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ちょっとからかってやろうと思っただけなのだ。突然我が家に押しかけ私の安息日を荒らし、汚い言葉で罵るこの男を、中華包丁をちらつかせることでほんの少し怯えさせることができたなら。そんな小さな悪戯心だったのだ。この男が泣き声をあげながら逃げていく姿を見て、大笑いしたかっただけだ。
それなのに、気絶してしまうとは。まさかここまで小心者だとは思わなかった。大声をあげる者は総じて見かけ倒しの臆病者だが、彼はその典型だったようだ。私は包丁をもとの位置にそっと戻すと、彼の頬を叩いた。彼は起きない。しかしこの大男をこのままキッチンの床に寝かせておくわけにはいかない。私は彼を必要以上に脅かしてしまったお詫びも込めて、彼をクルマで送ってやることにした。ソフィア・ジョーンズで問い合わせれば、彼の住所もわかるだろう。私はとりあえず、クルマを玄関先につけることにした。私のクルマは外の物置小屋の近くに駐車してある。ここしばらくは動かしていなかったが、たぶん動くだろう。
物置小屋の傍を通り過ぎようとしたとき、中途半端に扉が開いているのが気になった。以前この物置から農具を出したのがいつだったかは忘れてしまったが、きちんと扉は閉めておかなければ。私は物置に近づいた。
「あなた、そんなところで何をなさっているの?」
背後から、妻の声がした。振り返ると、買い物から帰ってきた妻が立っていた。
「ああ、おかえり。扉が開いていたから、ちゃんと閉めようと思ってね。何を買ってきたんだい?」
「スコップよ。ねえ、あなた、その扉ちゃんと閉まらないみたいなのよ。だから、もう行きましょう」
「スコップ?そんなもの買わなくても、うちにあった気がするけれど」
私は妻にそう返しながら、物置の中を少し覗き込んだ。その時、ブルーシートで巻かれた何か大きなものがあることに気が付いた。
「ねえ、これは何だったかな?」
妻に尋ねると、何故か彼女は慌てた声を出し、私の腕に飛びついた。
「何でもないの!ねえ、本当にもう行きましょう」
その衝撃のためか、その大きな青い物体はどさっと倒れてきた。シートが少しめくれたところから、不快な臭いが漂う。何か、肉が腐ったような。
「ねえ、これはいったい…」
私が驚いて振り向くと、妻が私を見下ろしていた。逆光になって顔が暗くなり、表情が見えない。とても恐ろしかった。彼女はさっきとは一変し、冷静な声で言った。
「あなたが余計なことをするからよ」
妻は新しく買ってきたというスコップを、私に振りかざした。その瞬間、私は全てを悟った。しかし全てはもう遅かった。太陽に反射してぎらりと光るスコップを見上げながら、私は何もかもを諦めた。
目を覚ましたとき、後頭部に痛みを感じた。目がかすんでいて、周囲の状況はよく分からなかったが、私はベッドか何かに寝かされていた。手足はくくりつけられており、身動きができない。僅かに頭を動かすのがやっとだ。
「起きた?」
妻の声がする方に目を凝らす。何度か瞬きを繰り返すと、だんだんと視力が蘇ってきた。妻は私の顔を覗き込み、にっこりと笑った。
「いったい、ここは…」
私が尋ねると妻は嬉しそうに笑った。少女のような笑い声だった。私はなんとなく、妻に初めてプレゼントを贈ったときのことを思い出した。彼女はそのときも、今のような無邪気な笑い声をあげていた。しかしその手に持っているのはかつて私が贈ったプレゼントではなく、鋭く光るナイフだった。
「私の秘密の部屋よ」
彼女がこんなに楽しそうにしているのを見るのは久しぶりだった。私と結婚してからこんなにはしゃいだ妻を見たことがない。普段私に見せている態度は、見せ掛けだったのだろうか。本来の彼女はナイフを持って笑う猟奇的な女なのだろうか。
「君が、殺したんだね」
「ソフィアのこと?」
彼女はナイフの刃を優しく撫でながら歌うように言った。
「そうよ。あなたが出掛けているときにね。ソフィア、よくうちに来ていたのよ。知らなかったでしょ?」
全く知らなかった。彼女が誰かを呼んだ形跡は全く無かったのだ。私が仕事から帰って来ると、妻はいつも穏やかな笑顔で迎えてくれ、「今日もお客さんは来なかったわ」と言うのだ。その言葉に私は安心して食事をし、風呂に入り、眠ることが出来たのだ。
「あなた、来客をすごく嫌がるじゃない。潔癖症にも困ったもんだわ」
妻はもう私の知っている女ではなかった。ただの狂った殺人鬼だ。何の疑いも持たない女性を呼び出して殺し、夫をためらいもなく殴り、ナイフをきらめかせつつ脅す。若かりし頃の妻を彷彿とさせるような笑顔だと思った顔も、よく見ればただの狂った女の顔だ。
「あなたの留守中に彼女を呼び出して眠らせ、あなたと同じようにここに寝かせてちょっとお喋りして殺した。埋めようと思ってスコップを買いに行く間、とりあえずブルーシートにくるんで物置に隠していたら、運悪くあなたに見つかってしまったの」
「シンプルな殺人だな」
「素敵でしょ?」
殺人が素敵かどうかは置いておいて、実に彼女らしいやり方だと思った。彼女も私と同じようにきれい好きなのだ。そして頭が良い。私をこうして縛り付けているということは、私はもうすぐ死ぬのだろう。
「私は君に殺されるのかな」
「そうよ」
シンプルで美しい答えが返ってきた。
「あなたに殺人がばれてしまったからという理由もあるけれど、やっぱり私はあなたを殺してみたかったんだわ。」
そう言うと妻は、にっこり美しく笑った。その笑顔は私の知っている妻のものとよく似ていた。
「ずっと先延ばしにしてきたことなの。あなたを殺してみたかったけれど、私はあなたが好きだったの」
彼女が静かに私の首に刃物を当てる。ひやりとした感触は首から手足を伝わって私の脳までを犯す。
「もうあなたに会えないと思うと、とっても寂しいわ」
私は彼女の背後に迫る大きな影を見た。しかしそれを妻に言ってしまうのは彼女の言葉に水を差すようで嫌だったし、何よりも私は死にたくなかったのだ。
どすっという鈍い音がしたのと同時に、彼女はその場にどさりと崩れ落ちた。私はできるだけ顔を持ち上げ、熊のような彼を見上げて、「ありがとう」と礼を言った。
「あんたの女房があんたを引きずっていくのが見えたんだよ」
彼は私の体をほどき、ベッドから起こしてくれた。まだ目は回っていたが何とか立ち上がり、足元で気絶している妻を見た。ジョーンズさんは素手で彼女を殴ったようだ。だらしなく伸びているその女は、もはや私の妻ではなかった。さらに言えば、先ほど恐ろしい狂気を見せた殺人鬼とも全く違う、取るに足らない女だった。




