横光利一「蠅」本文と解説⑦
七
馬車は何時になったら出るのであろう。宿場に集まった人々の汗は乾いた。しかし、馬車は何時になったら出るのであろう。これは誰も知らない。だが、もし知りうることのできるものがあったとすれば、それは饅頭屋のかまどの中で、ようやく膨れ始めた饅頭であった。なぜかと言えば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手をつけるということが、それほどの潔癖から長い年月の間、独身で暮らさねばならなかったという彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから。
前話で農婦から、「まだかのう。馬車はまだなかなか出ぬじゃろか?」と泣きながら問われたにもかかわらず、「猫背の馭者は将棋盤を枕にしてあおむきになったまま、すのこを洗っている饅頭屋の主婦の方へ頭を向け」、「饅頭はまだ蒸さらんかいのう?」と述べた続き。農婦の必死の訴えをまったく顧慮せず、饅頭が食べたい。そのためにはそれが蒸し上がるのを待つばかりだ。と、自分の欲望を優先する馭者。おまけにその姿は、人を食った態度だ。人のあたたかい心はないのかと、その場にいた者と読者は思うだろう。このような人間だから、「長い年月の間、独身で暮らさねばならなかった」のだ。馭者はなぜ馬車を出発させないのか。
その思いは、語り手も同じく抱いており、だから、「馬車は何時になったら出るのであろう」とつぶやいたのだ。馬車の定員と定刻の出発時刻は示されないが、もうすでに6名の客は確保されている。出発するのに支障はないだろう。
次の、「宿場に集まった人々の汗は乾いた」は、一定の時間が経過したことを表している。「しかし、それにもかかわらず一向に馬車を出そうとしない馭者。だから、「馬車は何時になったら出るのであろう」という言葉が繰り返される。この言葉はもちろん、乗客の鬱屈を代弁したセリフでもある。
次の言葉で語り手は、突然乗客と読者を突き放す。「これは誰も知らない」と。当然それは馭者の気持ち一つだろう。馭者が馬車を出そうと思えば、いつでも出せるのだ。だから、「誰も知らない」わけはない。馭者はちゃんとわかっている・決断できる。彼は決定権を持っている。だから「誰も知らない」は、とても非情な言葉だ。
語りの客観性を担保しようとしたものか。これではこの語り手は、心を持たぬ「蠅」と同じ存在になる。
続く説明も、素直でない。一般常識・人の道からは外れた内容の理由づけをしようとしているので、無理な説明になっている。
「だが、もし知りうることのできるものがあったとすれば、それは饅頭屋のかまどの中で、ようやく膨れ始めた饅頭であった」。当然、「饅頭」が「知りうること」はできない。だから擬人法なのだが、説明が苦しい。
また、「なぜかと言えば」に続く説明も、馭者が馬車を出そうとしない理由として苦しいものになっている。
「この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手をつけるということが、それほどの潔癖から長い年月の間、独身で暮らさねばならなかったという彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから。 」
ここではいくつかの事柄が説明される。
①「この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手をつけるということが」、「彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから。 」
これはつまり、この馭者は、子を思う母の切羽詰まった真情よりも、誰もまだ手を付けていない饅頭を食べたいという自分の食欲・欲望を優先させたということだ。通常、この二つの事柄は天秤の両端に置かれることはないし、もし置かれたとしても、必ず農婦の思いの比重の方が重い。つまり、ふつうは比べるべくもない二つなのだ。それなのに馭者はいとも簡単に自分の事情を優先する。あたたかい心の無い人間ということになる。
このことに対し語り手は、何の批評も漏らさない。その判断は読者に任せるということか。それとも、こういうこともあるよね、ということか。物語の登場人物への客観的な態度と言えなくもないが、語り手の非情さも感じてしまう部分だ。これでは語り手は、馭者の気持ち・事情の代弁者となってしまう形だからだ。
「誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手をつけるという」「潔癖」さと、そのような饅頭を食べたいという欲望。これらが人の命に優先するとは、ふつう思えない。
②「それほどの潔癖から長い年月の間、独身で暮らさねばならなかったという」
馭者の人生の事情が、他の説明に織り込まれる形で突然語られたことに、読者は少しの驚きを覚えただろう。なぜなら、ここまでの場面で、彼の「潔癖」をうかがわせる説明がまったくなかったからだ。だからややとってつけたような説明と言い訳になっている。
いずれにせよ、出来立ての饅頭を食べたいという欲望が、農婦の子を思う気持ちに勝ったことに変わりはない。
従って、①も②も、説明になっていないのだ。ふつう社会では到底受け入れがたい理由なのだ。
だから繰り返しになるが、これを言い訳にする馭者と語り手は、非常識・無慈悲な人間ということになる。このような馭者へ何の批評も加えない語り手も、ここでは批評の対象となる。
「その日その日の、最高の慰め」と言えば聞こえはいいが、それが「せがれ」の「危篤」よりも重要・価値があることは絶対にない。
また、「それほどの潔癖から長い年月の間、独身で暮らさねばならなかったという」馭者の人生の事情は、乗客には全く無関係だ。「それはおたくの勝手な事情」ということ。馭者の潔癖さという事情が出発を遅らせることは、ふつうありえない。
「まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手をつけるということが」、「彼のその日その日の、最高の慰め」となっていた、「猫背の老いた馭者」。「誰も手をつけない蒸し立ての饅頭」にこだわる「潔癖」さ、神経質さは、彼を「独身で暮らさねばならなかった」状態に置く。馭者の他の部分の説明からは、彼の「潔癖」さはうかがわれないので、「誰も手をつけない蒸し立ての饅頭」への偏執的なこだわりは、馭者の偏屈さ・執心を感じさせる。「独身で暮らさねばならなかった」ということは、若い頃からこうなのだ。それが「老いた」いまでも継続し、もしくは加齢によりさらにひどくなっていると考えられる。他者の事情を顧慮しない、他者を受け入れない偏狭さを強く感じる人物だ。
そうしてこの性格が、多数の他者を巻き込んだ悲劇へとつながったのだ。馭者の責任・罪は重い。




