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テレフォン  作者: tade
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 暇つぶしに映画を見ていた。もう七回は見ている映画だ。内容はもちろん、登場人物たちの一挙手一投足、セリフに至るまですべて覚えている。それなのに毎回同じところで泣いてしまうし、同じところで眠くなってしまう。今はちょうど、主人公演じる殺人鬼が凶器となる包丁を買いに行く場面だ。店主の肥った男とのやりとりが退屈で、私は大きな欠伸をした。この会話シーンから、店主の娘が実は殺人鬼の恋人だったと判明するところまでは、特に見どころがない。暇つぶしに見ていたはずの映画なのに、私は暇になってしまった。コーヒーでも作ろうかと思い立って立ち上がったとき、電話のベルがけたたましく鳴り響いた。静寂に包まれた心地よい家の中に、無機質な音が無遠慮に土足で踏み込んできた。私は少し腹が立ったが、電話の主には罪がない。電話に駆け寄って、黒い受話器を耳に押し当てた。私がもしもし、と応える間もなく、電話の向こうの相手は尋常ではない勢いで叫んだ。

「俺の妻だ!何かしたらぶち殺すぞ!嘘じゃねえ、でかい中華包丁で、てめえの体を切り刻んでやるからな!」

思いもかけない罵倒に、私は何も言い返すことが出来なかった。間違い電話だとしても、気持ちのいいものではない。誰か知らない男女の修羅場に巻き込まれるのは嫌だった。相手の男を刺激しないよう、私は穏やかな声を出した。

「申し訳ありませんが、電話番号をお間違えではないでしょうか。」

しかし相手は荒々しい口調でまくしたてる。

「間違うはずがねえ!俺の妻はてめえの家に行くと言って出掛けたんだ!てめえの名前はアンダーソンだろう!出版社に勤めてやがるな!」

驚いた。確かに私の名前はアンダーソンであり、弱小出版社にもう十五年勤めている。しかし、私は妻帯者であるし、相手が疑っている不倫などという大それた真似ができるほど度胸のある男でもない。

「そうですが。失礼ですが、あなたは?」

「ジョーンズ!妻の名はソフィアだ!」

ソフィア・ジョーンズという女性の知り合いはいなかった。やはり、この男が勘違いをしているにちがいない。

「すみません、本当に人違いだと思いますが。」

私の一言に、男はああとか、ううとか、声にならない唸り声をあげた。その声は人ではない、何か森の奥に住む獣を思い出させた。男はしばらく唸った後、喉の奥から人間の言葉をひねり出した。私にも理解できる、英語を。ただしその英語はいつも私の傍にある信頼に満ちた言葉ではなく、憎しみと恨みに満ちた全く別の言語のようだった。

「とにかく、俺は今からそっちへ行く。いいか、俺は警察に突き出されても良い覚悟で行くんだからな。しらばっくれたりしやがったら、命の保証は無いと思え!」

まるで映画のワンシーンのようなセリフを言って、男は乱暴に電話を切った。なんだか面倒なことになってきた。私は、自分の家に他者を招き入れることが嫌いだった。せっかく清潔さと居心地の良さを保っている我が家に、汚い手足で触られたくなかった。

 そして、あの部屋を見つけられるのが怖かった。余計な詮索をされ、平和をぶち壊しにするであろう私の秘密を暴かれたくなかったのだ。しかし、逆らったり拒んだりしたら、本当に殺されてしまいそうだ。男が来る前に警察に電話することも一瞬考えたが、すぐにやめた。不必要な面倒を起こして、自分が小さな会社で築き上げた小さな信頼と地位を失いたくはなかったし、この騒ぎを妻に知られるのも嫌だった。妻が出かけているのは不幸中の幸いだった。私の妻はくだらないことに首を突っ込んでこない物わかりの良い妻だったが、だからこそ彼女を不安にさせるのは避けたかった。私は思わずため息を吐き、少し前の退屈な時間が恋しくなった。


 それから三十分ほど立ったころ、男はやってきた。彼はドアが壊れるほどの勢いで木造のそれを叩きまくり、壊されてはたまらないと玄関まで走ったのだった。ドアを開いた瞬間、胸倉を掴まれた。

「妻を出しやがれ、このクソ野郎!」

男はまさに熊のようだった。私より三十センチは高いであろう身長に加え、レスリング選手のようなたくましい体つき、ボサボサの黒髪に髭をたくわえ、妻が夜中にでも見たらそれだけで気絶してしまいそうな風貌だ。

「お、落ち着いてください」

落ち着き払った声を出そうと思って失敗し、かすれ声になってしまった。男は血走った目で私を睨みつけている。明確な憎しみと、そして殺意がその目の中にはあった。普段冷静さを売りにしている私としては全く恥ずかしいことではあるが、その男に対しては恐怖を抑えきることが出来なかった。

「あんまりふざけたことをぬかしてると、今すぐ殺すぞ!さあ、早く俺の妻を出すんだ!」

そうまくしたてられても、彼が必死で求めるソフィアを知りもしない私はどうすることも出来なかった。男に胸倉を掴まれたまま、震えながら彼の顔を見つめた。何か言おうと思っても言葉が喉につかえてしまい、私が最も得意であるはずの英語は出てきてはくれず、代わりにヒューヒューという空気の音が漏れてくるだけだった。私の体はもはや人間ではなく、ただの古ぼけたパイプだった。

「ちくしょう、埒があかねえ!」

男は私を乱暴に突き放し、家に上がりこんだ。玄関でしりもちをついている私に見向きもせず、彼はどかどかと足音を立てながら、家のドアを次々と開けていく。男の靴についている泥が点々と、彼のいる場所を示している。私は慌てて後を追った。見知らぬ男に家中を荒らされては大変だ。

 それに、あの部屋を見られてしまっては困る。どうせ見つけられはしないと思うが、万が一ということもある。あの部屋が白日の下に晒されたら、私は一巻の終わりだ。

「ジョーンズさん!ちょっと待ってください!何かの間違いですよ!」

叫びながら彼が残した泥を辿った。妻が出かけていて本当に良かった、とふと思った。わけのわからない男が我が家を荒らしているところを見たら発狂してしまうかもしれない。それに、私の秘密を妻が知ってしまうかもしれない。それだけは何としてでも避けたかった。

 彼の足跡はキッチンへと向かっていた。

「ああ、なんてことだ」

思わず呻いた。よりによって、キッチンとは。私は自分の体が冷たくなっていくのを感じた。血液が止まり、脳に空気が送られなくなる。汗が止まらなかった。

「ジョーンズさん!」

男の名を呼びつつキッチンへ入る。熊のような男はそれまでの荒れ狂いようから一転し、奇妙に静かだった。ただ呼吸は荒く、静かな部屋の中で男がはあはあというその音だけが、唯一の生きている音だった。男は微動だにせず、壁のある一点を見つめていた。いや、正確には壁であったはずの部分だ。今やそこにはもう一つの部屋が現れていた。

「おい…なんだこれは…」

男が見つけてしまったものを見て、私は深くため息を吐いた。現物を見られてしまったならもう隠しようがなかった。

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