第1話 その夜
「この市場、ずいぶん賑やかだな」
俺は漆黒の夜空を見上げながら、ひそかに浮かれていた。
こんなボロボロの格好をしてるからって、侮ってもらっちゃ困る。
今日の俺は、なんとプロポーズをする予定なのだ。
なにせ俺は、優しくて気遣いのできるイケメンだからな――
……いや、今のは忘れてくれ。
「ルクラン、またぼーっとしてる」
少女はそう言いながら、俺の頬をぺちぺちと叩いた。
「ああ、ちゃんと聞いてるって」
俺は少しむくれながら答えた。
「本当に聞いてるの?」
「聞いてるってば!」
彼女の長い茶色の髪が、そよ風に揺れている。
その笑顔には、十八歳の少女らしい無邪気さが今も残っていた。
彼女こそ、世界で一番可愛い女の子――シア!
俺にとって、彼女はまさに天使そのものだ。
今日だけは……絶対に、失敗するわけにはいかない!
「ねえ、クル」
「ん?」
「さっき、街の外に家を買いたいって話したでしょ?」
俺は笑いながら、シアの頭をそっと撫でた。
「普通の家じゃないぞ!」
俺は目を輝かせながら、嬉しそうに続けた。
「すっごく広いベランダのある家がいい! そこで二人で、たくさんのカモミールを育てるんだ。それで毎朝、俺がお前のためにパンケーキを焼く!」
「うんうん、約束だからね!」
シアはそう言うと、ぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。
他愛のない話をしながら歩いているうちに、いつの間にか家へ続く路地裏まで来ていた。
シアはいつも、この道を一人で歩くのを怖がる。
だから、いつもこうして二人で帰っている。
ところで、シアの横顔を見るたびに、俺はその琥珀色の瞳に心を奪われてしまう。
……綺麗すぎる。
まるで、本物の天使みたいだ。
「ねえ、クル」
シアは俺がぼんやりしている間に、いつの間にか俺の胸にすっぽり収まっていた。
「ねえ、ポケットに入ってる硬いものって何? ずっと当たってて、ちょっと痛いんだけど」
「……っ」
今、俺は猛烈に緊張していた。
それは、二年もの時間をかけて準備したもの。
ほとんど全財産をつぎ込み、腕利きのドワーフ職人に特注で作ってもらった――銀の指輪だ。
一度深呼吸して、俺はポケットに手を入れ、指輪の箱を取り出した。
シアは、まるですべてを予想していたかのように、両手で口元を覆った。
大きく見開かれた瞳が、俺の手にある指輪の箱をじっと見つめていた。
その瞬間――
背後から、かすかに足音が聞こえた。
……でも、今の俺にはそんなことどうでもいい。
俺は、幸せになるんだ!
「シア、俺……」
背後から聞こえる足音が、どんどん近づいてくる。
けれど、シアはそれに気づいていないようだった。
……まあ、いい。
今の俺には、目の前の彼女以上に大切なものなんて何もない。
「シア、俺……君のことが好きだ。俺と結婚してくれないか?」
俺は緊張しながら、シアが答えを出すのを待った。
……正直、俺も思う。
プロポーズの言葉としては、ちょっと下手くそだったんじゃないかって。
「あたし……」
「ん?」
俺はしばらく待った。
……どうした?
シアは、何も答えなかった。
「……?」
返事がない。
どうして……?
何か……液体が、落ちてきた?
涙……なのか?
俺は足元に落ちたものを見て、思わず目を凝らした。
「……赤い?」
ゆっくりと顔を上げ、シアのほうへ視線を戻す。
その瞬間――
俺の頭は、真っ白になった。
「シア……?」
混乱した俺は、思わず這いずるように後ずさった。
「……いや……だ……!」
首を横に振りながら、涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみなんかじゃない。
恐怖で溢れ出した、涙だった。
シュッ――。
漆黒の長剣が、勢いよく引き抜かれた。
シアの身体から、徐々に力が抜けていく。
俺は反射的に、倒れ込んでくる彼女を抱き止めた。
「シア……ッ!!」
白いドレスが、赤く染まっていく。
温かな血が、俺の指の隙間から滴り落ちていく。
ついさっきまで――彼女は、笑っていたのに。
俺は、微動だにしなかった。
右手には、開いたままの指輪の箱。
指先から力が抜ける。
銀の指輪が、俺の手から滑り落ちた。
――カラン。
小さく、それでいて耳に鋭く響く音。
指輪は床を転がり、そのまま血溜まりの中へと沈んでいった。
「やれやれ……」
暗闇の中から、男の声が響いた。
……いや、違う。
あの黒い影の声だ。
俺はゆっくりと顔を上げた。
一瞬、呆然とする。
そして――次の瞬間、全身を恐怖が駆け抜けた。
そこに立っていたのは――あの殺し屋。
漆黒の布で全身を覆い、顔には――
不気味な笑みを浮かべた木製の仮面。
「悪かったな……邪魔しちゃったか?」
「でも――さっきのお前の顔……本当に、いい顔してたぜぇ~」
男の全身から、濃密な闇の気配が滲み出ていた。
「……」
男は手にした剣を、軽く振った。
刃に残っていた一滴の鮮血が、宙を舞う。
そして――
ぽたり。
俺の足元に落ちた。
……シアの血だ。
「彼女が死んだだけだろ……」
男は首を傾げた。
「どうして、そんなに苦しそうな顔をしてるんだ?」
ついさっきまで、彼女は笑っていた。
その身体だって、まだ温かかった。
なのに今は……何もない。
――あの日の雨夜。
俺には、何も分からなかった。
そして、知るにはあまりにも遅すぎた。
雨の匂いなんて、もう覚えていない。
ただ、命が零れ落ちていくような冷たい風が、冷たくなっていく母さんの指先を撫でていた。
そして――
あの殺し屋が浮かべていた、歪んでいて、残酷で。
それでいて、まるで何かの儀式を終えたかのような笑み。
……俺には、その笑顔が重なって見えた。
「……ふっ」
喉の奥から、奇妙な音が漏れた。
俺は泣いているのか?
それとも、笑っているのか?
自分でも、もう分からなかった。
俺はそっとシアを抱き上げる。
そして、壁際に彼女を横たえ、その指に銀の指輪をそっとはめた。
「……成功したのかな?」
「たぶん……成功したんだろうな。……成功して、失敗した……ってところか」
俺は独り言のように呟いた。
ゆっくりと立ち上がる。
俺は何も言わなかった。
ただ、あの仮面の男を見ていた。
怒っている。悲しい。
それなのに、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
何を考えているのか、自分でも分からない。
「……このクソ野郎。死ね」
死ぬ覚悟なんて、とっくにできていた。
それでも――俺の手は、震えていた。
俺は震えを止めようと、手首を強く握り締める。
仮面の男は、そんな俺を見て、わずかに眉を上げた。
「へえ……本気で俺を殺すつもりなんだ?」
「……可愛いな」
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俺の肩は、まだ小刻みに震えていた。
涙は、止めどなく頬を伝って落ちていく。
なのに、どうしてだろう……
俺の口元が、ゆっくりと歪んでいく。
「……ふっ」
「……やっと笑ったな」
仮面の男は、わずかに首を傾げた。
「そう、それでいいんだよ~」
俺は俯いたまま、肩をさらに激しく震わせた。
「……はは」
口元が、ゆっくりと歪んでいく。
「はははははははははっ!」
――次の瞬間。
俺は勢いよく、あの仮面の男へと飛びかかった。
俺はただの普通の人間だ。
特別な力なんてない。強くもない。
それなのに……どうしてだ?
どうして、俺ばかりがこんな目に遭わなきゃならない?
武器なんて持っていない。
でも、そんなことはどうでもいい。
一応、普段からジムには通っている。
腕力には、それなりに自信がある。
握力だって、決して弱くはない。
だったら――
あいつの首を掴めば……
……殺せるはずだ。
俺は、目の前にいるこいつを殺したい。
ただ、それだけだった。
この変態を――。
「死ねぇっ!」
「さっきまで泣いてたくせに」
「今度は俺を殺したいのか?」
「……本当に可愛いな」
俺は何も答えなかった。
ただ、奴の襟首を力いっぱい掴み――
そのまま何度も、何度も、顔面に拳を叩き込んだ。
「いい子だ」
仮面の男は、避けようとすらしなかった。
俺の拳を、ただ黙ってその身に受け続ける。
それなのに――その口元に浮かぶ笑みは、むしろ深くなっていった。
「でもさ……」
「そろそろ、この辺で終わりにしようか?」
次の瞬間――
黒い魔力が、奴の掌の中で渦を巻きながら凝縮していった。
ドォンッ――!
俺はまともに攻撃を喰らった。
身体が吹き飛び、壁に叩きつけられる。
「がはっ……!」
喉の奥から血が込み上げ、咳と一緒に吐き出した。
しばらく、身体が動かなかった。
……痛い。
それでも、俺はゆっくりと身体を起こした。
足元がふらつく。
一歩。
また一歩
「……ああ、また立ち上がった」
仮面の男は、わずかに首を傾げた。
「まったく……」
「お前、そんなに殴られるのが好きなのか?」
さらに一歩。
俺は馬鹿なんかじゃない。
ただ、完全に直感だけで動く――狂犬だ。
「……死ね……!」
拳が、男の胸元に思い切り叩き込まれる。
「ぐっ……!」
男が反応するより早く、俺はもう一発拳を振り抜いた。
――パキンッ!
仮面が弾き飛ばされる。
「……え?」
その素顔を見た瞬間、俺は目を見開いた。
……なんだ?
なんだか、見覚えがあるような――?
まあ、いい。
今は、そんなことを考えている暇なんてない。
その瞬間――俺は、奴の腕に噛みついた。
「……ああ」
男は自分の傷口を眺めながら、まるで珍しいものでも愛でるように呟いた。
「……いいね」
その顔には、歪んだ笑みが浮かんでいる。
それでも、俺は口を離さなかった。
「もっと強く噛めよ」
「お前、俺を殺したいんだろ?」
「……ほら、止めるな」
「今のお前の顔……本当に綺麗だ」
男は、俺の腹に拳を叩き込んだ。
ドンッ――。
鈍い衝撃が腹の奥まで響く。
まるで、身体の中の何かが押し潰されたような感覚。
「……っ!」
口の端から、鮮血が滴り落ちる。
痛い。
なのに――
なぜか、笑いが込み上げてきた。
二人は、血溜まりの中でもつれ合っていた。
殴り合う。
噛みつく。
掴み合う。
引き裂く。
骨の折れる音。
鮮血が飛び散る音。
夜に響く、鳥の鳴き声。
そして――笑い声。
もう、どちらのものなのかさえ分からなかった。
やがて、瓦礫の山に立っているのは、俺一人だけになった。
俺自身も傷だらけだ。
こんな状態で、よく立っていられるな……自分でも不思議なくらいだった。
左腕は、今にも千切れてしまいそうだった。
それでも、俺は手を伸ばした。
そして――男の首を掴んだ。
その瞬間、男が笑った。
「……ふふ」
その声に、怒りはなかった。
むしろ、愉しそうだった。
「素晴らしい……」
男は俺の顎を掴み、ぐっと引き寄せる。
「なんて美しい狂気なんだ」
そして、耳元で囁いた。
「さあ……俺を殺せ」
――パキッ!
何も考えなかった。
「……ざまあみろ……」
俺はそう呟いた。
自業自得だ。
わけの分からない変態野郎め。
それより……。
俺はシアに視線を向けた。
「俺の……シア……」
泣きながら、独り言のように呟いた。
突然、冷気が身体の中へと入り込んできた。
全身がぶるりと震える。
ただ寒いだけじゃない。
まるで、身体の内側まで凍りついていくような感覚だった。
俺は無意識に、自分の腕を強く抱きしめる。
「……気持ち悪い。寒い……」
「……!」
俺は咄嗟に口元を押さえた。
胃の奥を激しく掻き回されるような感覚に襲われる。
よろめきながら一歩下がり、堪えきれずに吐いた。
口元を拭う。
けれど、自分が一体何に吐き気を催しているのかさえ、分からなかった。
それでも――あの寒気だけは、消えてくれなかった。
だが、彼はまだ知らなかった――。
すでに何かが、音もなくルクランの身体に棲みついていたことを。




