幕間 二人の秘め事。
ゆっくりと、息の荒い馬車馬が峠の道を上がってくる。 その数、三台。 掲げられる『紋章』は北部上級女伯家の物。 馬車馬は巨大な体躯を揺らし、激しく湯気が上がっている。 相当に無理をしているのが遠目からも分かった。 峠の広場に到着すると、今にも膝を折りそうになる馬車馬。御者は慌てていた。
駅宿の馬番も駆けつけ、馬車から馬車馬を解き放ち、代わりの峠の宿屋所属の馬車馬を繋ぐ。 バタバタと忙しく馬の付け替えをするが、その馬はあくまでも峠の宿場町の中での運用を想定している。 もう、この馬車は遠くまでは行けない。 御者も疲労困憊していた。特別仕立ての馬車とはいえ、無理をさせ過ぎているのだ。
三台の馬車は、ゆっくりと歩を進める。 女婿が前までやって来た馬車は、街路に立つ騎士が上級女伯家の外套を纏っている事をを確認し、その前に止まる。
「長旅、お疲れでした。 御帰還の道は未だ半ば。 しからば、一度息を入れて頂きたく存じます。 宿は、此方に取ってあります。 皆様、御身体お休め下さい。 上級女伯家が馬車はまだ北域街道の麓にも到着しておりません。 此れから、時をかけ峠まで登ってきます。直ぐに取って返す事も出来ませんので、暫しお待ち頂かねば成りません。 僭越ながら皆様の宿の用意もしております」
「お出迎え有難く。 また、御厚情、有難い事。 ……お、おや? 女婿様ですか?」
「知らせを受け、この場に出迎えの為に馳せ参じるには、少々時が足りません。 私一人と成りました事、上級女伯家が名誉と外聞に傷を付けるかと思いましたが、ご不便をかける事は家門の謗りを受ける事と同義。出迎えの少なさはご容赦願いたい」
「い、いや、その様な事は御座いません。女婿様が御越しに成られるのならば、此れに勝る事は御座いません」
「有難く。 さて、寒さも厳しくなってまいりました。御当主様に於かれましては、宿でお休みに……」
口上の途中で、豪華な馬車の扉が開く。馬車の急進に、相当疲れた筈では有った。しかし、馬車より降り立つは、凛とした上級女伯その人。 周囲に視線を投げ、口上主である女婿…… 己が夫の姿を見出した上級女伯は、強張った表情を美しい顔に乗せ、歩み寄る。ゆっくりと、確実に。
「貴方…… 帰りました。 少し、お話をしてもいい?」
「この寒空に外では無く、温かい暖炉の前で寛がれては?」
「……何処までも、貴方は優しいのね。 ええ、では」
上級女伯をエスコートする女婿。その背後に、上級女伯の侍女執事が傅く様に続く。『駅宿』の最上の一室に通される二人。峠の宿場町の取り纏め役が経営する駅宿は、高位の貴族対応も又その職務に含まれている為、上級女伯が休むに相応しい設えも、常備している。 一室は既に使用人達によって、準備万端が整えられ、暖炉には暖かな炎が揺らめいていた。 その前にゆったりとした二脚の椅子も置かれ、間にはローテーブル。 机の上には、香り豊かな茶が呈茶されている。
暖炉の傍らに設えられた、座り心地よさそうな椅子に上級女伯を誘い、自身は膝立ちにてその傍に侍る女婿。 さて、何時、どんな沙汰が下されようとも、心揺らす事は無く、粛々と『運命』とやらを受け入れようと、女婿は心を決めた。
「座って…… 話があります」
「しかし……」
「良いのよ。 私は、私の心の在処を暴かれたのです。かつての貴方の部下によってね。誰を頼りにし、誰に心を添わせているのか。成すべきは何か。私の在り方について…… 真摯な箴言を頂きました。 けれど…… 少々乱暴な方ね」
「……誰でしょうか?」
「『北の蒼狼』と。 そう呼ばれている方でしたのよ?」
「ほう…… あの坊主か。 我が佳き人に罵詈雑言を浴びせたと? 折檻して欲しいのか?」
「ふふふ…… あの方の忠誠の在処は、騎士爵家。 貴方の生家であり、もっと言えば…… あの方を配下に収めし指揮官様」
「……愚弟への忠誠ですか」
「『生きよ』と、そう申せられたようですね。 己が信念を枉げて『生きる』事を選択したご様子。その峻烈さ故に、王都の者達の貴族のアレコレを、児戯にも等しいと嗤われました。 全ては生き残る事に収斂する『北部辺境域』の過酷さを体現されたも同様。あの場に居た者達は皆、その事を心に刻みました。動揺しておられなかったのは、国王陛下、宰相閣下、そして王妃陛下の御三方。 ……暗部筆頭侯爵家の御当主でさえ…… いえ、少々溜飲を下げておられたのかも…… しれませんね」
「成程。 しかし、貴女が急に帰領する事とどのような関係が? 邸の者達が、訝しみ恐れに心を囚われておりましたよ」
「ええ、わたくしも…… 大いなる危惧が心を占めました。 望んでも居ない事を…… 考えても居ない事を…… 周囲が整えるのではないかと」
「それは?」
「北の蒼狼がわたくしに告げたのです。 貴方が…… 私との離縁を考えていると。 嫌です。 そんな事は認められません。 こんな私を慈しみ大切にしてくれる殿方など、貴方以外には居ないのです。 その言葉を耳にした途端、何もかもが白濁しました。 何もかも…… 私が共に在るべき方は、貴方しか居ないのです。 誰も彼もわたくしと大公家との繋がりを重要視しています。 甘き言葉を吐き出される殿方も居られましたが、その瞳の奥には冷徹な貴族の思惑が有るのです。 故無き罪により、わたくしの周りから、潮が引く様に人が居なくなり、それでも残ったのは大公家との繋がりを模索する貴族家の者達。 ハッキリと申せば、殿方には絶望しておりました。 が、故に…… 貴方と巡り合い、そして、確かな家族として貴方がわたくしの側に居てくれる事がどれだけ嬉しかったか……」
沈黙を纏い、女婿は困惑する。これ程の情熱を上級女伯から告白されるとは、今の今まで思っても居なかったからだった。 自分自身の事はさておき、そこまで評価される事があったのかと自問する。確かに可愛い人だと思った事はある。北域の倖薄き土地に転封された家門は、転封初期には困難に直面したであろう事は想像に難くない。それを助けたのは騎士爵家で在り、父であり長兄であった。 間違っても自分ではない。
自分が成したは、上級女伯家が要請に応じ、戦働きをしたまで。時に崩れそうになる士気を、騎士爵家主力部隊の力を以て強引に維持した事も有る。その中で、特にと上級女伯に命じられ、上級女伯家が領軍を纏めて指揮した事も有る。ただそれだけだった。国難に際し、粉骨砕身の努力を以て、侵攻軍を打ち払うは辺境に生きる騎士爵家が責務の一つ。民を護らんが為の矜持の在り方に他ならない。
北域の常識がそれ程までに彼女の心を護って居たのは、表面上は豊かな中央が如何に魑魅魍魎が百鬼夜行している云う証左に他ならない。気が休まる時が無いとも云えると考える。 高位貴族家の当主と云う、重い責務を背負った者。まして、女当主と云う侮りを受けやすい立場であるから、気を張って然るべきだとそう思っても居た。
故に、もっと力ある貴族の男性が女婿に入るべきだと、考えても居た。上級女伯の言葉はそれを悉く否定しているのだ。 女婿の困惑は深い。
「それに、もう、私一人では無いのです。 北の蒼狼が云いました。 私の中に、次代が育っているのだと」
「えっ?」
「わたくしの身体の傷を見ても、それが亡き両親の愛の証だと貴方は言いました。 深く、深く、その言葉に感銘を受けました。 そして、わたくしは…… 貴方に身をゆだねたのです。わたくしは……嫉妬深く、執念深い女なのですよ? ご存知? わたくしは、わたくしの手に入れた大切な者は絶対に手放したりはしません。 貴方も、私の中の子も。 だから、お願いです、離縁などと考えないでください」
「それは…… 真なのですか?」
「王宮の医務方にも…… 高貴なる方が診察を受けられる医師にも見て頂けました。 確かな事です」
「そ、そうなのですか。 実感が、湧きませんが……」
上級女伯はそっと女婿の手を取り、自身の肚に沿える。真っすぐに女婿の目を見詰め、言葉を紡ぐ。 自身の蒼い瞳を真っ直ぐに向け、正しく、清らかに、心内を告げた。
「父に…… この子の父に成って下さい。 雄々しく、勇敢で、優しい貴方。 上級女伯家にとって、貴方は二人と居ない大切な方。私の愛を永遠に捧げるのは貴方しかいません。誰が何と言っても離縁など考えません。中央貴族の遠謀狡知がそれを求めても、わたくしは貴族の矜持を以てこれに『否』を申し上げます。それが故に、北辺から出られ無く成ろうとも、わたくしは、貴方と北辺の民と、故郷となる領地を愛し抜きたいのです」
「父…… ですか。 この子と、貴女を愛し、北辺の民の安寧に身を捧げ、郷土の安全に身を捧ぐ栄誉を与えて下さると?」
「いいえ、与えるのではなく、共に支え合うのです。 わたくしの心の在処はそこに有りました。 迷いは有りません。 お願いです、寄る辺なき、孤独な上級女伯の横に立ち、一緒に…… 幸せを分かち合いたいのです」
「そ、そうですか。 力無き私をそこまで思って下さるか」
「何を仰います。貴方は私に力を与えて下さいます。一人の孤独な女に、世界を授けて下さったのです。一人では難しい事も、二人ならば。更に子が増えれば家族で…… 騎士爵家でもそうでは無かったのですか?」
「…………あぁ、たしかに。 確かにそうでしたね。 分かりました。 貴方のお気持ちは痛いほど。 身命を賭し、貴方を護り抜くと今一度誓いましょう。 いえ、貴女だけでは無く、子も」
「その言葉、聴けて嬉しゅうございます。 あぁ、あなた…… 愛しております」
暖炉前の絨毯の上。若き上級女伯夫妻の絆は深く、深く結ばれた。 疲れも有るだろうと、女婿は早々に上級女伯に休む様に懇願し、自身は寝室の横に有る小部屋に籠り手紙を書く。 澄み切った思いがした。 その想いを手紙に乗せる。敬愛する兄に。 騎士爵家が当主となった兄に。
まだ、この手紙は出せない。 しかし、今の想いを綴る事は、自身のひび割れ砕けそうになった心が、光に満たされたのだと、確認する事と同義だった。 上級女伯領に帰領するまでは、まだ時間が有る。 手紙は推敲されるだろうが、今の気持ちを綴っておかねばならないと決意した。
思いの丈を綴った渾身の手紙を書き終え、寝室に戻る。 寝床に横たわる妻である上級女伯がジッと蒼い瞳を彼に投掛けていた。やがて両手を持ち上げ、幼子の様に差し出す。 女婿も何も言わず、彼女の側に身を横たえ、その身を抱く。優しく深く、陶酔感が二人を満たして行く。
“二度と離縁など、願うものか“
分かちがたく、二人は硬く抱きしめ合った。
三日前~~~




