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改札口の向こう側  作者: maruisu
第一章
13/42

夏のはじまり

 高校生の期末試験も終わり、夕方六時の電車はいつもより空いている。さとるは電車に乗り込むと、車内をきょろきょろ見回している。

「えいいち、いないねえ」

 がっかりしたように呟く智の生え際に汗がキラキラ光っている。


「そうだねえ。夏休みになるからかな」

 いつもより人の少ない車内で空いている席を探しながら智に言うと、智は「そうかー」と返事をした。夏休みが何かも分かっていないのに、訳知り顔で頷くところがかわいい。


「そうすると、でんしゃがつまらないねえ?」

「そうだね、つまんないね」

 この頃ずーっと栄一君が電車に乗ってこないので、すっかり智はふて腐れている。実はママだけ夜会ってます……とは言えなかった。そして、実は毎日栄一君は智に会っている。智は知らないけど。コンビニバイトからの帰り道、実家から智を受け取ってから自宅マンションに帰るまで、おぶって帰る私を送ってくれているのだ。

 智は知らないけど。


 さすがにそこまでやらせるのは悪いので、断ったんだけど、栄一君は智の顔見たいから、と言って付き合ってくれている。


「智は、栄一君が好きだねえ」

 幸い開いている席がすぐ見つかり、私と智は並んで座った。今日はレジに入っている時間が長くて、足が疲れたから座れるのはすごくありがたかった。


「うん。えいいちは、さとるとあそんでくれるからすき」

 その言葉に、ズキッと来た。


「……ママ、あんまり遊んでない? やっぱり」

「んー、ママはいそがしいからしかたないの。いいの」

 口をぎゅっと結んで、智が頷く。これは我慢しているな、とすぐに分かる。

「ごめんね、智。お詫びに、今度のお休みにプール行こうか?」

 少し顔を下げて、智の顔を覗きながら言うと、ぱっと表情が変わる。


「プール!?」

 智は嬉しそうに声を弾ませる。おいおい、車内に響くので静かにね。人差し指を口に当て、しーっと言うと智が慌てて両手で口を押さえて頷いた。


「プール、いくの?」

「そうだよ。大きい公園のプールに行こう」

 立川駅の近くにある国立公園には大きなプールがある。実家で取っている新聞屋さんからタダ券をもらったので、三人で行く約束を栄一君としている。

「いく! いーくー!」

 智がやったーと喜んでいる。これで栄一君も一緒だと言ったら大喜びだろうから、当日まで内緒にすることにした。びっくりサプライズだ。


「いい? 智。土曜日までいい子にしてないと連れて行けないからね」

 そう言うと、智は「さとる、いつもいいこだもーん」と間延びした声で言った。

 そうだね。お母さんも、そこは否定しないよう。


「じゃあ、約束ね」

「うん!」

 智が元気良く頷いた。今日は窓の外も見ないで、

「あかいうきわあったよね。すいかのボールもあった?」

 と、声を弾ませている。嬉しそうに目を丸くすると足をぱたぱたとさせる。去年買ったキャラクターの浮き輪はクローゼットに閉まってある。さっそくあれを出しておかないと。


「あったねえ。水着も出しておかないとね」

 ……水着、言ってからはっとした。

 

 ……私、水着なんて持ってませんでした。ふおおおー、水着を選ばないといけないのね。

 なんか、水着買いましたとか言ったらすっごい楽しみにしてたみたいじゃない。

 違うから、水着ないから買うだけだから! って、自分に言い聞かせた。


 自分の生活の何気ない部分に好きな人の影響があるって、なんだか嬉しい。一日の終わりに、智のことだけじゃなくて、将来のことだけじゃなくて、少しだけ先のことを考えられるのが嬉しい。明日はどうしよう、って心配事だけじゃなくて、明日やりたいことを考えれらるって、すごく嬉しいって気づいた。

 

 で、結局次の日、水着を買いに行きました。

 

 コンビニ、花火の日に出勤する代わりに、金曜日のバイトは免除してもらった。その分来週頑張るんだもーんと自分に言い訳して。


 智と実家の母と一緒に駅ビルの水着売り場なんか言っちゃって、セパレートタイプの水着と、長袖のパーカータイプの上着を買いました……。ちょっと、気合入ってるかな。

 昔ながらの人なハハが、これにしなさい! と持ってきたのはやっぱり昔ながらのワンピースタイプの水着だった。母よ、ありがとう。でも、今時これを着ている人はいないかな、と思い、そっとハンガーに戻しておいた。

 で、自分で選んだ水着を試着してみたら、智には大好評だった。うう、ありがとう、わが子よ。


 その日は早めにおばあちゃんとバイバイして、智と二人で手を繋いで家に帰った。

 帰り道は智が保育園で習った歌を歌いながら、つないだ手を大きく振って、顔を見合わせて笑った。

 二人で歩きながら、早く明日にならないかなーって、ちょっと思った。


 

 で、次の日は約束の土曜日だ。

 10時の待ち合わせなのに、朝の7時に起きて朝ご飯食べて、洗濯をして、準備をして、家を出たのは9時だった。

 えっと、うちから駅までは20分で着くのだよ、智くん……。

 そう、張り切っているのは智で、起きてすぐに着替えると、ご飯も食べずに浮き輪を膨らませていた。


「さとるー、先にご飯!」

 ご飯とお味噌汁と、卵焼きと大根おろしとほうれん草のお浸しという簡単な朝ご飯を用意したのに、智は浮き輪に夢中だ。

「こらー、ご飯食べないと連れて行かないよ!」

 そう言って初めて、しぶしぶとテーブルの前に座ってご飯を食べ始めた。智はご飯を半分以上残し、お味噌汁には手もつけずに、「ごちそうさまー!」といって、また私に怒られた。

 それを何回か繰り返したけど、母が一度言ったら引かないのを知っているので、時間が近づくにつれて慌ててご飯を口に詰めて、完食した。


「ママー、行くよ!」

 智はご飯を食べ終わると、自分のお出かけ用のリュック――保育園用とは別のリュックがある――に浮き輪やらビーチボールを詰め込んで、さっさと玄関で靴を履いていた。

「智! 歯磨き!」

 洗濯物を干しながらいつもより大きな声を出す。智はしまった! というような顔をして慌てて靴を脱ぐ。しまったお顔は、歯磨きを忘れた事か、歯磨きをしていないことを見つかったことの、どっちの方だ? と苦笑する。

 急いで歯磨き粉を付けて歯磨きをする。洗濯物を干し終った私は智と一緒に歯磨きをしてから、テーブルのものを全部片づけた。

 洗い物を済まして、持ち物を確かめて、火の元と戸締りのチェックをする。

 

「さ、行こうか!」

 靴を履いている智に言うと、智は元気よく「うん!」と返事をすると、さっそくマンションのドアを開けたのが9時だった。よっぽど心待ちにしているんだろうな。これで駅で栄一君と会ったら、興奮しすぎてうるさいんじゃないかな、とちょっと心配になるくらいだった。


 外に出て、駐輪場から自転車を引っ張り出す。荷台に取り付けた子ども用椅子に智を乗せると、自転車に乗って駅に急いだ。自転車だったら駅まで10分くらいで着いてしまう。待ち合わせの時間よりも早く着いてしまうけれど、それでもなんだか落ち着かなくて早く行って待っていようと思った。1分でも早く会いたかった。待ち合わせしているんだから、自分だけ急いで行っても仕方ないんだけど。


 智よりも、私の方が楽しみにしていたのかもしれない。

 だって、休みの日に待ち合わせして一日過ごすのは初めてだ。

 ……これって、もしかして、デートというのではないですか? と心の中で思った。


 もう暑くなっている夏の朝の空気が、いつもより不快じゃない。

 もっと暑くなったらいい。そしたらプールではしゃいでいても、当たり前だと思える。智と一緒にはしゃいでも、暑いせいだと言い訳ができる。

 

 9時30分になる前には待ち合わせの駅ビルの正面入り口の前に着いて、智と壁に張り付いていた。二人で壁石の模様を探したりして、時間を潰す。

「ママ―、まだいかないの?」

 壁の黒い模様を探していた智が手を止めて、こちらを振り返った。

「うんとね、まだ早くてやってないから、もうちょっと後の電車に乗ろうかな?」

「えー、プールおわっちゃうよー?」

「おわんないよー」

 智の額の汗をハンカチでぬぐってやりながら笑った。


「おー、智! 久しぶり!!」

 智の汗を拭いていた私の後ろから、栄一君の声が聞こえた。その声に、ぱっと智が顔を上げる。


「えーいち!!」

 驚いた智は、栄一君の名前を呼ぶと、びっくり顔で駆けだした。

 ドスンと栄一君に体当たりして、腰のあたりに抱きついている。


「こら、智。そんなに力いっぱいぶつかったら、栄一君痛いでしょ」

 叱る声も聞こえずに、智は「えいいちだー」と嬉しそうに言っている。栄一君もそんな智の頭をぽんぽんと叩いている。


「おはよ」

 栄一君に声をかけると、智の体を抱きつぶしながら、栄一君が私を見て笑った。


「おはよ、瑞希さん。早いね」


 そう言われるとなんだか照れくさくって、「智がねー」と、智のせいにして話す。

「プール楽しみで、じっとしてないの。だから、早く来ちゃった」

 へへっと照れ笑いすると、栄一君が「俺も」といった。


「なんか、じっとしてられなくて待ち合わせよりも早く着いた。って、智とおんなじかよ」

 と笑って言う。


「ガキー」

 とふざけて言うと、

「瑞希さんだって、楽しみにしてたでしょ?」

 と、横目で言われた。

 その、見透かしているような眼が、いやだなー。


「んー、どうだろね」

 わざと素っ気なく言って笑うと、栄一君の背中を叩く。

「素直じゃないねー」

 苦笑している栄一君は智を引きはがすと、「行くぞ!」と破顔した。

「いくー! えいいちもいくー?」

 と智が栄一君の回りにまとわりつきながら追いかける。


「おう。一緒に行くんだろ?」

「いいの?」

 智が嬉々として目を輝かせている。見上げるそのまなざしを見て、栄一君がん? と首を傾げて智と私を見る。

「あれ?」

「そう。前もって言うと、嬉しさに爆死しちゃうと思って智に言ってなかったの」

 白状するようにため息交じりに言うと、栄一君はぶはっと吹き出した。


「智、栄一君も一緒に行くんだよ?」

 智にそういうと、智は「やった!」とガッツポーズをして飛び跳ねた。

 

 それから智は今日の持ち物を一から栄一君に説明し、はしゃぎまくって、電車の中でちょっと私に怒られて、しょんぼりしたり、プールに着く前から忙しかった。そんな智を栄一君が一緒に笑ったり、宥めたり、慰めたり……なんだか、兄弟のような二人に、自然と顔が綻んでしまった。

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