帰り道
住宅街の中を歩いていくと、さすがに人通りも少なくなって歩いているのは私と栄一君ぐらいになった。
「瑞希さん、本屋のほかにコンビニでも働いているの?」
栄一君がまっすぐ前を向きながら、尋ねてきた。自転車の前かごに無造作にアウトドアのリュックが放り込まれている。学校に通っているときと同じ鞄だった。
「うん。本屋のバイトだけじゃ、子どもは養えないんだよー」
ちょっと情けなさも手伝って、ハハハと笑いながら努めて明るく言う。
「そっか。頑張ってんだね」
栄一君の声が少し緩んだ。こんな時間まで子どもを預けて可哀そうだとか、もっと子どもと一緒にいてやったら、と言われることが多いから、素直にそう言われたことが嬉しく思える。
「ありがとう」
照れくさくなって俯きがちに返事をすると、栄一君が「ん」と短く言った。
「だけどさー、それでも深夜まで仕事するのは危ないからさー、瑞希さんだって女の人なんだから」
栄一君がむっとしている。そして、それにさ、と続けた。
「今日みたいなことがまたあると嫌だからさ。俺が」
そっぽを向きながら栄一君が言う。細い道を、自動車が一台走り抜けていった。
「っと」
栄一君がそれを避けようとして、私の肩に彼の腕が当たった。
「悪い」
「や、大丈夫」
ぱっと栄一君の方を見たら、彼がまっすぐ私を見ていて気恥ずかしくて目を逸らす。電車の中で向い合せになって話した時はこんなに恥ずかしいとは思わなかったのに。
智がいない二人の距離を思うと、急にくすぐったくなる。
「若くないよ、私。智君より5歳も上だし。子ども産んだらね、もうおばさんなんだよ。実際、智の保育園の男の子なんて、私のことおばちゃん、って言うしね」
意識していることを悟られたくなくて、笑いながら言った。
「そんなことないでしょ。さっきのスーツのやつだって口説いてたじゃん」
「あれは――一緒にいたのっちって子のことも口説いてたんだよ。女なら誰でもいいんじゃないの?」
思い出してむっとした口調で言うと、栄一君が笑いだした。
「あはは、手当たり次第。スゲーな。成功率悪そう」
まあ、他の子口説いてるところも見てるんだから、成功率は低くなるよね。
「でも、瑞希さんはかわいいよ、マジで。22歳だとは思わなかった。本屋で初めて見た時、学生かと思ってたし、俺」
栄一君が鼻の頭を掻きながら言う。
本屋で初めて見た――って、電車の中で会ったのが初めてじゃなかったんだ。
「駅前の書店で働いてるの、知ってたの?」
びっくりして尋ねると、栄一君がうんと素直にうなずいた。
「初めて瑞希さん知ったのは、本屋でだから。一回、売り切れになってた本のこと、瑞希さんに聞いたことあったんだけど、覚えてないか。それで、何回かおんなじ電車に乗り合わせて子どもがいるのを知ったんだよね。あれは衝撃だった。
声かけなくてよかったーと心底思ったからね、智と一緒に電車乗ってた時。
だから本当は、あこがれの本屋のお姉さんをたまに見るぐらいでよかったんだけど……」
照れくさそうに、栄一君が自転車の先を見つめながら言う。
「でも、あの智が俺のカバン掴んだ時、瑞希さんシングルマザーだって知って、正直焦った。だけど、これ逃したら知り合うチャンスが絶対ないと思ったから、智に人形やるふりをして、瑞希さんと知り合いになりたかったんだ」
ふと、栄一君がはにかみながらこちらを見た。そうだよね、普通子どもがいたら旦那さんがいると思うよね。
確かにあの時、智がゆう君に言われたって言ってたっけ。シングルママだとかなんとか。
だから栄一君は臆することなく声かけてきて、アドレスも普通に聞いてきたのか、と今更ながら思った。人妻のメルアド聞いたって、高校生メリットないもんな。
「正直に言うと、去年から瑞希さんのことは知ってた。俺、その頃から瑞希さんのこと気になってたから。名札の南里さんってのもちゃんとチェックしてたしね」
そんな前から知ってたなんて。今更ながら、栄一君の言葉に衝撃を受けた。そんな前から知られてたんなら、待ち合わせしてからちょっとおしゃれしてんの、バレバレじゃないっすか。
「そんな前から?」
正直びっくりして声を上げると、栄一君は笑っていた。
「だから、俺はこうして一緒にいられるのが嬉しいの」
そう言って、栄一君が私の手を握った。その暖かい手の感触があった時、思わず栄一君の顔を見てしまった。栄一君は緊張しているような面持ちで、片手で自転車のバランスを取りながら、ぎゅっと手を握った。
「ほんとは、いろんなこと聞きたいんだけど、聞いちゃいけないこともあるだろうから――無理には聞かない」
栄一君の中ではきっと、いろいろ思うところもあるだろう。私の過去とか、シングルマザーになった経緯とか、いろいろ気になるのは当たり前のことだ。私たちは、お互いそんなこともまだ知らない付き合いでしかない。
私はこの先、どうしたいんだろう。
栄一君と過ごす時間をどうしていきたいんだろう。
今はまだ、お互い知り合ったばかりで一言声を交わすだけで一喜一憂できる。近づくだけが目的だから。だけど、その先の二人には何があるんだろう。
もしかしたら、この時点で線を引いた方がいいんじゃないだろうか。
そんなことを考えもした。
一瞬、足を止めた。それに栄一君も気がついて、振り返った。
「どうしたの?」
私はゆっくり空を見上げる。空には、星が光っていた。
キラキラこぼれるような、夏の星。
「星が、綺麗だね」
久しぶりに見上げる空。智が生まれてから、夜空を見上げることが少なかった。
昼間の空は智と見上げる。春霞も、梅雨のどんよりした雲も、夏の入道雲も、一緒に見上げた。雪の日は空から降る雪を二人で見上げていた。だけど、夜は家路を急ぐだけで、空を見上げない。私と智は、一番深い闇夜の中を地面だけを見て先を急いでいた。
そんな余裕があるのも、久しぶりだってことに気がついた。
栄一君も足を止めて空を見上げた。
「本当だ。スゲー星。
瑞希さん、知ってる? 十分暗くなれば人は星を見上げるって。昔、なんかの本に書いてあったのを見たんだけど、誰の言葉だったっけな?」
星を見上げながら、栄一君が言う。
空が十分暗くなれば、人は星を見上げる。闇が深くなればなるほど、星が輝いていることに気がつく。むしろ闇が深くなればこそ、はるか遠くに燦然と輝く星を見上げるのだろう。
その人の目に映る星は、希望だろうか。
「エマーソンじゃない? アメリカの思想家」
確か、19世紀の。あんまり詳しくはないけど、いくつか心に残る言葉があったのを覚えている。
「エマーソン! 知らねえ!!」
栄一君が言う。あれ、本の作者エマーソンじゃねえし。なんて言っている。きっと何かの本に引用されていたのだろう。
「あのさ、明日も明後日も、迎えに行くよ。夜道を一人で歩かせるのは、やっぱり心配だし」
空を見上げながら栄一君が言う。その視線の先には、夏の大三角形が見える。
「だめだよ! 帰りが遅くなったら、ご両親が心配する」
今だって11時を過ぎて、もうすぐ30分になる。いくら男の子と言えど、高校生の子がもうすぐ日付が変わるという時間まで外にいちゃいけないと思うんだけど。
すると、栄一君が吹き出した。
「俺の両親は、俺が多少抜け出してもなんとも言わないよ。もう高校生だから、割と放置」
当り前のことのように栄一君が言う。俺の回りの友達もそんな感じだからなぁと笑いながら言う。
そりゃ、私も10時ころに帰るとかあったけど……。
今の高校生は、それが普通なのか?
「ちゃんと塾で自習してから行くから大丈夫」
何でも塾には自習室があって、10時半までは解放されているらしい。そこで毎日勉強してから行くから、親も不思議に思わないだろうし。ってこともなげに言っていた。
「でも……」
私は自分の生活のために仕事しているだけなのに、巻き込んでしまっていいのだろうか。栄一君にとっては、あまりいいことではないような気がする。
「俺がしたいって言ってるんだから、飽きるまでやらせてよ。無理だと思ったら、ごめんなさいって正直に言うから。もちろん、期末とか中間とか、テストの期間も迎えに行けないかもしれないけど……」
「一回始めたら、絶対引かなそうだもん。ダメだよ、初めから挫折すると思って諦めてよ」
素早く言い返すと、栄一君はため息を吐く。
「わかった。いいよ。勝手に待ってて、勝手に見張るから」
ちょっとむくれたようにそういうと、栄一君はひょいっと私の顔を覗き込んだ。
「そしたら、ダメって言えないでしょ?」
そのしぐさが妙に子供っぽくて、思わず笑ってしまう。
「まったくもう。ほんとに頑張らなくていいから。予備校ある日だけでも、私は嬉しいけど……」
笑ってしまいそうなのが抑えられなくて、口元に手を当てながら言うと、栄一君は顔を覗き込んだまま笑ってみせた。
「いや、とりあえず毎日行く」
断言する栄一君がとてもかわいらしく見えた。私は笑ってしまいながら、空を見上げる。闇夜には、はっきりと見える星。
深い闇夜を二人で見上げよう。
二人で歩く間に、いろんな話をしよう。
そこからお互い知って行って、希望と言う星が生まれたらいい。
そして栄一君は家族の待つ家に帰る。
私も智と家に帰る。
今はそれで十分幸せだった。




