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十三 来ない理由

 その夜、久しぶりにあの人が訪れた。

 今夜は空が晴れていて、月明かりだけでも十分くらいの夜だった。



 今日は知らない人と話をしたせいだろう。気持ちが高ぶってなかなか眠れそうになかった。けれど、夜が更けていくにつれて目は冴え渡り、寝返りを打つのももう飽きた。


「…………ああ、もう」


 のそり、と起き上がる。這うようにして蚊帳の外に出た。開け放った縁側に腰を下ろすと、少しだけ冷たい夜風が心地良い。

 真珠色の月明かりは優しく、このまま目を閉じていれば眠れそうな気がした。

 冷たい床の上に横たわると、静かに目を閉じる。

 離れを包み込む穏やかな虫の音。湿った土の匂いと、清涼な草の匂い。


 ――きっと、これなら眠れる……。


 ゆるゆると眠りに包まれようとする中、冷たい物が頬に触れた。


 ……何?


 頬から冷たい気配が離れ、今度は額に降りてくる。冷たくて大きな手だった。汗ばんだ額の熱が引いていくようで気持ちがいい。


「誰……?」


 再び頬を撫でるその手を、無意識のうちに掴んでいた。薄っすらと瞼を開くと、わたしを見つめる黒い瞳とぶつかった。


「生きていたか」


 感情を置き去りにした声が、冷たく耳朶を打つ。

 葛木さんの声が似ていると、どうして思ったりしたのだろう。この人のたったひと言が、鋭い刃のように胸に突き刺さる。


「……お久し振り」


 わたしはできるだけ平気な振りをする。

 この人の目的はわかっている。わたしがまだ生きているかどうか、確かめに来たのだろう。

 餌が生きていると確認すると、急に興味が失せたようだ。もう用など無いのだと背を向けた青年が無性に腹立たしかった。


「……何よ」


 気が付くとわたしは不満の声を上げていた。


「約束が違うんじゃない?」


 青年は足を止めると、振り返って訝しげな視線をわたしに向ける。青年が反応を返してくれたから、気が大きくなったのかもしれない。起き上がり縁側から降りると、下駄を爪先に引っ掛けるようにして青年の元へ駆け寄った。


「……約束?」


 まるでわからないと言った風に、青年は目を細める。その如何にも「まったく覚えておりません」という様子が癪に障る。


「半月、経ってるけど」


 告げたものの、青年からの反応はまったくない。だからつい大きな声を出してしまった。


「前に会ってから、半月も経っているけれど!」


 ――話し相手になって欲しい。


 この身を喰わせる代わりに、話し合相手になって欲しいと。

 そう約束をしたはずなのに、この人は半月も姿を現さなかったのだ。


 今までだって、そんなに頻繁に姿を現しはしなかったし、そういうものだと割り切って気にしていないつもりだった。


「半月も経っているのに……」


 でも、多分葛木さんの声を聞いてしまったせいだろう。話し方だって、見てくれだってまったく違うというのに、葛木さんの声を聞くたびに、この人のことばかりが頭に浮かんだ。だから……。


「…………」


 だから、何だというのだろう?


 青年の袖を掴もうと伸ばし掛けた手を止める。

 この人のことを思い出したから、何だというのだろう。そもそも、わたしはどうしてそんなことくらいで憤っているというのだろう。


 行き先を見失った手を、胸元に引き寄せて握り締め、じり、と後ずさりをする。


「半月の間、何をしていようと……勝手だけど」


 自分でも莫迦みたいだと思う。でも、わたしばっかり、この人のことばかりを考えていたみたいで悔しかった。


「その間に、わたしが逃げたらどうするつもり?」


 挑むように問う。青年はしばらくの沈黙の後、ぼそりと呟いた。


「お前には…………ない」

「……?」


 よく聞き取れない。聞こえなかったと告げると、青年はもう一度くり返した。


「お前には……行く宛てなど、無い」


 感情の欠片も見当たらない声で、淡々と事実を告げる。


「……っ!」


 反論をしたくても、その余地など皆無。この人の言い分は、まったくをもって正論だった。

 この人の言うとおり。わたしには、どこにも逃げるような場所などない。

 ここ以外に逃げるとすれば……あの世か地獄しかないだろう。


「……そうね」


 悔しい。わたしは下唇を噛みしめると、青年に背を向けた。今にも泣いてしまいそうで、顔を見られたくなかったから。


「じゃあ、おやすみなさい」


 早く戻らなくては。


 気持ちが急いでいたせいかもしれない。駆け出そうとした瞬間に、足がもつれて派手に転倒してしまった。


「い……た」


 転んだ痛みよりも、羞恥心の方が勝った。すぐさま身体を起こし、何事もなかったかのように立ち上がる。脱げ落ちた下駄の片方を拾い上げ、少し離れたところにもう片方を見つけ、拾おうと腰をかがめた時だった。


「わっ?!」


 足が地面から浮き上がる。気が付くと青年が、まるでわたしを荷物のように肩に担いでいた。

 こんな細い腕のどこに、こんな力があるというのだろう。不安定な体勢に、わたしは身体を硬直させた。


「お、降ろして……」


 懇願すると、すとんと縁側に降ろされた。

 あまりにも呆気なく解放されて茫然としてしまう。わたしの顔をじっと見下ろす。


「……なに?」

「血が」


 ぼそりと青年は囁く。


「血?」


 細い指でわたしの唇をそっと撫でる。青年の白い指には、薄っすらと赤い血がこびりついていた。


「あ……切ったんだ」


 気が付くまで痛みなどなかったのに、血を見た途端にずきずきと痛みだすから不思議だ。舌先で傷口に触れると、鉄の味が口の中に広がる。指で触れると、さっきよりも量の多い血が付いている。


「…………」


 血を見ると、あの夜を――祖母のお通夜の夜を思い出す。

 畳に散った血飛沫。金臭い血の匂い。そして……血まみれになった、この人の姿を。

 急に身体の力が抜けてきた。血で汚れた指先を、ぎゅっと手の中に握り込む。


「……痛むか?」


 思い掛けない言葉をだった。驚いたけれど、かろうじて頷くことだけは出来た。


「平気」


 怯えを悟られまいと、俯いたまま強い口調で答える。


「見せてみろ」

「いや」


 無理だ。今この人の顔を……まともに見ることなんかできない。血の匂いは、あの日の夜を鮮明に思い出してしまう。きっと化け物でも見るような目を、この人に向けてしまうだろう。


 そんなのは、嫌だ。


 頑なに顔を上げまいと俯いていると、今度は青年の方がしゃがみこんできた。静かな瞳と視線がぶつかる。

 思ってもみないこの人の行動に、ただただ驚いて、さっきまで考えていたことなど吹き飛んでしまった。青年のもつれた髪が頬に触れ、少しくすぐったくて軽く目を閉じた途端、冷たくて柔らかくて、湿ったものが唇の傷に触れた。


 小さな痛みに身じろぎをすると、まるで傷を癒すかのように、ゆっくりと唇をなぞる。


 瞼を開くと、息が掛かるほど近くに青年の顔があった。状況が掴めず、ただ茫然としていると、青年の顔が再び近づく。


「ま、待って……」


 さっきの感触の正体を漠然と悟り、わたしは弾かれるように青年から離れた。青年は相変わらずの無表情で、ひとりで慌てふためくわたしを不思議なものをみるように眺めている。


「……何をするの!」


 あまりにも変わらないその態度に、わたしはつい声を荒げてしまう。


「まさか舐めれば治るとでも思ったわけじゃ……」


 すると青年は訝しげに目を細める。


「治らないのか?」


 青年の言葉に、絶句してしまう。もちろん普通の人とは違うから、ある意味を持っての行動ではないとは思っていた。


「そんなことで治るわけ、ないじゃない」


 獣じゃあるまいし、と口には出さず思っていると、青年はゆっくりと立ち上がった。


「俺は……そうしてきた」

「え?」

「これまで受けた傷は、そのようにして治してきた」


 それ以外の方法は、他にあるのかと言われているような気がした。もしかすると、その一言には色んな意味が含まれているのかもしれない。でも、その言葉に対して何を言うべきなのか、どう汲み取るべきなのか、わたしにはわからなかった。


「……わかった、でも」


 改めて口に出すのは恥ずかしい。でも、今後のことを考えると、これだけは言わねばならないだろう。


「ここは……唇は駄目」


 ちらりと青年を見る。さっぱりわかっていない様子だ。


「ここは、あの……だから…………好意を、好意以上の気持ちを持っている人以外は……触れちゃ駄目なの」


 やっぱり恥ずかしくて堪らない。言い終えたわたしの頬は、熱いくらいに熱を帯びていた。


「それに、あんなことをしなくても、お薬を塗れば平気なの!」


 赤い顔のまま、きっぱりと言い切ると、ひと仕事終えたような気分だった。小さく息を吐き出すと、黙っていた青年が口を開いた。


「あの男……」

「え?」

「あの男だったら?」


 あの男、と言われて、真っ先に頭に浮かんだのは葛木さんの顔だった。


「ど、どうして?」

「好意を、持っているのだろう?」 

「違うわよ、あの人は、この家の客人で……ただそれだけ」


 激しく頭を振って否定する。熱が引いてきた頬が、再び熱を帯びる。


「だが……嬉しそうだった」


 青年はぽつりと呟くと、思い出すように遠い目をする。


「あの男と話をするお前は、ひどく嬉しそうだった」

「見てた、の?」


 青年は無言で頷く。その一言で気が付いた。半月の間、この人が姿を現さなかった理由が。


「だってお客様なんだから、つまらなそうにしていたら失礼でしょう」


 確かに葛木さんと話をするのは楽しい。優しいし、とてもいい人だ。素敵な人だとも思う。


 でも葛木さんが話をする度に、この人と重ねていたというのもあった。この人が笑ったらこんな雰囲気なのだろうかと、想像をするだけで嬉しくなった……なんて、言えるわけがない。


「それに、わたしは」


 この人は、このままだと葛木さんが帰るまでずっと出てこないつもりだ。

 だから、これだけは言っておかないといけない。


「わたしは、あなたを……待っていたの」


 そう、待っていたのだ。

 ずっと待っていたのに、全然姿を現してくれないから……寂しかった。ただそれだけなのに。


「……だから」


 何か言わなければ。でも、上手い言葉が見当たらない。結局わたしは口をつぐんでしまい沈黙が訪れる。

 今まで意識していなかったのに、虫の音が妙に大きく聞こえるから不思議だ。沈黙が長くなるほどに、恥ずかしさがじわじわと込み上げる。


「…………待っていた?」

「……そうよ」

「俺、を?」

「他に誰がいるのよ!」 


 恥ずかしさを紛らわすように、きつい口調になってしまう。


「え、と……とにかく。約束は守ってよ!」


 勢い良く立ち上がる。恥ずかしくて堪らなくて、青年の顔が見れない。


「おやすみなさいっ」


 わたしは転がるように家の中へと逃げ込んだ。力任せに障子を閉めると、蚊帳をくぐり、薄手の布団を頭から被る。

 胸の鼓動が速い。それがどうしてなのか自分でもよくわからない。


 無意識のうちに、そっと唇に触れてみる。


 何故、わたしの傷を癒そうとしたのだろう。何故、あんなに優しく触れるのだろう。


「……ただの餌だと思ってるくせに」


 本当に訳がわからない。



 暑苦しいのを我慢して、わたしは何とか眠ろうと努力した。けれど、結局その晩は一睡もできないまま、朝を迎えた。

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