第79話「旅立ちの前夜」
ヴァルドレイク城に滞在して七日が経った。
国王の容体は日々回復し、政務の一部を再開できるまでになっていた。レオンの処遇については、正式な裁判の準備が進められている一方、ザイードは口約束通り、闇の組織との関わりについて独自に調査を続けているという報告が入っていた。今のところ、彼自身が組織と繋がっている証拠は見つかっていない。
「――そろそろ、僕たちは次へ進むべきだと思う」
城の一室、旅の荷物を前にして、ルートはそう切り出した。ゼクスとシィナ、リュゼリア、そしてアシュルとカインが顔を揃えている。
「灼熱の火山と、氷の大回廊。どちらも、この国からはそれなりに距離がある」
「氷の大回廊の方が、まだ足を運びやすいかと思われます」
カインが地図を広げながら言った。丁寧な口調はいつも通りだが、その仕草には自然とアシュルへの気遣いが滲んでいる。地図の端を押さえる手が、さりげなく彼女の分の椅子を引いていた。
「――貴様、いちいち椅子を引くな。子供扱いするな」
「あなたが座りにくそうにしているのを見過ごせないだけです」
「していない」
「していました」
短いやり取りの応酬に、シィナがくすりと笑う。ゼクスは呆れたように肩をすくめながらも、口元は緩んでいた。この二人のやり取りも、もうすっかり旅の日常だ。
「氷の大回廊は、私が知る限りでは、非常に厳しい寒冷地だ」
アシュルが地図を覗き込みながら言った。素っ気ない口調だが、真剣な眼差しでルートを見る。
「装備が不十分なまま踏み入れば、命に関わる。準備を怠るな、ルート」
「わかってる。ちゃんと防寒具、揃えていくよ」
「当然だ。私は、お前を無駄死にさせるつもりはない」
傲慢な物言いの奥に滲む気遣いに、ルートは小さく笑った。この師のようで、それ以上の存在でもある召喚獣の言葉には、いつも安心させられる何かがある。
「わたくしも、同行させてください」
リュゼリアが静かに言った。
「リュゼリア、国のことは……」
「父上の容体は安定しました。ザイード兄上も、今は調査に専念している様子です。それに――」
リュゼリアは少し照れたように微笑んだ。
「鍛冶師として、氷の大回廊に眠るという素材にも、興味があります。それに、皆様と離れるのは、寂しいので」
「リュゼリア……」
「なので、わたくしも当然、行きます」
リュゼリアの言葉に、ゼクスとシィナも頷いた。
「俺も行くぜ。姉さんを一人で行かせられないしな」
「わたしも! 氷属性の魔法、ちょうど練習したかったところだし」
「――決まりだな」
ルートは仲間たちの顔を見渡し、頷いた。
「明日、出発しよう。……その前に、一つだけやりたいことがある」
「なんでしょう、ルート様」
「オーウェンさんのところに、顔を出したい。卵の様子も見たいし……あの人にも、直接お礼を言いたいから」
「それは良い考えですね」
カインが頷いた。
「月見亭までは、馬車で半日ほどです。今日中に向かえば、明日の朝には戻ってこられるでしょう」
「なら、今から行こう」
一行は国王への挨拶を済ませ、月見亭へと向かった。
夕暮れ時、見慣れた宿の看板が見えてくると、ルートの胸に温かいものがこみ上げてきた。ここは、彼がこの世界で最初に、本当の意味で「居場所」を感じた場所だ。
「――おや、こりゃ賑やかな面子だ」
出迎えたオーウェンは、以前と変わらぬ人懐こい笑顔でルートたちを迎えた。
「オーウェンさん、お久しぶりです」
「王都の一件は聞いてるぞ。無事で何よりだ。……で、卵の様子を見に来たんだろ?」
「はい」
オーウェンに案内され、宿の奥にある特別な部屋へと通された。柔らかな布団の中に、白銀に輝く卵が静かに横たわっている。以前見た時よりも、心なしか一回り大きくなっているようだった。
「順調に育ってるよ。時々、殻の中から小さな鼓動が聞こえてくるようになった」
「本当に……!」
ルートはそっと卵に手を触れた。温かい。確かな生命の息吹が、そこにあった。
「私も」
アシュルがそっと隣に膝をついた。傲慢な普段の彼女とは違う、母親のような優しい表情が浮かんでいる。
「元気に育っているようだな。……早く会いたいものだ」
「私もです」
カインもまた、珍しく穏やかな声でそう言った。夫婦として、この子の誕生を心待ちにする気持ちは、二人とも同じだ。
「名前、もう決めてるのか?」
オーウェンの問いに、アシュルは首を振った。
「いや。孵化してから、この子自身の気配を見て決めるつもりだ。……名は、その者の本質を表すもの。生まれる前から勝手に決めるのは、私の流儀ではない」
「アシュルらしいな」
ルートが笑うと、アシュルは「当然だ」と鼻を鳴らした。
その夜、月見亭で久しぶりにゆっくりとした夕食を囲んだ。オーウェンの手料理は変わらず絶品で、皆の顔にも自然と笑みがこぼれる。
「明日から、また旅立つのか」
「はい。氷の大回廊に、まだ解放していない核があるみたいで」
「そうか。……気をつけてな。あの辺りは、厳しい土地だと聞く」
「わかってます」
食事を終え、それぞれが部屋に戻っていく中、ルートは一人、宿の外に出て夜空を見上げた。満天の星が、ヴァルドレイクとはまた違う静けさの中で輝いている。
「――一人で何をしている」
気づけば、アシュルが隣に立っていた。
「アシュル。……ちょっと、考え事」
「何を考えていた」
「これまでのこと。……氷雪の遺跡から始まって、色んな核を解放して、色んな仲間ができて。最初は、自分がこの世界でやっていけるかどうかも、分からなかったのに」
「今は違うのか」
「うん。……今は、この世界に来てよかったって、心から思ってる」
アシュルはしばらく黙って星空を見上げていたが、やがて小さく口を開いた。
「私は、お前を最初に見た時、頼りない小僧だと思っていた」
「うっ……ひどい」
「だが」
アシュルはルートの方を向いた。傲慢な普段の表情の中に、確かな温かさが滲んでいる。
「今は、違う。お前は、私が見込んだ通りの――いや、それ以上の男になった。誇らしい、と思っている」
「アシュル……」
「勘違いするなよ、ただの事実を言っただけだ」
そう言って視線を逸らすアシュルの頬が、月明かりの下でほんの僅かに赤らんでいた。ルートは思わず笑みをこぼす。
「ありがとう、アシュル」
「……礼を言われるようなことではない」
二人の間に流れる静かな時間は、言葉以上のものを語っていた。翌朝、一行は月見亭を後にし、北の大地――氷の大回廊を目指して、新たな旅路へと踏み出した。




