古代エジプトの王名表は正しいのか? ⑤
トリノの王名表、またはトリノの王名表パピルス。
現在所蔵されている場所の名を取ったパピルスである。
そのパピルスには初代から第二中間期の第17王朝の王の名と治世年数が記されていた。
それが記されたのは第19王朝と思われている。
そして、発見されたのはルクソール。
実はこの発見された場所が重要なのである。
第二中間期とは、中王国時代の第12王朝が崩壊してからツタンカーメンやラムセス2世が統治した新王国時代が始まるまでの約200年を指す。
この時代は異民族がエジプトを支配していた古代エジプトの黒歴史だったことは前述した。
だが、その後半になると、エジプトの北部と南部でふたつの王朝が並立して存在していた。
王名表と名乗るのであれば、王朝に関係なく単純に統治した順番に王の名は記される。
だが、そこには北、南の順で王の名は配置されていた。
南の王の名をまとめて書き加えたかのように。
しかも、書き加えられたように見える南の王朝とはルクソールを本拠地とした新王国時代の王たちの祖先。
黒歴史を抹消するならともかく、異民族の王たちの名を残し、さらにその王たちに続くかのように正統性を主張する王の名を記す。
これは非常に不自然である。
では、このようなことがどうやったら起きるのか?
考えられるのはふたつ。
ひとつはこの王名表がつくられた時期が従来の説より遅く、すでに確立された王朝分類に従って書かれた。
もうひとつはこの王名表は何かを写し、その原本に記されていたから。
これについてはそれが記された文字が証拠になる。
そもそも文字を書くことができるのは限られたものたちだけ。
そして、彼らが日常使いにしていたのは有名なヒエログリフではなく、その崩し文字。
トリノの王名表はその文字で記されていた。
さて、崩し文字が書かれたその王名表であるが、ルクソールで発見されたにもかかわらず、消し去りたい異民族の王たちに続く者たちとして地元の王を並べなければならない理由をもう一度考えたときに浮かぶこと。
それは……。
王名表の原本があった場所は移民族が支配していた北部。
そして、その候補地として有力なのは古都メンフィス。
さらにそこにあった王名表の原本はどのような権力者でも変更を許さない神聖不可侵なもの。
そのため、エジプトを開放した南の王たちは渋々異民族の王の名の後ろに自分たちの名を刻んだ。
そうなれば、原本はパピルスではなく石板だったことだろう。
もちろんそのようなものがあったという記述はないし、そのようなものも発見されていない。
だが、文字を持つ者たちが正確性の低い口伝でそれを伝えていたと考えるのは相当無理があると思うのだが、どうだろうか。