リサと栄一
その日は、担任の藤田ちゃんの補習だった。隣のクラスでは、進学クラスの講習が行われている。補習組は学年でたったの10人。講習組はクラスがいっぱいになってしまうという盛況ぶりで、その落差が激しくて笑ってしまう。藤田ちゃんは「俺も講習組が良かった」と教科書の背で机を叩きながら嘆いている。バカ子たちでごめんよ……。
補習が終わって、隣のクラスに顔を出すと、窓際の一番後ろの席で栄一が突っ伏していた。
「えいいちー、寝てるの?」
ひょいと栄一の顔を覗き込むと、パチッと目を開けた栄一と目が合った。
わ! 不意打ち。
まっすぐに見つめられて、驚いた。
「んー、なんだ。リサか」
むーっと唇をとがらせながら栄一が視線を逸らして窓の外を見る。なんだとは、まるきり失礼な話だ。
「リサだけど?」
むっとしてそう返してから、口調を改める。なんだか、栄一の顔がいつもよりも暗い。
「どうしたの? なんか、元気ないじゃん」
ばんと背中を叩くと、栄一が顔を上げる。
「……いや、ちょっと落ち込んでんの」
栄一にしては珍しい言葉で、思わず吹き出してしまった。
「落ち込むー? 栄一が? なんでまたー」
そう言うと、むすっとして栄一が窓の外を見る。窓の外では野球部が暑い中、ノックをしている。捕手の子たちがうだるように顔を真っ赤にしながら、「へーい」なんて間抜けな掛け声をかけている。
「んー、ちょっとさあ。自己嫌悪」
補習が終わったから、クラスの人達が荷物をカバンに詰め終ってばらばらと席を立って、帰り始めている。そんな教室の状況と似合わない栄一の言葉に、また顔を覗き込んだ。ちょっと意外なことを聞いた気分だ。この、そつない男が自己嫌悪とな?
すると興味津々で様子をうかがっているのが分かったのか、
「顔近い」
と栄一に怒られて、「ごめん」と真っ赤になりながら後ろに一歩下がった。
「えいいちさんが自己嫌悪なんて、珍しいじゃん」
からかうように言う。
「俺がいつでも自信満々だと思うなよ」
あくまでも冗談ぽい口ぶりで栄一は言うけど、全然冗談になっていないところが、己を分かっていないって気がする。
「そんなことは思ってないけどー。でも栄一って、割と完璧系だと思われてるよね?」
女の子たちが理想の男に祭り上げているのは、知ってる。普段から落ち着いているし、周りの状況をよく読むからね、栄一は。そりゃ、ガキンチョみたいな高校生男子の中では、群を抜いているとは思うんだけども。リサ的には。
「……やめろよ」
恥ずかしそうに顔を赤くしながら栄一がそっぽを向く。
「俺なんか、全然お子ちゃま」
うんざりするように、机をバンと一回叩いた。あれ、確かに栄一にしては珍しい。
「どうしたの?」
今度の問いかけはちょっと真顔にしてみた。こんなふうにイライラしている栄一は珍しかった。
「正直、分かんねえ」
ぽつっとこぼす。ポケットに手を突っ込みながら、ガシガシと隣の机を脚で蹴飛ばしている。
「女って、マジ、何考えてんの?」
「女――って言ってもさあ。色々じゃない?」
「まあね。リサは分かりやすそう」
口の端っこを持ち上げるようにして、ニヤッと笑う。
「リサはそんな単純じゃありませーん!」
とちょっぴり見栄を張ってみる。
「単純、単純」
見透かしたようにははっと栄一が笑う。だけどすぐに表情が暗くなってしまう。ため息を一つ、でも大きく吐いた。
「瑞希さんも、リサみたいに単純だったらよかったのになあ」
と、どこか遠い目をして栄一が自嘲気味に笑う。はっと俯いて笑って、目の前の机を軽く蹴とばした。机はがたっと音を立てて、中に入っていた教科書が少しずれて落ちそうになっていた。シンペイたちならいざ知らず、栄一がこんなことするのを初めて見た。驚いて栄一の顔を見上げると、ポケットに手を突っ込んだまま、ぶんぶんと二回頭を振っている。茶色い髪の毛から、ワックスの青リンゴの香りがふんわりと漂った。
「瑞希さん――って栄一の?」
「そう」
あれから栄一の好きな人とどう進展したかは聞いてなかったけど、シンペイ情報では、上手く言っているといってたから、ちょっと切なかった。リサはどうしても栄一が好きだから。
「って、リサに言ってたっけ?」
「私がせっかく買ってきた『ぐうちゃん』あげた人でしょー!?」
「あー、そうそう。よく覚えてんな」
そんなの、好きな人にまつわることはよく覚えてますよーだ。と舌を出してやりたかった。けど、出すと怒りそうだから今日は自重しておく。
とりあえず補習が終わった私と、講習が終わった栄一は鞄を持って帰ることにした。駅まで出ているバスを待とうと思ったけど、昼間はあまり本数がなくて、30分待つようだったから二人で駅まで歩くことにした。真夏の、35度を超える猛暑の中を。暑い……けど、栄一と一緒に歩けるなら、まあいいか。
外に出ただけで、毛穴が一気に開いた気がした。一歩あるくだけで汗が噴き出る。私と栄一は学校を出てすぐのコンビニでお茶を買って、飲みながら歩いた。
「瑞希さんって人と揉めたの?」
「……」
だんまりむっつり歩きながら、栄一がそこら辺に転がっていた石を蹴飛ばした。
「揉めたわけではないんだけども」
こんっと音を立てて壁にぶつかった石が、地面にワンバウンドした。
「なんだかさ、俺、すっげー子どもだなって思っちゃってさ。そしたら、連絡できなくなった」
リサの方を見ないで、地面に落ちた石を目で追いながら栄一がぼそりと呟く。
「栄一が、子ども!?」
全高校生男子に聞かせてやりたいです。イケイケで年上わけあり、シングルマザーと付き合ってる栄一が。といったら、付き合ってないと、訂正された。
うーん、リサちゃんにはいまいち分かりずらいんですけど。分かるように教えてほしい。どこの世界に、メールのやり取りして、デートしてるのに、付き合ってない男女がいるワケ? ……って、高校生の方が形にこだわるか。告白といった言葉にしてからじゃないと、彼氏彼女の関係にはならないみたいな。
「瑞希さんてさ、お前も知ってるとおり子どもいるだろ? この間、牽制されたというか……。責任取れないなら、踏み込んでくるなって」
「おおう! それはまた……」
高校生の男子が、シングルマザーとその子どもの責任を取るって、かなり重いと思うんだけども。
「瑞希さんより年上だったら、二人の人生引き受けて、責任取るよって言ってやれるんだろうな。だけど、それに比べて俺はまだまだ高校生のガキだし。責任取るなんて軽はずみなこと言えねえよな。んなこと考えてたら、頭ん中ごっちゃごちゃ」
はは、って栄一が笑った。全然楽しそうじゃない、目が笑ってない笑い方で。
「……責任って何?」
リサにはわからないから、素直に口から出た。もし私がシングルマザーになったとしても、他人に人生引き受けてほしいとは思わないんだけどな。
「栄一は義務感とかで付き合ってるの?」
そもそも付き合ったからって、他人の人生丸抱えする必要なんてないんじゃないの? って、リサは思う。
「リサは付き合っても男に依存はしたくないけど。瑞希さんって人は栄一になんかしてほしいって言ってきたの?」
リサがそう言うと、栄一は目を丸くした。
面食らったという顔をして、栄一がリサの顔を見ながらぶはっと吹き出す。ちょっと、リサは何も面白いことは言ってないけど?
「そうだよな」
リサを置いてけぼりにして、栄一はうんうんと頷いている。
「リサが珍しく、正論」
と、ピッと指で指された。
それから栄一が先週のデートの話をしてくれた。途中まではいい感じだったのに、帰りにはなんだか様子がおかしくて、怒っていたそうだ。それで、疲れてぐずった子どものことで栄一が責められたと。ずっと面倒みられるわけじゃないんだからやめてって。
……それって。
リサの頭の中には、ピコンと一つ考えられる可能性が立っているんだけど。
「リサにはさ、それ、気づいてって言ってるようにしか聞こえないんだけどなあ」
顎に人差し指を当てて首を傾げて栄一を見ると、栄一は驚いたように振り返って、目を丸くしている。
「気づいて?」
分からない様子で尋ね返された。えーいちー、もうちょっと女心を理解した方がいいんじゃないの? なんて、余裕綽々なことを考えちゃうんだけど。ああ、私ってばなんて人のことはわかるんだろう。自分の恋愛は猪突猛進で全然成就しないのに。……悲しい。
「うん。そんな感じ、しない?」
すると栄一は分からんといった感じでじっとリサのことを見ている。
「瑞希さんて、栄一とのこと不安なんじゃないの? 付き合っていなくって、そうやってデートして。でも、肝心の栄一の気持ちが分からないんじゃ、牽制もしたくなるんじゃないの?」
「えー。俺の方がかなり押してるんだけど?」
「だからって、好きだ! とか、付き合ってくれ! とかって言ってないんでしょ? 付き合ってないなんて言うぐらいだから」
リサの言葉に、栄一が逡巡している。どうやら、言葉にはしてないみたいだ。
「だって、普通、分かるでしょ? 俺が瑞希さんのこと好きだってことぐらい」
「そうかもしれないけど!」
リサの前で、そんな断言するな、栄一。切なくなるでしょうが。
「そうじゃなくて、たとえ態度でそうかなって思えたとしても、確信はないわけでしょ? シングルマザーじゃ、好きになったら負けぐらい考えてるんじゃないの?」
年下の男の子なんて、シングルマザーからしたらリスク高すぎる。うっかり好きになっちゃおうものなら、結構きついものがあると思う。そういう気持ち、栄一にはわからないかな。分かんないか、男には。
「勝ち負けなのかよ」
空を見上げながら呆れ声で返してくる栄一の顔はちょっとかわいかった。けど、それに騙されちゃいけない。
「恋愛は、勝負でしょ」
女子の中では当たり前。ガッツポーズをしてみせると、栄一が横目でこっちを見た。そして、ぶはっとまた吹き出す。
「……女って、無駄に元気なのな」
そんなにあきれたように言わないでよ。
夏の空。セミの声。通り過ぎる反対行きのバスの排ガスの熱気。ゆらゆらと揺れる陽炎。そんな夏の景色にすっかり溶け込みながら歩いている私たちは、いかにも青春の一ページだった。男女の友情は成立するのか、なんて真剣に議論したくなってくる。私は友情は成立しない派。高校生の男女なんて、所詮惚れたハレタが大部分を占めているわけで。生活のほとんどを、そんな感じの話題で過ごしてたりする。
元気なのは、そこに全エネルギーをつぎ込んでるから。
「夏だからね」
リサが笑うと、栄一も一緒になって吹き出した。「わけわかんね」って言いながら。
「あっと、今週の土曜が花火だっけ?」
通り道に立てられている自治会の掲示板に、ポスターが貼られていた。花火大会と大きく書かれ、去年の花火が印刷されている。それを指さしながら、思い出したように栄一が言う。
「そうそう」
楽しみにしている花火の話題が出て、自分でもわかるくらいちょっと浮かれた声を出した。
「リサ、頑張って浴衣着ていくからね!」
絶対栄一に褒めてもらうんだ。そして、あわよくばリサによろめいちゃったりしてね。彼女とうまくいってない今が狙い目だい。なんて、自分に都合のいいこと考えてる。
「あー。はいはい」
まったくもってどうでもよさそうに栄一が頷いている。……こういう男だよね、栄一。自分に興味のないことは、とことんどうでもよさそうに呟くなんて、ほんとにひどい奴だ。
「花火の日に、どうなったか報告してよ。今のままじゃ、リサだって心配だよ」
栄一が男として、上手く言っているのかどうか。肝心のところで逃げるのは反則だから。栄一がそんな奴じゃないことは、リサがよくわかってる。好きになった欲目ってやつだ。でも、栄一でも自分の恋に自信がないなんて、少し意外だった。弱音を吐くところなんて初めて見た。リサが栄一に恋愛指南をしているなんて、マキに聞かれたら笑われそう。知ったかしてんなよ、って。
「栄一はさ、とりあえず思いっきりぶつかってみたら。好きだって、言っちゃえばいいじゃん。そしたら何か変わるかもよ」
シングルマザーの気持ちはリサにはわからない。だけど、もしも自分が恋愛で相手に一歩踏み出せないまま相手から連絡無くなったら、自分のせいだって思うもんな。絶対。瑞希さんて人もそうなんじゃないかな。もしそうなら、栄一がガンガン攻めるしかない。
「変わるといいんだけどなあ」
雲一つない青い空を見上げた栄一は、中天で輝いている太陽を見て、眩しそうに両手を額に当てていた。




