第1話「無能と呼ばれた地図屋は、最果ての毒沼で“宝”を視た」
「お前の測地が十年先の国土を潤すことは理解している」
山と積まれた書類の向こうで、宰相ガレオン・ロウが謁見の間から俺の顔も見ずに言った。測地局・主任測地士、レヴィン・カルダ。戦費の請求書。赤字の決算書。国境防衛のための魔力結晶の見積もり。
「だが我が国に、明日の戦線へ送る魔力結晶を買う予算すらない」
声に嘲りはなかった。あるのは疲労だけだ。
その一言に隣の攻撃魔法兵団の若者が唇を噛んでうつむいた。
ガレオンは書類から顔も上げず、彼らへ向けて机を一度指で叩いた。
「彼らの予算を削ってお前たちの装備を整える。必ず戦果で返せ」
ガレオンは誰かを嘲笑う男ではなかった。限られた金をどこに置くか、機械のように決め続けているだけだ。それだけに床の染みほども、こちらを見ていない。
「宰相閣下」俺は床に片膝をついたまま言った。「西部灌漑網の塩害図はまだ提出していません。放置すれば、三年で南の穀倉が枯れます」
「知っている」
ガレオンは初めて顔を上げた。その目に俺への侮蔑はなかった。あるのは選ばなければならない者の乾いた諦めだった。帳簿の上で、指先がかすかに震えていた。
「知っていて、選べないのだ。十年後の飢饉と、来月の敗戦。どちらか一つしか、金は払えない。お前は来月を選ばなかった側の代償だ」
――無能と嗤ってくれた方が、どれほど楽だったか。
反論の言葉は出なかった。
「最果ての毒沼、オルテガへ赴任を命じる」
それが体のいい死刑宣告であることは、この場の全員が知っていた。ガレオンだけが最後まで俺の目を見ていた。詫びる代わりに。
◇
王都を出て十三日。馬車は痩せた街道をひたすら北へ揺れた。
途中、一度だけ道が大きく迂回した。毒沼を避けて、山際を遠回りする旧道だ。御者が舌打ちした。
「この沼さえなけりゃ、隣領へも海側の国境へも半分の日数で抜けられるんですがねえ」
何気ない愚痴だった。だが俺の頭の中では、地図の上に小さく杭が一本打たれていた。誰も見向きもしない死の土地が、二つの土地を隔てる蝶番の位置にある。
俺は窓の外を流れる地層をただ見ていた。
赤茶けた表土の下に、薄い灰色の粘土層が走っている。水を通さない層だ。この一帯が痩せているのは、雨が染みずに流れ去るからだった。理由が分かっても、もう俺にできることはない。
十三日目の夕暮れ、馬車が止まった。
「ここまでだ。この先は馬が嫌がる」
降りた瞬間、鼻の奥を硫黄が刺した。
目の前にそれは広がっていた。地平まで続く、灰色と緑褐色のまだら。粘ついた水面に泡が浮かび、ぶくり、ぶくりと毒の息を吐いている。立ち枯れた木が骨のように突き出していた。生き物の気配はない。
死の湿地――毒沼オルテガ。
「ようこそ、地獄へ」
声の方を向くと、痩せた少女が立っていた。十七か、八か。継ぎの当たった外套を着て、用心深い目で俺を値踏みしている。
「あんたが新しいお役人?……いえ、捨てられた人かしらね。村長代理のメイ。歓迎はしない。あんたに食わせる余分なパンは、ここにはないから」
俺は答えず、沼の縁へ足を進めた。
「やめときなよ。落ちたら、骨も残らない」
「この沼は」俺は足を止めずに言った。「昔誰か浄化を試みたことは?」
「……あるよ」メイの声が低くなった。「五十年前、浄化魔導士が大魔法で毒を一気に焼き払おうとした。結果、地盤が余計に荒れて沼はいまの倍に広がった。それ以来、誰も近づかない」
力ずくは既に一度この土地に敗れている。
俺は片膝をつき、毒に縁取られた黒い土へ手のひらを押し当てた。
◇
視界が塗り替わった。
――《地脈視》。
触れた土地の真実が色と流れになって流れ込んでくる。土質・水はけ・地盤の硬軟・高低差。この国で俺だけが持つ目で、この国で最も無価値だと断じられた力だ。土を動かす力はない。視えるのはあくまで現状だけだ。
だがいま視えているものは。
毒の層は思ったより薄い。表面を覆う硫黄とヘドロは、せいぜい人の背丈ほど。五十年前の魔導士はこの薄い毒層を力ずくで消し飛ばそうとしたのだろう。だから失敗した。毒は消す対象ではなく、動かす対象だ。重い毒水と軽い清水は、もともと分離できる性質を持っている。
問題はその下だった。灰色の粘土層に挟まれて、青が脈打っている。地下の伏流水。歩いて測れば三日はかかる幅、深さは十丈は下らない。王都の貯水池を十も二十も沈められる水が、地表のどの川にも顔を出さずこの窪地の底を流れていた。粘土層の傾きと岩盤の亀裂の重なり方――これだけの地質的条件が揃うのは、俺の知る限り多くない。知識と、いま視えている色が答えで一致した。
俺は目を細め、頭の中で地面に線を引いていく。窪地の縁から南へ、一寸また一寸と低くなる谷筋。御者の愚痴が脳裏をよぎる。この沼さえなければ、半分の日数で抜けられる。
この傾きをたどって水路を一本通せば、内陸と海がつながるだけではない。この土地そのものが隔てる壁からつなぐ蝶番に変わる。
こめかみの奥で、血の管が軋んだ。視界がぐらりと傾ぐ。これ以上は危ない。俺の目には、いつも代償がついて回る。
それでも、手が離せなかった。
「……ねえ」メイの声が遠くで聞こえた。「あんた、さっきから黙って、何を見て――」
鼻の下を生温かいものが伝った。指で拭うと、赤い。鼻血だ。視すぎた。俺は袖で乱暴に拭い、よろめいて立ち上がった。足元では相変わらず毒沼が死の泡を吐いている。誰の目にもここは何もない地獄だった。
――俺の目以外には。
「お役人さん?顔、真っ青よ」メイが警戒を少しだけ緩めてのぞき込んでくる。「やっぱり、こんな所――」
「メイ、と言ったな」
俺は灰色のまだらの底を見据えたまま、かすれた声で言った。
「土は、嘘をつかない」
「……は?」
「金も人脈も攻撃魔法も、嘘をつく。だが土は、視たままを返してくる。力ずくで消そうとした者には牙を剥き、正しく聞いた者には答える。誰が無能だと笑おうと、ここにあるものは変わらない」
もう一度、視界の奥に焼きついた青い脈動を確かめる。十五年。床の染みと笑われた十五年が、いま初めて意味を持とうとしていた。
人が嘲笑っても、土の真実を解き明かしている間だけは自分を信じられた。それだけで続けてきた十五年だった。
「――この沼の下に、国一つ分の水が眠っている」
メイがぽかんと口を開けた。
だが俺は続く言葉を飲み込んだ。
視える。だが掘れない。土を動かす力はこの目にはない。鍬を握る手と石を積む腕と、水を御す技――このどれも俺は持っていない。
「水?この毒の沼が?……だったら」
メイが痩せた肩で気丈に笑ってみせる。用心深い目の奥に、ほんの小さな火が灯った。
「だったら、数えてみせてよ。あんたのその目で。何人が、食べていけるのか」
俺は彼女の問いにすぐには答えなかった。
答える代わりに、メイの後ろで不安そうにこちらを窺う、痩せた村人たちの顔を一人ずつ見渡した。
視えるものは、視えた。あとは――これを掘る手が要る。
鼻血を拭った指先に、乾いた笑みが浮かんだ。十五年ぶりに、自分の目を面白いと思った。




