第4話 八猫亭にて
次の日の朝は、昨日のことが夢だったかのように平穏に始まった。
清隆にとっては一週間ぶりの休みだ。
いつものように身支度をしたあと、朝食を食べに下の階へ降りていく。
夜は賑やかになる酒場だが、朝は店主と下宿している清隆、住み込みのトレヴァーしかいない。
「おはようございます。昨日遅かったすね」
既に朝食を食べているトレヴァーが、姿を見せた清隆に声を掛ける。
厨房では八猫亭の店主が働いていて、朝食を作り終えたあと夜の酒場の仕込みをしている。
カウンターに置いてある籠からパンを取って、目玉焼きやベーコンなどの料理を受け取り、飲み物といっしょに食べるという素朴な食事だ。
長尾家にいた頃の朝食のように洗練されてはいないが、ボリュームは一応それなりにある。
「今日は休みだからこんなに食べられないかもしれない」
昨日、凄惨な場面を見てしまったからという理由もあるが当然それは言えない。
「旦那、近年では朝食こそ基礎を作る、と朝たくさん食べるのがトレンドなんすよ。まあ、残ったらぼくが頂くっす」
トレヴァーがパンを食べつつそう言うのは、清隆を気遣っているのか微妙なところだ。
『旦那』というのは清隆に対してふざけているときにトレヴァーが言う渾名だ。
最初それを聞いた時、清隆としては違和感があった。
自分は大学を出てまだそう年数も重ねていないし、職場では名ばかりの管理職のようなものだ。旦那というには若すぎるだろう。
清隆は以前そう話して旦那呼びはやめないか、と提案したこともあるが、トレヴァーの反応は不満気味であった。
「この辺じゃキヨタカさんの年頃でもう何年も働いて、親方みたいな奴が一杯いるんす。ですから旦那呼びじゃないと示しがつかないでしょう?」
それが一般的な労働者層の感覚なのか清隆にはわからないが、とりあえずトレヴァーとしてはそうらしい。
そんなことを思い出しながら朝食を少しずつ食べていると、突然入口のドアをノックする音が聞こえる。
まだ開店時間には早すぎるが、誰だろうか。
「はいー……ってどなたでしょうか?」
トレヴァーは届け物だろうかと思いドアを開けるが、見知らぬ男が立っていたのできょとんとする。
「失礼、長尾清隆という男に会いに来た」
「!?」
清隆は聞き覚えのある声に驚いて扉を見る。
扉の向こうにいたのはアリウスであった。
昨日とほぼ同じ古めかしいフロックコートの上にマントを羽織り、帽子を被っている。
アリウスは室内に清隆がいるのを確認すると、親しげに帽子を脱ぐのであった。
「おはよう、清隆。朝食の邪魔をしてしまったようだね。なに急ぐ必要はない」
その後。
朝食を終え、清隆は自室でアリウスと向き合っていた。
「吸血鬼というのは夜しか出歩けないのかと思っていた」
清隆は昨日別れ際に、明日八猫亭で再会しようと提案したが、これほど早く来るとは思っていなかった。
「そういう者もいるらしいが、俺は昔から平気でね」
落ち着いて考えると、アリウスは清隆の父と長年旅していたのである。
夜にしか活動できなかったのなら、相当不便な旅をしなければならない。父からそんな話は聞いたことがなかった。
清隆の部屋はアリウスの部屋に比べると相当狭い。寝室しかない。
ティーテーブルもないのでアリウスはベッドに座り、清隆は鏡台の椅子に座っている。
「……それで、俺が逃げてきたヴェールドの拠点なんだが、清隆?」
アリウスは話を中断し、清隆がややぼんやりしているので声を掛ける。
「いや、何でもない。続けてくれ」
清隆がはっとして姿勢を正す。
(昨日よりアリウスを近くで見たからだろうか……?)
アリウスをずっと見ていると、よくわからない胸騒ぎを感じるのだ。
吸血鬼という何をしでかすか分からない存在に対する恐ろしさだろうか。
それとも、このような下町の下宿に不釣り合いなほど、整った美しさを感じたからだろうか。
この距離でアリウスの話を聞いていると、時折彼の口から牙を垣間見ることができた。しかしそれが美しさを損ねることはなく、むしろ一層引き立てるのである。
(とにかく、今は話に集中しよう)
アリウスが話を続ける。
「俺が逃げてきたのは、港の方角からだった。詳細な場所までは覚えてないが、あの辺りに奴らの拠点があるはずだ。心当たりはないか?」
「港の倉庫一つ一つの所有者までは全部覚えていないな。だが、トレヴァーならなにか知ってるかも」
書類上での知識の多い清隆より、トレヴァーなら倉庫で働いている人々からなにか情報を得ている可能性がある。
「さっきの少年か。じゃあ早速聞いてこよう」
アリウスが立ち上がり、下の階へ行くので慌てて清隆は後を追う。
「待てアリウス。そんないきなり行っても……」
しかしアリウスは清隆の言葉などお構いなしに、さっさと階段を下りていく。
下の階の酒場でトレヴァーは新聞を広げつつ、何かのメモを記していた。
酒場の仕事がない時、こうして情報整理をするのが彼の日課のようだ。
メモは走り書きで単語や記号が書かれており、ちらりと見た程度では内容はよくわからない。
「もう話は終わったんですかい?」
清隆とアリウスが下りてくるのを見て、トレヴァーが声を掛ける。
「君がトレヴァー君か。ちょっと話をいいかな?」
アリウスはそう言うなり、トレヴァーの前の椅子に座った。
「なんすか急に。というか、あんた清隆さんのなんなんですか?」
トレヴァーが怪訝そうにアリウスのことを見る。
「……彼はアリウス・ネームレスウッド伯爵。父の友人だ。知りたいことがあるそうだ」
清隆が後からアリウスを紹介する。
「まあ内容次第っすね」
トレヴァーはアリウスにそっけなく返事をして様子をうかがっている。
「港の空き倉庫で、最近知らない連中が出入りしているという話を聞いたことはないかね?」
「さあね」
トレヴァーはスクラップ帳を広げてメモの整理などをしながら空返事で、肯定も否定もしない。つまり報酬を先に提示せよということだ。
清隆がそう伝えようとする前に、アリウスは理解したように懐から何か取り出した。
「使ってない時計だ。良ければ君にあげよう」
テーブルに置かれたのは小さな、金色の懐中時計であった。
デザインから古いの年代のものだとわかる。
「いいんですかい?」
トレヴァーがスクラップ帳を閉じて顔を上げる。彼にもこの時計が相当の価値のあると分かったらしい。
「宗一に新しい時計をもらってから使ってなかったんだ。趣味でなければ古物屋にでも持っていってくれ」
本当に清隆の父に時計をもらったとしたら何年も前の話だろう。
それまで処分を忘れていたのは吸血鬼ゆえの時間感覚なのだろうか。
あるいは時計をもらったという話自体が方便なのか。
「それならありがたく受け取ります……ああ、港のことですが」
トレヴァーが時計を受け取りながら話す。やはりなにか知っていたようだ。
「港西区の第六倉庫、ローワン交易社が撤退してからずっと空いたままなんすけど、そこに最近出入りしている人たちがいるという噂です」
「あの辺か……」
名前を出されると清隆も場所をすぐ想起することができた。
「ありがとう。なら後は清隆に案内してもらおう」
アリウスはトレヴァーに礼を言い、清隆と倉庫へ行く時間を決めた後、すぐに酒場を出ていく。
「はあ……よく分かんないですが、貴族様ってのは意外と忙しいもんなんですねえ」
トレヴァーはアリウスの行動を理解できないといった様子だが、もらった時計を大事そうに布に包んでまんざらでもなさそうだ。
清隆はため息をついてカウンターに座る。
アリウスの話を聞いていただけだが、彼の振る舞いに振り回されたせいか、どっと疲れを感じていた。
倉庫へは夕方行くことに決まった。
それまで空いた時間はどうしようか。折角の休日だし、休んでおくか。
「それにしても、清隆さんの父のご友人でしたっけ? この街に住んでいる貴族じゃないようですし、どういう経緯で知り合ったんですかい?」
「うーん、なんというか。色々あったみたいだ」
清隆はトレヴァーに問われると、改めてアリウスのことをよく知らないなと感じる。
分かっているのは父の友人であること。そして吸血鬼であること。
吸血鬼であるからには、昨日のあの時以外にも血を吸っているのであろうか?
この街で起きている猟奇的事件の一部がアリウスの仕業という可能性もあるのだろうか。
(……もう少しアリウスのことをよく知っておいたほうがいいのかもしれない)
いつの間にか先程の疲れは消えていた。
清隆はこの後の空き時間を、アリウスについて調べるために使うことにした。




