後編
前編を飛ばした方へ
以下3点を了解していれば大丈夫です。
・ローゼロット公爵令嬢は婚約者の浮気に耐えかね、婚約破棄を申し渡した
・別れ際に幼馴染(ユリアーヌ侯爵令嬢)にお守りを渡された
・想いを通わせた聖獣(教会の信仰対象)と共に異界へ渡った
初夏もそろそろ近付こうかと言う、ある良く晴れた日。
東大陸で収穫される茶葉の輸入で財を成した、ファウスト子爵家の庭園で茶会が開かれていた。流行りの演劇に、他国から取り寄せた化粧品。婦人たちが交わす会話は多岐にわたる。
けれども、和やかに続く筈だった茶会は前触れも無く中断された。
趣向が凝らされた茶菓子の数々が美しく盛り付けられているケーキスタンド。その銀の盆が僅かに揺れた。僅かな物であるなら、風であると皆が思っただろう。
けれど揺れは一向に収まらず、やがて辺り一帯に何かが軋む様な音がし始めた。異常な状態に夫人や令嬢たちが戸惑い、屋敷の中へ戻ろうとした時だった。
庭の中心に据えられた長机近くの空間に亀裂が走った。幾人かが悲鳴を上げたけれど、誰も動けない。そうして、まるでガラスが割れる様な音と共に、そこから光が放たれた。あまりの眩しさにその場の皆が目をつむった。
数秒か、数十秒か。気が付くと光は治まっていた。
そうして、引き換えにそこには襤褸切れらしき物を纏った人間が蹲っていた。日に焼け艶を失った赤毛は全身を覆う程長く、己を取り囲む人間に怯えた様に落ち着きなく辺りを見回している。どこからどうみても不審者だった。
仮にも子爵家の敷地内、招待状を持つ者しか此処に入ることは出来ないと言うのに。
先の光に乗じて乗り込んだのか。なんてこと。
間の悪い事に今回の茶会は女性限定であった為、それぞれの屋敷から連れて来た護衛達は、少し離れた別室で待機していた。
今この狼藉者が暴れれば、どれだけの者が自分の身を守れるだろう。
最悪の事態を想定し、会場に集う皆の血の気が引いていく。
「衛兵!不審者が入り込みましたわ、お早く!」
いち早く我に返り救援の声を上げたのは、代々近衛騎士を輩出しているミュラー子爵家の次女マルガレーテであった。貴族子弟だけが入る事を許された国立魔法学院・騎士科に特定として入学し、優秀な成績を修めている事で評判の令嬢だ。
勇敢な令嬢の声を聞いた衛兵が駆け付け、広間に入り込んだ不審者は瞬く間に取り押さえられた。
背中と腹を打ち据えられ、少量の血と胃液を吐きながら蹲る浮浪者を衛兵が取り囲む。
和やかな茶会を乱した慮外者を排除しようと、振り下ろされようとした剣は涼やかな声に止められた。
「お待ちになって」
そう告げたのは、この会場の中で最も守られるべき存在である、ユリアーヌ・リーリエ女侯爵だった。
十数年前、資産家で有名なリーリエ侯爵家を総領娘として継いだ彼女は、社交界に於いて絶大な影響力を有する様になっていた。高い身分に驕る事なく、誰にでも穏やかに接する彼女を慕う者は多い。
混乱状態に陥った広間の中であっても、ユリアーヌの一声はただそれだけで皆を止め、道を開けさせた。
女侯爵は浮浪者を取り囲んでいる騎士たちへと、すいすい近付いていく。慌ててミュラー子爵令嬢がその背中に声を掛けた。
「危険です、リーリエ様!」
「まあ心配してくれてありがとう、マルガレーテ様。けれど、どうしても確認しなければならない事があるのです。――騎士様、その方は左手に銀の腕輪をしていませんか?」
妙な事を尋ねられた衛兵は、首を傾げつつも呻き声を上げる浮浪者を検分する。この様な汚らしい者が装身具など身に着けている筈が無い。そんな物を買う金があったら、食料を買うだろうから。けれど。
「そういった物は………いえ、確かにございます」
「側面に百合と蔦の意匠が刻まれていますか?」
「薄汚れていてはっきりとは申せませんが、その様な文様に似ています。浮浪者が持つには高価すぎますな。何処かから盗んだのでしょう」
「いいえ、いいえ。それはかつて私が彼女に差し上げた魔道具――『ゆきてかえりしもの』です。刻まれた帰還魔法は問題なく発動したようですね」
装着者が心の底から願った時にだけ発動する超長距離転移魔法が組み込まれたそれは、リーリエ侯爵家が数代前に手に入れた宝物の一つであった。
腕輪を嵌めた者以外には外せず、また魔法が発動するまで腕輪を破壊することも出来ない。囚われた先から脱出する手段の一つとして作られたと聞いている。
魔道具作製の盛んな北方の小国が数百年前内紛により滅びた事で、今となっては王家の宝物庫に収蔵される程希少性のある宝具だ。
それを他人へぽんと渡すリーリエ侯爵家の度量に、魔道具の希少性を理解している者は震えあがった。
ユリアーヌは目線だけで衛兵を下げると、ドレスが汚れるのも構わず浮浪者の近くに跪き、優しく声を掛けた。
「お久しゅうございます、ローゼロッテ様。私のことがお分かりになりますか?」
「うぅ、ああ~あ~」
穏やかに話しかけるユリアーヌを、自身を害さない存在と認識したのだろう。傷だらけの四肢を震わせながら、四つん這いでよろよろと近寄ってくる。
頬はこけ目は落ち窪みどう見ても浮浪者であったが、陽光を受けて輝く金の瞳だけがそれを否定していた。
デュンケル家直系の血を引く者に現れる遺伝特性を、この国の貴族であるなら皆知っている。
周りにいた幾人かはそれに気付き、小さな悲鳴を上げた。
「あ~うあ、うう~」
優しく抱きしめられた浮浪者の瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「嗚呼……人の言葉もお忘れになってしまわれたのですね」
悲し気に頭を振り、ユリアーヌは周囲の衛兵に告げた。
「排除は不要です。彼女こそ、二十年前聖獣と姿を消したローゼロッテ・デュンケル公爵令嬢その人なのですから」
♢♢♢
ユリアーヌは鈴蘭の透かし彫りが施されたティーカップを傾け喉を潤すと、東屋の向こうに広がる庭園に目をやった。
庭師の手により美しく咲き誇る大輪の薔薇は、かつて「オデールの薔薇姫」と称された年上の幼馴染を思い起こさせた。
「本当に馬鹿な人……」
会うたび長時間下らない愚痴を聞かされてきたのだから、おおよその事態は把握できる。
ローゼロッテは己を取り巻く環境を嘆き、甘い言葉で労ってくれる獣に全幅の信頼を置き、あろう事かその身を任せていた。彼らの危険性を認識しないまま言葉巧みに思考を誘導され、挙句の果てに優秀な胎として巣に持ち帰られたのだ。
獅子は一夫多妻制。
連れていかれた先で、果たしてどれだけの「妻」に会ったことやら。せめて動物学を多少でも修めていれば、たった一人の伴侶として恭しく遇されるなどと言う誤った認識をしなかったろうに。
とは言え、あの場でそれを指摘したとしても聞き入れられる可能性は酷く低かった。
加えて、獲物を奪おうとする此方を、気分を害した獣が切り裂く恐れさえあった。
万一の為にと護身用に付けていた魔道具を、餞別と偽り渡すのがあの場で出来る最善手だったのだ。
以前ちらと見たローゼロッテの腹には、複数の妊娠線があったように思う。彼らの発情の頻度は知らないが、人間の様に出産後十分な休養期間を設けられていたのか大いに疑問が残る。
いったい幾度孕まされたのやら。
いずれにせよ、妊娠適齢期を過ぎ群れへの貢献度が下がった雌に雄は興味を失う。優先的に与えられていたであろう食料や快適な住環境も、別の若い雌に宛がわれたのは想像に難くない。
人の姿をとり、人の言葉を話し、人の様に振舞っていたとしても、所詮は獣。人が当然持ち合わせている倫理観や価値観を、そもそも持ち合わせていない。
初めから正しく「人でなし」なのだ。
レーヴェ教が信仰対象としている聖獣レーヴェケーニヒについては、良く分からない事の方が多い。
そもそも彼らは本当に、教会が謳う「聖なる存在」なのか。
旱魃、洪水、魔物の暴走。
国の歴史を紐解けば、天災に見舞われた地域に時折聖獣が現れ、これを救ったと伝えられている。魔法士の数も魔法精度も低かった数百年前、自在に高等魔法を操る彼らの存在が神に等しかったのは想像に難くない。
けれど彼らは全ての災害現場に現れ、民を救った訳では無い。教会はこの差を、それぞれの地域における信仰の篤さの多寡であると示しているが、本当だろうか。
人々の願いに応えたのではなく、偶々立ち寄った場所で気まぐれに力を使っただけなのではないか。
加えて、教会に収蔵された経典をいくら調べても、娶られた女性――聖女が帰還したという記録が一切確認出来ない。
司教達は、幸せ過ぎて帰るのを忘れているのだと言っているが、これもまた疑わしい。
子が産まれれば親に顔を見せに帰るのが普通だ。聖女が転移魔法を習得していなくても、夫である聖獣が連れて帰ればいいだけの事。聖獣は妻の里帰りを許さないほど狭量な存在なのだろうか。
「万民に等しく慈悲深い」聖獣の伝承と随分矛盾する。
魔法技術が発達した今も、座標不明な場所へ単独かつ安全に転移する魔法は確立されていない。
量子に分解した自分自身を別の場所で再構成するには、術者自身が膨大な演算をこなす必要があるからだ。
予め補強魔法が組み込まれた魔法具を使えば可能だが、当の魔法具自体が非常に貴重なため実証は未だ為されていない。
連れていかれた彼女たちの安否を此方が知る術は、今日に至るまで無かったのだ。
教会は今回の醜聞について、ローゼロッテが聖獣様のご機嫌を損ねたからだと結論付けた。
随分と火消しに躍起になっているが、果たしてそう上手くいくだろうか。美姫として有名だった公爵令嬢が変わり果てた姿で帰還した現場を、多くの貴族や使用人が目撃している。
人の口には戸が立てられない。それが衝撃的なものであればあるほど、噂の伝播は早くなる。
それに、皆表立って口にはしないが、教会の度重なる徴収行為にはうんざりしているのだ。
現在、魔法技術の発展と魔法士の育成強化政策により昔のような災害に見舞われることは殆ど無くなった。必要な時に来るかどうかも分からない、不確かで曖昧な「聖獣様」の加護などもう必要ないのだ。
国の発展に大した成果もあげず、宗教を理由に回収した金を湯水の如く使い際限なくせびる教会。その腐敗を、我々貴族が知らぬとでも思っているのだろうか。
毎年寄付金として教会へ納付する金銭も馬鹿にならない。余裕のある家ならまだしも、子爵家以下の下級貴族では、日々の暮らしすら窮する有様だ。
今こそ声を上げるべき時が来たと皆が思い、この噂に尾ひれを付けて声高に喧伝するだろう。
生臭坊主にやる金など最早1ゴルドすらない、と。
伝説の聖獣に嫁入りした娘を「聖女」として喧伝していたデュンケル公爵家の名誉も地に落ちた。聖なる存在が実際には森の獣と大して変わらないと、衆目の知る所になったからだ。
社交界どころか国中の笑いものになり下がった彼らは逃げるように王都を去り、領地に引き篭もっているとか。
さらに醜聞の元凶である娘の引き取りを拒否し、古くからの付き合いを盾に我が家に押し付けてきた。ここまで恥も外聞も無いとは、呆れ果てて物も言えない。
ローゼロッテが王太子の婚約者であった時から、娘の肩書を免罪符に方々から借財を重ねていたと聞く。返済の件で方々の家と相当揉めているらしいし、あの様子では早晩内側から瓦解するだろう。
「……んむ、んむ」
「美味しいですか、ローゼロッテ様。今日のお菓子はお口に合ったようですね」
動きやすいワンピースを身に着けた女性が、地べたに置かれた皿を犬の様に舐めている。まだ椅子に座る事が出来ないのだ。
と言うより、見晴らしの良い場所を恐れている。今も東屋に据えられたテーブルの下で隠れる様に座り込んでいる。
「向こう側」でよほど恐ろしい目に遭ったらしい。もう貴方を害する存在など居ないのに。
以前の様に豪奢なドレスも用意したけれど、体を締め付ける感覚を嫌ってか一度も着てくれない。元の彼女に戻るには、まだ相当な時間が掛かるようだ。
もしかすると、一生戻らないかも知れないが。
「う、う」
くいくいとドレスの裾が引っ張られる。悍ましい日常に心が耐えられなかったのだろう。精神退行し幼子の様になった彼女は、構って欲しい時こういった仕草をする。
菓子のお代わりか水でも欲しいのかと目線を下ろすと、ぐいと手を突き出された。痛ましい傷跡が散るその手には、その辺りから引き千切ってきたであろう花が握られていた。
「まあ綺麗なお花。ありがとうございます、ローゼロッテ様」
「う!」
此方が喜んだのが分かったのだろう。ローゼロッテは嬉しそうに笑う。何も知らずに。
ああ。何も知らなかったのは、知ろうとしなかったのか以前からか。
王太子の婚約者に選ばれたのは、家格もさることながら自身の美貌と才覚によるものと誤認していた。並み居る候補者の中から彼女が選出されたのは、代々デュンケルの女が持つ「孕みやすく必ず丈夫な子を産む胎」と言う特質であるのに。
浮気がどうのと言っていたが、彼女たちが正式な側室候補であったのも理解していなかった。周りの教育係から聞いている筈だが、自分に都合の良い事しか耳に入っていなかったのだろう。
思い込みが激しく気難しい正妃を補佐するため、用立てられた優秀な側室たちだったのに。まあそこまで整えておきながら、獣に奪われる様な下手を打ったのは王家側の落ち度といえるが。
「あ~あ~うあ~」
ユリアーヌは自身のドレスに安心したように凭れ掛かり、何かの節を歌い出したローゼロッテを見下ろす。
断片的にしか覚えていない曲なのか、音は外れ何度も同じ所を繰り返している。
かつて国立魔法学院の新入生歓迎会において、一音の乱れも無く美しい聖歌を歌っていた姿はもう無い。
それを少しだけ残念に思う。
レーヴェ教の権威を失墜させる主目的が果たされた以上、ローゼロッテ・デュンケルの役目は終わった。
強いて言うなら生きた醜聞を手懐け連れ回す事で、生家であるデュンケル家にネチネチ嫌がらせが出来るくらいだが、あの一族はもう持つまい。
つまりこの女を保護する必要性はもう何処にも存在しないのだ。例えば療養を口実に領地の別荘に移し、その先で不幸な結末を迎えたとして誰がユリアーヌを疑うだろう。
実家から見放された幼馴染を保護し、最後まで面倒を見た善人として称賛の声が上がるだけだ。
けれど、結局ユリアーヌは彼女を自分と同じ屋敷に住まわせ、不自由が無いよう面倒を見ている。人として付き合うには大いに問題のある者だったけれど、その瞳の美しさだけは以前からの気に入りなのだ。
私が飽きるまでは面倒を見て差し上げますよ、無知で愚かで可哀そうなローゼロッテ。
剣術も勉学も馬術も魔術も、私がずっと手加減をしていたと最後まで気付かなかった節穴のルチルクオーツ。
ユリアーヌはいつもの様に人畜無害な笑みを浮かべ、艶やかさを取り戻した指通りの良い毛並みを優しく撫で上げた。
この後は、何やかんや言いつつ結局最後まで面倒見てくれるので、ローゼちゃんは幸せな余生を過ごすのでした。
めでたしめでたし。
ローゼ→ユリアーヌ:放っておけない妹分。唯一愚痴を言える友人
ユリアーヌ→ローゼ:馬鹿。家の命令で表面上だけでも仲良くしていただけ。瞳は好き
なので、百合では無いです。そう見えていたら、申し訳ありません……。
なろうに関わらず異類婚姻譚系のお話を読むたび、そいつら人じゃないぜ?と言う思いが頭をよぎります。
同じ人間同士でさえ嫁ぎ先で滅茶苦茶苦労するのに、人外との結婚が上手く行くの?
相手の屋敷(大概自力で帰れないような遠隔地)に連れて行かれて、周りは全部旦那側の親族か使用人か友人。頼りは旦那の愛情だけ。
旦那と喧嘩したとして、嫁ぐ前に親交のあった友人や実家には(交通手段や路銀も含めて)多分旦那の許可が無いと戻れないし、旦那の愚痴や不満を親身になって聞いてくれる者も居ない。万一聞いてくれても、そのまま旦那へ伝わりそう……。
上記に加えて、人外要素まで入るともう幸せな一生を送るのは、ほぼ無理ゲーなのでは?
人間世界と同程度の文明があったとしても、問題は山積み。
例えば出産。人外との赤子はどんな形をしているんだろうね。人間、獣、卵?父親と違う種族だけど子宮に収まるサイズなのか。腹を突き破って出て来ないのか。ちゃんと産道を通るサイズなのか。何匹這い出て来るのか。出産にどれくらい時間が掛かるのか。設備の整った衛生的な病院はあるのか。人間の患者を受け持ったことのある医者はいるのか。処方される薬剤や処置は人体に害が無い物なのか。出産後の生存率は幾らなのか。
動物系旦那に孕まされたヒロインちゃんの無事を祈るばかりです。