揺れる気持ち
案の定、改札口で待ち合わせをしていた栄一君に事の顛末を話したら、ものすごく怒られた。
「俺の方が先に約束してたんだけど――?」
ふて腐れたその言い方が妙に子供っぽくて、かわいかったからつい微笑んでしまったら、栄一君は呆れたような顔をして私を見ていた。
「ごめんね。でも、その代り今週の土日は二日とも空けてあるから。智と一緒にどっか、遊びに行こう?」
手を合わせて、ごめんね、と呟くと、栄一君は観念したようにむすっとしたまま「仕方ねえな」と一言返してきた。
「あー! もう。分かってるんだけど、ムカつく俺に腹が立つ!」
頭をぐしゃぐしゃと掻きむしってから、栄一君が一つため息を漏らした。
「土日は絶対、空けといてよ」
「うん。空けておくから大丈夫」
そんな会話を交わしていると、ふと小さな二人組の会話が聞こえてきた。
「さとるくん、このおにいちゃん、さとるくんのおにいちゃん?」
「ううん。ぼくのともだちなの。でんしゃでなかよしになったんだよ」
「さとるくんのママも、なかよしなの?」
「うん。えいいちはぼくとママのおともだちだからね」
変なところで胸を張っている智とキラキラした眼差しで智を見つめる千冬ちゃんの姿を見て思わず微笑んでしまった。二人は自分たちが笑われていることに気がついたようで、テレを隠しながら、「こらー! わらわないの―!」と頬をを膨らませていた。
栄一君とは結局八王子の駅で別れて、帰りにスーパーに寄って食材を買った。
子どもたちは二人ともハンバーグを食べたいというので、夕飯にはハンバーグを作ることにした。
四人分の食事を作って、三人で食べた。
千冬ちゃんが一人増えただけで、智はいつもよりもおしゃべりになってはしゃいでいたし、千冬ちゃんも嬉しそうにご飯を食べていた。お父さんのご飯よりもおいしいと言って、おかわりをしてくれた。食事の最後に、いっつもこんなご飯が食べたいな、とぽつりと漏らしていた。智と同い年の千冬ちゃんが一人で家で過ごすことが寂しくないわけがない。その言葉の重みに、胸が締め付けられた。
食事が終わるとすぐにお風呂で、三人でお風呂に入ったけれど、やはり賑やかだった。お風呂に浮かべているおもちゃで二人で遊んでいた。そんなふうにずっとはしゃいでいたから、お風呂から上がって部屋でくつろごうとした頃には、二人とももううとうとしていた。子どもたちをお布団に並べて寝かせると、あっという間に寝息を立てていた。
寝ている間は天使だな、としみじみ思う。さっきまできゃあきゃあはしゃいでうるさかった二人に、何度も「静かにしてね」「静かにしなさい」と声を上げていた。それでもやめない二人の姿は小悪魔同然だったけど、寝ている顔は素直に可愛い。
眠ってしまった二人の顔に「お休みなさい」を小さい声で告げて、リビングに戻った。
ソファに座ると、ようやくほっと一息つけた。
用意してある鈴木さんの食事を見て、ふっと昼間の言葉を思い出した。
私が、鈴木さんの奥さんに似ている……?
その言葉の意味を考えていると、携帯が鳴った。着信画面を見ると、鈴木さんだった。
「――はい」
「ああ、鈴木です。すまないね、千冬をお願いしてしまって。千冬はどうしている?」
「ご飯食べて、お風呂入って、もう寝ましたよ。お父さんが仕事だって納得していたから、今回はあんまり寂しそうにはしていませんでした。智とずっとはしゃいでいました。でも、千冬ちゃんずっとお父さんの話をしていたんで、恋しいんだと思いますよ。目を覚ました時には、隣にいてあげてくださいね」
暗に早く帰って来なさいと告げると、鈴木さんは「うん」と素直に呟いていた。
「仕事の方はやっと一段落ついたから、今日中にはそちらに戻れる」
鈴木さんの言葉に時計を見上げると、もう10時を回っていた。
「わかりました」
そう言って電話を切ってから、またソファに座った。さっき見たばかりの時計をもう一度見つめる。旦那さんの帰りを待つって、こんな感じなのかな? となんとなく頭に浮かんだ。
旦那さんは仕事に行って、子供たちの面倒を見て、帰りを待つ。
当り前の家庭の当たり前の風景。
まるで失くしてしまったパズルのピースみたい。
鈴木さんが家に来たのは、12時5分前だった。外は雨が降り出したらしく、鈴木さんの肩が濡れていた。
「雨、降ってるんですか?」
今日は雨の予報なんてなかったはずなのに。
「ああ。少し前から降り始めていたよ」
「傘、持ってました?」
「いや、持っていたらこんなに濡れていないさ」
はは、と小さく笑う鈴木さんにタオルを差し出した。小さくお礼を言う鈴木さんに、中に入るように促して、お風呂の準備をした。
「濡れてると風邪引いちゃうから、お風呂、どうぞ」
その言葉に、鈴木さんは「いや、それは」と固辞した。
「千冬ちゃんはぐっすり寝てますし、雨の中外に連れ出したら、その方が風邪引いちゃいますよ。鈴木さんもそのままだと体が冷えてしまうから、良かったらどうぞ。その間に、食事温めておきます」
夕飯はすっかり冷めてしまっていた。ずっと仕事だった鈴木さんはきっと食事も取っていないはずだ。
「いや、ほんとにこのまま帰るから」
鈴木さんが固い顔をして言う。
「遠慮しないでください。鈴木さんらしくないです」
「いや、遠慮しているわけじゃないよ。こんな夜中に、女性の部屋に上がってお風呂をいただくわけにはいかないよ」
「女性の部屋って、二人っきりってわけじゃないですし、お気になさらずどうぞ。それに、そのまま帰るって言っても濡れたまま千冬ちゃんを抱きかかえていくわけにはいかないでしょ? 濡れた服、乾かしちゃうんでその間に」
「……そうかい? なら、お言葉に甘えさせてもらおうかな……」
相当体が冷えていたらしい。鈴木さんは小さなくしゃみを一つすると、困ったように笑って見せた。
「ええ、もちろん」
タオルを用意して、脱衣所に場所を案内した。鈴木さんは「悪いね」と言いながらタオルを受け取った手はすっかり冷え切っていた。
鈴木さんがお風呂に入っている間に着ていた服を洗濯乾燥しながら、食事の準備をして待っていた。ハンバーグとサラダとお味噌汁。子どもがいたら当たり前のような、簡単なありふれた食事。
レンジで温め直して並べていると、鈴木さんがお風呂から上がってきた。
「ずいぶん早いですね」
「そうかい? 人の家で長風呂するわけにもいかないんでね」
用意しておいたジャージは男性用のMサイズだったけれど、鈴木さんにはずいぶん小さかった。横幅は大丈夫だったけど、手足は七分丈のようになっている。ちなみにこのジャージは私の父が宿泊していくときのパジャマ代わりだ。普段は智は実家にいることが多いけれど、たまに両親がこちらに泊まりに来ることもある。そんなときに使うジャージだった。
「それ、うちの父の着替えなんですけど、サイズが小さかったですね」
そう言いながら思わず笑ってしまった私に、鈴木さんはバツが悪そうな顔をした。
「着替えがないから文句は言えないけれど、少し小さいね」
「ふふ。やっぱり。少し我慢してくださいね。食事準備したんで、どうぞ」
私の言葉に、鈴木さんは「え?」と少し驚いた様子で目を瞠った。
「食事なんて、そんなのよかったのに」
「子どもの分と自分の分と作ったついでです。仕事じゃ、鈴木さんご飯食べる暇もなかったんじゃないんですか? 鈴木さんのことだから、どっかでご飯食べてから来るなんて器用なこともしないでしょうし。千冬ちゃんのことが気がかりで、終わってすぐに来たんじゃないですか?」
初めはずいぶんと鈴木さんのこと誤解してたけど、今ならわかる。鈴木さんは千冬ちゃんのことをないがしろにしていたわけじゃない。どう接すればいいのか、千冬ちゃんぐらいの年の子にどう振る舞っていいのかわからなかっただけだ。だから、千冬ちゃんと鈴木さんの距離が縮まるほど、鈴木さんが千冬ちゃんのことを大事にしているのは分かった。以前ならそんなこと思わなかったけど、今の鈴木さんは千冬ちゃんが家にいるのをいいことに、自分のことをこなしてから迎えに来るような器用なことができる人じゃないのは分かるようになった。
「……そこまで気を使わなくても構わないよ。服が乾いたら、すぐに帰るから」
鈴木さんはそう言うと、ソファに腰かけた。
「でも、もう作ってあるんでどうぞ。残ってももったいないだけですから」
そう言って笑いかけると、鈴木さんも困ったような顔をして笑いながら、
「じゃあ、いただこうかな」
と答えた。
食卓に並んだ夕食を見て、鈴木さんがほほ笑む。
「なんか、いいね、こういうの」
ぽんと手を合わせて「いただきます」と言って、食事を始めた。
お茶を入れて、鈴木さんの前に置いて向かいに座る。
「ほんとはね、すっごい腹減ってたんだ。だから、ありがたいんだけどね」
照れくさそうにそう言う鈴木さんを見て、なんだか微笑ましかった。
「ハンバーグは、智と千冬ちゃんのリクエストだったんです。子どもっぽいおかずで、申し訳ないんですけどね」
「へえ。やっぱり子供はハンバーグが好きなんだね。昔あったよな? 好きな給食ランキング。ハンバーグとカレーは毎年上位じゃなかったかい?」
「男の人も、ハンバーグ好きですよね?」
「あー、男はいくつになっても子どもっぽいところがあるからな。ま、俺はどちらかというと和食派だけどね」
「渋いですね」
「千冬にもつい、酒のつまみのようなものを食べさせてしまってね。だからあの子、ハンバーグ食べたがったのかもしれないね」
さすがに男の人は食べるのが早い。あっという間にご飯を一膳食べてしまった。おかわりをよそって、鈴木さんの前に置くと、鈴木さんが食事の手を止めた。
「こういうの、いいね」
鈴木さんが、私の顔を見つめながら微笑んだ。
「え?」
そう言い返すのが早いか、突然腕を掴まれた。
そのまま、腕を引き寄せられる。
「ちょ、鈴木さん!?」
驚いた私が、その腕から逃れようとすると、腕の力がさらに強くなり抜け出せなくなった。そのまま、彼の肩にぐっと押し込まれるような形になり、どうしていいのかわからなかった。
「毎晩こんなふうに、君に帰りを待っていてほしい」
鈴木さんの囁くような声が、耳元に聞こえた。
「待って、放してください」
「いやだね」
あっさりとそう言われ、身動きが取れないまま抱きしめられている。どうしていいかわからなかった。力では敵わない。
「君も、考えてくれないか。俺と君と、智君と千冬の四人の生活を。夫婦が揃っていて、子どもたちがいて。そんな生活を、俺は君とならやっていけると思う。そう思わないかい?」
鈴木さんの言葉に、ふと体の力が抜けた。
「今日、君が出迎えてくれて、なんだか安心したんだ。俺は仕事が好きだから、どうしても仕事を優先したくなってしまう。だけど、千冬のことが気にならないわけじゃない。罪悪感を抱えながら帰途についた。そんな時、君が笑顔で出迎えてくれた。それが、嬉しかったんだよ。そして、風呂の準備をしてくれて、食事もあって。それだけで、すごく心が温かくなった。そんなふうにほっとできた事なんて、ここしばらくなかったんだ。君の笑顔がたまらなく嬉しかったんだ」
熱っぽく語る鈴木さんの言葉が、心にしみわたってくる。
その気持ちは、私も同じだった。鈴木さんが仕事が終わって帰ってきたとき、食事をしているとき、家族ってこういうものなのかな。って思った。お父さんが仕事をして、お母さんが家庭を守って、子どもたちがいて。そんな普通の家族みたいって。
私は両親が揃って、そんな普通の生活を送ってきたのに、智にはそれを与えてあげられない。
鈴木さんの言葉に頷いてしまえば、そんな当たり前の生活を手に入れることができるのかもしれない。
智にお父さんを作ってあげることができるのかもしれない。
「……あの、私」
私の言葉を遮るように、鈴木さんの腕に力がこもる。
「君だって、そう思わないか? このまま俺を受け入れてくれれば、君は夜遅くまで働かなくていいんだ。いや、仕事なんてさせない。俺は君を守りたい。君と子どもたちを守りたいと思う。俺は経済的な安定を君に与えることができる。そして君は、僕に家庭の安らぎを与えてくれる。子どもたちは、両親揃った環境で暮らすことができるんだ。そんな普通の幸せを、智君のためにも考えてくれないだろうか」
普通の幸せ……。
その言葉の響きに、目の前がぐらっとした。
私一人では、智には絶対与えてあげられない幸せ。
どんなに働いても、今の私じゃ先行きは不安だ。正社員でもない、ただのアルバイトでどんなに夜遅くまで働いたって、普通のサラリーマンの年収には到底及ばない。年収は200万を切っている。正直、貧困家庭と言ってもいいくらいだ。そんな私が、智に満足な教育を受けさせることは難しい。今だって親の援助に頼っているところが大きい。もしかしたら、高校も大学も智が自力で行かなければいけないかもしれない。
それに日々の生活費を稼ぐだけで、智と過ごす時間を犠牲にしている。幼い智の一日はもう戻ってこないのに、一緒にいてあげることもできない。
そんな毎日を思うと、鈴木さんの言葉に心が揺れた。
このまま鈴木さんの言葉にうなずいてしまえば、智に普通の生活をさせてあげることができるんだ。
今私を抱きしめているこの腕の力強さに、心が捕らわれそうになる。
鈴木さんの腕の力が少し緩んだ。私を抱きしめたまま、目を合わせる。その真剣なまなざしに、心をぎゅっと掴まれる感じがした。
「俺は君が好きだ。初めて会った時から、妙に君が気になっていた。だからあんなに強引に近づこうとしたんだ。もっとも、君は気がついてはいないようだったけどね」
苦笑交じりに鈴木さんが言う。
「はっきり言って、俺はなかなかの物件だと思うよ。仕事が好きなだけあって、収入もかなりいいと思うしね」
鈴木さんがいたずらっぽくウインクしてみせる。
そのまま下から救い上げるような視線で見つめられて、ドキッとした。
何も言えないでいると、鈴木さんは微笑みながら私のことをじっと見ている。その腕の中にすっぽり私を抱きかかえたまま。
「こんなふうに、ずっと一緒にいてくれないか?」
その優しい声の響きに、身動きが取れなかった。
そんなことを言われたら、どうすればいいんだろう……。
言葉が出ないまま固まっていた私を、鈴木さんがすっと手を離した。そっと私の両手を自分の両手で包んだ。
「今じゃなくていいんだ。返事は急がない。だけど、君がもしもほんの少しでも、俺と一緒にいたいと思ったら、いい返事をもらえないだろうか。智君のためでもいい。
……本当は、俺に魅力を感じてほしいところなんだけどね」
鈴木さんの眼差しはあくまでも優しく私を見つめている。とても穏やかな目で、こんなふうに見つめられたら自分でも悲しいぐらい心がぐらついていた。
このまま頷いてしまったら、私は楽になる。
今とは全然違う生活が待っている。
……でも、それでいいの?
浮かんだのは、栄一君の顔だった。
「君がすぐにいい返事が出来ないのは、彼氏のせい?」
見透かされたのかと思うほどのタイミングで鈴木さんに言われ、思わず鈴木さんの顔を見つめてしまった。自分でも驚くほど肩が強張っていたらしい。
「その彼氏は、君を幸せにできるの? 君と付き合ってるんだから、まだ若いんだろう? そんな男が、君と智君を養っていけるのか?」
養っていけるも何も、栄一君はまだ高校生だ。自分の未来でさえ決まっていない彼に、そんなこと考えられるはずもない。
黙って首を横に振った。
「私、彼に、私を幸せにしてほしいなんて、言えない……」
涙が出そうだった。
今、私は彼が好きだ。
それは間違いない。だけど、この先は? 栄一君は高校を卒業したら、新しい環境で新しい出会いがある。そんな中で、私を好きでいてもらえる自信もないし、好きでいてほしいなんて言えない。
いつか必ず訪れる別れを見ないふりして、彼にすがって生きることは出来ない。
「君に彼氏がいてもいなくても、俺にとっては関係ない。
だから君も、素直に考えてみてくれないか?」
鈴木さんのその言葉に、何も返事をすることが出来なかった。
私はどうしたいんだろう。
私と智の未来を、真剣に考えた事なんてなかった。ずっとずっと智と二人でいるものだと、信じて疑わなかった。
そんな私たちの目の前に栄一君が現れて、私たちは付き合っていた。ずっとこの時間が続けばいいと思っていたけど、そんなことがあるはずもない。じゃあ、その先はどうなるんだろう。どう考えたって、この先に私と栄一君と智が繋がる未来なんてない。
私たちは普通の家庭を築くことなんてできない。
それに引き換えて、鈴木さんは私たちを守ってくれるという。鈴木さんの腕に縋ってしまえば、当たり前の四人家族になって、ごく普通の家庭生活を営める。
でも、それでいいのかな。今の私は栄一君と一緒にいたいと思っていた。
彼と一緒にいたいと、思っているのに……。
どうしても彼との未来は、浮かんでこなかった。




