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一章

 適応力は人間の備える優れた能力であるとともに、変化を凡庸(ぼんよう)(おとし)める疎ましい性質でもある。多少の変化は許容として受け入れ、その変わってしまった環境が数日も続けば、人はそれを当たり前として受け入れる。だが一方で、この変化した関係というものを周囲が当然として受け入れるようになると、響彩(ひびきさい)はいささかの窮屈を覚える。

 十二月もあと一週間ほど。寒さは相変わらず、どころか、ますます酷くなっているだろう。だろう、というのは、響彩が寒さというものを意識していないからだ。周囲が厚手のコートやマフラー、手袋を肌身離さないのに対して、彩はコートもマフラーもつけない。唯一、白い手袋をはめているが、それも冬用ではないので、防寒の意味にはならない。

 朝の七時をいくらかすぎた頃で、坂の上には彩以外に人の姿もなく、聞こえるのは鳥の声くらい。こんな朝早い時間、というのもあるが、周囲には民家もなく、ただ樹木が等間隔に並ぶばかりなので、それも当然。

 この長い坂は、上り半分は響家の所有物で、そのため民家はない。下り半分から住宅地に入るが、その分かれ目であるミラーの下に、当然のように居座っている人間が一名。

「おはよう。響くん」

 大声を出さずとも声が届くところまで彩が下りてくると、間宮黎深(まみやれいみ)は笑顔で声をかけてくる。対する彩は「ああ」と返すだけで、素通りする。そんな彩の冷やかな態度に、しかし間宮は気にする素振りも見せず、彩の隣に並ぶ。

 彩と間宮は、東波(とうば)高校の二年生。同じクラスだが、こんなふうに並んで登校するようになったのは、一カ月くらい前から。というのは、彩が響の屋敷に引っ越してきたのが、その頃だからだ。

 それまで彩は、親戚である三樹谷(みきたに)夫妻の家に居候していた。小学校に上がる前からだから、十年近く三樹谷家にいたことになる。高校生である彩にとっては、人生の半分以上が他人の家での生活。

 そう。他人……。

 十年間も一緒にいながら、彩が三樹谷夫妻と直接関わったのは、年に数回あるかないか。食事は別で、おばさんである三樹谷(こずえ)が用意したモノを彩が温め直すのが常。必要最低、というか、お互いがお互いを無視し合い、必要を作らないようにしていた、といったほうが適切。だから、十年も同じ家の中で生活していたというのに、それは気の許せない、他人同士が同じ場所をシェアするような感覚に近い。

 そもそも、なぜ彩が三樹谷の家に十年も暮らしていたのか。それは、十年前の事件まで遡る。

 十年前――。

 響彩は、交通事故に遭ったらしい。らしい、というのは、いまでもその実感がもてないから。

 事故の直後に入院していた記録も、事故に遭う前の十年前の屋敷の記録も、全く欠けることなく彩の(なか)にあるのに、事故の瞬間の記録だけは、どこをどう探しても見つからない。だから、響彩が事故に遭った、というのは他人(ひと)から聞かされた、全くの他人事。

 ――そして。

 その事故のために、彩は父親から勘当され、響の屋敷を追い出された。事故に遭い、三日眠り続けた彩に、しかし入院している間、面会に来る人間はいなかった。そのうえ勘当など、普通だったらあり得ない。だが、上流階級である響家にとって、一族に傷をつける存在はできるだけ排除しておきたかったらしい。それがために、彩は十年も三樹谷の家に居候することとなった。

 だが、それも先月で終わった。父親である響(たかし)が亡くなり、響の屋敷は彩の妹が継ぐことになった。……その妹の一存で、彩は響の屋敷に戻された。

 そうして始まった、響の屋敷を起点とした生活。響家も三樹谷家も同じ町の中にあり、高校を挟んで反対方向にあるだけで、距離は変わらない。

 だから、変わったのは起点となる家と、毎日の通学路。

 三樹谷の家から通っていた頃は、彩は一人で東波高校に向かっていた。彩は毎日、校門が開くと同時くらいに高校に着くような、そんな早い時間に出るから、誰かと一緒に登校、なんてこともなければ、そもそも同じ高校に通う生徒たちと並んで歩いたことがない、というのが当たり前だった。

 なのに……。

 響の屋敷に引っ越した翌日から、彩の登校には連れが一人つくようになった。それは、一カ月()ったいまでも変わらない。彩が一向に無視と無口を貫こうとしているのに、そんなことは意に返さず、むしろなんとか振り向かせようと喋り続ける隣人を、彩は引き剥がせないでいる。

「今日は暖かいよね」

 自然体で話しかけてくる間宮に、彩は正直、沈黙を貫いていたい。他人(ひと)とつるむより一人でいるほうが気楽だと、それが響彩の思考であり、嗜好だ。

「そうか?」

 間宮が分厚いダウンコートに身を包んでいるのに対して、彩は学生服のまま、コートもマフラーもつけていない。それでも彩が平気でいられるのは、寒さというものを感覚していないから。……だから彩は間宮の言う、いつもより「暖かい」ことさえ、ぴんとこない。

 うん、と間宮は大きく頷く。

「こう、冬になると肌がピリピリするみたいに冷えるけど。今日はそんな感じしないから、かなり楽。良かったよね、最後の日が暖かくて」

「そういうものか?」

「そういうもの」

 もう、と間宮はオーバーに溜め息を()く。

「響くんのマイペースは筋金入りだね」

「……」

「寒いのが平気どころか、気温の違いも気にしないんだから。まったく、スポーツ向きの身体(からだ)してるよ」

 生まれつき鈍感、というわけではなく、小さい頃からあらゆる感覚を意識しないようにしてきた結果、いまでは意識しなければ温度差どころか痛みさえ、響彩は感覚しない。

 そんな、彩の隠れた苦労を知らない間宮は、やれやれと肩を竦めた後で、急に真顔になって彩を直視する。

「ねえ!響くん」

「入らない」

 即答する彩。一個飛ばしで直撃したストレートに、間宮は抵抗もできずにがくんと傾きかける。

 なんとか踏ん張って、間宮は着飾ることもせずに口を開く。

「えー、いーじゃん」

「なんの部活だろうと、俺は入る気はない。もう何度目だ?このやりとり」

 彩は大概のことは忘れないが、そうでなくても、十二月に入ってから毎日のように勧誘され続けたら、誰だって嫌気がさす。

 それに――。

 改めて、彩は自身の決定を口にする。

「高校を卒業するまで、俺はずっと帰宅部だ」

 誰かと一緒にいることを極力避ける彩だ、部活動なんてモノに入る気は、さらさらない。小、中も部活に入っていなかったのだから、大学に入っても、サークルなんて集まりに足を運ぶことはないだろう。

 ええぇ、と間宮はあからさまにしょげて肩を落とす。

「楽しいのに……」

 心底、間宮とは感性が合わないと、彩は思う。一人でいることを望む彩と、やたらとかまってくる間宮。こんなにも彩は無関心なのだから、いい加減、諦めてくれればいいのに。

「でもねっ。部活は楽しいんだよっ」

 なのに……。

 往生際悪く話を続けるのは、どうしてだろう。こんなにも彩が辛く当たってるのに、全くめげず、どころか、なおも説得を試みる。

「…………」

 溜め息は吐かない。ただ、無視を決め込むだけ。今度こそ、無視してやろう、と。そんなささやかな決意を改めて胸に刻んで、彩は残りの通学路を消化していく。


 朝一番に登校する彩についてきて、間宮はどうするのかといえば、鞄を自分の机にかけて、すぐに部活の朝練に向かっていった。東波高校の陸上部は毎日活動しており、朝練も休みはないらしい。

 もっとも、朝連は義務ではなく、特に出欠はとっていないという。だったら休んでもいいんじゃないか、というのが彩の意見だが、間宮の返答は「みんな出ているから休めない」というもの。

 ……その「みんな」というのも、彩と間宮では認識が大きく違うのだろうが、もはやどうあっても覆せない大きな溝があるような感じだ。

 一方で彩は、三樹谷の家にいた頃から習慣にしている、教室内での読書に専念する。早朝に限らず、休み時間のような暇な時間を、彩は読書で潰している。

 三樹谷の家にいた頃は、おじさんである三樹谷(かげる)の朝が早かったため、彩の朝食も自然、早いものとなった。それから高校の授業が始まるまで、三樹谷の家にいるのか早めに登校をするのか、どっちもやることがないのは変わらない。変わらないから、彩は後者を選んだ。結果、教室内での早朝の読書が習慣になった。

 引っ越したいまはというと、これも結局は同じこと。響の家でも早くに朝食が終わるので、三樹谷の頃の習慣を続けている。

「…………」

 彩の白い指がページをめくる。彩はいつも白い手袋をつけていて、入浴のときくらいしか外さない。

 十年も前に、ある人からもらった手袋――――。

 事故以来、彩はとかくモノを壊しやすくなった。乱暴に扱っているわけではない、触っているだけで、モノのほうが勝手に壊れていく。入院していたときは、身につけていた衣服も、寝床にしていたベッドでさえ、片っぱしから壊れていった。

 それは、響彩の感覚に起因していると、その人は言った。そして、彩の破壊を少しでも抑えるためにと、この白い手袋を彩に渡した。

 なにか特別な処置を施しているらしいが、彩にはただの手袋にしか見えない。それでも、彩は律義に手袋をし続けている。感覚が破壊の原因であるならと、彩は徹底して感覚を意識から外した。十年も続けた結果、暑さ寒さも、痛みさえ、彩は感覚しない。そのせいか、無闇やたらにモノを壊してしまうこともなくなっている。

 静かに読書を続けていた彩だが、その静寂は永遠には続かないことを、彩だって知っている。もとより、授業の前の時間潰しだ、しばらくすれば他の生徒たちがやって来る。がやがやと、周囲の雑音が増していくが、自分に関係がないならと、彩は変わらず読書に没頭する。

 だが――。

「おう、響」

 なんの予兆もなく、唐突に彩の机が揺れる。すぐ目の前にいきなり人の顔が間近に迫ってきて、普通の人間なら驚いて跳び上がっていただろう。だが、彩は動じることなく、視線を紙面に走らせたまま。……こういうのも慣れだとすると、心底いらない性質だ。

 一方、彩の机の上に両腕を乗せて迫ってきた相手――佐久間秀徳(さくまひでのり)――も、まるで悪びれることなく彩の読んでいる本を覗き込む。

「なに読んでんだ?」

 佐久間も間宮と同様、彩に絡んでくる希有(けう)な人間だ。間宮のほうはここ一カ月の関係だが、佐久間は中学の頃からの付き合い。

 秀徳という名前を裏切るように、本人は不良が頭につく少年で、同級生も下級生も上級生も関係なく、校内という枠さえ超えて喧嘩をしていたやつだ。過去形なのは、それは中学までの話で、高校生になって少しは大人になったのか、その手の話は聞かない。

 それでも、不真面目な生徒であることは変わらないようで、教師陣からは目をつけられている一人である。目をつけられてはいるが、実力行使を伴わない遠巻き連中には興味がないらしく、佐久間は一向に素行を改めようとしない。

「『閨房哲学』マルキ・ド・サド著」

 彩が答えると、佐久間はただただ首を(ひね)る。

「……………………なんだ、それ?」

「閨房、ってのは寝室のこと。内容としては、個人の部屋に何人か集まって、ある道楽者の哲学を披露する、ってトコだ」

「へえぇ。……………………ドウラクシャ、ってのは?」

「賭けごととか夜の町で遊ぶようなやつのこと。サドの初期の本だが、印象としては『悪徳の栄え』を優しくしたような感じ」

「…………ああ。やっぱそういう系か」

 佐久間の声が低く落ちる。態度でも示すように、佐久間は身を引いて、他人の椅子に深く座り直す。

「おまえって、よくそんなわけわかんねーの読めるよな」

 あんまりな言い方に、しかし彩はむきになって反論しようなどとはしない。佐久間の本の許容範囲は漫画まで、そんなやつに小説の良さを説いたところで無意味だ。

 彩は視線をページに落としたまま、一応の返答をしておく。

「これはそこまで量はないし、優しいほうだ。山は越えたし、今日中に読み切れる」

 ふーん、と。気のない声を漏らす佐久間。彩もそれ以上に語ることはないので、目の前の相手を放置して読書に集中する。

 ――と。

「……んなことよりよ。おまえ、休み中、暇か?」

 佐久間が別の話題を振ってきて、彩は仕方なく本にしおりを挟んで顔を上げた。

 かかったな、とでも言いたげに、佐久間の口元が吊り上がる。

「今年もいつものトコで空きがある。来るんだったら、俺から言っとくぜ」

 その期待するような()はこう語っている――――来るよな、と。

 今日は二学期の終業式で、明日から冬休み。長期休みには、毎回佐久間からバイトを斡旋される。

 東波高校では、基本的に生徒たちのバイトは禁止されている。もっとも、家庭の事情は考慮されるので、やっている生徒たちも何人かはいる。とは言っても、全てが全て、正規のルートを()ているかは、わからない。佐久間は高校からの許しを得ているらしいが、それは本人からの言なので、信用していいかは怪しい。

 ちなみに、彩は学校側に申請をしていないので、そもそもバイトをすることは、公には認められていない。認められてはいないが、面倒なので彩はなにもしていない。おかげで、夏はそこそこ稼がせてもらった。

 が――。

「――今回はパスだ」

 佐久間の顔が、予想外の返答にぽかんと固まる。数間置いて我を取り戻した佐久間は「ああ?」なんてガラの悪い声を出す。

「なんでだ?どうせ毎年、暇してんだろ?」

 知り合ってからというもの、毎回誘われては毎回のように承諾していた彩である。佐久間の疑問も無理からぬことだ。

 彩は本を鞄にしまいながら、適当に返した。

「それは去年までの話だ。正確に言うと、一カ月前まで、だがな」

 佐久間には、彩が長らく親戚の家にいたことも、そして最近になって実家に戻ったことも話してある。

 その意味を察して、佐久間は「ほほう」なんて気持ちの悪い声を出す。

「家族揃って旅行でも行くのか?」

「さあな。特に予定はきいていないが、休み中は家にいろ、だと」

 父親は一カ月ほど前に亡くなり、母親は十年前の事故のときにすでに他界している。彩と同じ事故だったらしく、彩も助かる見込みは少なかったらしいが、奇跡的に彩だけ一命をとりとめた。

 だから、いまの響の屋敷に両親はおらず、響家をとりまとめているのは、彩の妹だ。父親である響崇は彩を勘当して屋敷から追い出したが、一方で現当主は家族が一緒にいることを望んでいる。何度も何度も、休み中は家にいるようにと言われ、特に用事のない彩は仕方なく了承した――――そういうことにしている。

「それで、年中暇なおまえは、オッケーしたわけだ」

 佐久間の含みのある喜色に、彩は内心で一つ堪えて、余裕の表情を作る。

「そうだな。どこで暇を潰そうが、関係ない。金に困ってるわけじゃないし、なにもしないでいいんなら、そのほうが楽だ」

「おっ?言ったなぁ?次からは紹介しねーぞ」

 そんなふうに、互いに軽口を叩き合う。

 互いに利害はある。佐久間は知り合いの手伝いのために人手を集めている。彩のように毎回参加するのは佐久間くらいで、その佐久間でさえ、皆勤することはない。

 一方で、彩が暇だというのもまた事実。三樹谷家にいたときは、長期の休みには本屋を回ったり、図書館で本を読んだりして時間を潰していた。……響彩にとって、休みとは致命的なのだ。


 終業式なので授業はなく、体育館でお決まりの長話を聞かされたあと、教室に戻って担任からまた小言を頂いて、ようやっと解放される。たった半日のはずなのに、いつも以上に無駄で面倒な一日だ。「校長の長話なんて校内放送で済ませればいいのに」なんて声も、ちらほら聞こえる。確かに、校内放送なら移動時間もなくなるし、整列する手間もなくなる。もしも生徒たちがお喋りしたり寝てしまうことを危惧しているなら、そんなのは普段の授業と変わらない。担任が注意すればいいだけのことだ。

 そんな生徒たちの声に、しかし学校側はまるで取り合わず、やり方を変えない。ある意味で、学校という場所は変化を拒絶しているのかもしれない。昔からの習慣で(ほころ)びや、時代に合わないところもあるのに、新しい方法を取り入れようとしない。

 学校側の経営なんて、学業やスポーツで優秀な生徒を表に出して、それで学校の名声としている。実際には、純粋に生徒の実力であっても。

 少なくとも、彩にとってはこの学校から学んだことなんて、なに一つない。高校の内容など、小学生の頃に自学で終わらせているから、授業中は暇で仕方ない。

 それでも彩が高校に通うのは、周囲の当たり前に乗っかっている、というところがある。上流階級である響家では、それなりに名の知れた大学に入ることを望み、将来有望な職に就くようにと教えられる。十年前に屋敷を追い出された彩でも、幼少の頃の教育方針は浸透していて、東波高校ではそこそこの順位を得ている。

 そんな、無意味で不必要な拘束から解かれて、また無駄で無為な長期休みが明日から始まる。

 ――どうせ読書で時間を潰すんだろうが。

 どこかに旅行、という話を、本当に彩は聞いていないので、ずっと家に軟禁されるのだろうか。だったら、彩のやることはいつもと変わらない。

 部活のある連中は、休み前の最後の部活に精を出しているのかもしれない。だが、帰宅部の彩は真っ直ぐ帰ろうと、廊下を曲がりかけて、

「…………」

 意図せず、彩は身を引いた。――そこに、見知った女子生徒が突っ込んできた。

「おっと。――響彩くん。こんにちは」

 何事もなかったように声をかけてきたのは、夢々(むむ)先輩。帰宅部の彩が唯一知っている上級生で、昼を一緒にするていどの仲だ。

 こんなふうに廊下ですれ違うのは、随分と久し振りな気がする。……前も夢々先輩のほうから突っ込んできたか。こうやって咄嗟にかわせるようになるのも、慣れだろうか。

 彩は、ああ、と返してから、改めて夢々先輩が抱えている本の山に目がいく。

「なんでそんなに本持ってんだ?」

 ギリギリ視界は確保しているが、普通の人間が一度に抱える量ではない。両手に抱えているから、いざというときに手も出せない。

 夢々先輩は「これですか?」なんて簡単に答えてくる。

「これはですね。旧校舎に置いてあった本を、いまの図書室に移動しているんです」

 は?と彩は首を傾げる。いや、言っている意味はわかるのだが、そんなことを夢々先輩がしている理由がわからない。

 そんな彩の言外の疑問に、夢々先輩は本の山に隠れながらも、なぜか胸を張って答えた。

「響彩くんにはまだお話していませんでしたね。わたし、図書委員を任されております」

 確かに、それは初耳だ。なるほど、と思おうとして、いやちょっと待て、と彩は踏み止まる。

「なんでいまそんなことやってんだ?今日、終業式だろ」

 いやぁ、と苦笑を漏らす夢々先輩。

「実はですね。ずっと前からあった仕事なのですが、なんと言いますか、後回し後回しにした結果、本日、先生からお小言を頂戴致しまして……」

「他のやつにやらせればいいだろ。三年生は受験があるんじゃないのか」

「そのあたりのことならご心配なさらないでください。わたし、受験はありませんから」

「……推薦か?」

 いいえ、と夢々先輩は首を横に振る。

「大学に行きませんから」

 ――は?

 なんて声を上げそうになって、なんとか口に出すことなく(こら)える。

 いや、別に卒業と同時に就職、という人だっているだろう。だが、昼食を一緒にとる夢々先輩から大学に行かないなんて(そんな)話を聞かされたのは、たったいま。――つまり、初耳ということ。

 そもそも、就活の話さえ、彩はこの先輩(ひと)から聞いていない。というより、そんな素振りさえ見せていなかった。

 ……いや、そこが問題だったのか。

 受験勉強なり就活で忙しいはずの三年の先輩と平然とお昼を一緒にしているなんて、それ自体が誤りだったのか?

 あああっ、と。夢々先輩は本の影に隠れたまま大声を上げる。

「響彩くん。もしかしたらもしかして、とても失礼なことをお考えになられてはいらっしゃいませんか?わたし、大学には参りませんが、働く意志は持っておりますから」

 この先輩は不機嫌になると変な敬語を使い出す。普段から下級生である彩にも丁寧な物言いだが、怒っているときなどはさらに拍車がかかる。

「………………いや、なにも考えていないから」

 そこで「働く意志」なんだとは、彩は思っていない。そんなふうに見えたというのなら、それはいつもの無表情でしかない。決して他意はない。

 うん、と夢々先輩は機嫌を直したように一つ頷く。

「そうですよ。それでいいんです」

 なにがいいのかわからないが、まあ、そういうことにしておく。

 で――、と。彩は話題を振り直した。

「その荷物運びは、今日じゃないと駄目なのか?」

 そうですねぇ、と夢々先輩は困ったように眉を寄せる。

「来年、三学期が始まる前に整理をしておきたいそうです。だから、実はまだまだやることがあるので、運ぶ作業くらいは、今日中に終わらせないといけないんです」

 もしかしたら冬休み返上ですかねぇ、なんて夢々先輩は簡単に笑う。

 本当なら笑い事ではないし、なにか(ねぎら)いの言葉でもかけるところなのかもしれないが。生憎、彩は「そうか」なんて、それこそ簡単に済ませる。

 やることが決まってるなら、それはそれで楽だ、というのが彩の意見だ。なにせ、彩は休みを消費する方法を考えないといけない。それに比べれば、休み返上のほうがまだいい。

 はい、と一つ頷いてから、夢々先輩は「あ、そうだ」なんて声を上げる。

「それでですね、響彩くん。もしもよろしかったら、よろしかったらでいいのですが……」

 そう、夢々先輩は彩を見上げる。

「お手伝いをお願いできませんか?お金は出しませんが、お昼を奢るくらいなら致します」

 どうでしょう、と微笑で小首を傾げる夢々先輩。

 ……なにか、今日はやたらと働き口を紹介される日だな。

 佐久間のは毎年のことだが、それ以外から斡旋があるとは思ってなかった。さてどうするかと、しかし彩は考えるまでもなく返答した。

「悪いが、すでに先約が入ってる」

 あらあら、と夢々先輩は目を丸くして、口も大きく開ける。

「――デートでしたか。失礼しました」

「いや、違うから」

「そんな大切なご予定が御座いましたのに、わざわざ引き止めたりしてしまい、大変申し訳ありませんでした」

「だから違うって」

 頭を下げる夢々先輩に、彩は反射的に手を出した。お辞儀と一緒に雪崩が起きるかもと懸念したが、杞憂で終わってくれてホッとする。

 すすっと、彩の脇を抜けて、夢々先輩は振り向きざまに会釈を残して立ち去る。

「それでは、サブキャラはこれにて退場致しますので、響彩くんは良いクリスマス・イヴをお過ごしください」


「…………なにが『良いクリスマス・イヴを』だ」

 東波高校からの帰り道、響の屋敷へと向かう坂の上。場所としては、民家が集中する下半分を通り過ぎ、いまは木々が並ぶだけの静かな道だ。ここに来るまでも、内心では文句を抱えながら、それでも耐えて口に出すことはしなかった。

 だが、ここから先は他人が不用意に入る場所ではない。彩はつい、抑えていた不平を漏らす。

「……………………まったく」

 今日は終業式。――同時に、クリスマス・イヴ。

 ……そんなことを意識するのは、初めてだ。

 夢々先輩に言われたから、ではない。それを意識させられたのは、今朝、家を出る前のこと。

「兄さん。今日は、終業式が終わったらすぐに戻ってきてください」

 食事前のお茶の時間、妹の(あざや)がそう切り出してきた。

「なんだ?突然」

 土曜など、半日で授業が終わる日でさえ、そんなふうに言われたことはなかった。わざわざ言い添えるのだから、なにか理由(わけ)でもあるのかと、彩は怪訝に思って訊ねた。

 鮮は、そんなふうに彩が訊き返してくること自体が疑問だとばかりに、しれっと返した。

「だって――――。今日はクリスマス・イヴではありませんか」

 記録力のいい彩は、当然今日の別称を知っていた。が、それをことさら意識させられたのは、そのときが初めて。

 一切関わり合いを持とうとしなかった三樹谷家では、当然クリスマス・イヴなど、実感することがなかった。確かに、小学校や中学校で周囲がそんな話題で盛り上がっていたのは聞いていた。が、それは画面を通して眺めているような、そんな距離感があった。()(てい)に言えば、現実感のない絵空事。

「……だから?」

 彩は声を一つ落として再度訊き返していた。響の屋敷ではそれが当り前なのかもしれないが、一カ月前に戻ってきたばかりの彩には、そんな常識などない。そもそも、その名を聞かされたのだって、このときが初めてだ。

 え――?と驚いたように声を漏らした鮮は、数間ののち「あっ」と、ようやく気づく。

「そう言えば、兄さんには話していませんでしたか?」

 なんて、いまさらの疑問を口にするから、彩はさらに声を低くして「…………ああ」と頷いてやった。

「そうでしたか……。申し訳ありません」

 謝罪を口にして、頭も下げておきながら、鮮はすぐに彩から視線を外して「ああ……。なんてこと……」などと漏らしているから、彩に対して悪いと思うよりも自分の失態に愕然としているほうが勝っているらしい。

 だが、さすがは響家当主を任されているお嬢様。すぐに切り替え、彩を正面にぴんと背筋を伸ばす。

「今日はクリスマス・イヴ――ですが――イヴを祝うつもりはありません」

 そう、鮮はきっぱり言い切った。

 彩は、多少安堵した。幼少の頃、まだ彩がこの屋敷にいたときを思い返してみても、そんな殊勝なことをやる印象(イメージ)などない。毎日が同じ日の連続で、部屋に閉じ込もってひたすら勉学に励む、そういう場所(ところ)だ。

 ……じゃあ、なんだって言うんだ?

 黙って続きを待つ彩に、鮮は一つ頷いて正解(こたえ)を口にする。

「今日は――――(かおる)の誕生日です」

 それは、確かに初耳だ。……が。

「――――――――で?」

 それだけ。

「で、って…………」

 彩のあまりに簡素で軽薄な反応に、鮮も肩透かしを食らったように勢いを失う。

「……ですから。薫の誕生日をお祝しようと思うんです」

「誕生日だから?お祝い?」

 はっ、と。彩は失笑を隠しもしない。

お祝いなんて(そんなもの)、やるようなところじゃないだろ。響家(ここ)は」

「…………ええ。そうですね」

 彩は嘲笑を引っ込める。響家の当主として気位の高い鮮なら、このていどの皮肉、強引に切りかかってくると思っていた。

 なのに……。

 ……鮮は、あっさりと認めた。

響家(ここ)は昔から、ありきたりなイベント(そういうもの)とは、無縁でした」

 そんなふうに、あっさり零す鮮に、彩はなにも返せず、だからといって目を逸らすこともできなかった。

 なにもできずにどれだけの時間が経っただろう。でも、と鮮は弱気を引っ込める。

「いまはわたしが、響家の当主です。これからの響を担い、導き、そして決めていくのは、わたしです」

 一つ下の、彩の妹。まだ高校生でありながら、響家の当主として、響の全てを決める存在。実際、彩を響の屋敷に戻したのは、鮮の意志だ。先代の響崇が彩を勘当したのだから、周囲の反発はどれほどあったろうか。――それら、全ての反対を押し切り、鮮は彩を迎え入れた。

 わたしは、と鮮は少しも声を乱さず、その意志を告げる。

「薫の誕生日を祝ってあげたい。おめでとう、という意味が一般的ですが、わたしは、誕生日を祝うのは感謝の気持ちを贈ることだと思います」

 感謝――?と彩は内心で疑問を作り、眉を寄せる。その疑問を知ってか、鮮は準備していた言葉を形にする。

「――生まれてきてくれて、ありがとう。あなたに逢えて、わたしはとても幸せです」

 そう、感謝するものだと思うんです――。

 大切な、宝物をこっそり披露するように、鮮は優しく微笑(わら)った。

「感謝、ね……」

 一方で、彩は皮肉交じりで吐息する。いままでの彩の人生を思い返すと、彩の存在は周囲から感謝されていたのではなく、疎まれ、拒絶されていたようにしか思えない。

 彩の嘆息を、しかし鮮は別の意味にとったらしく、はにかむように付け足す。

「もちろん、それを直接口にしてしまったら、相手は困惑してしまうでしょう。だから『おめでとう』と言うんです」

 主役は誕生日を迎えた人なんですから、と鮮は締めていた。

 ――それが、朝食前の、鮮と彩、二人きりでの会話。

 響の屋敷へと向かう坂の上。彩は一人、寒空に向けて息を吐きつける。

「…………」

 言葉は出ない。なにか不平の文句でも出てこないかと思案したが、しっくりくるモノは浮かばなかった。

 ……まあいい。

 だから彩は、放棄するように心の中で一つ、呟く。

 ……(かおる)の誕生日を、(あざや)が祝ってやりたいって言うんだ。好きにやらせればいい。


 彩は誕生日パーティというものをやったことがないし、それは鮮だって同じはずだ。だが、どこで仕入れた知識なのか、鮮はパーティの段取りをすでに事細かに決めており、その準備についても彩が割り込む余地などないように、完璧だった。

 ……いや、完璧というか。

 帰宅して昼食を済ませると、早速パーティの仕度にとりかかる。ちなみに、小学生の薫は屋敷には戻らず、そのまま習い事に向かったとのこと。夜までぎっしり予定がつまっているから、夕食まで帰ってこないらしい。

「…………徹底してるな」

 彩は台車を押してこの広大な屋敷を端から端まで移動する。台車の上には何個かの段ボールが積まれている。

「いいじゃない。こういうイベントがあると、気晴らしになるし」

 隣で、同じように別の台車を押す(さい)がにこやかに笑っている。その表情は、彩とは対照的に楽しんでいる様子。

 響の屋敷には、彩と鮮、薫という響の姓をもつ者以外に、使用人である猪戸(ししど)兄妹(きょうだい)がいる。彩の隣にいる再は兄のほうで、彩とは同い年。同性で同名のせいか、彩がまだこの屋敷にいた幼い頃から、会えば分け隔てなく話をするくらいの付き合いがあり、十年振りに会っても、その関係は継続している。

 薫の誕生日パーティの準備に際して、鮮は男性陣と女性陣で役割分担を決めていた。彩と再はリビングの飾りつけ、鮮と(れん)は厨房で料理。朝にパーティの話を聞いたばかりで、昼食後に分担を言われたばかりの彩には、一体なにをしたらいいのか、まるでわからない。

 具体的な作業を訊き返す彩に、しかし鮮は答えずに、さっさと厨房に引っ込んでしまう。

『再に任せてあるので、再から訊いてください』

 使用人の再に導かれるまま、彩は本館一階、西側の奥まで連れていかれた。台車を使って部屋の中に積まれた段ボールをリビングまで運ぶよういわれ、運ぶ途中でやっと具体的な作業内容を聞けた、のがついさっき。

 広い屋敷のせいで、一階だけの移動のはずなのにやたらと距離がある。ようやく辿りついたリビングで、彩は改めて目の前の段ボールの山に視線を下ろす。

「必要か?イベントなんて(そういうの)

「あったほうがいいと思うけどな。この屋敷(ここ)じゃ、いつもいつも同じ毎日で退屈してたから」

 再の返答(こたえ)は、彩にとっては回答(こたえ)になっていない。

 例えば、毎日学校へ行って授業を受けるとか、休み時間に読書をするとか、そんなふうに繰り返される行為は、彩にとってはそういうモノでしかない。確かに、高校の内容を独学で終えた彩にとって、教師たちの授業は無駄でしかない。だが、そこに『退屈』という感情を挟むことはない。

 ……むしろ。

 そのルーチンワークから外れるような、妙なイベントを起こされるほうが、彩の肌には合わない。学校などの行事だと、体育祭や文化祭なんて、わざわざ人混みに入るモノが多い。人混みを鬱陶しく思う彩にとって、イベントとは反射的に反感を覚える、そんなモノだ。

 そういう認識である彩でも、しかし今回ばかりは口を挟まない。どうせこの屋敷にいるやつらだけのイベントだ。いつもの食事を、場所を変えただけと思えば、大した変化ではない。

 それにしても、と再は手元の段ボールに視線を落とす。

「ここまで大々的にやれる日がくるとはねぇ。今年はいままで以上に期待できそうだ」

「いままでもやってたのか?」

 途端、再は口元を吊り上げる。小さい頃からの再の癖だ。悪戯(いたずら)を指摘されると、再はこんな笑い方をする。

「こっそりだけどね。鮮様の部屋に集まって、料理を運び込んで。事前に用意しておいたプレゼントを渡す。ああ、プレゼントは僕か連が外に出たときに買ってくるんだけど。いやぁ、なかなかスリリングな誕生日パーティだよ。僕と連が交替で見張りをやるんだけど。といっても、見つかったことは一度もない。鮮様が事前に手回しするから、見張りといっても念のためだ」

 一カ月前に鮮が当主を継ぐより以前は、当然父親もいたし、それ以前に、この広大な屋敷に相応しく、親戚の人間や、屋敷を管理する使用人が、猪戸兄妹以外にも大勢いたはずだ。そんな中でこっそりやるというのは、なかなか至難だったろう。

 ここ一カ月ばかりこの屋敷で生活した彩でも、その苦労はなんとなく想像できる。彩が部屋にいても、使用人の連などは部屋の掃除や洗濯した衣類をタンスにしまうなどで、頻繁に部屋の中へ入ってくる。

 誕生日パーティの間だけ人を寄せつけないようにするには、下調べもそうだが、事前の調整などもやり、かつそれをバレないようにやるのだから、かなり手がかかっただろう。……それを、鮮はいままで一人でやってきた、ということだ。

 でも、と再は口元を戻していつもの笑みで続けた。

「もうこの屋敷には、崇様も親戚の方々もいない。隠れることなく、堂々とパーティが開けるんだから」

「堂々と、ね……」

 彩はリビングを眺める代わりに、手元に積まれた段ボールの山に視線を落とす。

「…………で、これをどうするんだ?」

 リビングの飾りつけ、はわかったが、具体的にどうするかはまだわかっていない。

 ええと、と再は段ボールの中からファイルを取り出す。一枚めくって、彩にも見えるように差し出してくる。

「これが完成イメージ。…………で、こっちが手順書だね。段ボールに番号も振ってあるから、迷うことはないよ。あっ、箱の配置まで指示があるよ。じゃあ、その通りにやろうか」

 これまでも同じように命じられてきたのか、再はなにも疑問を挟まず、テキパキと動いていく。

「…………徹底しすぎだろ」

 対する彩は、うんざりと溜め息を吐く。

 再は隠すこともせず、笑い声を漏らす。

「それだけ、鮮様には大切なんだよ。このイベントは。一カ月そこらで準備したんだから」

 大したものだよ、と口にしながら、再は段ボールを指示通りに配置していく。

 彩も、これ以上なにを言っても仕方ないと、無駄口を叩くのは止めにした。

 ……そういうことにしておこう。

 きっと、例年通り鮮の部屋でこっそり開くことにしていた薫の誕生日パーティ。それが一カ月ほど前、響崇が亡くなり、葬式をすませ、親戚たちを追い出した後で、急遽、リビングで開くことに変更したのだろう。いささか理由が不謹慎な気もするが、それも鮮の中では決着をつけているのだろう。そうでなければ、彩は響の屋敷(ここ)に戻ってくることはなかったのだから。


 パーティの仕度は、薫が戻ってくるギリギリまでかかった。部屋の飾りつけ自体は、鮮の想定通り早めに終わった。だから彩と再の男性陣は、鮮が残した指示通りに厨房へ向かった。

 この広い屋敷に相応しい巨大な厨房を、たった二人で使っている姿は、物足りないというか、閑散として見えた。だが、鮮たちはその広すぎる厨房を可能な限り有効に使っていた。大皿の上にクロッシュを載せたモノは、どうやら完成品らしい。別のテーブルには、白くコーティングされたスポンジケーキと、飾り付けに用意されたフルーツの数々。それでもまだ足りないのか、下準備を仕上げて完成を待っている料理がテーブルの上に並べられており、さらに鮮たちは調理を続けている。

 彩たち男性陣の次の仕事は、女性陣が作った料理を会場へ運ぶこと。鮮はただ『お願いします』としか言わなかったが、どうやらどこになにを並べるのかは、決まっているらしい。その辺りは再が心得ているので、彩は彼の指示に従うだけ。だから、彩にもなにが入っているのかはわからない。こっそり開けて中を確認してもよかったのだが、彩はそれをしなかった。あとのお楽しみ、ではない。どうせあとでわかること、彩にはその手の好奇心も無縁だ。他にも、食器棚からナイフやフォーク、取り皿を出して運んでいく。パーティ用に準備したテーブルの上に料理や食器を並べていくと、次第にパーティらしい見栄えになっていく。

「なんとか間に合いましたね」

 準備を終え、いまはリビングで待機。椅子に腰かけた鮮は、ようやくそこで一息ついた。彩もまた、鮮とは向かいの位置に座っている。あとリビングにいるのは連だけで、再は帰ってくる薫を迎えるために玄関で待っている。

 連が気を利かせてお茶を淹れようとするのを、鮮が止める。

「パーティが始まったらお願いするわ」

 鮮はまた、すぐに椅子の背にもたれかかる。リビングに普段あるソファーやテーブルは片付けて、代わりに別の部屋からテーブルと椅子を運びこんだ。立食形式に料理を並べてあるが、どうせ五人しかいないんだ、とってきた料理を食べるためのテーブルと椅子を用意してある。そこに彩と鮮が座っている、という具合。

 疲れているのか、鮮はすぐに椅子に座って動こうとしない。

「毎年やってるんだってな」

 彩の声に、鮮はええと応えて頭を上げる。

「わたしが中学にあがってからです。小学六年生のときには計画していたのですが、結局、実行できませんでした。いろいろ、計画の甘さに気づいてしまったので」

 部屋の飾りつけ、料理の準備、プレゼントの用意…………。

 それだけでも大変なのに、ここ響の屋敷では、家の者に見つからないようにやらなければならない。――それは、鮮一人ではできないこと。

「あの頃は、まだたくさんの人がいたので、いろんな人にそれとなく声をかけてみたりしたのですが……。賛成してくれたのは、再と連だけでした」

 鮮は椅子の背に腕を乗せたまま、連の立つほうへと振り返る。

「あなたと再には感謝しているわ」

「い、いえっ。とんでもございません。わたしは、鮮様に仕える身として、当然のことをしたまでで……」

 顔の前で何度も何度も両手を振る連に、鮮は微笑して了解とする。うん、と軽く頷いて、また彩のほうに視線を戻す。

「それでうまくいったので、それからは毎年ですね。――それが、こんなふうに表だってできるようになるなんて。いつかは、と思っていましたが、こんなに早く実現できるとは、思っていませんでした」

 そうか、というふうに、彩は頷けなかった。もちろん、鮮もそんな簡単な話ではないことを知っていたから、切り替えるように時計を見上げる。

「……そろそろかしら」

 まさしく、そのタイミングだった。玄関が開き、人の声が、扉越しだが、リビングまで聞こえた。

 いつもなら、薫はいったん部屋に戻って荷物を置いて、手洗いなどを済ませてから食堂までやってくる。

 さあ、と鮮が立ち上がる。

「兄さん、連。クラッカーの準備を」

 それぞれがクラッカーを手にして、扉の脇に並ぶ。彩と鮮が前の左右に、連がすこし離れて後ろのほうに、という具合に。

「…………これ、ただ引けばいいんですよね?」

 薫が来るまでの時間、ただ待っているだけに耐えきれなくなったのか、鮮はしげしげと手にしたクラッカーを眺める。

「……この角度かしら?」

 なんて、扉の上のほうに向きを調整する。後ろの連も、鮮に倣ってクラッカーを上側にかまえる。

 彩もだが、女性陣二人もクラッカーは初めてらしい。まあ、当然と言えば当然。いままで家の連中にバレないようにやっていたのだ、派手な音の出るクラッカーなど、使えるわけもない。

 彩もまた、適当に角度を合わせる。薫に直撃しないように、上からリボンが降りかかってくるように。

 なんて、リビング内でそわそわしていると、ようやく主役が扉の前に立ったらしい。くぐもった音ではあるが、外の会話が聞こえてくる。

「さあ、こちらへ」

「こっちはリビングだよ?食堂じゃないよ?」

「ええ。今晩はこちらでお食事です」

「どうして?」

「……さあ、開けてみればわかりますよ」

 そして、間。

 薫がまだ納得できずに、恐る恐る扉に手を伸ばす。そんな様子が、透けて見えるよう。

 正面で鮮が、横で連がぴたりと動きを止める。二人とも緊張しているようだが、笑顔はちゃんとできている。

 対する彩は、普段通りに動じずに、ゆるくクラッカーをかまえる。もちろん、笑顔など作りはしない。

 扉が開く。ゆっくり、ゆっくりと。まだ警戒を解かないように。

 と。

 急に扉が押し広げられ、小さな少年がリビングへと足を踏み入れる。(とし)は小学生の中学年ほど。髪の色素が薄く、金に近い色をしているが、別に外国人というわけではない。肌もまた抜けるように白く、まだ成長期前の子どもにありがちな、中世的な顔立ち。

 一つ、鮮が頷きを見せる。――それを合図に、一斉にクラッカーの紐を引く。

「お誕生日おめでとう。薫」

「おめでとうございます。薫様」

「……おめでとう」

 発砲にも似た盛大な音と、幾重もの紙のリボンが舞う。続いて、鮮と連が祝いの言葉を叫び、彼女たちの声に隠れるように彩は低く呟く。

 一方、部屋に入ってきた少年は、

「…………」

 ぼおぅ、と。突然の嵐と、目の間に広がる光景に圧倒されたみたいに。

 パチパチ、と。何度もその大きな瞳を瞬かせ。

「……」

 くるり、と後ろで控えていた再を見返した。使用人の再は、いつものように柔和な笑みを浮かべて、そして、いつもとは違う口上を、自身の主に述べた。

「お誕生日おめでとうございます。薫様」

 その小さな少年――薫――も、ようやく事態を理解したらしい。ぱあっ、と。子どもらしい大きな笑顔をいっぱいに広げて、

「ありがとうございます!」

 それは、礼儀正しくも子どもらしい、薫の返事。

 そして――。

 ――誕生日パーティの、幕開けだった。


 早速、定番の誕生日の唄を合唱して、バースデイケーキに刺さった蝋燭の火を薫が消して、あとはいつも以上に豪華な料理が披露されて歓談となった。

 その料理の数々。ポテトサラダに、唐揚げ、ローストビーフ巻、ピラフ、スパゲティ、グラタン…………。今回は連だけでなく、鮮も手伝ったわけだが、これだけの料理(モノ)をよく作ったと、さすがの彩でも感心してしまう。

「今年は、すごいです」

 連に切り分けられたケーキと、再によそってもらった料理を前に、薫が感嘆の声を上げる。

「すごい?」

 訊き返す鮮に、薫は「はい」と素直に頷く。

「去年までは、お姉様のお部屋でお祝いをしていただいていました」

「そうね」

「だから、今年もそうなのかな、って思っていました。それが、リビング全部を使って、こんなに華やかな会にしていただいて、僕はとても嬉しいです」

「良かった」

 本心から、鮮は笑顔で頷く。

「薫が喜んでくれるなら、わたしも準備した甲斐がありました」

「はい。本当にありがとうございます」

「お礼なら――」

 そこで、鮮は向かいの彩に視線を寄こす。

「彩お兄様にも言いなさい。彩お兄様も、薫の誕生日パーティを手伝ってくれたんですから」

「はい。――お兄様、ありがとうございます」

 素直に彩に向かって頭を下げる薫。

 対する彩は返答に窮し、結局こう返すだけ。

「……鮮の言うようにやっただけだ。俺は、大したことはやっていない」

 実際その通りなのだから、こうとしか言いようがない。

 ……そもそも。

 ここまで準備してなんだが、やはり彩には、こういう空気は合わない。これもきっと、お茶の時間の延長だ。付き合い、というやつか。なるべく無言ですませたい彩はそれで終わらせる。

 そんな、彩の素っ気ない物言いでも十分なのか、薫はまた一等の笑みを広げて口を開く。

「今日は、すごいです」

 薫の視線は、なおも彩に合ったまま。しかし、彩には意味がわからないから、返答のしようがない。

「今日は?」

 鮮もまた、薫の言葉に疑問を感じ、しかし気になる単語を拾って薫に訊き返す。

 はい、と薫は一度鮮に振り返ってから、再び彩のほうに視線を戻す。

「お兄様とお話できたのは、お兄様がこのお屋敷に戻られて以来ですから」

 なるほど、と彩もようやく薫の意図を理解する。

 鮮とはお茶の時間で――それでも彩はほとんど無言だが――会話をしている。一方で、薫とは食事のときくらいしか会わず、しかも食事中は私語厳禁のため、食堂で見かけるていどの認識でしかない。

「もっと、なにかお話しましょう」

「話、っつっても……」

 お茶の時間、鮮と一緒にいるときでさえ、彩から話を振ることはない。それでいきなり話をしようと言われても、なにを話題に上げればいいのかわからない。

 彩が無言でいると、薫のほうが先に話題を振ってきた。

「お兄様は、親戚の三樹谷さんのところに居たのでしょう?」

「ああ。そうだが」

「どういったところですか?」

「どういった、って……」

 また漠然と訊かれたものだ。彩は記録にあるとおりに答える。

「こことは違って、武家屋敷だ」

「では畳みや囲炉裏があるのですか?」

「囲炉裏はないが、畳みはあった。そうだな……。こことは違って、ソファーはなくて、ベッドの代わりに布団を敷く」

「布団ですか……」

 想像に浸るように、薫の目が上を向く。

 響の屋敷は洋館だ。三樹谷の和風の様子など、薫には遠い世界なのかもしれない。昔から、響家では旅行なんてものもないから、薫にはこの屋敷と、精々小学校くらいしか認識がないのだろう。

「薫は……」

 薫が止まっている隙にと、彩は言葉を探す。これ以上、三樹谷の話になったところで、彩には思い出らしい思い出もない。

「習い事に行ってるんだったな」

 はい、と薫が頷く。

「なにやってるんだ?」

 彩のありきたりな問いに、しかし薫は素直に答えてくれる。

「ピアノです。学校が終わった後に、毎日行っています。今日のように半日で授業が終われば、外でお昼を食べてから。屋敷に戻るまでずっとです」

 意外なモノを見るように、彩は薫を見返す。薫が、というわけではない。習い事そのものもだが、音楽(ピアノ)なんて、響の教育方針にはあまりにもかけ離れている。

 だから彩は、薫ではなく、鮮のほうに問いを投げる。

「なんで、こいつだけ習い事?」

 鮮は、しかしそういう問いは予想していたのか、一瞬の遅れもなく返してきた。

「お父様が決めたことです。ずっと部屋の中にこもりきりなのは良くないと仰っていました」

 その回答(こたえ)に、彩は一体どんな顔をしていただろうか。

 ――部屋の中にこもりきりなのは良くない?

 至極、いまさらだ。彩や鮮を一日中部屋の中に閉じ込めていたやつのセリフとは、とても思えない。

 そんな彩の心を読んだのか、鮮はでも、と言葉を続ける。

「わたしも、習い事ではありませんが、時々お父様のお仕事を見学させていただきました」

「見学?」

 ええ、と鮮は頷く。

「将来、お父様の跡を継ぎ、お父様と同じ道に進むことが、わたしには決まっていました。ですから、事前にそのことを意識するために、お仕事の様子を、何度か拝見していたんです」

「父さんの、仕事……」

 はい、と。鮮は笑顔で、彩に応える。

「お医者様です」

 響の家は、代々医者の家系。ゆえに、次の当主候補に選ばれた鮮は、幼少の頃から医学の勉強も義務付けられていた。

 一方で、彩には、その事実は知らされなかった。まるで彩など、最初から継がせる気がなかったとでもいうように、彩に与えられた書物の中に医学書は含まれていなかった。

 彩と鮮の隣で、薫が割り込むように声を上げる。

「僕も、お医者様になりたいです」

 薫は、|響が医者の家系であること《そのこと》を知っているのか、少しも驚きを見せず、あっさりと夢を語ってみせる。

 現当主にして姉である鮮が、そんな子どもらしい薫に大人の目で訊ねる。

「薫は、お医者様がどういうものか知っているの?」

 もちろんです、と薫は動じることなく言葉を続ける。

「大学の医学部に入り、医師免許をとらないと、お医者様にはなれないのでしょう?医学部に入るには、医学の知識だけでなく他のたくさんの知識も必要で、そのためにはたくさん勉強をして、試験に受からないといけないんです」

 小学生とは思えないほど、薫はすらすらと答えてみせる。

 ……別におかしくはないか。

 そんなふうに彩は納得して、特に疑問も挟まない。

 だったら、と鮮は優しく薫に笑いかける。

「ちゃんとお勉強をしないといけませんね」

 現当主としての余裕だろうか、それとも姉としての激励だろうか。彩はぼんやりと、鮮の言葉を聞く。

 薫はというと、鮮の言葉を受け、子どもらしく真っ直ぐに受け止める。

「もちろんです!」

 そんな和やかな空気の誕生日パーティ。

 ……やっぱり、自分には合わないな。

 なんて、彩は心中で嘆息した。


 華やかなパーティもいつかは終わりがくる。八時半を過ぎた頃に、薫は次第に言葉少なになり、端から見ている彩にも船を漕ぎだす一歩手前だとわかる。

 無理もない、薫は普段、八時にはベッドに入る。誕生日パーティだからと長く起こしてしまったが、そろそろ限界だろう。

 鮮も薫の様子には気づいている。だから鮮は全体に声をかけて、パーティをお開きにする。

「薫。最後にこれを」

「なぁに?」

 鮮から差し出された包みを、薫は間延びした声を出しながら受け取る。

 ……誕生日に主役に渡すモノなど、一つしかない。

 そのわかりきった光景を、彩は遠目で眺める。鮮が含みのある、嬉しそうな笑みを漏らす。

「部屋に戻ったら開けなさい。とても素敵なモノだから」

 そんな、答えがわかりきっている問題も、しかし船を漕ぎ始めた薫にはわからないらしい。一瞬小首を傾げて、しかし眠気には抗い難いらしく、すぐにコクリ、と。

 鮮は微笑のまま、再を呼んだ。

「薫を部屋まで連れていって」

「かしこまりました」

 船を漕ぎ始め、足元もおぼつかない薫を、再はなんの苦もなく連れていく。さすが使用人というか、慣れたものである。

 一方で、部屋に残った連も使用人としての仕事をするために動き出す。

「片付けはこちらでやりますので。鮮様と彩様もお休みになってください」

 テーブルの上の使われた食器を簡単にまとめはするが、すぐには片付けない。主である彩と鮮を見送ってから、というつもりなのか。

 ようやく解放されると、彩はすぐに席を立つ。続いて鮮も立ち上がり、彩が開いた扉から出ようとするところで、不意に振り向いて連に声をかける。

「夕食、まだでしょう?ここにあるのを食べていいわ」

 なんて簡単に言う鮮に、連はびくっと背筋を伸ばして固まってしまう。

「そんな、とんでもありません!これは響様方の……」

「かまわないわ。結構残ってしまったし。ダメになって捨ててしまうのも勿体ないから。ね?」

 念押しのように、連に笑いかける鮮。

 連の動揺も無理からぬことだろうと、彩はその光景を眺めながら思う。響の屋敷は上流階級然としていて、家主と使用人の食事を分けている。今日の誕生日パーティでも例外ではなく、再や連は使用人として、給仕に回っていた。

 この後、猪戸兄妹は食事をとるのだろうが、それはもちろん、パーティのために用意した料理とは別のはずだった。だから、連は動揺しているのだろうし、しかし――だからこそ――当主(あざや)からの言いつけを無視することもできない。

 そんな連の素振りを見て、よしとでもいうように、鮮は最後を付け足してリビングをあとにする。

「再が戻ってきたら伝えておきなさい。あと、ここを使っていいから」

 連は最後になにか言おうか迷っているようだったが、鮮が扉を閉めてしまったので、結局なにも訴えることができなかった。

 まったく強引な、とも思ったが、まあ鮮の好きにさせればいいか、と彩は思い直す。

 ――俺には関係のないことだからな。

 さて、さっさと部屋に戻ろうと、彩が歩き出した。そのとき――。

「兄さん――」

 と、後ろから呼ばれる。

 もちろん、ここで声をかけてくる人間は、一人しかいない。わかりきった現実(こたえ)を見るために、彩は足を止めて振り返る。

「――もう少し、お話しませんか?」

 悠然と――。お嬢様然と微笑む響鮮に。兄である響彩は、無言を返答としていた。


 鮮に連れて行かれたのは、二階の一室。連れて行かれたなどと言葉は悪いが、それが偽らざる彩の認識。案内された、なんて、別に彩は望んでいたわけでもない。

 玄関前の階段を上がって、東側へ。再と、薫と鮮の部屋があるほうだ。彩の部屋は西側なので、まったく馴染みがない。といっても、屋敷の構造は東と西で対称になっているので、それほど強い違和感を覚えるわけではないが。

 鮮は廊下の端までやって来て、最奥の扉の鍵を開ける。

「……?」

 わずかな違和を感じたが、鮮が先へ進んでしまうので、彩も彼女のあとへしたがう。

 部屋の造りは、彩のモノと変わらない。ただ、誰も使っていない部屋なのか、最低限の家具が置かれているだけで、あとはなにもない。

 鮮は電気も点けず、さらに部屋の奥へと進んでしまう。その先は――やはり彩の部屋と変わらない――寝室。

 ただ、唯一違うところが――。

 ――ベランダ?

 バルコニー、と呼んだほうがいいのだろうか。突き出されたその広さは、寝室と同等。だが、室内と違って本当になにもないから、それ以上に広く見えてしまう。

「見てください、兄さん」

 真っ直ぐバルコニーを突っ切った鮮が、一度空を一瞥してから彩のほうへと振り向く。追いついた彩が鮮の隣に並ぶと、彼女は彩に示すように空を仰ぐ。

「星が綺麗ですよ」

 彩もまた、彼女に倣って空を仰ぎ見る。綺麗――――かどうかはわからないが、確かに、町の中にしては良く見えるほうだ。

「ここは町の中でも高いところにありますから、星がよく見えますね」

 それだけではないだろう。この辺り一帯は、響の所有物。余計な人工の明かりを遥か下に置き去りにして、夜空に漂う星たちは自身の輝きを主張する。

「――――で?」

 だが彩は、そんな光景に興味などない。不意に見せられた芸術品を愛でるよりも、彩はそもそもの目的を鮮に問い(ただ)す。

「こんなところまで連れてきて。一体なんの用だ?」

 五秒ほどだけ星々を鑑賞したのちに、鮮は緩やかに視線を彩のほうへと落とす。

「ただお話したいから、ではダメでしょうか?」

 部屋の明かりも街灯も遠く、ただ星たちの弱い光が届く中で、しかし彩は鮮の表情が良く見えた。――そこには、お嬢様然とした、気品めいた、余裕の微笑があった。

 だから彩もまた、少しも妥協など許さないとばかりに応戦した。

「じゃあ、さっき再に二階の見回りをしないように言ったのは?」

 階段を上りきったところで、彩たちは薫の部屋から出てくる再とすれ違った。その際、再に簡単な礼を述べた後、鮮ははっきりとこう告げた。

『今夜は一階だけ見回りをすればいいから』

 そうして、彩が案内されたのは二階の一番奥の部屋、そのバルコニー。寝室を挟んでいるから、一見しただけでは二人がここにいることなどわからない。ちゃんと見回りをすれば一発でバレるだろうが、それも先に鮮が封じた。

 ……なにか裏があるのか?

 そう、彩が勘繰ってしまうのも無理からぬことだろう。

 ――ふっ、と。

 回るように、鮮は身体(からだ)ごと彩のほうを向く。手入れの行き届いた、彼女の滑らかな黒髪が、夜空を舞う。

 一つは、と鮮が唇を言葉の形に結ぶ。

「今日だけは、再も連も早く休んでいいという、わたしからの御褒美。もう一つは――――」

 ――時間を気にせず、兄さんとお話したいから。

 鮮は微笑のまま、彩を見上げる。女子にしては、鮮は背の高いほうだが、彩もまた、男子の中でも背の高いほう。貝殻の砂を()いたように白い夜空を背景に、二人は互いを見返していた。微笑の鮮に対して、彩は警戒の無表情を貫いて。

 一分近くそうしていたか。ついに根負けして、彩が口を開く。

「本当に、それだけか?」

 彩の疑念は一向に晴れないが、しかし隙も裏の理由も判然としなければ、これ以上の攻め手がない。

 鮮は、だから余裕をもって彩に応えた。

「嘘ではありません。わたしの本心です。……そんなにわたしは信用できませんか?」

 小首を傾げてみせても、その表情には自信を失わない気品があり、その流れるような一つ一つの挙動は、見惚(みほ)れるくらいに(しと)やかだ。

 無言に沈黙し、無表情のまま見下ろしてくる彩に、鮮は綻ぶように微笑を漏らす。

「――薫も言っていたではありませんか」

 ――お兄様とお話できたのは、お兄様がこのお屋敷に戻られて以来ですから。

 その言葉を、彩もすぐに思い出せる。そして鮮がその言葉を引用する意味も、なんとなく気がついた。だから次の鮮の言葉も、彩の予想の範疇だった。

「わたしも、兄さんとちゃんとお話をしたいんです」

 朝食前や夕食後のティータイムがあるため、薫よりは鮮といる時間が多い。だが、それはより近い場所にいるというだけで、別段、会話が弾むわけではない。

 彩はもともと無駄口を叩くほうではない。むしろ静かで、できるなら一人きりでいるのを好む彩は、自ら話題を振ったりしない。

 一方で、鮮のほうも上流階級の淑女としての教育を受けたせいか、お喋りなほうではない。紅茶の味や学校の様子などを訊いてはくるが、彩が簡潔で簡素に答えを返せば、それ以上の問いは口にしない。

 だから一緒にいる時間が多くても、互いのことは少しも知らないし、家族としての距離など一向に縮まるわけもない。

「話、っつっても……」

 だからこそ、彩も鮮の申し出には返答に窮する。誕生日パーティのとき、薫に振られたときと同じ。そんな漠然とした問いでは、彩は返しようがない。

 鮮もそのことは心得ていたのか、距離を縮める一心で問いを投げた。

「三樹谷の家は、どうでしたか?」

「どう、って?」

「楽しかったですか?居心地が良かったですか?――戻りたいですか?」

 微笑を維持したままだったが、しかし、最後の問いだけは、鮮の声も(かす)かに震えていた。

 ……だから、彩も気づいてしまった。

 薄暗く、相手の顔がよく見えないからこそ、そんなささやかな声の揺れで、相手の表情が()えてしまう。

「居心地は、()いとは思っていない。引越しの準備をするのも面倒だから、戻る気もない。……ついでに言うと、楽しいなんて感情は、俺には意味がない」

 これは決して、鮮を気遣って作ったわけではない。偽らざる、彩の本心だ。

 ――だって。

 どこだって、変わらない――。

 三樹谷の家に愛着がないように。……響の屋敷にだって、彩は興味を持たない。

 どんなに広い部屋を与えられても、上質なベッドと枕が完備されても、常に上等な料理が並べられても。…………響彩は、なにも感じない。

 だから、引っ越すことにも抵抗はなかった。響の家からだと東波高校に通うのに坂があるが、それすら気にしない。

 いまだって、別に寝床があるなら、彩はどこにだって行くだろう。――それがないから、いまは響の屋敷で落ちついている。それだけだ。

 そんな……。

 ……彩の心境なんて、知らず。

 鮮の、緊張に固まった微笑が、純粋な笑顔に溶けていく。

「良かったぁ……」

 喜色、と呼ぶべきか。本当に、心底安堵したように、鮮は自然と胸前で両手を合わせる。(こぼ)れ出すように、その声を紡ぐ。

「わたし、ずっと心配だったんです。兄さんが、やっぱり三樹谷の家に帰りたい、と言い出すのではないか、って」

「それはないから安心しろ」

「はい。安心しました」

 ふん、と。吐いて捨てるように、彩は首を横に振って、視線をバルコニーの外へ向ける。遠く、目を凝らせば町の明かりも見えるだろうが、視界を埋め尽くすのは、敷地内の森だ。墨汁を垂らしたように暗い葉が、星の明かりに透けて魚のように揺れる。

 でも、と鮮は小首を傾げる。

「楽しいという感情が無意味であるなら、今日のパーティは兄さんにとってどういうものになるのですか?」

 そうだな、と五秒ほど思案したのち、ぽつり、呟くように彩は回答し(こたえ)た。

「夕食と食後のお茶の時間を合わせて倍にしたモノ」

「…………ほとんどそのままではないですか」

 鮮の低く、呆れたような声が聞こえてくる。目を凝らせば半目で睨んでくる彼女の顔が見えるよう。

 鮮は大きく一度息を吐き出してから、切り替えるように首を横に振る。

「いいでしょう。今日は薫の誕生日なのですから。薫が楽しんでくれたなら、それで今回のわたしの目標は達成したことにします。――でも次回は、兄さんの誕生日パーティのときは、兄さんにも楽しんでいただきますから」

 覚悟してください、なんて、現当主様は(のたま)った。

 そんな非常にいい笑顔を向けてくるのは、なんの意図があるのだろうか。彩は無表情を一つ落として、うんざりしながらも問うてみた。

「…………おまえ、俺の誕生日、知ってるのか?」

「もちろんです。それくらい知らなくては、響家当主は務まりません」

「……………………そうかよ」

 知らなくてもいいことを、と内心で思ったが、口にはしない。口に出したところでなんのメリットもないと、そう判断できるからだ。

 ちなみに、彩は鮮の誕生日を知らない。兄妹(きょうだい)ではあったが、幼少の頃はほとんど接点がなく、そのまま十年間の空白をまたいでしまった。ここで訊き返していらない期待をさせるのも嫌なので、彩は沈黙を守ることにした。

 彩の、そんなささやかな努力が報われたのか、鮮が別の話題に切り替えてくれた。

「――では、兄さんにとって楽しいと思えるものはなんでしょうか?」

 別の話題に飛んだというよりは、もとの話に戻った、という感じ。

 ……それもそれで、非常に答えづらい。

 彩の無表情から心境を読んだのか、鮮は続けざまに問いを並べる。

「兄さんの好きなモノはなんですか?例えば、好きな食べ物や好きな教科。あっ、兄さんの場合は好きな本というのがあっているのでしょうか」

 具体的な質問ならば答えられるだろうという、妹の配慮。

 ――だが。

 彩は十秒くらい、視線を上向けて鮮を視界から外す。唸りもしない、眉間に皺を寄せることもない。…………相変わらずの無表情。

 傍目からは、考えているのか、悩んでいるのかも判然としない。しかし、彩はちゃんと記録を片っぱしから掘り返して思考している。そのうえで、結論をくだす。

「ないな」

「ないんですか」

 鮮の声が下から聞こえる。後半が沈んでいくような音、落胆しているような、要するに、がっかりした声。

 ……それはそれでかまわない。だが彩は、なんとなく次の言葉を続けてしまった。

「おまえは?なにかあるのか?」

「わたし、ですか……?」

 いままで、そんなふうに訊き返されることがなかったから、鮮はわずかに面食らったように――しかし――口元に手をあて、考えるように(うな)った。

「好き、とは少し違いますが。――早く、お医者様になりたいです」

 そう、鮮は語る。

「小さい頃から義務のように言われてきましたが……。それでも、わたしはわたしの意志で、お医者様になりたいと思います。わたしの力で、多くの人の命を救いたい。それが私の、小さい頃からの夢ですから」

 語り終えた鮮は、また、笑う。いままでのような、気品のある、お嬢様然とした笑みではない。小さい子どもが背伸びをするような、あるいは見栄を張り過ぎたことに気づいて恥じらうような、そんな――可愛らしい――笑顔。

「――――――」

 薄い星明かりだけの闇夜の中、彩は(ぼう)とその笑顔に見入った。見惚れた、とは違う。なんというか……。

 ――鮮も、こんな顔をするのか。

 きっと……。

 それは、小さい頃の名残。彩が知らないのだから、小学生か、あるいは中学生のときも、まだあったのかもしれない。

 ……本当に。

 自分は、彼女(あざや)のことをなにも知らないんだな、と――――。

 はしゃいだ声のまま、鮮が彩を下から見上げる。

「兄さんは?」

 二人きりだからか、あるいは、闇が深いせいか、普段の彼女からは想像できないくらい、目の前の彼女は、とても幼く、無邪気に見えた。

 そんな彼女が、一つ年上の兄に訊ねる。

「兄さんは、将来の夢などありますか?」

「…………」

 彩は悩んだ。悩む必要など、ないはずだった。さっきのように『なにもない』と、あっさり返してしまえばいい。なのに……。

 考えた挙句に、彩は重たげに口を開ける。

「………………いまはない」

 だが、と彩は手擦りに手を伸ばし、夜空を見上げる。砂のように弱く舞う星々を、改めて視界に収めながら。

「いつか、自分自身で納得できることをやれれば、と思っている。そのために、自分は存在しているのだと、思えるなにか――」

 握った手擦りは、しかし彩には遠い。いつもつけている手袋のせいで、彩は普段からろくになにも感じない。

 その手袋は、十年前、ある女性からもらったモノ。事故に遭い、入院して、感覚だけで周囲のモノを破壊してしまう彩。一人、夜の丘の上で自身を呪い続けていた彩に、彼女は優しくしてくれた。

 ――いい。

 と、その女性は彩に教えてくれた。

 ――この世界に存在しているものには、必ず意味があるの。君のその性質も、必ず意味があるんだから。

 ただ破壊するだけの存在など、なんの意味があるというのか。破壊の限りを尽くすなど、そんなの、いないほうがマシだ。

 ――その意味を見つけるまで、簡単に自分を壊してはいけないわ。

 散々、我が身を呪い続けた彩に、女性はただ優しく微笑みかけてくれた。

 ……初めてだった。

 触れただけで、感覚しただけで破壊してしまう彩。だから、彩はなにも得られなかった。

 そんな彩に……。

 その女性は、彩を抱きしめてくれた。ほんの小さな、温もりをくれた。

 ――そう。

 覚えている――。

 彩の記録は、記録として摩耗せず、残り続ける。だから、彩はいまでも求めている。

 ――自分が、存在する意味。

 それを見つけるまで、彩は自分自身を見捨てないと決めた。……それが、その女性との約束。

「――――見つかると、いいですね」

 不意にそんな(おと)が聞こえたから、彩は反射的に振り返った。

 彩の一つ下の妹――響鮮――は、ただ微笑(わら)っていた。

 理由は訊かない。助言も、詮索もない。ただ、彩の(かたち)にした夢を、あるがまま受け入れる。

 ただ、それだけのはずなのに……。

 ……彩の表情は、自然と緩んでいた。

 彩はなにも返さない。鮮だって、彩にはなにも返さなかったのだ。ただ、その夢を頷き、良しとしてくれた。だから彩は「そうだな」と一人納得して、また夜空を眺める。彼の隣で、鮮も同じように星空を眺めていることだろう。――二人きりで、気が済むまで、白く輝く夜を見上げていた。


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