こっそり戻ってきた彩は、こうして屋敷内を歩いていても、まだ誰にも見つかっていない。
――不謹慎だ。
彩は中央の階段を突っ切って、東側へと歩を進める。薫は、まだ寝ているだろうか。普段から、朝食前に勉強をしているらしいから、起きているかもしれない。再や連は、もう一日の仕事を始めているだろう。だとしたら、一階か。彩が廊下を悠然と歩いても、誰も気づく者はいない。
――そのまま、彩は鮮の部屋の前に立った。
普段、鮮は五時に起きるから、本来ならもう起きていて、一階のリビングで優雅にお茶を飲んで、いや、もう飲み終わって食堂にいるはずだ。
……だが。
まだ、寝てるんだろうか……。
症状が現れてから、ほとんど寝て過ごしている鮮。唯一の例外は、医者に診てもらうために病院へ行ったときか。……ああ、そう考えると、鮮は三日以上も寝たきりなのか。
昨日一日で、鮮の容体はどうなった?二日前の鮮は、話はできたが、それでも辛そうに見えた。後半は、平静を装うこともできず、息を荒くしていた。
……少しは、良くなったのか?
黙ったまま、彩は首を横に振る。
なんの情報もなく考えるばかりでは、それは意味のない予想だ。それに、治療はまだ始まっていないのだ。SLEらしい、という見立てだが、それも決定打に欠けて、治療に踏み切れていない。――――自己抗体が出ていないのだから。
彩は顔を上げ、部屋の扉に向けてノックする。周囲には聞こえないていどに、中にいる者には聞こえるように。
……返事は、ない。
彩も、別に驚いたりしない。響の部屋は、手前が普段の生活場所で、奥に寝室が用意されている。鮮が寝たきりなら、彼女は寝室のほうにいるはずだ。さすがに、そこまでノックの音は聞こえないだろう。
だから、彩も躊躇せずにドアノブを回す。予想通り、部屋の中には誰もいない。いるとすれば、それはもう一つ先の寝室。
後ろ手で扉を閉め、明かりを点けずに部屋を突っ切って、彩は寝室前の扉で立ち止まる。
折角だからと、彩は鮮の部屋を一通り眺めて見た。が、当然ここも、彩の記録通り。――本棚があり、中の医学書にも変化はない。給湯器や茶葉の缶、ティーセット、アロマディフューザーに、精油の缶もそのまま。テーブルや椅子は、彩の部屋にもある通り。部屋のほうにもハンガーラックがあるのは、彩の部屋とは違うところ。
二日前と、変わらない部屋。モノの位置も、彩の記録と寸分違わない。それはつまり、移動した形跡がないということで……使った跡が、ないということ。
寝室の扉をノックする寸前に、彩は中の気配を聞こうと動きを止める。あまり、近づきすぎてはいけない。それでも、微かでも、確かに聞き取れるだけの距離で…………。
「…………」
ほどなくして、その息遣いが聞こえる。
鮮は、確かにいる。……まだ、生きている。
なにを莫迦な、と自嘲しかけて、彩は気づく。扉越しで、ここまではっきり聞こえるのは普通か?それに、こんなに呼吸の間隔が短いのは、正常か?――――鮮はいま、本当にただ寝ているだけか?
「鮮ッ!」
いままでの落ちついた態度をかなぐり捨てて、彩は乱暴に扉を開けた。
寝室は、隣の部屋と同様、明かりがない。窓も、遮光性の高いカーテンが引かれているせいで、見通しの良さは変わらない。
彩は真っ直ぐ、鮮がいるはずのベッドに向かった。確かに、彼女はベッドの中にいる。羽毛布団から顔を出し、彼女は何度も何度も、短い間隔で荒い呼吸を繰り返す。眉間に皺を寄せ喘いでいるのは、高熱のせいか、悪夢のせいか。うわ言のようになにかを呟いているようにもみえるが、なにを言っているのかはさっぱりわからない。
「鮮!」
彩はベッドの脇に膝をついて、鮮の顔を覗き込む。紅く腫れた頬は変わらない。彩は鮮の額に自分の額を当てる。感覚遮断を弱めると、彼女が溜めこんでいる熱が嫌でも流れ込んでくる。
――まずいな。
予想以上の、高熱。体温計で測るまでもないだろう。……すぐに、医者を呼ばないと。
彩は立ち上がろうとして、しかし、なにかが引っかかったように、ガクンと倒れかける。グッと堪えた彩は、振り向いてそれを目にする。――鮮の紅く腫れた手が、彩の服を掴んでいる。
「兄さん……兄さん……」
鮮は、まだ目を閉じたままだ。まだ意識が醒めきっていないのか、鮮はうなされるように身を捩りながらも、彩を掴んだ手だけは離さない。
「…………」
彩は舌打ちしたい衝動を抑え、彼女のその手を握ってやる。白い手袋に覆われているせいで、そこからは彼女の熱も伝わってこない。ただ、妹の――女の子らしい――小さくてか細い手が、そこにあるだけだ。
と……。
「鮮様!」
扉が勢いよく開かれ、その勢いのまま、連が寝室まで走り込んできた。
「どうされました!」
彩の声を聞きつけて、連は慌ててやって来たのだろう。昨日まで屋敷を出ていた彩のことなど気にもとめず、ベッドの中で苦しそうにもがいている鮮を目にして、連は息を呑むようにその場に硬直した。
「鮮様……」
口元を抑えた指の隙間から、小さく震えた声が漏れる。放っておいたら、連はそのまま泣き崩れてしまうだろうか。だから彩は、そんな連を立ち上がらせるために声をかけた。
「医者を呼べ」
きょとんと、彩の存在にようやく気づいたように、連の視線が彩のほうに動く。
「…………え?」
「医者だ!染衣に連絡しろ!」
彩の怒鳴り声に、連はようやく「は、はい……!」と返事をして部屋を出ていった。また鮮と二人だけに戻った、と思いきや、連と入れ替わるように、今度は再が鮮の寝室まで入ってきた。
再のほうは、至って冷静だった。いや、冷静に見せていると言ったほうが正しいか。部屋から飛び出ていった連を一歩引いて見送り、静かな足取りで寝室までやってきて、彩の姿に驚いたように目を細める。
「……帰っていたんだね」
いつものように微笑を浮かべようとしている再が、しかし、この状況では実に場違いだ。だが、彩も特段、そのことに不服など感じない。再もまた、鮮の様子に気づいて、どうしたらいいのか途方に暮れている様子だから。
ああ、と低く応えながら、彩は立ち上がる。鮮の手をそっとベッドの中に戻しつつ、額に浮かんだ寝汗を手袋で拭ってやりながら。
立った彩は、しかし視線はじっとベッドの中の鮮に向けながら、背後の再に問いを投げた。
「昨日も、こんなに酷かったのか……?」
いいや、と再はすぐに答えてくれた。
「面倒は連が見ていたけど、そんなことは言っていなかった。むしろ、いままでで一番落ち着いているように見えた、ってさ」
「……そうか」
それだけ返すだけでも、彩には精一杯だった。彩の視界の中では、いまなお苦しそうに喘ぎ続ける鮮がいる。――これまでで、一番具合が悪そうな妹が。
彩はリビングで待った。鮮の部屋では、染衣や他の看護師たちが治療に専念しているはずだ。治療といっても、ここでできることなんて、高が知れている。なのに、しばらくしても救急車が去っていく気配はなかった。
連がどういう連絡をしたのかはわからないが、染衣は救急車に乗って響の屋敷までやってきた。再に案内されるままに鮮の部屋に向かい、なにかあれば再が伝えるからと、彩はリビングで待っているように言われた。実際、彩があの部屋にいたところで、できることなどなにもない。仕方なく、彩はこうして待ちぼうけている。
いつものように感覚を切っていたから、時間の経過はわからない。ようやく染衣がリビングにやって来たとき、ついでに時間を確認したが、もう七時半を回り、救急車が到着してから一時間近くが経ったことになる。
「やあ、彩くん。待たせたね」
「前置きはいい。それより、鮮の容体は?」
前回同様、薄っぺらな笑みを張り付けた染衣に、彩は無愛想に本題をと促す。染衣も、今度ばかりは苦笑も見せず、スラスラと状況を報告する。
「できる限りの処置はした。一応、持ち直したとは言っておくけど、前見たときよりも悪くなっている、という印象だ」
染衣はソファーの前に来て、座るようにと彩に手で示す。咄嗟に立ち上がっていた彩は、染衣の指示通り、とりあえず座ることにした。目の前の染衣も、彩の着席を確認して腰を下ろす。
「昨日も来たんだよ、彩くんはいなかったようだけどね。そのときは、こんなに悪くなかった。一応、昨日の結果も出たんだ。採血と、あと蓄尿だ。今日は結果を持ってきていないから明日持ってくるけど、こんなふうになるほど悪いとは、とても思えなかった。もちろん、蛋白や潜血は出ていたから、病気そのものは治っていない。血液検査のほうでも、これまでと変わらない。自己抗体は出ていない。諸症状はSLEを示しているが、そこだけが引っかかる」
難問を抱えたように、染衣は首を横に振る。実際、鮮の症状は不可解だろう。数々のデータは免疫異常であるSLEを示すが、その最も特徴的な自己抗体が出てこない。免疫が自分自身を攻撃している、その傷痕である自己抗体だけが……。
「レントゲンも視てみたいけど、まあ、前回同様、それほど期待はできないだろう。とりあえず、血液は採取したから。他の結果と併せて、明日、報告しにこよう。……本当は、いますぐにでも入院してほしいところだけど」
結局、鮮は救急車に乗ることを拒否したらしい。以前なら、どうして医者の勧めに従わないのかと内心で不服を募らせていたが、いまは、なんとも言えない。
染衣からは他に言うこともないのか、だから彩は空隙を埋めるように口を開く。
「それで、今後の治療方針はどうなる?結果が揃うまで、しばらく様子見か?」
響崇も、鮮と同様の症状を見せていた。崇の場合、染衣が診察を始めてから、わずか十日で亡くなった。鮮も、そろそろその半分近い日数が経過している。しかも今回、鮮の容体が悪化したことから、事態はより逼迫しているのではないか。
その、彩の言外の意図を、染衣もよくよく理解しているらしい。一度大きく息を吐き出してから、その疲弊しきった顔を持ち上げる。
「治療は、すぐにでも始めたいと思っているよ。でも、データが揃っていないから…………ああ、彩くんの気持ちもよくわかる。明日、鮮さんを病院に連れてきて、精密検査をさせてくれ。それで、症状の改善が見られないか、決定的なものが見つかれば、すぐに治療を開始しよう。……SLEの可能性が捨てきれなければ、ステロイドパルスをすることになるだろうね」
SLEなど、免疫異常系の病気に最もよく効くとされる、ステロイド治療。その中でも、ステロイドパルスは短期間に大量のステロイド薬を投与――点滴――することで、勢いの強い病気を一気に抑えることで知られている。
だが、ステロイドはもともと強い副作用のある薬剤として有名だ。もちろん、治療に際しては過去の治療例から、症状に応じて適切な量というのがわかっている。マニュアル通りに治療していけば、それほど危険にはならない。――もちろん、マニュアル通りに症状が現れてくれれば、だが。
染衣の返答に、彩は黙って頷いてみせた。とりあえず、明日だ。それ以上は、彩も待てない。……本音はいますぐにでも治療を開始してほしいが、最新のデータが治療を決めるのに必要だというのも、彩はギリギリで了解した。
それ以上、彩から訊きたいこともないので、染衣との会話はそれで終わった。なにかあればすぐに連絡してほしい、というお決まりのセリフを残して、染衣は去っていった。彩もまた、決まり切ったように「ああ」と低く返すのが精々だった。
染衣が帰って、ようやく屋敷の中が落ちついた頃。朝食の支度が整ったらしく、彩と、そして薫は、揃って食堂に呼ばれた。
薫は、一日ぶりに見る彩に一瞬驚いて、しかしなんと声をかけていいのかわからず、俯いたり、彩の顔を盗み見たりと、挙動不審を繰り返していた。
料理を運ばれてからも、薫はそんな調子で、しかし普段なら食事中はお喋り厳禁と、無言で済むはずだった。
「お兄様は、昨日いらっしゃいませんでしたけど、どこかにお出かけだったのですか?」
鮮がいないせいか、あまりにも彩の不在が気になるのか、薫は食事中にも関わらず彩に問いかけた。
彩のほうも、別に食事中の私語を厳格に禁じたいわけではないから、なんの抵抗もなく薫に答えた。
「用事があって、戻るのが遅れただけだ」
適当に、嘘を返しておく。佐久間の家に泊まったということは、三樹谷夫妻にも話したことがない。もっとも、彼らの場合は彩に訊きもしなかったのだが。
「でも、再も連も、お兄様の行き先を知らないと言っていました。なにか、特別なご用事ですか?」
なおも質問攻めを続けようとする薫に、彩は無表情のまま、殊更低い声で返した。
「ああ、特別だ。だから、お前にも誰にも、話すようなことじゃない」
「教えて、くださらないのですか?」
「そう言ったぞ」
困惑したように俯いた薫は、では、とでも言いたげに、目元を引き締めて彩を見上げ返す。
「その特別なご用事は、またすぐにあるんですか?」
「とりあえず、しばらくはないな」
きょとん、と驚いて目を丸くした薫は、やや間をおいてから「そうですか」と笑みを見せた。
それで訊きたいことは済んだのか、薫はまた食事に戻り、しかし、数秒もすると不安がなくなった勢いに任せて、彼らしく饒舌にまた話しかけてくる。
「お兄様は、戻るのが遅れたと仰っていましたね」
「ああ、そう言ったな」
「では、昨日からお休みになっていないのですか?」
なるほどそこか、と彩は数瞬思考して、即座に答えた。
「いまのところはな。まあ、体調に不具合が出たら、適当に休む」
ぱちぱち、と。薫は目を瞬かせる。驚愕したのか困惑しているのか、よくわからない反応だ。
「僕は、ずっと起きているの、って、無理ですね。夜更かししようとしても、気づいたら眠ってしまうんです」
そう、はにかむように苦笑を浮かべる薫。その返答に、彩も驚かない。誕生会のとき、いつもの寝る時間まで起きていた薫は、とても眠たそうにしていた。
朝食を終え、二人はともに食堂を出ようとする。と、片付けのために入ってきた再が、彩に向かって声をかける。彩が立ち止まると、食堂を出ようとした薫も同じように立ち止まって振り返る。そんな薫の挙動に気がついて、再は微笑のまま薫に視線を向ける。
「申し訳ありませんが、お兄様と二人きりで話をさせてください」
「僕が聞いていちゃ、ダメなの?」
不満そうに眉根を寄せる薫に、使用人の再は微笑のまま「ええ」と頷いてみせる。
しばらく唸り声を上げていた薫も、やがて諦め、先に食堂を出て姿を消す。やれやれ、といった具合に一度肩を竦めてから、再は彩のほうへと視線を戻す。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「昨日どこに出かけていたか、っていう質問なら、答えないぞ」
再の笑顔がぴたりと止まる。微笑が崩れ、困惑したように眉が下がる。
「……察しが良くてありがたいよ」
「薫にも訊かれたことだ。予想だってできる」
「……で、薫様には答えなかったから、僕にも教えてくれない?そこは、昔からの付き合い、っていうことで、特別に教えてくれても…………」
「くどい」
彩の一蹴に、再は「わかったわかった」と、降参するみたいに両手を上げる。
「でも、次に秘密の用事があるときは、行き先は教えないにしても、事前に僕に伝えてくれると助かるよ。昨日なんて、君が急にいなくなったから、連が大騒ぎしてね。大変だったよ」
鮮様には知られずに済んだと思うけど、と再は苦笑で付け足す。
再のせめてもの訴えにも、しかし彩の無表情は少しも崩れない。ただ、ついでのように応える慰めを口にしてやる。
「安心しろ。しばらくは響の屋敷にいてやるから」
途端、再の苦笑はより自嘲的に崩れていく。そこは、再にだけは伝えてくれる、と答えてほしかったのか。だが、そうするかは――いや――そんなことができるか、なんて、そんなもの、彩には保証などできない。
溜まったものを吐き出すように、一度溜め息を吐いてから、再は切り替えるように顔を上げる。苦笑はそう簡単に消えないが、少しはマシになった微笑で、
「オーケー。僕が言えることは以上だ」
どうぞ、と再は恭しく一礼して道を開ける。それがお遊びであるということを、彩も重々に承知している。承知のうえで、彩はなにも言わずに食堂を出ていく。
階段の見える位置まで出た彩は、二階から連が下りてくるのに気づいた。手擦りでわずかに影になっているが、連がトレーかなにかを持っていることは、すぐにわかった。
「連」
一階まで下りてきた彼女に、彩は声をかける。俯きがちだった連はその声にわずかに顔を上げ、目の前に彩が立っていることに気づいて、慌てて姿勢を正す。
「彩様!」
なんて、悲鳴じみた声を上げる始末。いちいち反応が過剰だと思いながら、彩は連が両手で持っているトレーに視線を落とす。
「鮮のか?」
どの容器にも蓋がついているので中身まではわからないが、お粥と飲み物といった、典型的な病人食だと推測できる。
「はい。でも……」
連が言いづらそうに顔を伏せる。彩は特段不思議にも思わず、問いを続ける。
「食欲がないのか?」
「いえ。鮮様はお休み中なので、下げてきたんです。仕方ありません。お医者様に治療していただいた後ですし。また、お昼に持っていくことにします」
連は、再のように笑みを作らない。そんな取り繕う余裕もないくらい、連の表情は暗く沈んでいる。
そうか、と呟きを漏らした彩は、ふと、思い浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。
「昼食を持っていくときは、俺も一緒に行っていいか?」
なんて、らしくない台詞。
しかし、彩は嗤わない。これは偽ったわけでも繕ったわけでもなく、紛れもなく、彩の真意だから。彩がそうしようと――そうしたいと――思ったことだから。
対する連も、彩の言葉が信じられなかったみたいに、しばらく呆けていた。が、ようやくこれが現実だと認識できたらしく、ぱあっと顔中を笑顔で埋め尽くす。
「はい!ぜひ、ぜひお願いします」
勢い込んで距離を詰めてくる連に、彩はトレーが衝突しないようにと後退る。
笑顔で厨房に戻っていく連を、彩はただ呆と見送った。連の姿が見えなくなって、ようやくと溜め息を漏らす。それなのに、彩の口元には小さな微笑が浮かんでいた。
昼食の時間になっても、鮮は眠ったままでいる。現在進行形なのは、紛れもなく、鮮は彩の見ている前で寝息を立てているからだ。
鮮の寝室で目を開けているのは、ベッド脇の椅子に腰かけた彩だけ。食事を運んだ連はというと、鮮がまだ眠っているのを目にして、すぐに部屋を出ていってしまった。――「冷めたお食事を出すことはできません」、「鮮様が目を醒まされたら、わたしにお知らせください」と、彩を残したまま。
それで結局、彩も不承不承と鮮の寝室に留まり、こうして彼女の寝顔を見下ろしている、というわけだ。
鮮の寝顔は、朝と比べれば落ち着いているように見える。だが、呼吸はわずかに荒れていて、耳だけでなく、見た目にもその息遣いがわかってしまう。朝から起きないということは、それだけ体力を消耗したということ。
……連がすぐに立ち去ったのは、案外正解なのかもしれない。
病気で寝込んでいる鮮の前でただただじっとしているのは、正直、耐えがたい。静かに眠っているだけのはずなのに、彼女の容体が透けて見えてしまう。
それでも、彩は鮮の傍にいなければならない。――それこそが、彩が屋敷に戻ってきた理由なのだから。
響家に巣食う呪い――。響奏は夢遊病。響崇は病死。そしていま、響鮮の身体も病魔に蝕まれている。
その正体を、彩は突き止めなければならない。それは同時に、鮮を救うことにも……。
小さく、声が上がるのを聞いた。
視線を下に向けていた彩は、すぐに気づく。断続的な呼吸音が一瞬途切れ、大きく吐き出すとともに、鮮が目を瞬く。
「鮮」
寝起きで意識がぼやけたままの鮮に、彩は堪えきれずに声をかける。呆と天井を見上げるだけだった鮮が、彩の声に引かれてこくりと首を傾ける。潤んだ瞳が彩へと向けられたが、すぐには彩のことがわからないらしく、五秒くらいの間を置いて、ようやく鮮は「にいさん……?」と声を漏らす。
「鮮。目が覚めたか?」
起きた相手になにを莫迦な質問をしているんだと、普段なら決して発しないことを、しかし彩は抵抗なく口にした。やはり、まだ醒めきっていないのか、緩慢な動きで鮮が応答する。
「…………はい」
その一言さえ、億劫そうに見える。以前、彩が鮮の寝室に入ろうとしたときには過剰なまでに反応したのに、いまは無反応に近い。
そんな反応の悪さに苛立ちを覚えながらも、しかし彩はぐっと堪えて微笑を浮かべる。……浮かべようと、する。
「まだ寝ているか?」
鮮は十秒近く考える素振りを見せて、ようやく「まだ、横になっています」とだけ答えた。一応、食事のことも訊ねたが、どうやら空腹は感じていないらしい。……それよりも、眠気――倦怠感――のほうが強いらしい。
「少し、暑くて……」
「汗でもかいたか?着替えるか?」
できるだけ手袋を外したくない彩は、ぐっと体を寄せて、自分の額を鮮の額にあてて彼女の体温を測る。平熱よりは高いだろうが……それくらいしかわからない。
いいえ、と鮮は口だけで応える。
「それより、喉が渇いて……」
彩は隣の、鮮の部屋に向かい、備えつけのポットから、これも備えつけのコップに水を注ぐ。寝室に戻った彩は鮮の上半身を手で支え、彼女の口元までコップを運ぶ。ゆっくり、ゆっくりとコップを傾け、鮮に水を飲ませてやる。
「おかわりはいるか?」
飲み終わった鮮に訊くと、彼女は「いいえ」とだけ答えてすぐに目を閉じてしまう。彩は元の通りに鮮をベッドに寝かせて、空のコップは手近のテーブルに置いた。
「にいさん……」
目を閉じたまま、鮮は彩を呼ぶ。「なんだ?」と、彩は彼女の言葉を待った。十秒近い間を置いて、ようやく鮮は、自分の希望を口にする。
「……傍に、いてください」
たった、それだけのこと。自分が眠るまで近くにいてほしいということか。それを伝えるのにも体力がいるらしく、たったこれだけの言葉になってしまう。
……ああ。
彩はぐっと堪えて、ただ頷いた。
「…………わかった」
その言葉は、ちゃんと鮮にも届いたらしい。彼女は目を閉じたまま、ゆっくりと口元を笑みの形に緩めた。安堵の吐息。水分を補給して多少でも楽になったのか、呼吸はさっきよりも良くなった。目を閉じたまま、微笑を浮かべたまま、鮮はほとんど動かない。呼吸も規則的だから、もう眠ってしまったのかと錯覚してしまうほど。
しかし、彩には彼女が眠りについたかどうかわからなかったから。確かめようとして、彼女の眠りを妨げるのも気が引けたから。結局、夕食の時間になるまで、彩は彼女の傍に居続けた。
夕食の時間になって、鮮の寝室に連が入ると同時に、鮮は目を覚ました。あとは、鮮の面倒を連が見ることになった。食事もそうだが、汗を拭いたり、着替えをさせたりするのは、同姓の連にやってもらわないといけない。
そういうわけで、彩は早々に食堂へと向かった。昼間に続いて、薫と並んでの食事。お喋りな薫は、注意する人間がいないおかげでやたらと彩に話しかけてくる。
「お兄様は、午後はどうされてましたか?」
「鮮の部屋にいた」
「ずっと看病ですか?」
薫は殊更驚いたように目を大きくして問いかける。ずっと、ということを気にしてだろうと、彩も特に気にはしない。
「そうだ」
「お姉様は、どうでしたか?」
「ほとんど寝ていた。途中、一度だけ起きたが、またすぐに眠ったよ。かなり疲れているみたいだった」
「……今朝、急に悪くなったんですものね。そのせいでしょうか?」
「たぶんな。夕食は食べれそうだから、それで少しは良くなればいいんだが」
そうですね、と呟きながら、薫の顔が正面に戻る。ようやく食事に専念できるかと、しかし、そう都合よく進みはしないと、彩も大体心得ている。一分も経たずに、再び薫が彩のほうへと振り向いた。
「そういえば、今朝、お医者様がいらっしゃったとき、なにかお話はありましたか?」
そのことか、と、彩は口の中のモノを飲み込んでから応えた。
「明日、病院でもう一度検査をしたいそうだ。その検査結果によって、本格的な治療をどうするか、決めるらしい」
薫の顔が、驚きのせいで固まった。それはそうだろう。染衣は彩にしかこの話をしていないのだから。
状況を咀嚼しようと、薫は唸りながらも話を続けようとする。
「それは……。場合によっては、明日のうちにお姉様が入院することもあるのでしょうか?なにか、手術のようなことをしないといけない、とか?」
「染衣は入院させたがっているようだが、鮮が首を縦に振らないだろう。検査次第のところもあるが、たぶん手術はない。やるとしたら、薬物投与による治療だ」
「入院がない、ということは、自宅でもできる治療なんですか?」
「普通できるかと言われると怪しいが、この響の屋敷なら可能だろう。必要な機材を運び込めば済む話だ」
それで済んでしまうのもどうかしてるが、それが響という大富豪なのだから、仕方ない。
そうですか、と薫は独り言のように頷いて、すぐに彩へと視線を戻す。
「どちらにせよ、明日の検査で全部わかるんですね」
「……全部、かは知らないが、方針は固まってくるだろう。いつまでも、なにもしないで様子見、というわけにはいかないからな」
はい、なんて元気よく頷いてから、薫は再び食事に戻る。その後も、何度か薫に話しかけられたが、もう、鮮の話題からは遠ざかって、彩にとってはどうでもいい内容ばかりだ。薫と違って、彩は雑談を好まないので、適当に相槌を打ちながら食事を進めることを優先した。
夜の中に、彩はいた。
時刻は、直に零時へ至ろうとしている。もうすぐ、日付が変わる、そんな時間。
彩は普段着のまま、屋敷の外にいる。正確には、建物――本館――の外。だが、屋敷を取り囲む森の中にいるわけではない。むしろ、建物のすぐ近く。部屋を抜け出して、屋敷の外に出たにすぎない。
――そう、抜け出して。
自分の寝室の窓から壁を伝って、外に抜け出す。洋式の、レンガ造りだから、隙間を見つけて下りればいい。二階分――一階辺りの高さがかなりあるから、一般家庭なら三階分か――の高さがあるが、下りる位置を間違えて落下さえしなければ、どうってことはない。見回りの猪戸兄妹たちにも見つからず、彩は悠々と屋敷の外を回り、この場所に陣取っている。――ちょうど、鮮の寝室の窓が見える位置に。
できることなら、鮮のベッドのすぐ隣で見張っていたいが、それでは他の連中に怪しまれる。加えて、彩でさえ、自分自身をそこまで信用できない、というのもある。
……まだ、彩の容疑が完全に晴れたわけじゃない。
響奏を夢遊病にし、響崇を病死させ、響鮮までも病死させようとしている――響に巣食う呪い。
その呪いの正体がどんなものなのか、まだはっきりとはしない。だが、なんの根拠もなく、彩はこんなところで見張っているわけではない。
――響の屋敷にいる間に見た、夢。
そいつは、夜な夜な、誰かの部屋に忍び込んでいる。それは、きっと鮮の部屋だ。どこか、外から忍びこんでいるようだが、彩は一つの推測を立てている。
……外から入り込める場所なんて、一つしかない。
彩は、じっとその一点を見張っている。鮮の寝室へと至る、唯一の窓。あの夢の中のそいつは、きっと屋敷の壁を伝って、あの窓から侵入したに違いない。壁を伝うのは難しそうに思えるが、現に彩は外に抜け出すことに成功している。……不可能では、ない。
――だから。
響彩が呪いの正体である可能性も、ゼロではない――。
だから、彩は寝ずの番で鮮の寝室を見張っている。仮に、響奏のように眠っている間に動いていたのなら、眠らなければいいだけのこと。呪いなんて得体の知れないものに、彩は意識を譲りはしない。もしも彩以外のやつが鮮の寝室に侵入していたとしても、ここなら見張りとしては最適だ。
――だから、彩は窓を見上げ続ける。
真冬の寒さを、彩は感じない。一日眠らなかったとしても、彩は眠気すら感じない。ただ、身体が不調を訴えるだけだが、二日、三日くらいなら、保つだろう。
静寂が下りた夜の中で、彩は自身の意識を保ち続ける。陽が昇り、次の一日が始まるまで、ずっと、この場所で……。
闇の中で、其は彼を視ていた。
夜闇に月はない。まだ、新月には至っていないはず。ただ、この時間では地平線の下に没してしまっただけにすぎない。
其は、牙の隙間から漏れそうになる息を必死に堪え、隠していた。もっとも、彼にまで聞こえるかは謎だが。其の目の前には、薄い境界がある。彼と其を別つ境界。――あるいは、夢と現を別つ境界。
アア……アア……
彼が意識を持っているのが、憎らしい。……しかも、よりによって、あんな処で。
幾夜、毎夜――。其が訪れる場所。牲が横たえられた祭壇。それがすぐ目につく位置に、彼はいる。
……偶然では、ない。
もう、時刻は丑三つ時を過ぎた。魔がもっとも強くなると呼ばれる、その刻限。その刻に意識を保っているなど、偶然ではなく必然と呼ぶべきものだ。
――そう、必然。
彼は、其の存在に気づいている。だから、ああして見張っているのだ。……其が、牲のもとに訪れないように、と。
シイイィ、と横に引きつった唇。その間から覗く剥き出しの牙。その隙間から漏れだす吐息は、渇望を抑えきれなくなった、焦燥。
――アア。
と。
其は疾り出しそうになる衝動を、必死の思いで留めている。いや、衝動を抑えることなど、できはしない。いまにも弾け飛びたいほどに、其は求めている。
……そうとも。
一昨日は、毎夜の夜這いを断念してしまった。彼が外にいたという、全くの不意打ちによって。だからこそ、昨日はたっぷりと頂いたのだ。たった一日でも欠くと、渇きが酷い。そして、今夜も…………。
――アア……!
渇く。渇く。渇く、渇く。渇く、渇く。渇く、渇く、渇く、渇く、渇く、カワく、カワく、カワく、カワく、カワく、カワく、カワく、カワく、カワく、カワく、カワく、カワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワくカワく…………ッ!
どうかしてしまいそうだ。いや、すでにどうかしているんだ。それが、衝動。人を捨て、魔性に身をやつした一族の、末路。
だが、それが対価というものだ。それが、代償というものだ。……だから、この衝動は当然のもの。
牙の間から、吐息が漏れそうだ。思い切って、このまま飛び出してやりたい。
……だが。
と。
其の残り滓みたいな人間性、理知的な部分が、必死で首根っこを押さえようとしている。
まだ、ダメだ。彼の出方が、わからない。今日だけ、見張っているのかもしれない。さすがに、毎晩見張るのは不可能だ。彼も、所詮は人間。ずっと起きているなんて、できはしないのだ。……明日は、きっと自分の寝室のベッドの中で寝ているさ。
――ハッ。
其は吐き捨て、しかし、身体はちっとも言うことを聞いてくれないことに、苛立ちを募らせる。
――――…………アア、仕方ナイ。
直、夜も明ける。
いまから手を出したら、とてもじゃないが、間に合わない。
……今晩ハ、諦メよウ。
だが。
次コソは、必ズ……。
其は、微睡みに身を任せて、闇に堕ちる。
――深い深い、奥底で。
コの衝動は、ソの渇望を抱えたまま、夢を見る――――。




