六章
視点は廊下の上にあった。幅の広い廊下で、人が四人並んでも、十分な間隔を開けられるだけの広さがある。右手には吹き抜けとの境を作る手擦り、左手には等間隔に扉が並ぶ。扉同士の間隔もまた広く、彩の通う東波高校の教室同士、先頭から先頭までの幅があるだろうか。固定された視点では天井すら見えないのだから、その広大さは計り知れない。
そんな光景が突然に目の前に広がって、しかし彩は焦ることなく、一つの理解を即座に得る。
――響の、屋敷……?
紛うことなく、そこはいま彩が住んでいる、響の屋敷、その本館だ。場所は、二階か、三階か。その判別がつかないのは、二階も三階も、この光景だけでは判別がつかないからだ。方向としては、階段から東へ向かったところ。頭上を見上げて天井の高さなり、振り返って階段なりを目にすれば、ここが何階なのかも区別がつこう。
しかし、彩はその判断材料を自ら求めず、ただ流れるままにこの『記憶』に身を任せる。
――命も、言ってたしな。
これは、響崇の記憶。すでに起きた、過去の出来事。だから、ただ見聞きしているだけの彩には、どうしようもない。
――余計なことをすると、再生に支障が出るんだったか。
だから彩は、流れ続ける記憶を、ただ傍観する。主体となる視点にいながら傍観するというのも、奇妙な話だが。
実際……。
彩が感じ取れるのは、なにも五感だけではない。
……これは、父さんの思考か?
彩の内側から、無秩序な思考が泡のように溢れては弾けて消えていく。歩調は緩やか、心拍数も平常だから、興奮している、というわけではなさそう。
なのに、この記憶から得られる思考は、かなり膨大で、煩雑だ。一つ一つ追っていたら、途端に迷路に陥ってしまいそう。実際、響崇の思考が明瞭な回答に行きつくとは、とても思えない。
元々、堂々巡りをするような思考の持ち主なのか。……いや、と彩はその安直を却下する。
……それだけ、事態が逼迫しているということ。
どんな事態なのか、それは彩も知らない。けれど、この記憶の果てに、その理由が見つかりそうな気がする。
「……」
記憶の視点――響崇は黙したまま、外見上は焦りも見せず、緩やかなペースを崩さずに、廊下を進んでいく。本館の東側、その最奥の扉の前に立ち、彼は二度、大きくノックする。返事はない。しかし、響崇はこれが了承の証であることを、よくよく心得ている。堂々と扉を開き、中へと入っていく。
その場所に、彩は見覚えがあった。部屋が、ではない。当時は人がいたのか、この部屋にはその人物特有の生活感がある。柔らかな花柄をあしらったカーペットやテーブルクロス、あと本棚や個人用の家具の類にも、そんなささやかな飾りを怠らない。派手すぎず、ふと視線を落とせば、そのさりげないデザインが良いアクセントになっている。
その美しく飾られた部屋を、響崇は素通りする。この部屋の持ち主がどこにいるのか、ちゃんと心得ているらしい。寝室へと通じる扉には、今度はノックもせず、中へと入る。造り自体は、彩や鮮のモノと変わらない。だが、この部屋には特別に、他の部屋にはないものがあった。
――バルコニー。
だが、そこも彩の記録とは、かなりの差異がある。いまはなにもないその場所が、記憶の中では隅に観葉植物が置かれ、その広さを活かし、テーブルとリクライニングチェアが二セットずつ並んでいる。
そのバルコニーから見える景色だけが、彩の記録と符合する。記憶は昼間らしいが、見下ろせる町との距離感、木々との間隔は、間違えようがない。
……薫の誕生日の夜、パーティの後で鮮に案内された、部屋。
二階にある、鮮の隣の部屋だ。当主の書斎の他に、鮮が鍵を所持していた部屋。あの夜、この部屋に入る瞬間に覚えた違和感の正体は、まさにそれだ。鍵は、猪戸兄妹が管理している。当然だ、これだけ広い屋敷、鍵の管理は使用人に任せられる。例外と言えるのは、自分の部屋か、当主の書斎といった、特別な場所だけ。
「――奏」
初めて耳にする、響崇の声。その声が、鮮にとっての特別な人の名を呼ぶ。
彼女はリクライニングチェアから下りて、響崇のほうへと振り返る。
……この人が。
響奏――。崇の正妻にして、鮮と、そして薫の母親。いや、こうして彼女が生きている間は、まだ一児の母なのか。いまが、一体何年前の記憶なのか定かではないが、奏の外見は二十代半ばといったところ。胸の下まで伸ばした髪を前に垂らしているのは、いままでリクライニングチェアに座っていたからだろう。立ち上がる際のささやかな挙動から、穏やかな性格だと見て取れる。顔立ちも服装も、地味ではないが華美に走り過ぎず、生まれながらの美人と、そんな印象の女性だ。
「鮮はどうだ?」
崇の口調は簡潔で、余分なものはなにもなくストレートだ。対する奏は、見た目通りの柔らかさで、崇の早急さを抑えるように、ゆっくりと返した。
「一桁の掛け算は慣れたみたいです。あるていどのミスは仕方ありませんけど、そらで解くのに、数秒もあれば十分です。明日から二桁を始めることは話しておきました」
口元を手で押さえ、奏は小さく笑う。
「言った途端、怯えたように目を丸くして固まってしまいましたけど。あの娘は相変わらず、新しいことに対して極度に身構えてしまいますね」
でも、と奏は柔らかく微笑んだまま、その先を続ける。
「以前よりは、ずっと素直になりました。少し前まで、ずっと小説ばかり読んでいましたから。それも、読み慣れた同じお話を、何度も何度も。勉強なんて、ちっとも進みませんでした。それが、最近はちゃんとお勉強をしてくれますし。小説のほうも、わたしが見ていないところでも手をつけていないみたい。本棚を見ても、少しも動いた様子がないんです。隠すのは、そんなにうまくない娘なんですけど」
また、奏は小さく笑みを漏らす。我が子の成長を、心底喜んでいる母親の顔だ。
――愛されている……。
なんて、彩の内で言葉が浮かぶ。
幼い頃に彩が聞いた話では、鮮は毎日、母親と勉強をしていたらしい。ただし、母親から一方的に教えられるというわけではなく、わからないところを聞いてヒントをもらうか、母親のほうから問題を出される、というものだったとか。それでも、母親が顔を見せなかった日はなく、時々、父親も彼女のもとに訪れたようだった。
彩は、どうだったか――。
――思い出すまでもない。
彩の母親は、年に数回しか彩のもとに顔を見せなかった。顔を見せたら見せたで、二言だけ喋りたいことを喋って、すぐに部屋を出ていく。当然、勉強を見るなんてことはしない。普段、彩がどんなふうに暮らしているかなんて、訊いたこともない。――――彩だけ、西館で暮らしていたというのに。
そういうものだと、幼くも聡い彩は、理解していた。
――鮮の母親は、正妻。――彩の母親は、妾。
仮に彩が鮮の一つ上の長男であっても、その事実だけで、その後の二人の運命は決定された。
……ああ、そうだ。
こんな。
嬉しそうに笑う、母親の顔なんて……。
しかし、彩の思考はそれ以外の感情によって遮られる。
――なんだ?
この記憶の主体である、響崇。その彼は、こんな微笑ましい光景を前にして、しかし、ぴくりとも共感を示さない。どころか、そんな話は相手に合わせただけだと、さっさと切り捨てるみたいに。
「――で、君の具合はどうだ?」
途端――。
奏の柔和な顔にひびが入る。影が落ちたように顔を俯かせ、口元だけでなく、身体まで震え出す。不安を隠すように自身を抱いているのに、本人は気づいているだろうか。
「………………昨晩も、外に出ていたみたいです」
吐き出した息は、まるで全力疾走した直後のように、重かった。呼吸を整えるように一度言葉を切り、それでも微かに震えを引きずったまま、奏は続ける。
「また、素足のまま屋敷の外を歩いていたと思います。足が汚れていましたから。森の中も、かなり歩いたんだと思います。いつもより、木の葉が服にこびりついていましたから」
響崇は、驚きも頷きもしない。疑問を挟むまでもなく――そうか――内心でひっそりと首肯するだけ。
わずかに、間が開く。だが、その沈黙を嫌うように、奏は怯えた眼差しを自分の夫へと向ける。
「わたし、どうしてしまったんでしょう…………」
崇の思考は、止まっている。すでに、何度も繰り返してきたやり取りのようだ。崇自身、こういうときの返答は、大体心得ている。
「心配するな」
「でも、夢遊病も病気でしょう?ストレスかなにかが原因で……」
「だから、気にしなくていい。自分でもよくわからないものを不安に感じては、余計にストレスを抱えてしまう」
見せつけるように、しかしやり過ぎにならないていどに、崇は息を吐き出す。もちろん、演技だ。不安を抱える相手を落ちつかせるように、崇は身振りも加えながら続ける。
「いままでのいざこざで、君が思っている以上に、君の身体は負担を感じていたんだ。だから、いまはじっくり休むといい」
「でも……」
「心安らかに休むのも、いまの君にとっては重要な仕事だ。――お腹の子は、元気かい?」
崇の問いに応えようと、奏は力なくも笑ってみせた。
「ええ、時々お腹を蹴っていますから」
「…………いまは静かだな。寝ているのかな?」
屈んで、奏の膨らんだ腹部に耳と頬を寄せる崇。我が子に呼びかけるように、優しく奏のお腹を撫でる。……それは、母親への気遣いも含まれるのだろうか。
ふふ、と奏が微笑を漏らす。
「鮮よりも、ずっと大人しいんですよ、この子は。でも、不安はありません。ちゃんと、わたしのお腹で育ってる、ってわかりますから」
繋がっているんですもの、と返す奏の声は、直前までよりもずっと明るい。
その、自分の妻の明るい声を耳にして、崇はすっと身体を起こす。大きめに息を吐き出し、わざとらしく肩を竦めて見せる。
「君ばかり素敵な子どもたちを独占して、俺は辛いよ」
あら、と奏はおどけたように一等の笑みを浮かべる。
「だったら、この子が生まれてきたら、ちゃんと遊び相手になってくださいね。この子はきっと、鮮と違ってヤンチャな子になると思いますから」
「どうして、そう思うんだ?」
「この子がお腹の中で静かなのは、きっと外に出たときに大騒ぎしたいからなんです。いまは、外の世界を夢見て、じっと待っているんです」
奏は自身のお腹を撫でさすりながら、まさしく夢見るように「楽しみ……」と漏らす。我が子の誕生を心待ちにする母親の顔。生まれてくる子どもは、どんな子どもでも愛しいもの……。
柔和に戻った、いや、最初よりも幸せそうな妻の顔を見て、崇は内心で一つ安堵を漏らす――――よし、と。
「じゃあ、また明日も頼むよ」
「あら、もう行ってしまうんですか?」
寝室へと戻る途中で、崇は振り返る。奏も、崇の後を追っていたらしいが、不意に崇が振り向いたから、驚いて足を止めてしまう。――いつも通りの反応。
「君に子育てという仕事があるように、俺にもそこそこの仕事があるんだ。君と違って、つまらない些事が山のようにね」
気楽に返す崇に、奏は途端、真に受けて項垂れてしまう。――いつも通り。
「申し訳ありません。わたしもお手伝いできたらいいのですが」
「なに、君が気にすることじゃない。響の当主という、それがいまの俺の肩書だからね」
寝室を通り、その先の部屋も突っ切った崇は、響奏の部屋を後にする。廊下に出たところで振り返ると、彼女は彼を送り出すように、扉の前に立っていた。
「いってらっしゃい。お父さん」
笑顔で手を振る彼女は、無意識に新しい命を宿したお腹を撫でている。
――ああ。
内心で、響崇の声が聞こえる。
いつも、通り――。
なにも、変わらない。
一時、不安を抱えていても、彼が慰めたり気を紛らわしたりしてやれば、彼女はすぐに笑顔を取り戻す。それは決して、彼女の悩みが軽いから、というわけではない。――我が子を愛する母親の気持ち。その慈しみが、なによりも彼女を支えてくれる。
……だからこそ。
彼は、鮮の面倒を彼女に託すのだ。彼女なら、なんの憂いも見せず、後ろめたさも持たず、本心から子どもを愛することができる。――なんの疑いもなく、我が子を信じていられる。
「いってくるよ」
その声は、確かに笑っているように、彩の耳には聞こえた。だが、この記憶の主体者は不安で堪らない。……自分は、笑っているだろうか?……幸せそうに、見えているだろうか?……新しい子どもを得た、父親の顔に見えているだろうか?
自分の正妻に、
――すまない。
彼は、内心の不安を見せまいと、足早に去っていく。
次の視点は当主の書斎にあるのだと、彩はすぐに気づいた。記憶の持ち主が響崇なのだから、当然、机を前にして椅子に腰かけている位置だ。目の前に、彩も使わせてもらったパソコンが設置され、崇はそこで作業をしているらしい。
――歴史書の編纂か……?
画面上に展開された、過去の文献の数々。それと、自身の原稿を並べて、文字を入力していく。古い文字、文体を、その場で現代語に訳して執筆していく。机の上に辞書が置かれていたが、久しく使っていないのか、しおりも入れずに閉じたままだ。
外見を見るだけなら、かなり集中しているようにも見える。が、記憶として追体験している彩からは、響崇の本音が聞こえてくる。……つまるところ、疲れているのだ、と。
不意に指を止め、溜まったものを吐き出すように息を漏らしてから、崇は冷え切った紅茶に手を伸ばす。口の中で紅茶を味わいながら、崇の視線が画面の隅に掲げられた時刻を読む。
……もう、五時間か。
崇が内心で漏らした声が、彩にも聞こえる。
朝食を済ませてからずっと書斎にこもっていたらしい。あと少しで昼食になろうという、そんな時間。
とりあえず午前はこれで切り上げよう、あとは昼食の時間になるまで身体を休めておこう、なんて考えに、響崇が浸っていた、そのタイミングで、
――ノックの、音。
その、乱暴さはないにしても無遠慮な音律に、崇の背筋はハッと伸びる。
「崇?いる?」
彼が身構えるより先に、その簡潔な問いが投げかけられた。
飾り気のない口調、はっきりとした声に、響崇は半秒遅れながらも、理解する。理解すると同時に、無言のまま、相手が入ってくるのを待ちかまえる。……こちらから声をかけずとも勝手に押し入ってくる相手だと、響崇もようやく慣れた。
と思う間に、そのとおり、崇が許可を出す間もなく扉は開かれて、一人の女性が真っ直ぐ、躊躇なく、応接用のテーブルとソファーを突っ切って、崇のデスクのすぐ前でようやく足を止める。
モデルのように背が高く、ぴんと背筋を伸ばして見下ろされると、どこかしら高圧的な雰囲気が漂う。加えて、女性の顔立ちは完璧に整っているから、その圧迫感はより強いものになっている。サングラスの下からでも、彼女の美貌は察せられるというもの。
見事に染め上げられた薔薇色のドレスが揺れ、白銀に光るバッグを提げ、金の腕輪、ネックレス、イヤリングを身につけ、爪も、唇も、髪の毛先まで完璧にセットされた、まさしくモデルのような貴婦人。
彼女はサングラスを片手で外すと、にこりともせず響家の当主を見下ろす。
「こっちはなにか変わりある?」
簡潔な口調、やや傲慢が入った物言い。その声だけでも十分だったが――その顔を見て――彩はなんとも言えない納得を得る。
――母さん。
響水花――。彩の母親にして、響崇の妾となる女性。
年齢は、奏とほとんど変わらない。もしかしたら、同い歳かもしれない。しかし、その雰囲気は対照的だ。奏は穏やかで、華美に走らずも品がある。一方の水花は、完璧なファッションで決め込み、刃物か炎のように苛烈な美を放つ。
正妻、妾、などと隔たりはあるが、どちらも響崇を夫とする女性たち。正直、彩には崇の好みも、二人が崇を選ぶ理由も、よくわからない。――もっと言うなら、二人がともに一人の男性の妻、という地位に居続けられた理由も、そのうえでそれぞれ子どもをもうけた理由も、理解し難い。
そんな彩の疑問は、記憶の主体者である崇にはすでに存在しないのか、この不意打ちの訪問にさえ少しも動揺せず、崇は超然ともう一人の妻に応じる。
「ああ、あるな。あまり喜ばしくないことが」
響崇はもう一人の妻――正妻の響奏――のことについて語る。
水花は普段、屋敷にはいないが、奏の病気のことは聞いているらしい。崇も経緯などは省き、奏から聞き出した最近の症例だけを、まるで報告するように挙げていく。
水花のほうも心得ているから、無駄口は挟まず、ただ微かに眉間に皺を寄せるていどに留める。といっても、それで彼女の美貌が崩れることはなく、反って鋭利な美しさを際立たせるだけだったが。
「本人は、夢遊病による睡眠不足だろうと思っているようだが」
「違うの?」
「夢遊病というのは、ノンレム睡眠時に起こるものだ。要するに、本人は完全に眠っている。なのに、ストレスなどの影響で、身体のバランスが崩れ、身体が無意識のうちに活動してしまう、そういう病気だ。そりゃ、寝ている間に動き回るんだから、疲れもするだろう。――だが、あのやつれかたは異常だ」
崇の言葉を後ろに流しながら、彩は直前の記憶に出てきた奏を思い出す。――彩の記録の中に、響奏は存在しない。つまり、あの記憶こそ、奏を目にした初めての瞬間。だから、奏が以前よりどれほどやつれたかは、彩にもわからない。
――だが。
確かに――。
自然、頷けてしまうほど、奏の顔色は良くなかった。透けるように色が白く、化粧も少なかったせいか、目元の隈も隠せていない。バルコニーで眠っていたのも、きっとそのせい。それでも疲れはとれず、眠そうにしていたのを、彩も見逃さなかった。
崇の説明に、水花はふーんと気のない声を漏らすだけ。
「で、それをあたしに話す意味は?」
簡潔で無駄のない、水花の問い。
その理由を、彩はなんとなく想像する。……水花は妾で、響家に快く迎え入れられているわけではない。彼女が響の屋敷に普段いないのも、理由の一部にはなっているのだろう。
もっとも、彼女はもとより部屋の中に閉じこもる性質ではないと、崇の記憶には刻まれているが。
崇は一つ息を吐き出してから、ゆるりと水花を見上げ直す。
「響がどんな一族か、君も知っているだろう?」
ええ、と水花はあっさりと頷いてみせる。
「――異能の魔術師ね」
ああ、と水花はなにかを得心したように、極上の笑みを浮かべる。……これまでにないくらい、毒々しい笑顔。
「なに?あなた、自分の子どもを疑ってるの?」
その甘ったるい口調は、相手を弄ぶことを快楽とする人間のものだ。
崇の内心では、その理解力の速さに感嘆するのとうんざりするのと、概ね半々だ。対する水花のほうは、すでに崇から視線を外し、思案に暮れる。
「あなたは異能を継いでいないし。奏さんも、異能持ちじゃない。……なら、残った響の血筋は、二人だけよね」
先代はさすがにないだろうし、とついでのように呟きを漏らす水花。
崇は先代――つまり、彩の祖父――の異能を知っているようだ。そのうえで、水花の呟きには、崇も同意する。先代は暴走する気配も見せず、いまだに響の経営に口出しするような人だ。面白半分に異能を弄ぶような、そんな人物ではない。
水花は、なおも堪え切れずに微笑を漏らしつつ、崇へと詰め寄った。図々しくも、机の上のデスクトップとキーボードをかきわけて。
「ねえ、あなたはどっちを疑ってるの?…………って、わかりきった質問だったかしら」
「いい加減なことを言うな」
ついに我慢しきれず、崇ははねのけるように、断じる。
「彼らには、まだ異能の兆候はない。人一人を無意識下で操る異能だぞ?それほど強い力なら、まず彼らの特異に気づくはずだ」
「あら、なにを今更?」
崇の、怒気を堪えようと低く抑えた声に、対する水花はなおも嘲弄の笑い声をあげる。
「あなたは異能を疑っている。そうでしょ?そうでなければ、あたしにこんな話をする意味、ないもの」
崇は、なにも返さない。それがまさしく、響崇の急所だった。――崇本人も、自覚していることに。
あたしに言わせれば、と前置きして、水花は言葉を続ける。
「無自覚の異能、っていうのも、世の中にはある。本人も気づかず、そして周囲も気づかないようなタイプも、ね。だから、異能の一族は小さいうちから目を光らせるんじゃない。小さいうちは、記憶が飛びやすい。無自覚、ってのもあるかもしれないけど、多くは忘れちゃうのよ、異能を使ってる、ってことを。あるいは、自覚しない。切り替えちゃうんだって。異能としての自分と、普段、人前で顔を見せる自分を。そして、それを周囲が気づかなければ、誰も気づけない。気づかないうちに、どんどん深みにはまっていく。異能は個人の起源に近いから、放っておいたら起源に呑まれる。そうならないように、だから異能の一族は細心の注意を払う。――――万が一があれば、抹消だって厭わない」
水花の言葉を、崇は真剣に聞く。それはもう、冷やかしでもなんでもなく、冷静に事態を分析している人間のモノだと、崇も察したからだ。
……そもそも。
水花との縁は、自分たちの家業――魔術師、特に異能――のことからだ。ともに、家の古い考え方には納得できず、人目のないところでは、互いの考えを披露し合い、共感し合ったのだ。
崇にとって水花は、まさしく砂漠の中に見つけたオアシスだ。先代は異能者で、表の顔と裏の顔を使い分け、それを良しとしていた。いまの正妻である奏とも、許嫁ということで昔から交際はあったが、彼女も彼女で、家の在り方には不満を持たなかった。異能を知るのは親族ばかりで、外に出れば理解者などいない。誰にも、己の鬱憤を打ち明けることはできなかった。――そんなとき、同じように異能の一族を出自とする水花と出逢った。
初めて、共感できる相手を得た。自分の一族とは違う、他の異能の異常さ、残酷さを聞くにつけ、自分の考え方の正しさを補強することができた。
だからこそ、崇は水花に意見を求めたのだ。なにより、崇は異能を持たない。異能が異常な存在だと理解しているが、それは紙で書かれた知識でしかない。……経験からくる知見というものが、崇には絶対的に不足している。
「…………それが、霧峰の教えか?」
水花は違う。彼女は、本物だ。いや、彼女が経験したものこそ真実だと、そう表現したほうが適切か。
途端、水花はおどけたように身を引いた。
「あたしは次女だったから、割と放置されてたのよねぇ。昔、話したでしょ。霧峰は受継ぎ、というか、継承だって。異能は女にしか現れない。そして、子どもを産んだら、母親になったなら、持っていた異能は失われ、代わりに、子どもに異能が現れる。継承とは言ったけど、実際にどんな異能かは、発現してみないとわからない。種によるとか、器によるとか、色々な説があるけどね。ま、生まれたモノの制御ばかりに力がいって、交配方法の研究は疎か、って印象だけど」
そんなわけで、と吐き出すように呟いた水花は、やや俯きがち続けた。
「長女には、特に濃い血がいくらしいの。後の子どもは、その残り滓、お下がりていど。……だから、まあ……。あたしは、ほとんど目をつけられなかったんだけど」
霧峰自体も魔術の業界から手を引こうとしてたし、なんて曖昧に、自身の経験をまとめた。
その水花の告白に、しかし崇は驚かない。その話なら昔、ほとんど出会ったばかりの頃に聞かされた。……崇も、自分の考えとともに、自身の体験を語っているのだから。
崇は、自身の信念をより強固にするために、重く頷く。
「そのほうがいい。いまの世の中は」
「魔術は社会には知られない、知られてはいけない、から?」
「そうだ。魔術なんて、一代限りで汎用性の低いものは、やがて絶えていく。匠の業と呼ばれるモノも、徐々に機械で置き換えられていく。化学式がわかり、製造方法まで記述できれば、薬品はいくらでも工場で大量生産が可能だ。いまは、一点ものよりも量産が重んじられる。だからこその科学だ。魔術が衰退したのも、それが要因だ。特に、異能などは。生まれてみなければわからない。しかも、その異能はその個人、一代限りだ」
「科学は多くを証明し、ゆえに広く、世界に認められた――――あなたの持論だったかしら」
ああ、と崇は頷いて見せる。
昔、水花に語ったことだ。いまの彼女は全国を飛び回っているから、ゆっくり話す機会も滅多にないのだが。その持論は、いまでも変わらない。
崇以外の魔術師だって、認めていることだ。魔術は、個人という機械に依って、その発現にブレがある。確かに理論立ってはいるが、書物に残っているとおりに術を行使するには、それなりの鍛錬が要る。もちろん、個人による得手不得手もある。いかに魔術師が世界の起源を求めようと、魔術の発展は一代ずつ、かなりの時間をかけても遅々としか進まない。
科学の進歩は偉大だ。なにより、共通化、汎用化したことが大きいと、崇は考えている。没個性でもかまわない、むしろ汎用的に扱えるからこその良さもある。個性など不要、特異など不要――――――――異能など、反って邪魔だ。
そして、と水花は真面目な口調のまま、続ける。
「科学ですら、いまだ解明できていない謎が、世界には多く存在している――――響家の教え、だったわよね」
崇は、なにも応えなかった。
……崇だって、いい加減もう気づいている。
科学が絶対だと、そう信じていた頃もあった。いや、そう信じようとしていたときが、まだ……。
だが、もうダメだ。特に、医学では原因不明な病気もあれば、そもそも治療法が確立せず、病気とすら認定できないものもある。
さらに、人体は個人差の塊だ。治療の効果も違う。あるいは、環境によっても変わるだろう。教科書通りにいくなどと、思ってはいけない。そもそも、教科書だって絶対を保証できないから、注意書きをつけたり、一例を載せるにとどめる場合もあるのだ。
……絶対なんて、言い切れない。
それは、どんなことにも……。
溜め息が、崇の耳に届く。顔を上げると、笑顔を取り払った深刻そうな表情で、水花が薄目で崇を見下ろしている。
「いくらあなたが響の名を否定しても、内に流れている響の血までは、否定することはできないの」
それは、真実のように聞こえた。子どもに教え諭す母親のように。もっとも、崇の母親は、もうこの世にはいないが。確か、父の異能に耐えきれず、命を落としたんだったか。……病を治せても体が保たないなんて、皮肉な話だ。
そんな崇の物思いなど知らず、水花は一つ溜め息を吐いてから、続ける。
「そろそろ、認める頃合いね。確かに、あなたは異能を継がなかった。響家にとっては珍しく、無能な当主。だけどね――――――子どもまで無能とは、限らない――――――――」
無能な当主――――。最高の皮肉をありがとう。
少し前までなら、無能の当主だからこそ――異能を継がなかった出来損ないだからこそ――魔術なんて得体の知れないものから足を洗い、真っ当な医者の家系として一族を導いていこうと、息巻いていたのに……。
しかし、響崇は言い返そうとしない。わかっていたのだ。彼女の言うとおり、だから崇は水花に奏の症状を話した。
崇は俯いて、一度大きめに溜め息を吐く。吐き出すことで、全てが洗い流せればいいのに。もちろん、そんな楽観はあり得ないと、重々承知のうえで。
「…………君は、諦めたのか?」
崇が力なく見上げ返すと、奏は最初のときのように目元を険しくする。
「状況が違うでしょ。奏さんは夢遊病で、夜な夜な外を徘徊する。日に日にやつれていって、日中もあまり動かない。――――『吸血鬼ドラキュラ』がいたとしても、おかしくはないでしょう?」
崇は押し黙る。笑えないブラック・ジョーク。……笑えないのは、水花の指摘どおり、それが現実たりえるからだ。ここ、響の中では――――。
ハッ、と水花は息を吐き捨てた。
「それで、なにか手は打っているの?」
見下ろすような水花の視線に、崇は「いや」と小声で呟くのが精一杯だった。
また、頭上から溜め息が聞こえる。ほとほと、呆れ果てたと言わんばかりに。
「でしょうね。大方、あたしの意見を聞いてみたかったとか、そのていどでしょ。決定的な瞬間があるまで、なにも手を打たない。状況が流れるに任せて、ただ傍観している」
年末年始は予定が集中するのに、と愚痴を漏らす水花。
崇はなにも言えない。メールや、時には電話で、水花に奏のことを相談したのは、他でもない崇なのだから。だが、崇は水花を響の家に呼び出してはいない。何度も、しつこく言い募る崇に、水花のほうが直接会おうと持ち出したのだ。それが一層、崇には堪える。自分の我がままのせいで彼女を呼びよせてしまって、なのに自分はなにもしていない。どうすればいいのかもわからず、ほとんど泣きつくようなことしか、できない。
はあ、と。また呆れるような溜め息が聞こえた。だが、次に聞こえた声は、これまでとは打って変わって、前向きな明るさがあった。
「わかったわよ。三日のうちに、あたしが証拠を見つけてあげる。でなくても、なにか手掛りになるようなモノを、ね」
ガバ、と崇は顔を上げた。そこに見たのは、水花の純粋な笑みだった。嘲笑でもなんでもない、彼女の心からの好意……。
「いいのか?」
「もう、クリスマスの予定は全部キャンセルしちゃったし。大晦日は、間に合うなら間に合わせたいから。そうすれば、新年の仕事にすんなり入れるし」
「あ、ああ。そうだが……」
「もちろん、危険は承知」
その決定的な返答に、ズキリ、と崇の心は痛んだ。
もしも、水花の予想通りに、奏の夢遊病が誰かの異能によるものだったら――――。
彼女は、ヘルシング教授の役を演じようというのか?だが、彼女が演じるのは、果たしてどちらの物語か――――ストーカーか?それとも、ニューマンか?
崇の危惧を余所に、水花は不敵に微笑んでみせる。
「こっちから積極的に動かないと得られないモノって、あるから。あたしは、ただじっとしているのって、嫌なの。まあ、そのせいで姉をあの家においてけぼりしちゃったけど。それを、あたしも悪いと思ってるのよ。本当に。だから、せめてこの家からは、逃げ出したくないの。……ああ、疑っているわね。そりゃ、お小言に耐えるのは、あたしの性分じゃないけど。でも、異能の方面なら、少しは耐えてみせるわ」
それに、と水花は崇の耳元に顔を寄せる。香水の匂いが強くなる。奏とは違う、魅せるために己を着飾り続ける女性の色香。
そっと、彼女は響崇に向けて囁いた。
「あなたのことは、それなりに期待してるんだから。あたしを響に迎え入れてくれたように、最後には、必ずやり遂げてくれる、って」
ふっ、と。彼女は彼から身を離す。香水の匂いが遠ざかるが、崇は少しも反応できなかった。――頬に刻まれた印が、彼を金縛りにかけたみたいに。
ふふ、と水花は無邪気とも妖艶ともつかない蟲惑的な笑みを浮かべて、彼に背を向ける。
「だから、あたしもちゃんと、お膳立てくらいはしてみせるわ」
じゃあね、と去っていく水花の背中が書斎の扉まで到達して、ようやく崇は立ち上がることができた。が、崇が声を上げようとしたときには、水花はすでに当主の書斎を後にしていた。伸ばした腕が行き場を失って虚空に漂い、ただ虚しく下ろすこともできず、しばらくその場に硬直していた。
記憶の断絶ののち、次に現れた記憶は、しかし同じ光景をしていた。場所は変わらず、当主の書斎。だが、時間の跳躍はあるようだ。目の前のパソコンの画面の隅、点滅を続ける時刻は、昼食が終わってから一時間ほど過ぎている。
相変わらず、崇は歴史書の編纂に時間を割いている。鮮の話では医者だったようだが、休日はこの作業を自分の役割としているのか。
机の前から、響崇が動くことはない。過去の文献は全てスキャンしてデータ化しているらしい。一応、机の上に辞書が置いてあるが、それを開くことはない。長年の作業の賜物か、訳し文句は決まっているらしい。
その静寂が、不意に乱される。階段を慌てて駆け上がってくる音が、扉越しにも聞えてくる。何事かと顔を上げると、目の前の扉が激しくノックされ、その勢いに気圧されて、崇は数秒、反応に遅れる。
「崇様!」
扉に邪魔されて、それでも狼狽した女の声が崇の耳まで届く。この屋敷には親戚連中もいて人の判別は難しいが、彼への呼び方から、使用人の誰かだと推察できる。
……胸騒ぎが、する。
全く予定にない出来事だ。来客の予定は、お茶の時間に伝えられるのが常だ。もっとも、水花のような不意打ちも、ないわけではないが。
だが……。
昼食の直前に、水花と話をした後だ。よりによって、奏の病状のことを。そのすぐ後で、使用人が慌てて崇のもとへ駈け込んでくる。――あまりにも、出来過ぎている。
「入れ」
心を落ち着かせて、崇は命じる。入って来たのは、崇が予想していた通り、使用人の女だ。
失礼します、もなく、当主の書斎に入室してすぐに「崇様!」と、また声を上げる。
使用人が乱暴に開いた扉が勝手に閉まるのを待って、崇は平静を装ったまま立ち上がる。
「なにがあった?」
冷静になろうと努めていたつもりが、実際には少しも平静を保てていない。崇自身、すでに「なにか」があったことを疑ってもいないし、その疑念を隠せてもいない。
だが、向かいの相手は崇以上に冷静ではない。崇の問いに答えようとはするものの、まともに口を利くこともできない。ただ、うわ言のように「奏様が……奏様が……」と繰り返すばかり。
「奏が、どうかしたか?」
なんとなく、崇は状況を予想できていた。だから、次に使用人が声を張り上げたときも、それほど衝撃はなかった。ただ、やっぱり、と。
「……お部屋にいらっしゃらないんです!」
そこから決壊したみたいに、使用人の言葉は滔々と流れ出る。
「わたしは、玄関の前でお掃除をしていました。そしたら、水花様が階段を下りてきて、玄関からお外に出る途中で、わたしに仰るんです。奏様が部屋におられず、森へ向かわれた、と。それを崇様にお伝えするように、と。わたしは最初、そんなはずはないと思ったんです。わたしは、皆様がお昼をいただいているときから玄関前のお掃除をしていたんです。皆様がご自分のお部屋に戻られるのも、ちゃんと見ているんです。水花様がお外に出るまで、いいえ、それより後にも、それ以外の方がお外に出るところなど、見てもいません。特に、奏様はここのところお身体も優れず、お外に出るようなことは一度もありませんでした。わたしはなにかの間違いだろうと、けれど念のために二階の奏様のお部屋に伺ったのです」
そしたら、と使用人の顔が強張っていく。
「いらっしゃらないんです!お部屋にも寝室にも、バルコニーの椅子の上にも。でも、椅子の横には奏様の靴が揃えられていました。奏様が、ご自分の意思でお部屋を出たはずはないんです。なのに、いらっしゃらないんです。ベッドの中も机の下もタンスの中まで見ましたけれど、どこにもいらっしゃいません」
捜した場所が少々常軌を逸している気がしたが、その理由も、崇はなんとなく察しがついていた。だから崇は使用人の過度な反応には触れず、ただ事実の確認にのみ意識を向ける。
「水花は、森へ向かった、と言っていたんだな?」
すでに感情のタガが外れていた使用人の、その瞳が、さらにギロリと剥き出しになった気がした。
「そう、水花様は仰られていましたけれど……。でも、一体どうやって外の森へ行かれたというんでしょう!わたしはずっと玄関前で掃除をしておりました。階段を下りてきたのは、水花様お一人です。皆様、お食事後はご自分の部屋に籠りきりになることが多いですから。水花様にしても、手ぶらでお外へ出て行かれました。ああ、そうですとも。水花様は二階の東側から階段を下りてきました。きっと、奏様のお部屋を出られてから直接、一階へ下りてきたのでしょう。西側に用意されたご自分の部屋にお戻りになることはありませんでした」
ハッと、使用人が身を引く素振りを見せる。
「まさか、バルコニーから一階へ下りられたとでも仰いますか?それは無理です。バルコニーから地上までは十メートル以上。下へ下りるような階段なんてありません。確かに、このお屋敷は古くからのレンガ造りですから、隙間に指を入れて下りることもできるかもしれません。でも、奏様はここのところお身体が優れず、なにより、奏様は妊娠しておられます。身重であのようなところから下りるなど、いいえ、普通の人であっても、あそこから下りるのは不可能です」
でも、と使用人は崇に思考する猶予さえ与えず、次の言葉を継ぐ。
「外から長梯子かなにかで侵入ることはできるかもしれません。そうですよ。周りは森に囲まれていますし、意外と、外からバルコニーのほうは見えません。奏様も、最近はお昼もお休みされていることが多いですし。連れ去ることも……」
「それ以上、勝手なことは口にするな」
その空想上の犯人の役を誰に押し付けるのか、崇はよくよく理解している。だから崇は使用人の言葉に割って入った、なのに、彼女は少しも自制せず、勝手な妄想をひけらかす。
「でも、ありそうな話ではないですか。水花様は奏様のお部屋にも自由に入れます。最近は奏様も眠っていることが多いですし。それを外から連れてきた誰かに伝えれば、あっというまです」
響家では代々、当主になる者の許嫁を決めている。それが異能を作るため、血を濃くするため、とまでは、目の前の使用人も知らないだろうが、それでも、奏が響の正妻になるということは、二人が正式に籍を入れる前から知っているはず。
そんな中、外から割り込み、妾ではありながらも響の妻、という名を奪取した不届き者がいることを、目の前の使用人だって知っている。……そして、多くの者が、彼女と同じような理解を得ているということを、響崇は知っている。
「今日戻られたのもそのためですよ、きっと。ああ、もしかしたら外の誰かに見られたのかもしれません。だから慌てて出て行かれたのです。水花様はいつもなにも持たずに帰られますもの。見られたとしても、出ていくのは簡単です。ああ、そのことをわたしが早く気づいていれば、水花様を……」
「バッグは?」
きょとん、と。使用人の暴走が止まる。まるで意味不明の言葉を投げつけられたように、目を瞬いている。
「水花はバッグを持っていた。結婚式にでも持っていくような、白くて光沢のあるバッグだ」
「そんな。お食事のときにはなにも……」
「じゃあ、食事前に自分の部屋にでも置いたんだろう。水花は昼食前に、ここに寄ったんだ。そのときは、バッグを持っていた」
たまに戻ってくる水花は、確かに旅行鞄のような大荷物は持たない。衣類などは別に運び込ませるので、彼女自身の荷物にはならない。
だが、最低限の化粧品や財布などは、彼女とて肌身離さず持っている。そのためのバッグも、当然。
「いくら水花が身軽だとは言え、バッグは持ち出すだろう。金もなしに逃げ出そうなんて、そこまで馬鹿じゃない」
でも、と言いかけた女の声を、崇は強引に遮った。
「もちろん、こんなことで水花の疑いが晴れることはないだろう。だが、そもそも水花を疑うべき、という考えも間違っている。――まずやるべきは、奏を捜すことだ」
ようやっと、崇は自身の決断を口にできた。使用人の女も、それには異論などないらしく、背筋を伸ばして崇の言葉を聞いている。
だから、崇は響の当主として、彼女に命令を下した。
「君は手の空いている者に奏を捜すように伝えろ。軽はずみな想像は口にするなよ。ただ、君が目にした、耳にした事実だけをそのまま伝えるんだ。……森に向かったらしいから、特に森の中を捜せ、と」
行くように手振りで示すと、女は「はい」と使用人らしく返事をして、当主の書斎を後にする。
「…………」
ようやく一人に戻って、崇は溜め息を吐く。普段は、こんな直接的に水花の悪口を聞くことはない。意図せず、使用人たちの陰口を聞いてしまうことは何度かあるが。広い屋敷に相応しく、多くの人を雇い入れているのが、その要因。あとは親戚など、響の姓を持たない人間がいるのも大きい。彼らは使用人たちのような慎みなどないから、余計に性質が悪い。
「……いや、いまはそんなことを考えている場合ではないか」
一人で部屋を出ていったのか、誰かに攫われたのか、それすら、いまはどちらでもかまわない。まずは、奏を見つけ出さねば。そのための捜索を、開始せねば。
……そのために。
いよいよ、響崇は決意を固める。正面の扉に向けていた視線を、ふと下へと落とす。自分の机、そのさらに下の引き出しに向けて。崇は、そっと手を伸ばし――――。
本格的な捜索に入る前に、崇は奏の部屋に向かった。結果は、使用人の言葉が嘘ではない、ということがわかっただけだ。いや、水花の証言が真実だったと見るべきか。どちらにせよ、いまはどうでもいい。重要なのは、奏を見つけ出すことだ。
……だが、どこへ行った?
水花の言では、奏は森へ向かっていたという。きっと、バルコニーから見てその姿を見つけたに違いない。なら、バルコニーの真下から、北東のほうか……。
周囲からは、使用人たちの捜索の声が聞こえる。みな、口々に奏の名を呼んでいる。その声が聞こえているということは、まだ奏は見つかっていない。
崇は幅広の道から逸れて、木々の中へと分け入った。ここは響の敷地内、森と言っても、憩いの場としての人工のモノ。人が通るために整備された道が用意されている。本館から裏の離れに続く大きな道が伸びていて、それは誰の目にも明らかな、わかりやすい道だ。崇はその道から外れて、外見上は木々に覆われて見つけることが困難な、隠れた道へと入っていく。
これら隠された道は、人が擦れ違えるていどの道幅にしか作られていない。また、この道の存在を知るのも限られた者だけだから、中心となる道から外れた途端、人の声はぐっと少なくなる。
人目もなく、使用人たちの声も遠くから聞こえるだけとなって、崇はようやく堪えていたものを吐き出した。
周囲から聞こえていたのは、なにも奏を捜す声だけではない。
――見つかったか。
――一体どこに。
――ただ捜しても意味なんて。
――水花様が連れ去ったんだから。
――奏様が邪魔なんだ。
――自分が正妻になろうと。
――余所者なんて入れるべきでは。
当然と囁かれる、数々の悪意。なぜ彼らは、彼女のことをそんなふうに責めたてるのだろうか。
……わかっていることだ。
それが、『響』の在り方……。
響は、異能の一族。異能の多くは、自身の血を濃くするために、身内だけで代を存続させることが多い。外部の血を受け付けず、ゆえに、余所者は異物として排斥しようとする。
水花の旧姓は、霧峰。響とはなんの縁もない、赤の他人。
……しかも。
彼女の家もまた、異能の一族だ。それを知って、先代が過剰に彼女を嫌うのも、事態の悪化に拍車をかけている。余所の異能の血が混ざると災いが起こるとかなんとか。いままで築き上げてきた均衡が崩れ、最悪の災厄が降り注ぐだろう……。
……馬鹿げている。
そもそも、親戚同士、下手をすれば兄妹同士で婚姻を結ばせようとする習慣が、すでに時代遅れだ。医学の見地からしても、近親相姦は障害を持った子どもを造りやすく、血を濃くするどころか、一族の破滅を加速させる。
そうとも――。過去の歴史の中で、奇病や自殺などで亡くなったとされる響の祖先たちは、それが原因ではないのか。
そうだとも――。それが真っ当な解釈だ。魔術とか異能とか、そんな奇天烈な理屈より、万人に認められた医学の理論のほうがよほど釈然とする。
ああ、そうさ――。俺は異能を持たない。だが、それが正常だろう?先代は異能者だと聞くが、実際にそれをこの目で見たことはない。異能で多くの人を救ったとか、異能で病弱な母は亡くなってしまったとか、そんな話を聞くばかりだ。
魔術など、異能など――。所詮は、旧時代からの妄信だ。ああ、なぜ水花も自分が異能の一族だと語るのか。異能が、さも存在するかのように語るのか。わからない。わからない。鼻で嗤っていればいいのだ。魔術なんて、時代遅れ。異能なんて、存在しない。あたしはそんな妄想には付き合ってられなくて、家を飛び出してきたの、と。
ああ――。この事態は、誰が招いた?奏の夢遊病は、きっと心労によるものだ。大人の夢遊病のほとんどはストレスが原因だ。そのストレスの根本はなんだ?周囲からの圧力に他ならない。――あなたこそ響の正妻です。いいえ、他の人が割って入るなど、あってはならないことです。響の嫁はただ一人、あなただけで十分です――。そうだとも、彼らの身勝手な妄信が、水花も奏も傷つけている。この事態は、一体誰が引き起こしたと……………………。
――――その紅が目に入って、足を止める。
ガン、と。頭を殴られたみたいに、身体は動かない。その衝撃に、反動に、心臓はドクンと、一つ大きく脈打った。
目は機能している。耳は機能している。鼻は機能している。――触覚も、機能している。
ここは森の中だ。響の敷地内に用意された、人工の森。その、どこか一角。崇は記憶している。ここは、森の中にひっそりと隠されたスペースの中でも、それなりに気に入っていた場所だ。ツルを巻いたコンクリート製のパーゴラの下に、白で統一された金属製の洒落たテーブルと椅子。テーブルは、それほど大きくはない。椅子も二つしかなく、ちょっとモノを置くスペースとして用意されているだけ。テーブルの上にお弁当を並べるのにはちょうどいいが、あまり近づきすぎると顔同士が触れ合ってしまう。昔、奏と籍を入れる前に、彼女と一緒にここへ来た。二人して椅子に腰かけ、お茶をしつつ、目の前の噴水を眺め、緑を眺め、談笑を交わしていた。――――そこに、紅が混じる。
森の声が聞こえる。それほど強い風でなくても、そよ風ていどで木々の枝は揺れ、葉のざわめきが耳に心地良い。冬のこの時期でも、昼間には鳥の鳴き声が聞こえる。その声を耳にして、俺がなんの鳴き声だろうと漏らすと、奏はなんとかの声ですと優しく答えてくれた。あれは、なんと答えてくれただろうか。生憎、覚えてはいない。正解なんて、対して気にもしていなかった。ただ、彼女がそれを知っていること、そこから会話が生まれたことが、印象深かった。嬉しい、と素直に言ってよいものかは、わからないが。本当に嬉しかったのかも、よくわからない。ただ、普段は見えない彼女の一面を見れて、それに安堵したというなら、きっとそれは正しい。――――そこに、ゴボ、ゴボ、という紅い泡の音が混じる。
緑の香りと、冷たい空気の匂い。奏と過ごしていたときは秋頃だったから、外でお茶をしていてもそれほど寒くはなかった。いや、使用人が気を利かせて、熱めの紅茶に生姜入りのクッキーを焼いてくれたのか。紅茶の香り、クッキーの香り。それと、奏の香り。もともと化粧は最小に抑えるタイプだから、彼女独自の香りを強く感じることができた。蜂蜜やメイプルシロップとはまた違う、独特な甘い色香。――――そこに、鉄錆びた紅の臭いが混じる。
緑の芝の上に、その紅は拡がっていく。あまりの鮮烈さに、周囲は空白のように色を失って見える。いや、その紅しか、目に入ってこない。もう冬だというのに、夏のような熱気と噎せ返るような臭気に満ちている。
――紅に染った、アレはなんだ?
いままで紅という色しか認識できなかったその中に、黒い線が引かれていることに気づいた。いや、それは線ではなく輪郭だ。最初は椅子かと思った。大きめの、この場所に配された椅子とは別の……。
すぐに、それは椅子ではないことに気づく。ではなんだろう?リクライニングチェア?マッサージチェア?どうしても、椅子から離れない。
なぜ椅子をイメージしたのか、ようやっと理解する。……あれは、椅子に寝そべる人の形に似ているのだ。背中を後ろに反るようにして、両手をだらりと前に垂らしている。
――そして。
目を凝らさなければ輪郭も見えないくらい、ソレは赤黒く染め上げられている――――。
服も、スカートも、足の先も。肩も、腕も、指の先も。口も、鼻も、頬も、耳も、目も、額も、髪の先も。大きく引き裂かれた首元から迸る自分の血液によって、自身を満遍なく染め上げている。
果たして、これは現実か?悪夢の間違いではないのか?そうとも、こんな現実があってたまるか。俺は知らず知らずのうちに兎の穴を転げ落ち、不思議の国に迷い込んでしまったのではないか?
「……」
さあ、なにかするんだ。夢から醒めるための。この悪夢を終わらせるための、なにかを。そうだろう……?
…………カ、ナ、デ、
彼女の目は上向いたままで、口は恐怖の絶叫を上げた状態で歪み硬直している。この悪夢を引き起こした張本人が誰なのか、彼女は遺すこともできずに、逝ってしまった。
――だが。
崇は、気づいている。
目の前にいる、こいつこそが――。
彼女の返り血を浴びて、そいつは身体中を汚している。特に、凶器を振り下ろしたであろう右腕を中心とした部分がどす黒く濡れている。
――ねえ、あなたはどっちを疑ってるの?
水花の声が囁きかける。
なんだ、おまえもここにいたのか?それもそうか。おまえは奏の後を追ってきたんだから。だが、どうして姿が見えないんだ?どこかに隠れたまま、俺に声をかけたのか?
……ああ、いまはそんなこと、どうでもいいか。おまえの質問に、ちゃんと答えないとな。
右手にぶら下がった重りを、持ち上げる。照準は、あいつの頭部。距離は、二メートル。いや、三メートルか?大丈夫だ、外さない。森に入る前に安全装置も外している。当然だろう?なにがあるかわからない。…………いや、
ナニガデルカワカラナイ
ああ、いや……。それの正体は、気づいていたんだ。だが、それがどれほどの怪物なのかは知らなかったというだけで。だって、そうだろう?それがどんな異能なのかは、この目で見るまでわからないのだから。
いや、これは響の異能ですらない。先代の言うとおりだ。外の血が混ざると、災厄が産まれる。いや、悪魔か。響にとり憑いた悪魔。響を内側から喰い滅ぼそうとする最悪の怪物。
――わかりきった質問だったかしら。
ああ、わかっていたとも。だから俺はこいつを閉じ込めていた。誰の目にも触れないように、隔離していたんだ。
だが、それでも駄目だった。こいつは、なんらかの手段を使ってあの檻から抜け出した。いや、そもそも俺が甘かったのだ。閉じ込めるなら徹底的に縛りつけておくべきだったんだ。
いや……。
……いっそ。
ああ、そうとも。俺は疑っていた。奏のように、信じきることができなかった。だから、近寄れなかった。無邪気な顔の下にどんな怪物を飼っているのか、俺は怖くて怖くて堪らなかった。
だが、怯えるのはもう終わりだ。噛みつかれた以上、こちらも黙ってはいられない。反撃のときなのだ。いや、ここで断たねばならない。呪われた血を代々受け継いできた響の一族。無能の俺だからこそ、異能なんてものを否定することができる。
――目覚めてしまった怪物を…………。
ふと、ヤツの眼を覗いてしまった。なんの感情の色も宿さない、無機の瞳。この惨劇を引き起こしておきながら、コイツはなにも感じていないのか?
いや、コイツの内に巣食っているのは呪いだ。響を、全てを破壊しようという、最悪の呪い。彼女は手始めに過ぎない。次はオマエヲ――――。
――――ガォン。
銃声は聴こえなかった。ただ、その余波である残響だけがいつまでも体内で共鳴し合い、それにようやく気づいて、崇は事態を認識した。
紅い奏の身の上に、もう一つのオブジェが横たわっている。引き金を引いた右腕が震えているが、握った拳銃はいまだに離さない。
倒れるとき、ソレは顔面から突っ込むのではなく、衝撃に頭を横に逸らしていた。だから、ソレの眼が崇からも見えてしまう。――――無機の瞳。感情を宿さない光。自身の汚れた腕も、この結末も、まるで興味がないとばかりに…………。
崇は身震いした。確かに、そこにはなんの感情もない。ただ事実だけを受け入れ、そして事実だけを積み上げていく。――その、呪われた存在。呪いという、存在。
「――――彩――――――――」
それが、響崇の限界。この世に生を与えてしまった我が子の名を、自分が撃ち殺した息子の名を口にする、それだけが――――――――。
辺りは暗闇だった。あまりの暗さにここがどこなのか、なにがあるのかちっともわからない。ただ、なにやら周囲が騒々しい。なんだか意味のわからない、誰かの喚き声。一体なにごとかと、怪訝に思った彩は、それが自分の絶叫だということに気づいた。
どうやら、自分はなにかから逃れようと身を捩っていたらしい。一体なにから?と、彩は左右の側頭部に触れているモノに気づいた。この暗闇の中、それは白く、亡と浮かび上がる細い腕だ。彩はその腕の先を追って、目の前、自分の瞳を覗き込むように額を合わせた、その顔に気づく。
彩は反射的に悲鳴を上げながら、一気に身を引いた。だが、彩の側頭部を掴む手の圧力は、そのていどでは外れない。彩は咄嗟に両手を振り上げ、その白い腕を強打する。反動で力が緩み、彩はようやくその腕から抜け出した。
「大丈夫?」
どこかから声が降ってきた。目の前で屈んだ、少女ではない。だが、それは少女の声音をしていた。彩は声の主を捜そうと辺りを見回し、屈んだ長髪の少女のすぐ隣、もう一人の、こちらは髪の短い少女が立っていることに気づく。
「気がついた?」
まじまじと見上げる彩に、その少女はもう一度問いを投げる。
闇に覆われていた視界が、ようやく薄闇ていどになり、彩は周囲を、細部とまではいかないが、概ね見渡すことができた。――正方形に近い部屋、壁を覆うショウケース、中に入っているのは人体を模した各部のパーツ。
――命に案内された、部屋?
カチリ、と彩の意識が記録と噛み合う。ふらつきながら、彩はなんとか立ち上がる。痛みは、ない。彩の感覚遮断は、こんな状況でもちゃんと機能している。が、地面がぐらつくような、この妙な身体のふらつきはなかなか消えない。船酔いとか、そういう類か?
「…………あれが、父さんの記憶…………」
そう、と命の頷きが遠くに聞こえる。彩の耳には届いていたが、いまは、そんなことはどうでもよかった。
――あれが、記憶…………。
それは過去に起こったこと。偽造することのできない、絶対の事実。
――十年前に起きたのは、事故じゃなかったのか……?
そう、彩は教えられていた。
だが、彩が追体験した、あれはなんだ?森の中にあったのは、響奏の惨殺死体だった。そう、惨殺死体。彼女も、十年前に亡くなったことを、彩も知っている。事故のせいかまでは知らされていない。ただ、そのとき薫が産まれたから、彩はてっきり、出産によるものだと、そう思い込んでいた。それが……。
……母さんは、どうした?
水花も、確か十年前の事故に巻き込まれ、亡くなったはずだ。彩だけが、奇跡的に助かった。だったら、あの記憶と併せて、どう解釈すればいい?
決まっている――。
――水花も、奏と同様に■■サレテ。
身体のふらつきが、ようやく収まった。ああ、そうだとも。意識が、ようやく自分の身体に馴染んできたのだ。彩は、感覚しない。崇みたいに、動揺で鼓動が跳ねる、なんてこともない。過去の事実を知っても、彩の身体は、こんなにも平然としている――――。
「……ハ……ハハハ、ハ…………」
乾いた笑いが、自然、漏れる。目の前に、自分の右手がかざされる。白い手袋、遠い昔――いや――十年前の事故の後、入院先の病院で、偶然出会った女性から貰ったモノ。
――いつも、それをつけておきなさい。きっと、その手袋があなたを守ってくれる。
あの女性はなんと言っていた?
――あなたのその力がどうしても必要なときには、それを外してもいいわ。
ああ、そうだ。
――忘れないで。必要なときだけだから。
そう、だ。
――もしも遊び半分でその性質に頼ろうとするなら。
彼女は、言った。
君はとんでもないことをしてしまう――。
笑いが、止まらない。
彩は、すでにとんでもないことをしてしまった後だっていうのに。もう、取り返しのつかないことを犯ってしまった直後だというのに。
――きっと、その手袋があなたを守ってくれる。
遅いんだ。もう遅いんだ。俺は、この手で……。
「壊シタ」
ハッと、彩は顔を上げた。手袋を視界から外し、いままで見ないようにしていたモノを、直視する。
暗闇の中、ソレはまだしゃがみこんでいた。大量の髪に隠れて表情は見えないが、その爛々と輝く眼光が、ジッと彩を見上げている。
彩に崇の『記憶』を見せた『過去』の異能を司る少女。彼女が発した声は、しかし少女の音色をしていなかった。――――まるで――――低く抑えた、男性の怨嗟。
「オマエガ、壊シタ」
その聲が誰のモノか、彩はすぐに判別する。
――響崇。
記憶の中で聞いた声。その視点と同化することで共有した感情。――悪魔。響家に巣食う呪い。響を喰い殺そうとする怪物。奏を■した。己を産んでくれた水花も■した。そして、崇までも…………。
「オマエガ、、、、、、、、、、、、」
彩は後退る。違う、と叫びたいのに、どうしても声にすることができない。ただ、否定するように、拒絶するように首を横に振るばかり。
なにを否定する?否定できるのか?拒絶して、なかったことにするつもりか?なかったことに、できるとでも?いまだって、アザヤヲ――――。
――――オマエガ、、、、、、、、、、、、ガ、、、、、、、、、、、、ガ、、、、、、、、、、、、、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガガガガガガガガガガガガ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、!
「……!」
彩は逃げ出した。この闇から。その影から。――――あの亡霊から。
だが、一体どこへ逃げるというのか。だって……………………彩自身が、全ての、元凶。
走って、走って、走って…………。
とにかく、あの場所から逃げ出す一心で、走った。
こんなときでも、彩の記録は大いに役立った。命の案内がなければ抜け出せない迷宮も、一度経験してしまえば、入口までのルートを辿るのはわけなかった。
もう彩には許された立入禁止の場所を抜け、地下図書室を通り過ぎ、地上へと駆け上がった。門限を破って散歩に出ている、という意識は、あまり働かなかった。彩の駆け足に誰かが気づいたかもしれないが、それを振り返って確認する気など、彩にはない。いや、誰かに気づかれたところで、彩は気にしなかったかもしれない。
彩は、月夜の下を駆けていた。屋敷の中とは違う闇の明るさ、それくらいしか、彩には違いがわからない。十二月も末だから、虫の声も聞こえない。この季節特有の寒さも、彩は感じない。響の屋敷では室内でも靴を脱がないから、直接草を踏むことはないが、きっと彩なら、靴を履いてなくてもそんなもの、感じはしない。
まるで、目的もなく、ただがむしゃらに駆けているようにも見える。荒々しく、一心不乱に走る様。
が――。
――その場所に辿り着くと、彩は足を止めた。
響の敷地の中にある、森。その中に隠された空間の、一つ。そこが目的地だと、彩にはすぐにわかった。
薄闇の中に浮かぶ、二つの影。
一つは、石材でくりぬかれた円い器。中には雨水が溜まり、木の葉が浮いている。夜闇ではわからないが、きっと何年も放置されていたせいで、濁った水を湛えているだろう。
もう一つは、彩の背丈も横幅も優に超える、ツタの塊。もはや巻きつく先を失って、地面の草も呑み込む勢いで、なおもツタは伸び続けている。
もう、ずっと整備もされていないのか、芝も彩の腰丈ほどに伸び、石の器はツタの塊との位置関係から辛うじて判別できたようなものだ。
――ここが、十年前の…………。
あの事件以来、ずっと放置されてしまった場所。噴水は止まり、代わりに雨水を抱えるだけの空洞となり。ツタを絡めたパーゴラは、すっかりその意味を失い、憩いのためのテーブルも椅子もその腹の中に呑み込んでしまった。
……そうとも。
あれは、事件だ……。
いままで、彩が教え聞かされてきたような、事故などではなかった。
水花の姿は、あの記憶の中からは見つけられなかったが、きっと、単なる事故死、とはいかないだろう。なぜなら、事故とは無関係だと思っていた奏が、完膚なきまでに惨殺されていた。
……そして。
彼女の前にいたのが…………。
ふと、彩はその空洞に気づく。十年も放置され、草も伸び放題となったこの場所で、唯一、雑草の生えない、地面が剥き出しになった箇所がある。
……ああ、なんだ。
その異常に、彩は当然の帰着であるかのように、すんなりと納得した。
――そこが、十年前の現場か。
響奏が血塗れで転がっていた場所。
――そして。
響彩が、響奏の返り血を浴びて立っていた場所――。
そこで……。
彩は……………………。
――――ガォン。
彩は、感覚しない。頭部への衝撃も、頭蓋の異物感も、ない。
だから、触れる必要はない。そこには、もうなにもない。……なんの後遺症もなく、こうして彩は、生きている。
「奇跡的に助かった、か……」
自然、笑いが込み上げてくる。その嗤いを、抑えることができない。
それは、奇跡ではなく悪夢なのではないか。人殺しである自分がのうのうと生きているなど。頭に銃弾をもらっておきながら生き残るなんて…………なんて、生き汚い。
空を仰ぎ、抑えきれない嘲笑を彩は夜闇に放った。今日は、月が出ている。月は人を狂わせるんだったか。果たして、いまの彩は正気か?彩自身が正気だと思っていても、狂人の言など、あてになるのか?証明する術なんて、ないじゃないか。
――いっそ、このまま狂って。
いや。
このまま、■■レテ――。
どれくらい笑っていたのか、彩は知らない。感覚しない彩は、時間の経過すら認知しない。
だが、そんな情報は不要だった。ただ、気が済んだように笑いやんで、彩はその場を後にする。もう、この場所は用済みだとばかりに、振り返ることもせず――――彩は、響の屋敷を後にした。
陽はほとんど沈みかけていた。辺りは濃い茜色で、もう少ししたら完全に闇が下りる。十二月のこの時期は陽が落ちるのが早いから、時間としては五時頃か。
彩がいるのは、東波高校の近くにある公園だ。狭い敷地の割に遊具が多く、子どもが遊ぶ環境としては申し分ない。だが、ここで遊ぶ子どもの姿を、丸一日ここで過ごした彩は、しかし見ていない。確かに、公園そのものの環境は子ども向きではあるが、周りの環境が人を寄せつけるようには、開かれていない。
大通りから外れた裏道側にあるこの公園。目の前にあるのは大通りへと通じる細い道。この細い道を、かなりの数の車が猛スピードで突っ走っていく。地元の連中には、大通りへのショートカットとして重宝されている道だ。そのためか、時間に追われるドライバーたちが無遠慮にこの道を利用する。
それを、近くに暮らす住民たちはよくよく心得ている。だから、親たちは自分の子どもに、この公園では遊ばないよう、注意している。いまどきの子どもは公園の遊具に魅力を感じないのか、親の言いつけを素直に守り、だからこの公園で彩は一日中、一人で過ごすことができた。
過ごすといっても、特にすることはない。早朝、陽が昇る前は町のほうをぶらついていたが、目当ての場所もないので、仕方なくこの場所に落ちついただけに過ぎない。本屋で立ち読みする気にもなれないし、町中では座る場所を得るのにも、金がいる。なにより、人気がない場所という条件を出すと、ここがどこよりも最適だった。
一人、ただベンチに腰掛け、地面にできる影から太陽の運行を追って、いまようやく、太陽が一日の役目を終えようとしている。
――屋敷を飛び出してから、もう十二時間以上か。
結局、昨日から一睡もしていないが、特に身体の異常は感じない。眠気など、もとより彩は感覚しない。不調そのものがないから、きっと記憶を見ている間は夢を見ているときに近いのだろう。なら、睡眠不足を心配する必要はない。
どちらかといえば、いま重要なのは栄養不足か。だが、朝も昼も食べていないが、彩の感覚遮断は遺憾なく発揮され、空腹もない。その苦痛がなければ、一日くらい食事を抜いても大丈夫だ。栄養不足では、人間は一週間くらい保つんだったか。
――で、これからどうするか。
ようやく落ち着いた彩は、今更のように思考を始める。
とてもじゃないが、いままで少しも神経が休まらなかった。外見はどうだったろうか。今更、考えたところでどうしようもないが。そもそも、誰がこの辺りを通ったのか、それすら意識に入らなかった。
……我ながらキてるな。
相当、アレが堪えたらしい。耐えられずに逃げ出すなんて、一体何歳の子どものすることだ。――だが、彩にとってあの記憶は、それほどの衝撃をもっていた。
響崇が彩を勘当したのは正当だったと、いまなら思える。いや、それでも温いくらいだ。実際、崇は彩を始末しようとして、そして失敗した。その後だって、いくらでも彩を消す機会はあっただろうに。そもそも、病院になんて運ばなければ、いまごろ…………。
世間体、というやつか?実の息子を銃殺しようとしておきながら、世間体もなにもないものだが。それでも、崇は彩を病院に運ぶことを認めた。そのうえで、彩が助かったなら、親戚の三樹谷の家に放り込む。三樹谷夫妻は、知っていたのか?彩が、奏や水花を惨殺した、人殺しだと……?
「意味がある、か……」
視線を手元に落としながら、ぽつり、彩は呟きを漏らす。
十年前、入院先の病院で、出会った女性からもらった、白い手袋。そのとき、彼女に言われた言葉を思い出す。いや、記録から引っ張り出すだけか。彩にとっては、そのていどの作業。
「――この世界に存在しているものには、必ず意味がある」
つい、乾いた笑みが漏れる。
「この〝破壊〟にも、本当に意味があるのか?」
ただ、破壊するだけのこの感覚。そこに選択性はなく〝感覚〟だけがトリガーとなる。
なら、なにも感覚しなければいいと思っていた。だから、感覚を殺してきた。その破壊は、なにも物質だけではない。彩の感覚が染みついた場所には草も生えないように。それは、生命にも害を及ぼす。
だから……。
誰かと接することを避け続けた。不用意に誰かに触れてしまえば、途端にその誰かを壊しかねないから。
十年間、そうし続けてきた。これからも、それを続けるつもりだった。そうすれば、響彩という危険がこの世に存っても、なにも――誰も――壊しはしない。
……なのに。
結局、そんな十年間の行為も、根本のところで無意味だった。彩はすでに〝破壊〟していた。完膚なきまでに。都合良く、そのときの記録は破損して、いまのいままで気づかないまま、平然と生きてきた。
「これから、どうするか……」
なんとはなしに、呟いてみる。いい加減、陽も暮れて薄闇が周囲を覆い始めている。
ここで野宿か、なんて思いつきは、案外、最適な解かもしれない。ホテルを使えば、自然、カードを使わざるをえない。そのとき、銀行からの引き落としで鮮の耳に入る可能性がある。足跡を残さない、というなら、野宿はまさしく最適だ。
だとしても、問題はある。いまは十二月。寒空の下、ただ地面の上、あるいはベンチの上で一晩を明かすというのは、なかなか厳しい。彩自身は感覚しなくても、彩の肉体までも人外の代物というわけではない。長時間、冷気に曝され続ければ体調を崩す。なにか、寒さを凌ぐものが必要だ。
そういえば、と。彩は記録の中から、その情報を見つけ出す。
「近くのスーパーに、無料の段ボールがあったはずだ」
普段、彩はスーパーなど利用しないが、過去の記録の中に、そういう情報があった。店の外にスペースがあって、店員に断りなく、勝手に持ち出していいんだとか。
なら、と。彩はかれこれ十時間振りくらいに立ち上がる。スーパーへ行くのも久し振りだが、彩の記録はこういうときに役に立つ。細い裏道を抜け、交通量の多い大通りも渡って、スーパーまで十分ほどの足取りで辿り着く。
セールの時間は過ぎたはずだが、彩の目からすれば、まだそこそこに人の数がある。だが、不平は言ってられない。段ボールが置いてあるのは、入口の隣、少し離れた位置だ。そこには、どうしても向かわなければならない。
……ああ、いまもちゃんとあるか。
段ボールの量は、申し分ないほど揃っている。あとは、彩の身体を包むのにちょうどいい大きさのものがあるかを探すだけ。
「響じゃねえか。珍しいな、こんなところで」
不意にかけられた声に、彩は無表情のまま振り返る。特に驚きはない。声から、それが誰なのかすぐに判別できたからだ。
私服の佐久間が、テニスラケットでも入れるような縦長のバッグを肩に担いで立っていた。買い物に来た、というよりは、試合後か遠征後にふらっと立ち寄ったような格好だ。
「段ボールなんか漁って、また引越しでもするのか?それとも、野宿か?」
特に意識しているふうでもない、思ったままを口にする佐久間。その何気なさが妙におかしくて、つい彩は口の端を吊り上げていた。
「おまえにしては勘がいいな。――後者だ」
あん?と佐久間は怪訝そうに眉根を寄せる。しばし、数瞬前の自分のセリフを思い出すことに苦心して、ようやく佐久間は彩の言葉の意味を理解する。理解した途端、大げさに溜め息を吐いてみせる。
「おまえ、もう実家戻ったんだろ。それでもこれかよ」
彩はなにも言わない。佐久間とは中学からの付き合いで、彩が親戚の三樹谷の家にいたことも、佐久間は知っている。食事の時間を合わせないことや、言葉を交わすのも年に数回ていど、なんて内情も、訊かれるがままに答えていた。土日も、日中は本屋に入り浸って時間を潰していたことも、佐久間はよくよく知っている。
佐久間は人目も気にせず口を大きく開き、なんだか意味のない声を漏らしながら、ガリガリと荷物を背負っていないほうの手で後頭部をかきだした。
と、十秒くらいそんな奇態を曝した後で、佐久間は一息吐き出して切り替え、半目で彩のほうを見返した。半目なのに口元は笑みの形に吊り上げているという、なんとも珍妙な表情だ。
「仕方ねーな。俺んトコ泊めてやるよ」
その代わり買い出しは手伝えよ、なんて、もう彩の了承を得たかのようにスーパーの入口へさっさと向かってしまう。
彩は、返事もしないで二秒だけ思考した。たった二秒、だが、答えを見出すには、十分な時間だ。彩は段ボールから手を離し、変わらず無表情のまま佐久間の背中を追った。
「ほら、入れ入れ」
佐久間がドアを開けて家の中へ入っていく。佐久間に続いて、彩は閉まりかけたドアを支え、敷居をくぐる。「お邪魔します」なんて呟く彩に、佐久間はすぐに反応して振り返った。
「そんなことしなくていいって。いまは姉貴もいねえし」
佐久間の家に通されたわけだが、実際には、佐久間の寝床という意味合いのほうが適切だ。というのも、ここは佐久間の姉の家であって、両親は別のところに住んでいるらしい。所謂、別居状態。もっとはっきり言ってしまえば、家出中。
細かい事情は、彩も聞いていない。中学で知り合ってからちょくちょく利用させてもらっているので、彩も人のことは言えない。両親だろうと他人の家だろうと、関係ない。居心地が悪ければ出ていく、それは、ごく自然な反応だ。
家といっても、一部屋だけのマンションだ。申し分ていどの台所が隅にあり、そこからなんの仕切りもなく、直接居間に繋がっている。当然、玄関という境もない。
部屋の中はしばらく誰かが使った形跡がなく、妙に小ざっぱりしていた。もっとも、これが普段の佐久間邸の様相とは大きな乖離があることを、彩も十分にわかっている。
「出かけてるのか?」
「バイト。明日の夜に戻ってくるって。今年のうちには戻ってみせる、とか言ってたけどな。ま、姉貴なら本当にやってくれるさ」
なぜか得意気に笑って見せる佐久間。
佐久間・姉が一体どんなバイトをしているのか、彩も知らない。だが、まあ、あの人ならなんでもありかと納得してしまうていどには、彩も彼女のことを知っている。
ドン、と。佐久間はテーブルの上に買い物の袋を置いて、中身を広げていく。
「じゃ、早速晩飯の支度だ。おら、響。おまえも手伝え」
彩もまた、持たされた袋を床の上に置く。彩が受け持ったのは飲み物やお菓子関係。まずは佐久間の持っていた食材関係が先だろうと、台所と冷蔵庫を塞がない位置に自分の袋を移動させる。
「ずっとここを空けてたのか?」
「おう。休み前に言ったろ?バイトだって。遠出だから泊まり込み。いつも通りさ」
「それで、今日の帰りか」
おうよ、と佐久間はしれっと応えた。
――まあ、こいつがバイトをするのは、当然と言えば当然か。
学費は一応、両親のほうから出してもらったらしいが、どうも訊いていると、それは佐久間の借金、という形で賄われているらしい。将来的には、親にその負担を返さないといけないし、なにより、いまの生活費は自分で稼がないといけない。
ほとんど育児放棄気味の親の代わりに、こうして佐久間は姉のもとに身を置いているが、それだって、姉に頼り切り、というわけにはいかない。なにより、佐久間・姉もまた、大学を中退したフリーターであるらしい。この佐久間・姉の家を維持するためにも、佐久間は暇を見つけてはバイトをしている。
「で、手伝えって、なにをすればいい?」
「鍋作るから、そこに出した野菜、剥いて洗っとけ」
テーブルの上に広げられたのは、白菜に大根、人参にネギにキノコ類。あと、佐久間が冷蔵庫にしまっているのは、豚のバラや鳥のつくねといった肉類。
彩は狭い台所に野菜を運び込み、冷蔵庫にぶら下がっていたビニール袋を一枚とって、野菜を包んでいた袋を直接ゴミ袋へと放り込んでいく。
隣で鍋を取り出していた佐久間が、ついでのように彩に水切りネットを渡してくる。中学からのやり取りだから、慣れたもの。三角コーナーにネットをつけると、切った野菜の芯やヘタを次々と放り込んでいく。食べるほうは、コンロの上に置かれた鍋に入れていく。
米も並行で炊いたから、晩飯ができあがったのは、それから一時間半後。今日は佐久間・姉が帰って来ないから、二人してさっさと食事の時間にした。
「それで、響。いつまでいるよ」
「とりあえず、三学期始まるまで」
「荷物は?おまえ手ぶらだろ」
「始業式の午前一時とかに忍び込んで、必要なものだけ回収する」
ふーん、と気のない声を漏らす佐久間。
「それで、響としては問題ないと」
「ああ。宿題も終わってるからな」
なにぃ、と佐久間が色めき立つ。
「じゃあ、泊まらせてやる代わりに答え教えろ。つか、俺の代わりに宿題やれ」
「ああ、それもいいな。おまえ風の解答を作るのも、いい時間潰しになりそうだ」
「俺風じゃダメだろ!おまえの解答をそのまま書けよ」
「それじゃ、俺が手伝ったってバレるだろ。感謝しろ、俺が手を貸したと教師たちにバレないように、徹底的にやるから」
「絶対そんなことはさせねぇ。よし、おまえがちゃんとやってるか、俺が見張ってやる……!」
「俺が真面目な答えを書いてるかって、おまえにわかるのか?」
「わかるわけねえだろ!ああ、クソ!これじゃ見張っても意味ねーじゃねーか!」
そんな他愛もない会話を交わしながらの食事ではあったが、しかし佐久間は彩が家を出た事情には触れなかった。佐久間も実家を出て姉の家に居候している身だ、出過ぎた真似をしても意味がないと思っているのか。
――それにしては、学校ではちょくちょく訊かれている気がするが。
まあ、話さなくていいなら、そっちのほうが都合がいい。これ以上、虚偽になるかもしれない申告はしなくて済むなら、それは好都合と受け取っておく。
……そうとも。
三学期になって、東波高校に登校するか、実のところは未確定だ。いまのところは、三学期が始まる日まで世話になるつもりでいるが、気が変われば明日、佐久間・姉が帰ってくる前にここを出ていくことも考慮に入れておかなければならない。
――いつ、この町を出ていくのか…………。
つい、これまでの経験から佐久間の家に来てしまったが、そう長居できるわけもない。冬休み中は、いままでの理由でなんとかなるだろうが、それ以降は、さすがに無理だ。
――荷物を取りにいくフリをして出ていくのが、最良の手か。
金を稼ぐ方法について、改めて佐久間・姉に訊くのも手だろう。怪しまれないよう、注意は必要だが。それが無理なら、彼女が帰ってくる前に出ていくのも手の一つだが、そこまで性急だとは、彩も思っていない。なにより、鮮も三樹谷夫妻も、佐久間のことは知らないのだから。
食事も終わり、佐久間は疲れたといってすぐに横になったので、彩も付き合って電気を消した部屋の中で寝転がる。部屋の中で、なおかつタオルケットまで借りているのだ、外よりはずっとマシだ。それに彩自身、寝心地の悪さなんてものも感じないから、当初よりもずっと良い環境だ。
「…………」
佐久間はすぐに寝てしまった。疲れとか関係なく、佐久間は数秒もあれば寝れるやつだ。休みに入れば遠くにでもバイトに出かけ、移動中に休息をとらなければならない生活をしていれば、自然こうなるらしい。
彩も、目を閉じて感覚を落としていく。いつもより早いが、散歩も、今日はなしだ。ああ、そういえばなにも持ち出してないから、本もない。明日、買いに出るか。ほかは…………。