一枚の写真
部屋に響いていたタイプライターの音があるときぴたりと止まった。それから若い女のうなるような音が響いた。部屋の大窓が開け放たれ、その女が深く息を吸った。それを吐こうというとき、庭の木柵に止まったラッパのようなくちばしの鳥がプワーッと大きな鳴き声を発した。ラッパドリ――それはエマの苦手な鳥だった。エマの小説にも一度も登場したことがない。
そう、その女はエマといった。四本脚の椅子くらいどこにでもあるその名前を本人でもつまらなく思っている、ごく普通の若い女だった。ラッパドリはエマを驚かすためにそこにいたかのように、それからすぐ飛び立っていった。エマは吸った息とともに吐き出したかったものが、そうできず、腹の中に残ってしまったので、すっきりしなかった。仕事に戻る気にもなれなかった。
いつだったかの日、エマは友人のイザベラとともにカフェにいた。イザベラはわざとのようにエマを大作家と呼んで、無邪気なからかいの笑みを浮かべたりした。エマは取り合わなかった。つまり否定もしなかった。
「でもよかった」とイザベラが言った。「あなたが小説一本で食べていけるようになって。大学を出て就職しないって聞いたときは心配したんだから」
「まあね」とエマはあいまいな返事をした。「食べていけるようにはなったけど」
「ご不満みたいだね」
「だって私の本が出版されたわけじゃないんだよ。誰にも届いてない」
「でもその“ご婦人”には届いてる」
「それはそうだけど……」
イザベラはカフェの店員に目を向けた。忙しなく注文を聞いて回り、少し大変そうだ。物覚えが悪いのかもしれない。何度も聞き返して、客の眉根を寄せている。
「つまりよ」とイザベラが言った。「エマには才能があったんだ。ああやって向かない仕事に悪戦苦闘しなくて済むようなものが」
「才能があったら」とエマが言った。「もっと新人賞に通ったりしてるよ。私はなんの賞も取ってない」
「才能っていろいろだよ。百万人が一マドゥカずつ出す作品を作る人と、たった一人が百万マドゥカ出す作品を作る人、どっちが優れているかなんて結論は出せない。たくさんの人に知られることもすごいけど、たった一人の心にそれだけ刺さることだってなかなかできることじゃないよ」
エマは腑に落ちない顔をしていた。
「なんでバートンさんは私の作品にあんなにお金を出してくれるのかな。私の何がそんなによかったんだろう」
今度はイザベラが取り合わなかった。まじめには受け取らなかった。
「なんにしてもエマが羨ましいよ。素晴らしいパトロンを得て将来が明るいね」
エマはフランス窓を閉じてまたタイプライターに戻ろうとした。ドアを閉めたあとの一歩目で、部屋のドアが開けられ、一人の老婦人が入ってきた。その手にはトレーがあって、クッキーとティーポットが載せられていた。
「エマさん、ご休憩なさったら?」
「いえ、実はいま休んだところなんです」
「頭を使うと糖分が不足するでしょう。クッキー、召し上がって」
この老婦人こそがバートン夫人だった。いつもにこにこしている白髪の女性で、年は七十になるかというところだ。エマに広い執筆部屋を与えて、ときどきこうやって差し入れを持ってきてくれる。
「書くほうは順調?」
「ええ」とエマは答えかけた。「……いえ、正直少し行き詰まってます」
「じゃあやっぱりクッキーね」
彼女たちはテーブルを挟んで椅子に座った。二人でクッキーをかじり、お茶で胃を温めた。エマには聞きたいことがあった。
「あの、いまさらですけど、なんで私の作品なんかにこんな多額のお金を出してくださるんですか?」
「それはもちろん気に入ったからよ。あなたには才能があるわ」
「でも私、新人賞にも引っかかったことがないし、才能があるのかかなりあやしいです」
バートン夫人はやはり微笑んでいた。
「才能は世の中が認めるかどうかでしょう? 個人はいちばん小さな世の中だから、私が認めるってことは、あなたには才能があるのよ」
エマは実のところ、たった一人に向かって書くことに疑問を感じて、このところ筆がまったく進んでいなかった。これでは契約違反になるかと思ったが、そもそも契約自体書面にもしていないし、この穏やかな老婦人はいつまでも待つという態度なのだ。エマにはむしろ少し気味が悪くさえあった。
その午後、日が暮れるころにエマは仕事を切り上げ、バートン夫人の部屋をノックした。しかし返事がなかったので、ついドアを開けてしまった。そこには主が不在で、窓が開けられていたので、床に何かの書類が散らばっていた。エマはそれを拾い上げるために部屋に入った。ふと、コルクボードに目がいった。そこにはいろいろなメモとともに一枚、写真が貼られている。
幼い子供の写真だ。不思議なことに、それは幼いころのエマにそっくりだった。
エマはシャワーを浴びながらも考えたし、食事しながらも考えたし、ベッドに入ってからも考えた。エマの母は若いころに家と絶縁していた。だからエマも母方の祖父母には会ったことがない。母の話では、祖父は早くに亡くなっていて、祖母だけが残っているらしい。そしてバートン夫人もどうやら寡婦のようで、ご主人の姿を見かけたことはなかった。
エマの考えは小説家らしくいくらか飛躍した。もしバートン夫人が自分の祖母で、そのために彼女は自分の作品を買ってくれているのだとしたら……。そう考えれば、新人賞にことごとく黙殺される自分の作品、そのたった一つに、三ヶ月分の生活費さえ出してくれることにも説明がつく。
エマはその考えによって、むしろ自分の才能を疑った。やはり誰かの心に刺さるようなものは自分には書けないのだと失望した。
エマはそれから間を置かず、バートン夫人に辞めさせてほしいと伝えた。引き止められはしたが、希望を失ったエマはもう書ける気がしなかったし、その強情さには、ついにバートン夫人を諦めさせるだけの固さがあった。
こうしてエマは夢を段ボール箱に入れてクローゼットに仕舞い込んだ。エマは就職面接のときに話すブランクの理由を必死に考えるようになった。
「そうよ。急に辞めたいと言って、辞めてしまったの」
バートン夫人は部屋で一人の老男と話をしていた。
「そうかい。君のお気に入りだったのにな」
「何か悪いことをしてしまったかしら。あなたにも会ってほしかったわ。あなたなら彼女の作品に感激したはずよ。だって私たちは感性がとてもよく似てて、それで何十年も連れ添ってきたのだもの」
「そうだね。私が君を置いて考古学の研究にさえ出ていなければ、その子にもお目にかかれたのに」老男はふとコルクボードに目を向けた。「ところで、その写真はなんだい? かわいらしいお嬢さんだね」
「あらまあほんと、いけないわ」バートン夫人はその写真を剥がしてバッグに仕舞った。「この写真はね、つい先日、ハイキングの会で知り合ったご婦人のものなのよ。そのご婦人が言うには、絶縁した娘さんからただ一枚だけ送られてきた孫娘の写真なんですって。絶縁しても娘を見せたかったのかしら」
「それがなんでここに?」
「何かの拍子に私の荷物に紛れ込んでしまったみたいなの。返そうと思ってたのに、忘れていたわ。きっと大切なものだから、すぐお返ししないと」
バートン夫人は連絡先を書いた名簿を取り出した。
「すぐに電話するわ。あっ、そうそう。例の作家、エマさんの連絡先は消しておきましょう。あんなに好きな作家だったんですもの。いつまでも未練が残ってしまうわ。絶対に才能があると思っていたのに、少し残念だけど。彼女はね、知り合いの編集者もしばらく注目して見ていきたいと言っていたくらいだったのよ。本当に残念ね」
消しゴムはエマの名前と連絡先をきれいに消し去った。一人の偉大なる物書きは、自分でもそうとは知らず、いまもリクルートスーツに身を包んでブランクの理由を懸命に話している。




