横光利一「蠅」本文と解説⑨
九
馬は馬車の車体に結ばれた。農婦は真っ先に車体の中へ乗り込むと街の方を見続けた。
「乗っとくれやア。」と猫背は言った。
五人の乗客は、傾く踏み段に気をつけて農婦のそばへ乗り始めた。
猫背の馭者は、饅頭屋のすのこの上で、綿のように膨らんでいる饅頭を腹掛けの中へ押し込むと馭者台の上にその背を曲げた。らっぱが鳴った。むちが鳴った。
目の大きなかの一匹の蠅は馬の腰の余肉の匂いの中から飛び立った。そうして、車体の屋根の上にとまり直ると、今さきに、ようやく蜘蛛の網からその生命を取り戻した体を休めて、馬車と一緒に揺れていった。
馬車は炎天の下を走り通した。そうして並木をぬけ、長く続いた小豆畑の横を通り、亜麻畑と桑畑の間を揺れつつ森の中へ割り込むと、緑色の森は、ようやくたまった馬の額の汗に映って逆さまに揺らめいた。
前話では、馬の餌である馬草を切る音とその作業をする馭者の様子と、馬が水を十分に飲む様子が描かれた。それを承けての今話だが、馬が餌を食べる様子は省略されている。
いよいよ馬車が発射する場面が、短い文で淡々と次々に描かれる。
馬…「馬車の車体に結ばれた」。
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農婦…「真っ先に車体の中へ乗り込むと街の方を見続けた」。その先には、「死にかけ」の「せがれ」が待っている。
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「猫背」=馭者…「乗っとくれやア。」と「言った」。
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五人の乗客(「若者と娘」、「母親」と「男の子」、「田舎紳士」)…「傾く踏み段に気をつけて農婦のそばへ乗り始めた」。
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「猫背の馭者」…「饅頭屋のすのこの上で、綿のように膨らんでいる饅頭を腹掛けの中へ押し込むと馭者台の上にその背を曲げた」。
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「らっぱが鳴った」。
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「むちが鳴った」。
6人の乗客が乗り込み、馬車は出発準備を終え、馭者が念願の蒸かしたての饅頭を手に入れた様子が、時系列に従って簡潔に述べられる。それにより、出発前の準備のあわただしさが浮き彫りにされ、その場面が手に取るようにわかる描写になっている。
次に話題が変わる。ここで久し(一話)ぶりに蠅が登場する。
一話で彼は、「馬の背中まではい上が」り、そこにずっといたようだ。馬は「薄暗い厩」にいるため、この場面まで登場人物たちとは関りが無い。つまり、別の空間にいたのだ。
蠅は、明記されないが、九話で馬が「馬車の車体に結ばれた」ことにより、馬と一緒に場庭に引き出されたことになる。久しぶりの明るい世界に、彼の「大きな」目は、輝いただろう。だからその目の大きさが、初めに述べられる。
「目の大きなかの一匹の蠅は馬の腰の余肉(あまじし。贅肉)の匂いの中から飛び立った」。大きな目で外界の明るさを受けとめただけでなく、蠅は久しぶりに飛翔する。「そうして、車体の屋根の上にとまり直ると、今さきに、ようやく蜘蛛の網からその生命を取り戻した体を休めて、馬車と一緒に揺れていった」。蜘蛛の巣が体にまとわりつくねばねばや、陰気な厩からの解放。自由の謳歌。「ようやく」「生命を取り戻」し、飛び立つことに成功した体。心の持ち主ならば、生まれ変わりまでも感じるところだろう。
「馬の腰の余肉の匂いの中から飛び立った」蠅は、「車体の屋根の上にとまり直る」。彼が飛べるのは、まだその程度の距離なのだ。飛翔のリハビリ。
「何やら外で人間どもがやり取りしていたようだが、それがこいつらか」、と、蠅は思っているだろう。命の復活を遂げた蠅は、「車体の屋根の上」から人間どもを見下ろす。
「馬車は炎天の下を走り通した」。当然蠅は「炎天」に焼かれている。「そうして並木をぬけ、長く続いた小豆畑の横を通り、亜麻畑と桑畑の間を揺れつつ森の中へ割り込むと、緑色の森は、ようやくたまった馬の額の汗に映って逆さまに揺らめいた」。
色彩の少ないこの物語において、「緑色の森」は特異だ。しかもそれは、「馬の額の汗に映って逆さまに揺らめい」ている。「緑」は生命や生命力を表すことが多い。それが「逆さまに揺らめ」くさまは、不吉な兆候を表すだろう。実際、この一行には悲劇が訪れる。




