零章
記録の多くを占めるのは、小さな部屋。少年の目を通しても、その部屋は小さく狭々しい。壁は本棚で囲まれ、ほとんど隙間がない。低い天井にぴたりとはまった本棚には、分厚い本が居座っている。文学、古典、自然科学、幾何学……。日本語の本が多いが、異国の言葉で書かれたものも同じくらい並んでいる。外国の本を読むための辞書も、数多く揃っている。
少年は、少年の背丈には不釣り合いに大きな机の前に座って、本を読んでいる。異国の文字で書かれている、これは数学書だ。次元、空間、などという言葉が並ぶ。その隣に分厚い辞書を置いて、さらにその奥にメモ用のノートを置く。パラパラとページをめくり、時折辞書をひいて、気に留まったことをノートに綴る。
それが少年の一日。平日も休日も関係ない。一年も、一月も、一週間も。同じ一日が、続いているだけ。一分先だって、一時間前だって。きっと少年は、同じことをしている。
狭い部屋。……それが少年に与えられたモノ。
小さな部屋。……それが少年に定められた居場所。
――ここは。
ここだけで閉じている――。
同じことの繰り返し。
なにも変わらず――。
――少年は、その理由を知らない。
この部屋にやって来るのは、ほとんどが使用人で、着替えや食事、入浴に際して声をかけるのが常だ。
――そう。
声をかけるだけ――。
不用意に、彼らは少年に近づいたりしない。さすがに、あからさまに警戒心や嫌悪感をその顔に浮かべる不心得者はいない。が、貼りつけた笑みの、そのお面のように一色の笑みは、両者の距離とか関係というものを露呈しているようにしか見えない。
……父親は、少年に部屋を与えて以降、会うこともない。
……母親は、時折ふらりと、思い出したようにやって来るだけ。
いや、帰って来る、といったほうが適切か。
少年が与えられた部屋は小さいモノだが、この屋敷がそれなりに大きな場所だということを、少年だって気づいている。
広くて、人気を見せない屋敷内は、普段は寒々しいほどに閑散としている。食事や入浴、あるいはトイレに向かうために部屋を出た少年が、誰かとすれ違うのは、誰かを見かけることさえ、稀だ。その希少な遭遇でさえ、多くは気づかれていないと信じて影に引っ込んでしまうか、運悪く目が合ってしまった者はすかさず仮面を被り、一礼で用を終えて立ち去っていく。
そうやって、誰もが少年を避ける中、母親だけは少年の部屋を訪れる。年に数回ていどだろうか、母親だと名乗るその女性は、なんの合図も予兆もなく、少年の部屋に入り込む。
「どう?彩。勉強してる?」
振り返った少年に、女性は挨拶代わりに声をかける。
あまり人に会うことのない少年には、母親の外見年齢などわからないが、時々見かける使用人の中でも、若い人たちと同じくらいではないかと思う。だが使用人たちと決定的に違うのは、その恰好。年間を通して不定期にやってくる女性は、だいたい薄手というか、ドレスに近い、洒落たワンピースを着ていて、髪にもきちんとウェーブがかかっている。その外見だけでも、普段から外を飛び回っている、というのがわかるくらいに、派手な恰好をしている。
「してる」
少年は座ったまま、女性のほうに体を向ける。わざわざ机の上に乗せた本やノートを見せるようにするのは、そうしないと女性が近くまで寄って来るからだ。
ふーん、と。女性はそんな少年の気遣いを見ているのかいないのか、ただ一言を添えるだけ。
「そう、頑張ってね」
なんてセリフはまだいいほうで。
「これからも頑張りなさい」
これも、最初に言われたときこそちゃんと見ているかはなはだ疑ったが、まだ良しとした。
一番素っ気ないのは、少年の記録の中では次の一言。
「もっと頑張りなさい」
ふらっと立ち寄っただけで、ろくに少年の進み具合も見ていないのに、これだ。
極めつけが、女性はそれで用は済んだとばかりに、すぐに出て行ってしまう。
たった、二言……。
それを言うためだけに、少年の部屋にやって来る。普段から屋敷にいない女性のことだ、本来の用件は別にあって、少年の部屋にやってくるのは、そのついででしかない。
――それが。
彩の知っている、母親という存在――。
父親は姿を見せず――。
使用人たちは、仕事だから彩に声をかけるだけで――。
そんな中で、母親だけはなにも臆さず彩の部屋に入ってきて、彩と会話をする。
会話というよりも、女性から一方的に話しかけてきて、言いたいことだけを言うだけなので、正しく会話と呼べるかは疑わしい。実際、女性にとって彩という存在は、他の連中ほど、奇異でも忌避する存在でもなかった、それだけのことなのだろう。……有り体に言えば、野良犬か、あるいは預けたペットか。帰ってきたら声をかけるだけで、それ以上の意味も意識もなかった。
――拒絶と、無関心。
それが、響彩の記録の大半。
与えられたのは、小さな部屋と、その部屋を埋める本の数々。やるべきことは、その本を読んで勉学に励むこと。教師なんていない、ハードカバーで四百ページ近い本だろうと、外国語で書かれた書物だろうと、彩は一人で勉強を続ける。
……子どもらしく、なにかを期待したわけではない。
与えられたモノがソレだから。決められたコトがソレだから。……だから、続ける。
それ以外のことを、幼い彩は知らなかった。いや、聡い彩は気づいていた。この部屋の外、屋敷を抜けた先には、彩もまだ見たことのないモノが広がっている。机の上に浮かんだ窓の外側、そこから見える風景は、決してその四角い視界だけではないことを、彩は知っていた。
しかし、彩はその枠から外れようとはしなかった。
彩が部屋から出るのは、食事をするとか風呂に入るとか、そんな必要最低限。それ以上の行動は、どうやら彩には禁止されているらしかった。彩が予定外の行動をとれば、それを目にした使用人たちに部屋へと戻されるだけ。
彩が、その外見通りに幼い子どもであれば、きっと彼らに反抗しただろう。理由も知らされずに閉じ込められるだけのこんな毎日に、嫌気がさして抜け出しただろう。
しかし――。
彩は、幼くして聡い子どもだったから。一人で、大人でも頭を抱えるような難しい書物をすらすら読めてしまうほど聡明だったから。
彩は、彼らの思惑から外れなかった。
――気づいていた。
ここは。
檻だ――。
拘束されないだけマシか?そういうのを『軟禁』と呼ぶのではないか?それはつまり、閉じ込める必要があったということ?外に出してはいけない?人目に曝してはいけない?
あるいは……。
――忌ミ児。
だとしたら、あの女性は莫迦なのかもしれない。あるいは、無知なのか。周囲が忌避し、接触を拒むような存在に向かって、自ら虎穴に入ろうとするのだから。しかも、その洞からなにも得ることなく去っていくのだから、これでは道化以下だ。
…………いや。
勉強を続ける。食事を終えたら真っ直ぐ部屋に戻り、再び勉学の続き。一日の大半を与えられた部屋で過ごし、広い屋敷の中を無駄に歩き回ることもなく、外側へ抜け出すこともせず。
やつらの思惑に素直に従っている自分こそ、誰よりも滑稽――――。
当たり前に蓄積されていく記録の中に、いくつかの不純物が混ざり込んでいる。
それは、彩が刻んできた記録の中に、不意に入り込んできた。一日の勉強を開始して、朝食をすませて、また定位置となった机の前で続きをする。その習慣化された静寂を破ったのは、
コツ、コツ……。
机の上の本に視線を落としていた彩は、反応するように顔を上げた。体は反らさずにギリギリまで頭を上げられる角度に、この部屋唯一の窓がある。窓の外には、いつも空ばかり見えていた。澄んだ空、あるいは曇り、あるいは雨。机に上って窓に張りつけば外の景色が見えるかもしれないが、椅子に座った彩の位置からは、ただ空が見えるだけ。
だが、その音が聞こえたときは、違っていた。
コツ、コツ……。
彼女は、もう一度窓を叩く。
歳は彩と同じくらいだろうか。普段見かけるのはみな大人ばかりで、だから彩には正確なことはわからない。
目が合った瞬間、彼女はぱあっと笑って手を振る。彩には、その意味がわからない。
「……」
彩は三秒ほど少女を観察して、すぐに興味を失って手元の本に視線を戻す。
コツコツ……。
また、音。
「……」
彩が無言で顔を上げると、少女はなおも窓の向こうにいた。さきほどとは表情が変わり、今にも泣き出しそうな、喚き出しそうな、そんな顔をしている。
コツコツ……
また窓を叩いて、少女は頻りに窓を指差す。
……変な女。
彩は仕方なく、少女に応えることにした。要するに「窓を開けて」ということだ。彩は机の上の本を端に寄せて、机の上に上がって窓を開けた。
「あそぼ」
開けた瞬間、そんなことを言われた。泣き顔から一転、輝くような笑顔を広げて。
「ヤだ」
彩はすぐに窓を閉めて、鍵を閉めて、机から下りた。
再び本に意識を戻すと、窓のほうから頻りに音がする。普通の人間なら、あまりの騒々しさに気が散っただろうが、一度無視を決めた彩は一向に気にしない。余計なことを意識しないようにするのは、彩にとって難しいことではない。
どれくらい経ったのか、本に熱中していた彩が次に顔を上げたのは、昼食のとき。部屋の外から使用人が声をかけてきて、彩はいつものように無言で振り向くだけ。もちろん、扉は閉まったままなので、使用人には彩のそんな素振りは見えやしない。それでも、使用人は責務を果たしたとばかりに、彩の部屋から遠ざかっていく。
彩は立ち上がり際、思い出したように窓の外へと目を向ける。当然のように、見えるのは空ばかり。少女の顔は、もうそこにはなかった。
コツコツ……。
それは、同じ日だと記録している。昼食を終え、用のない彩はすぐさま部屋へと戻り、勉強の続きをしていた。正確な時間までは記録していない、というのは、彩が時間の経過を特別に意識していないからだ。昼食から夕食、あるいは入浴までの間の時間、だが、印象として昼食から戻ってきてわりと早い時間だった、と認識している。
「…………」
彩は溜め息も漏らさず、自然体のまま無視することに決めた。どうせ同じモノが見えるだけ。相手をしたら、同じやり取りになるだけ。なら、それは無駄でしかない。だったら、最初から相手をしなければいいと、そういう結論をくだしたのだ。
音は、なおも聞こえる。だが、さっきとは音が違う。なんというか、叩くのではなく、窓を揺さぶっているような、けれど無理矢理破るような感触でもなく…………。
音が止むと、彩はきりのいいところで手を止めて顔を上げてみた。
――紙が窓に挟まっている。
十秒近くその紙を眺めて、彩は息を吐いてから立ち上がった。
「作戦変更、か」
窓の隙間に捻じ込まれた紙を取り出す際に外の様子も窺ってみたが、もうそこには誰もいない。狭い敷地には緑が生え、そこそこ育った木が一本立っているだけ。あと、窓の真下に脚立が一つ放置されていた。
彩は机から下りて、その折りたたまれた紙を広げてみた。
「……………………」
彩が予想した通り、それは手紙だった。正しく便箋の形をしたその紙には、なにやら色々なことが書かれていたはずだが、彩の記録の中でもっとも印象的なモノは、
『あそぼ』
彩は一読しただけで、おそらくあの少女からであろう手紙を丸めてゴミ箱に放った。
――無視すればいいだけだ。
対面で話ができるなら、こんなやり取りは簡単だ。相手からの要求を即答に拒絶すればいい。
だが、手紙という手段に対しては、返信をしなければならない。仮に不都合な要求でも、応えに窮するような内容でも、必ず返信が発生する。
――だが。
これは、一方的な要求だ。それに、彩はすでに直接少女に返している。……なら、彩が無視を決め込んだって、ちっとも問題じゃない。
彩は再び、勉学を始める。余計な物音がしても振り向かないようにと集中したが、結局その日、それ以上の邪魔が入ることはなかった。
それから――。
その特異な記録は連日更新されていった。
最初こそ、彩を振り向かせようと窓を叩く音があったが、長らく無視を決め込んだせいか、あるいは手紙さえ届けば十分と判じたのか、ただ手紙だけが投じられるようになった。
当時のうちに気づいていれば良かったが、どうせ同じ内容、彩は手紙を受け取らなくても良かったはずだ。そうすれば、少女だって途中で諦めて彩へのちょっかいを止めたかもしれない。
だが、それは所詮、淡い期待だ。手紙が残っていようと、少女が追加を押し込み続けたらどうなったか。あの窓から見えるのは空ではなく、紙束だけになっていたかもしれない。
一枚一枚、律義に中身を確認していたが、書いている内容はやはり同じ。
『あそぼ』
だが、毎回書く内容は考えているらしく、少女の普段の生活とか、少女が遊び場にしている場所とか、前日の出来事とか、そんなものが認められている。
「またか」
うんざりとゴミ箱に放り込んでいたのが、
「まったく……」
ほとほと呆れ果て、
「…………」
ついには溜め息すら隠さなくなった。
一方的にゴミを押しつけられてきた彩も、いつかは限界がくる。一度目は手紙を捻じ込んでいる途中で顔を上げてみたが、すると少女と目が合い、彼女は驚いて逃げ出してしまった。机に上って少女のあとを追おうとしたが、すぐに建物の角を曲がって見失ってしまった。
その、翌日。
少しは警戒されるかと思ったが、まるでいつも通りだったから、彩は拍子抜けした。彩のほうは前回の失敗を踏まえ、少女に気取られぬように目だけ上げて様子を窺っているというのに。
何度も繰り返してきたように、持ってきた手紙を押し込んでいく少女。隙間に挟み込むといっても、それほど隙間はないらしく、あるいは折りたたんだ紙が厚いせいか、かなり手こずっている。
「……」
その日、彩は椅子の上に正座していた。このまま立ち上がっても机にぶつからないことは確認済み。
だから彩は、その通り実行した。――机に上り、窓の鍵を開け、ロスなく窓を引き開ける。
「……わっ……!」
少女の腕を引っ張り、部屋の中に引きずり込む。バランスを取る暇を与えず、机から下りる勢いでベッドの上に少女を放り込む。
「……………………」
彩は覆いかぶさるように少女を抑えつける。全くの不意打ちだったらしく、少女は抵抗らしい抵抗を見せない。そろそろ状況を把握するだけの頭も回るだろうに、しかし少女は硬直したまま動かない。彩の無表情に気圧されているのかもしれない。
「…………あ……」
それでも――。
少女は、条件反射みたいに口を開いた。
「あそぼ……」
彩は溜め息もつかない。……いや、我慢した、といったほうが正しいか。
――この期に及んで……。
心底、溜め息をつきたい気分だが、そんなものはおくびにも出さない。無表情のまま、彩は体を起こして少女から手を離す。
「……わかった」
彩に脅しつけられても、泣きそうな顔になっても、少女は一歩も引かない。なら、彩もこれ以上むきになるのはやめだ。
少女が途中で落とした手紙を机の上に置いて、窓を閉めて。出かける支度を整える彩を、少女はベッドの上で膝立ちのままぽかんと眺めていた。
「…………ほんとに……?」
扉の前で振り返った彩を見ても、少女はまだ信じ切れないみたいだ。だが、彩が無言のまま小さく息を漏らすと、ようやく事態を理解したらしく、
「やっ……!」
「黙れ」
喜色を浮かべて叫びかけた少女の口に、彩は素早く掌を被せる。
「誰かに気づかれたらどうする」
彩の一言で状況を思い出したらしく、少女は何度も首を縦に振った。
……まったく。
彩は少女の口から手を離し、代わりに彼女の腕をとって扉まで引っ張る。
「ほら、行くぞ」
「えっ、でも……」
少女は咄嗟に自分が入って来た窓を振り返る。人に見つかることを心配しているらしい。
「大丈夫だ」
だから彩は言ってやった。
「誰にも見つからないから」
彩の部屋に用もなく近づく人がいないことを、彩自身もちゃんと心得ている。使用人がやってくるのも食事どきや入浴の時間で、その限定した時間さえ外せば、大概見つからない。
もちろん、屋敷の中のどこかしらには人がいる。だが、どこに人がいやすいのか、どこなら人がいなさそうか、そういう場所をなんとなく把握している。まだ周囲との距離感を知らなかった頃は、不用心にも屋敷の中を歩き回ったことがある。かなり昔に、しかも数回ていどだが、彩の記録は記録として、色褪せることなく残っている。そして、そのときの人の配置も、昔から変わってはいなかったらしい。
「やったやった!」
あっさり屋敷を抜け出した彩の前で、少女は嬉しそうに声を上げる。
「すごいよ、サイ!こんなに簡単に出られるなんて」
「もう少し声を落とせ。この先は俺もどうなってるか知らないんだから」
いま彩と少女がいるのは、屋敷の裏口側。正面は、当然人の出入りが多い。だから、裏口を使った。ここだって、時間によっては人がいるから、安全とは言い切れない。もちろん、人がいない時間だと予想できたから利用したのだが。
「ほら、行くぞ」
周囲に人がいないことを確認して、彩は少女の手を引いて走り出す。
事実、彩が屋敷の外に出るのは、これが初めてだ。だからといって、周囲を警戒しながら少しずつ進んでいたら、いつ目的地につくかわからない。
だから、彩は躊躇わずに走った。
……五分ほど走って。
彩と少女は、目的の場所に着いた。そこが目的地だとわかったのは、すでに先客が待っていたからだ。
そこは、森の中だった。森の中ではあったが、ここはまだ屋敷の敷地内であることを、彩は知っていた。彩のいた屋敷から出て、ほぼ真っ直ぐ駆けた先にある森、その中。
樹木が生い茂り、葉の間から漏れる陽の下で、休憩スペースとして設置されたテーブルと椅子。その椅子に、向かい合うように座っていた一組の男女。歳は、こちらも彩と同じくらい。
「――やっと連れてきた」
座っていたうち、少年のほうが椅子から立ち上がり、彩のほうへ近づいてくる。と、彩のすぐ後ろにいた少女が彩から離れて、その少年へと駆け寄る。
「どう?ちゃんとわたし、サイを連れてきたよ」
「はいはい。偉い偉い」
誇らしげに胸を張る少女に、労うように彼女の頭を撫でる少年。
そのやり取りが、彩にはよくわからなかった。あの少年が、彩をここまで連れてきた張本人なのか、とも思ったが、なんだか、そんな大それた存在には見えない。
少年が彩のほうへと体を向ける。その表情は柔和で、優しい笑みに満ちている。
「初めまして。…………サイ、だよね?」
ああ、と彩は低く、ぶっきらぼうに返した。初対面にも関わらず、相手は自分のことを知っている。当然、彩は相手を警戒する。
そんな彩の心境をわかっているのかいないのか、少年は相変わらず微笑を浮かべたまま、口を開く。
「ぼ……」
「わたしはレン!」
少年の言葉を遮って、隣に並ぶ――毎日彩に手紙を送りつけてきた――少女のほうが大声を上げる。
少年は微笑を崩さず、しかし眉をいくらか寄せてその少女――レン――へと振り向く。
「レン。人が自己紹介しよう、ってときに……」
「いーじゃん」
早い者勝ちだよ、とレンは全く動じない。むしろ、してやったり、みたいな得意顔さえ浮かべている。
少年はわずかに肩を落とす。
「そういうのって、もう済ませてるものじゃないの。……では改めて。初めまして、サイ。僕はサイといいいます」
どうぞよろしく、と相手は手を差し出してくる。……その差し出した手の意味を彩は知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。
彩は、しかし両手をポケットに突っ込んで「響彩だ」と低く返すだけにとどめた。相変わらず警戒を解かない無表情だったが、相手は気にした様子もなく、微笑のまま手を引っ込めた。
その、彩と同じ名の少年の隣で、レンは笑い声を漏らして少年を下から覗き込む。
「サイニィだって、それがやりたかっただけでしょ」
「こういう偶然は利用するものさ。――それとも、運命、って言ったほうがサマになるかな」
当時の彩は気づかなかったが、このとき、サイの微笑はわずかな変化を見せた。口元を吊り上げたその笑みは、まるで悪戯がバレて苦笑しているみたいだ。
「さあ、お嬢様――」
取り繕うように、というよりは、決められたプログラムを進めるように、少年は背後のテーブルへと振り返る。まだ椅子に腰かけたままの少女に向けて。
「この中で自己紹介がお済みでないのは、お嬢様だけですよ?」
レンも振り返り、彩もまた、その少女に目を向ける。
その外見は、目の前にいる二人とは、そして自分とも、異なる印象。サイとレンが動きやすさを重視した恰好なのに対して、椅子に座った少女はフリルのついたドレスを召している。たまに彩の部屋にやってくる母親よりも洒落こんでいるかもしれない、ドレスの胸元にはリボンがあしらわれ、肩より少し下まで伸ばした髪も綺麗に整っている。お人形のような、という形容がぴったりくるような、そんな完璧さ。
……だが、一方で。
その少女の顔に浮かぶ仏頂面は、とても人間的だ。いや、仏頂面といっても、怒っているというよりは怯えている、といった雰囲気。自分の知らない場所に放り出されて、不安に身を縮めている、そんな印象。
「…………」
少女は立ち上がり、一歩前に踏み出して、そこで止まってしまった。彼女は真っ直ぐ彩の眼を見て、彩もまた、少女の瞳を直視する。視線のぶつけ合い、とでも言うような、それは決闘に近い。もっとも、少女のほうが一方的に挑んでいるばかりで、対する彩は無表情に返しているだけだが。
少女は前に出したほうの足を引いて、なんとか反対の足と揃える。両手は、ドレスの前で握ったまま。もしかしたら、自分の身体を抱いたり、胸元で両手を合わせたかったのかもしれないが、なんとか、膝の上でそれぞれを強く握っているにとどめている。
「…………」
開いた口から、しかしすぐに言葉は出ない。代わりに吐き出された息を聞いて、少女は反射的に口を閉ざす。荒れた吐息を漏らす自身の失態を許せないとばかりに、少女は硬直したままぴくりともしない。
その硬直は、一分続いた。小刻みに揺れているのも、涙目になっているのも、少女は気づいていなかっただろう。それでも少女は、最後にやっと口を開いて、
「…………響、鮮です……」
消え入りそうな声で、呟いた。
レンが、少女の努力を労うように抱きついたが、彩はただ少女を見下ろすばかりで。少女もまた、放心してなお彩を睨むように見上げていて。
――それが。
響彩と響鮮の、最初の邂逅――。
「なんだかごたごたして順番が逆になっちゃったけど」
サイはそう切り出した。実際にサイと会話ができるようになったのは、互いの自己紹介がすんで一時間以上経ってからだ。というのは、レンの「自己紹介も終わったし、みんな揃ったことだし、あそぼ!」という提案により、いままでバドミントンをする破目になったからだ。
試合は、鮮とレン、彩とサイに別れてのダブルス。試合といっても、コートもネットもない、純粋なお遊び。最初はサイとレンが打ち合う形だったが、徐々に彩や鮮も混ぜるようになった。彩もシャトルがきた以上、仕方なく打ち返して、それで参加することになった。
彩のほうは、うっかり際どいコースも拾ってしまったため、何度か打ち返す役をすることになったが、一方で、鮮のほうはドレスのせいもあったが、元々動き回るのが不得手と見え、ろくに返すこともできず、ほとんどをレンが返して、時々サイが優しいコースを打ってくれるのでなんとか鮮も打ち返すことができる、そんな感じだ。
そんな、ほとんど参加できていない鮮がノンストップのラリーに疲れて、ようやっと休憩に入った、そんなタイミング。いまは、女子は女子同士、男子は男子同士で固まっている状態。
「よくこの場所がわかったね」
サイに促されるままに木陰に腰を下ろすと、すぐさまサイに話を振られた。
「手紙に、ここのことが書いてあったからな」
「レンの手紙でわかったの?」
「だいたいな」
手紙の中にこの場所のことが書いてあったのは事実だが、正確な位置が書いてあったわけではない。今日はどこで遊んだ、その場所っていうのはこういう場所で、いつもこういうふうに通って、なんていう、至極ざっくりと書いてあるだけで、何枚もの手紙を照合し、この辺りだろうとあたりをつけたにすぎない。しかも、彩はこれまで屋敷から外に出たことがないのだから、そのあたりも想像しながら、実際に見て認識とのズレを修正しながら、といった具合だ。
「すごいな。僕が君の立場だったら、レンに案内してもらわなきゃ辿りつけなかっただろうな」
後でわかったことだが、この森は屋敷と離れの間にあるため、互いを結ぶための道が存在する。しかし、この場所はその道からは外れた、ちょっとした憩いの場になっているため、わかりづらい場所にある。一応、ここに来るまでの細い道が存在するようだが、レンもサイもその道は使わず、独自ルートでここまで来ている。
だから、なんとなくでこの場所に辿りつくのは、本来は困難だろう。サイの言うとおり、レンに案内してもらうのが正道だろうが、彩は彼女に聞こうとは思わなかった。……だいたいの場所がわかるから、人に聞くまでもない。それが、響彩の判断だ。
「君はどうして西館にいるの?」
なんの予備動作もなく、サイはいきなり踏み込んだことを訊いてきた。彩は、しかし間を置きたくなかったから、即座に回答した。
「そういう決め事になってるからじゃないのか」
「誰が決めたの?」
「……たぶん、響崇」
誰に訊いたわけでもないが、彩は八割以上の自信を持っている。使用人たちも、ましてや母親でさえ、ここまで断言はしていない。――しかし、聡い彩は気づいている。
「なんか変な感じだな。鮮は本館で、お兄さんである君は西館なんて」
「たぶん――」
彩は動揺することなく、次の回答を口にしていた。
響彩が西館と呼ばれる建物にいることも。西館以外に、本館や東館があり、離れが二つあり、森があることも。――響彩に、妹がいることも。
――そして。
「俺の母親――水花――が、正妻じゃないからだろ」
自分が、妾の子どもであることも――。
聡い彩は、気づいていた。
なぜ、彩は屋敷から出ることを許されていないのか。なぜ、父親は彩に会いに来ないのか。
……わかっていた。
自分は、望まれていない。自分は、いてはいけない存在。だから、閉じ込められている。外の誰にも、気づかれないように。
そんな彩の答えに、しかしまだ幼いサイは首を傾げるだけ。
「僕もそれは聞いたことあるけど、セイサイって、なに?」
それから、ほとんど毎日のように森へ行く記録が追加されていった。やはり彩を呼びにくるのはレンで、以降は彼女を屋敷の前に待たせ、彩は一人で裏口へ向かった。
森の中のいつもの場所に着くと、やはりそこには鮮とサイが待っていて、またレンの提案通りにみんなで遊ぶと、その後は男子と女子に別れて休憩する。
「――ねえ、彩。知ってる?」
最初こそ彩に質問ばかりしていたサイだが、あらかた彩が答え終わると、今度はサイのほうから勝手に話をするようになり、一方で、彩は適当に相槌を打つだけになった。
「屋敷の外に出れば、こんなに広い森がある。でも、この森だってまだ屋敷の中なんだ」
「知ってる」
「本当の屋敷の外に出たくても、周りはぐるっと塀で囲まれている。本館の正面に出入り口があるけれど、僕らはそこから出ることを許されていない」
「俺は、本当ならこんな場所にいちゃいけないんだがな」
「それは、君の妹もだよ」
ちらと、サイは少女たちのほうを一瞥する。どうやら綾取りをしているらしく、レンを先生にして、鮮が拙いながらも指を動かしているのが見える。
「鮮も言っていた。一日中、自分の部屋にいなきゃいけない。そこでお勉強しなきゃいけない。将来、立派な人になるために。将来、響の家を背負うために」
「……俺は、そんなふうに言われたことはない」
つい、彩は意味のない反感を口にしていた。
彩だけでなく、鮮も一日中、自分の部屋に閉じ込められているらしいが、鮮のほうには毎日、母親――正妻である奏――が会いに来るそうだ。時々ではあるが、父親――響崇――も、鮮のもとに訪れるという。
羨ましいとか、妬ましいとか、そういう感情は無い。ただ、現実としてそういう差異があるのだと、そう認識している。
……だが、とも思う。
「僕とレンには、そんな制約はない。でも、この屋敷から出られない、というのは変わらない」
ここにいる四人は、少しずつ環境が違う。それは、立場というものの違いから生じているのかもしれない。
――それでも。
誰も、この屋敷から出ることは許されていない――。
「――僕はね、彩」
不意に、サイが立ち上がる。言葉は続けるが、しかし、サイは彩のことなど見ず、空を見上げて、ただ、遠くを視るように――――。
「将来、この屋敷から出てみせる。この屋敷は、もう隅々まで歩き尽くしたから、正直、退屈してる」
そんな決意を、サイは口にした。
それは、幼い子どもが抱く、壮大な夢だった。そこにどんな困難があるのかも知らず、周囲からの圧力も知らず。純粋に、その大望を実現できると、信じている。その意志を忘れないために、その決意を口にする。
一方で――。
「――俺は、どうだっていい」
彩は座ったまま、冷めた口調で返すだけ。いや、これは相対ではない。単に、自分の意思を口にするだけの、ちょっとした思いつきにすぎない。
「俺が俺の在り方を決められるなら、居場所なんて、そんなものはどうだっていい」
立ったまま、サイは振り向いて彩を見下ろす。その視線に、しかし彩は応じない。その意思表明だけで十分とでもいうように、無関心に前を眺めているだけ。
ふっ、と。サイは口元を吊り上げるように苦笑した。
「…………君は、大人みたいなことを言うね」
さて、とサイは立ち上がってズボンについた汚れを払う。
「そろそろ、お嬢様はお部屋にお戻りにならないと」
それが、この特異な記録の終わり。
詳しくは聞いていないが、鮮には定期的に見回りがあり、あまり長く外にはいられないらしい。サイとレンが鮮を屋敷まで連れて帰り、それでこの集いはお開きだ。
「レン!もう時間だ」
大概の記録では、サイがレンに声をかければ、すぐにレンは鮮をつれて彩たちのもとへやって来る。だが、稀に二人の反応が遅れることがある。
「おい!レン」
そんなとき、サイは仕方なく二人のもとへ向かう。遠目で眺めているだけの彩には、彼女たちがなにをしているのかわからない。単に、綾取りに夢中になっているだけだろう、くらいに、彩の記録には残っている。
「レン!」
サイが声音を変えてレンを呼ぶ。後ろ姿しか見えないが、屈んで両腕を前に出して抱えるようにしているから、きっと目隠しでもしているのだろう。
遠くで、彩には全ては聞こえないが、レンの「ごめんなさい」とか「もうしないから許して」というセリフから、レンの両親の真似でもしているのだろう。
散々暴れたレンは、目隠しから解放されてサイの姿を認めると、今度は立ち上がってサイに殴りかかる。しかし、所詮は子ども、しかも妹からの攻撃だ、兄は余裕をもって彼女の拳を受け止める。
そんな光景を、なんと思えばいいのか、彩は知らない。そもそも、こんなふうに他人と一緒にいる時間をどう感じればいいのか、彩にはわからない。
響彩は、本当は屋敷の外に出ることを許されていない。それは、彩がこの屋敷では異端で、望まれていないからだと、幼い彩でも――いや――聡い彩は識っている。
なのに……。
彩は、その光景を観る。
レンはまだむきになってサイを叩いている。一方でサイは「はいはい、ごめんごめん」とレンを宥めるばかり。
そして――。
驚いたように――表情の起伏が乏しいのでわずかだが――目の前の二人のやりとりを眺めていた鮮が、不意に彩のほうへ目を向ける。
と。
視線が合ったことで、彼女はさらに驚いたように、顔を伏せる。
だが、彩が一向に視線を外さないから、鮮もちらちらと、終いには上目遣いで彩を凝視する。
サイとレンの兄妹が落ち着くまで、彩と鮮の兄妹は――兄妹という実感もないまま――互いのことを視ていた。
最後の記録は、紅。
――一点の紅。
――一色の紅。
――一面の紅。
――一塊の紅。
亡、っと。
その滑るモノを見つめる。
皮膚がソレで覆われている。手がソレで塗れている。指がソレで浸されている。爪がソレで満たされている。――――カラダがソレで侵されている。
――ゾクリ。
その強烈な色に。その異様な感触に。――その異質な感覚に。
体中が熱を帯びている。――――――いや――――躯に、熱が注がれたように。満たされた熱は、自身の躯からも溢れようとしている。
息が荒い。…………はぁ、はぁ、と。
全力疾走をしたあとのように、身体が熱い。熱くて熱くて。――――まるで灼けるように。
渇き――。飢え――。痛み――。
身体の奥で、なにかが疼いている。いや、這い上がってくる。じくじく、ジクジク、と。心から溢れるように。流れる、いや、それは這う。喉元まで、指先まで、眼球まで、脳髄まで……。
感覚が疾る。感覚が暴れる。感覚が爆ぜる。感覚が狂う。感覚が――――――。
――――ガォン。
と、鈍い。
まるで、殴られたような。頭部を、殴られたような。鈍器で、殴られたような。――――銃弾を、撃ち込まれたような。
暗く。昏く。冥く…………。
身体を支配していた熱が、一瞬で零に堕ちる。荒れ狂っていた感覚は、停止し、あるいは消滅し、消失し。
その衝撃は、まるでスイッチだ。緊急停止ボタン。全てが堕ちて、暴走と氾濫を止める。だから、ブラックアウトしたように映像もない。
だから……。
ここでは、音声も失われたはず。
なのに――。
響彩は。
――――――遠く、産声を聴いた気がした。




