絨毯から始まるハニートラップ
史実をベースにしたカエサル&クレオパトラのロマンチック・ストーリーです。悪役令嬢の元祖とも言えるクレオパトラと、52歳のスパダリ・カエサルの恋模様をじっくりとお楽しみください。
アレクサンドリアの夜は、腐敗と焦燥の匂いがした。 窓の隙間から忍び込む海風は、地中海の重たい塩気とこの国独特の埃っぽさを運んでくる。
ローマの執政官、52歳のガイウス・ユリウス・カエサルは、執務机の上で、退屈という名の敵と戦っていた。 彼の手元にあるのは、世界を支配する地図ではなく、無味乾燥な兵站の記録が記されたパピルスだ。小麦の備蓄、兵士の靴底の消耗率、ナイルの水位。ランプの芯がぱちりと爆ぜ、彼の深く刻まれた皺と、鷲のような鼻梁に濃い影を落とす。ペン先がパピルスを擦る乾いた音だけが、部屋の支配者だった。
だが。その静寂は、無遠慮な足音と共に破られた。
「失礼いたします、閣下」
守衛が肩に担ぎ上げ、床へとドサリと下ろしたのは、埃っぽい長尺の絨毯だった。
「プトレマイオス13世の姉、クレオパトラからの献上品にございます」
カエサルは、ペンを走らせる手を止めようともしなかった。
「退屈なことだ。我々を包囲している弟王への当てつけか、それとも媚びか。……いずれにせよ、女の小細工を私の執務室に持ち込むな。明日、市場で売り払え」
冷淡な拒絶。だが、守衛が困惑しつつも、縛り上げられていた太い麻紐に短剣を入れた、その瞬間だった。 部屋の空気が、軋むように一変した。
ブツン、と紐が切れる音。 拘束を解かれたずしりと重い羊毛の束が、自らの重みで奔流のように床へ広がっていく。
幾重にも巻かれた極彩色の幾何学模様が回転し、その中心にあった「闇」あるいは「光」が吐き出された。 一人の女が――否、まだ「少女」の頼りない骨格を残した小柄な影が、慣性の法則に従って床の上へ転がり出たのだ。
カエサルの眼差しが、この夜初めてパピルスから離れた。 ペンが止まる。
そこにいたのは、黄金の装飾品を纏った女王などではなかった。
埃にまみれ、乱れた黒髪が汗ばんだ額に幾筋も張り付き、酸素を求めて荒い呼吸を繰り返す、ひどく無防備な生き物。絨毯の硬い織り目が長時間押し付けられたせいで、陶器のような白磁の肌には、痛々しい赤痣が刻まれている。
「……これが、エジプトの神秘とやら、か?」
絨毯から転がり出たその「生き物」は、肩で息をしながら、乱れた黒髪の隙間からカエサルを睨め上げていた。 埃と汗、そして高級な香油が混じり合った匂いが、執務室の無機質な空気を一瞬で塗り替える。
カエサルは眉一つ動かさず、しかしその双眸だけを鋭く細めていた。
(……なるほど)
彼は瞬時に計算する。この状況、この侵入方法、そして何より、この娘が纏っている装飾品の意匠。プトレマイオス朝の王族のみが許された黄金の聖蛇。 状況証拠は揃っている。だが、彼はあえて口を開かなかった。この「贈り物」が、自らの口で何を語るのか。それを試す沈黙だった。
娘は、震える膝を床についたまま、乾いた唇を舐めた。
その喉が、ごくりと音を立てる。恐怖に押しつぶされそうな小さな身体。だが、彼女は顔を伏せなかった。射抜くような視線を、ローマの最高権力者へと突き刺したまま、掠れた声を絞り出した。
「……お初にお目にかかります、ガイウス・ユリウス・カエサル閣下」
彼女は、埃にまみれたその身を起こし、まるで王座に座っているかのような毅然とした声音を作る。
「私は、クレオパトラ7世フィロパトル。……貴方がたローマが『追放された』と呼び、エジプトの民が『真なる女王』と呼ぶ者です」
名乗った。 命乞いでも、助けを求める言葉でもなく、彼女はまず己の「誇り」を宣言したのだ。
カエサルの口元に、微かな笑みが浮かぶ。 彼は無言で立ち上がると、ゆっくりと彼女へ歩み寄った。軍靴の音が、彼女の心拍数と同じリズムで床を叩く。
”自称”女王の肩がびくりと跳ねる。強がってはいても、その本質はまだ21歳の、死の淵を覗いたばかりの娘だ。 カエサルは彼女の目前で立ち止まると、自らの肩から真紅の外套を外し、その震える華奢な肩へ、ふわりと被せた。
「……やりすぎだ、小娘」
頭上から降ってきた言葉は、裁きではなかった。 重厚な羊毛の温もりが、彼女の冷え切った身体を包み込む。 カエサルは膝を折り、彼女と視線の高さを合わせた。そこにあるのは、無謀な子供を呆れつつも受け入れる、大人の男の余裕だった。
「命を賭けて絨毯にくるまり、敵将の部屋に『密輸』されるとはな。……女王陛下、君の国の外交儀礼は、いささか情熱的すぎるようだ」
「……」
クレオパトラは、カエサルの外套を強く握りしめた。 彼の体温。革の匂い。それが、彼女の凍りついた血管に血を通わせていく。 恐怖が引くと同時に、彼女の中で別の感情が鎌首をもたげた。
(この男は、私を「子供」扱いしている)
悔しさと、安堵。その複雑な感情の波が、彼女の知性を呼び覚ます。ただ守られるだけの女で終わってはいけない。この男の懐に飛び込むには、彼を驚かせ、対等な「個」として認めさせなければならない。
彼女は、まだ震えの残る唇で、精一杯の毒を含んだ笑みを浮かべてみせた。
「……思っていたよりも素敵な方で安心しましたわ、執政官閣下。噂では、『ハゲの女たらし』と、聞こえていましたので」
前々から書きたかった、クレオパトラとカエサルの恋物語を、現代的な「いいオンナ」であるクレオパトラと「52歳のスパダリ」としてのカエサルで再構築していきます!
転生モノでもないし、悪役令嬢も出てこないのですが…歴史が好き、スケールの大きい恋愛ロマンスが好き、と言ってくださる皆様にお届けできればと思います。
まだまだ不慣れなので不調法などあるかもしれませんが、応援してやろう、という器の大きい歴女、歴男の皆様はぜひ下にある**【☆☆☆☆☆】評価と【ブクマ】**で応援をお願いします!




