第74話 徴兵官殺し その3
コロシアムの地下にある石造りの通路を、二つの影が静かに歩いていた。
古びたランプの灯りが壁を照らし、しっとりと湿った空気は足元にまとわりついた。そしてこの通路を抜けた先に、今まさに決勝戦が始まろうとしている武術大会の闘技場が広がっている。
先を歩くのは、王国騎士団長レイラ。そしてそのすぐ隣を歩くのはアイシアである。
「今の話を聞いて驚いたかい?」
レイラがぽつりと呟くように言った。
アイシアは一瞬首を傾げるような素振りを見せてから、すぐに微笑んだ。
「ええ。多少は……。ですが、今ではそれも些細な事です。私は全く気にしません。」
「……些細、かな……」
視線を前に向けたまま、レイラがわずかに目を細めた。
「ええ。団長は、その後この王国の為にどれほどの功績を残されたことか。そんな些細な出来事など、今さら誰も気に留めはしませんよ」
「確かに……王国の人々にとっては、そうかも知れないね」
淡々としたレイラの返答に、アイシアは真っ直ぐな口調で続けた。
「そうですとも。聞けば、その徴兵官の男は私利私欲にまみれた、ただのゴロツキじゃないですか。その時に団長が手を下さずとも、いずれは他の誰かが天罰を下していたはずです」
「ありがとうアイシア。そう言ってくれるのは本当にありがたいと思う。でも……申し訳ない……今の私にその言葉は、どうしても単なる気休めにしか聞こえないんだ……」
レイラの歩みがかすかに乱れた。
あのエデンと言う少年が現れてからと言うもの、アイシアが幾度も見せられた、迷いの影が――今再び彼女を包んでいた。
「そんな事ありませんよ。現に、その時に団長が剣を取らなければ、お兄様は殺されていたのでしょう?」
まるでレイラを説得でもするかの様に言った。もしアイシア以外の人物がこの場に立っていたとしても、他の誰もがそう言ったに違いない。
当然レイラはその言葉で納得するべきだった。
しかし。この救国の英雄『剣聖レイラ=バレンティン』だけが、そうは思わない。
「はたして……そうだろうか」
レイラは立ち止まり、静かにその目を閉じる。
「私は、あの日……兄に“試された”んじゃないかって、今になってそう思うんだ」
アイシアが驚いたように眉を上げる。
「試された……?」
「そう。だって――」
再び歩き出しながら、レイラは続ける。
「兄の剣の腕は、私なんかじゃ到底及ばないほどの実力だったんだ。なのに、あの時の兄は……いとも簡単に拘束されて――あんな卑劣な連中に、全く抵抗もせずにされるがままだった。」
「……」
「おかしいと思わないかい? あれほど強かった兄が、本気を出していれば、あんな奴ら一瞬で制圧出来たはずなのに」
レイラの声がかすかに震える。
「だから、あれは“私に決断を委ねた”んだって――今では、そう思えてならないんだよ」
そして、静かに付け加えた。
「……あの瞬間、私がどうするのかを。きっと兄は見ていたんだ……」
アイシアは何も言わなかった。ただ、重たい沈黙の中で、足音だけが二人の間を繋いでいた。
やがて通路の先に、光が見えてくる。
その向こうにある決勝の舞台へと、レイラは無言のまま歩を進めた。




