小林彰人⑤
自分の人生が始まった瞬間を覚えている人なんて、どこにもいないと思う。もちろん、僕だって覚えてない。気がついたら今の僕がいて、今の人生があって、記憶の中には過去があった。
普通なら、そんな人生に何も疑問は抱かないハズだ。
……だけど、僕は違った。成長するにつれて、僕の中には謎の「違和感」が募り始めたのだ。その「違和感」が一体どこから来ているのか、幼い頃の僕には全く当てがつかなかった。確か、初めてその違和感に気付いたのは……幼稚園に入園した頃だったと思う。
幼い頃の記憶自体が、今はもうあやふやになってきているけれど、幼稚園に通っていたある時点で、僕は確かに思ったのだ。幼稚園って、こんなところだったっけ……? と。僕が思っていた場所とは、何かが違うような気がする……と。
その違和感は、小学生になるとますます強くなった。通学路も、教室の配置も、学校の外見も、さらにはクラスメイトまで、何もかもが「僕が思っていた小学校」と違う気がするのだ。
僕の記憶では、学校の中庭には鯉のいる池があったし、一年生の教室の隣にはウサギの飼育小屋があった。でも、僕が通っていた小学校には、そのどちらも無い。入学前、しきりに「鯉の池」の話を両親にして、それを楽しみにしていた僕は、酷く落胆したという。
中学に上がる頃には、もはや「違和感」では片付かなくなるほど、その症状は重くなっていた。明らかに、僕の記憶の中に過去が「二種類」存在している。「僕がこの人生で経験した過去」ではない別の過去があって、その過去との相違が、僕に違和感をもたらしていたのだ。
時には、「この人生では経験していないはずの少し先の未来」まで、なんとなく思い浮かぶこともあった。まだ学習していないはずの勉強内容が、既に分かっていたりとか……。ただ、「前世の現在の記憶」と比べると、未来の記憶は大分不鮮明だった。
ここまできてようやく、僕は「一度人生をやり遂げた誰かの生まれ変わり」ではないか、と考えるようになった。そうであるなら、僕が予めもっていた「この世界とは違う記憶」は、前の人生でその「誰か」が経験した内容だ、ということになる。
でも、この説にはいくつか腑に落ちない点があった。そもそも、「誰かの生まれ変わり」だった場合、前世の記憶は成長と共に薄れていくものらしい。しかし僕の場合は逆で、成長すればするほど前の人生の記憶が鮮明になっていった。中学を卒業する頃は、その記憶が「前世のもの」なのか「今世のもの」なのか、分からなくなる時があるほどに。……この現象は、一般的な「生まれ変わり」と矛盾する。
また、僕の人生が誰かの生まれ変わりだとすれば、当然前世は「僕以外の誰か」が送っていたハズである。でも、その「僕以外の誰か」は、僕の記憶に全く登場しない。それどころか、「小林彰人」という名前にも、僕の容姿にも、一切の違和感を抱かないのだ。
……これをそのまま捉えれば、僕の前世も「僕」だった、ということになる。……だけど、言うまでもなくそれだと時系列的なつじつまが合わない。逆に時系列のつじつまを合わせると、同姓同名同一人物の「僕」が、何度もこの世に生を受けていることになってしまう。
どちらかを合わせるとどちらかがズレる……。まるで不確定性原理のようなジレンマを突き付けられた僕は、なんとかこの現象を合理的に説明できないかと日々考えにふけった。
そして辿り着いたのが、パラレルワールド仮説である。前世の僕は、同じ時系列の別の世界に生きていた……ということだ。要するに、今この瞬間にも、同姓同名、同年代の僕が、別の世界で同じ時を刻みながら、最初の人生を送っていると考えるわけである。そうすれば、「何度も同じ人間が産まれている」という問題を回避しつつ、自分自身の人生を繰り返していることが矛盾無く説明できる。
……ただし。この完璧とも思える理論にも、一つだけどうしても説明できないことがあった。それは、僕が物心ついた頃からずっと抱いていた、恐らく僕が生まれてすぐに覚えたであろう最初の違和感……。
その違和感だけは、「パラレルワールド」という奥の手をもってしても、納得できる説明ができなかった。だから僕は、この違和感を「気のせい」あるいは「記憶違い」ということにして、棚に上げた。そんなことはないだろうという心の声に抗いながら……。
とにかく、「パラレルワールド説」が正しいのだとすれば、最初の人生で僕が通った幼稚園も小学校も、この世界には存在すらしていない可能性がある。もちろん、クラスメイトも。全部が全部違うわけではないにしろ、その差は相当大きいと思われた。
それは、僕自身についても例外ではない。まず、前の人生の僕より頭の切れと回転が大きく向上しているのだが、それは前世の記憶が引き継がれた結果なのだろう。ただ、趣味や特技までもが前世のそれとは明らかに違うことがあり、時折僕を混乱させた。
前の人生で僕は、中学の時に吹奏楽をやっていた。楽器はトランペットで、しかも割と吹けていた。それに倣ってこの人生でも吹奏楽部へ入ってみたけれど、全く上達しないまま一年間で辞めてしまった。
トランペットには何か特別な想いがあって、僕はどうしても吹けるようになりたかった。もう一度人生をやり直せたら、今度はもっと本気でトランペットを頑張ろう……そう、前の人生でも思っていたらしい。それだけに、この結果は無念で仕方なかった。なぜそこまでトランペットに執着していたのかは分からないけど、きっと、まだ思い出せていない前世の記憶の中に、答えがあるのだろう。
代りに今世の僕は、物心ついた頃から「絵を描く才能」に溢れていた。前世の絵心なんて壊滅的だったハズなのに、今では対象の位置や立体感、光の当たり具合、それから質感に至るまで、息をするかのように容易く表現することができる。自分にこんな能力が備わっているなんて、自分でも信じられなかった。
とにかく、吹奏楽部を辞めた僕は、その後夢中で絵を描いた。何かに取り憑かれたように、次々と。そしてその中で、自然が生み出した造形に、深く感動するようになっていった。
……ただ、それとは対照的に。人工的に作られたものには、ひどい嫌悪感を覚えた。例えば風景画を描くとき、そこに電柱や家があるだけで、全てをぶち壊しているような気がした。どんなに著名なデザイナーが作った生け花よりも、野に咲く花の方がずっと美しく思えた。
……人工物には、人工物の良さがあるのかもしれない。だけど、僕にはそれが分からなかった。分からないと言うよりも、人工物を敵視していた節がある。
自然の状態が一番強かで美しいのに、どうしてわざわざ人の手を加えようとするのか。……それは、怒りに近い感情ですらあった。あるいはこれも、前世の記憶と何か関係あるのかもしれない。
絵にする価値があるのは、純粋な自然の創造物だけだ。やがてそんな信念が生まれ、人工物を描こうともしなくなった。美術教師には、「屁理屈言わずに描け」と叱られたが、僕は意に介さなかった。
中学三年生になり、進路を考え始めた頃、僕はまた新たな記憶を取り返した。どうもこの前世の記憶というのは、「その時の歳」が近づいてこないと鮮明にならないようだ。だから僕は、前世の自分が何歳くらいまで生きたのかも、どうして死んだのかも、まだ知らない。
思い出したのは、「坂之上高等学校」という校名。なんてことはない近所の公立高校なのだが、80年以上の歴史と低くも高くも無いレベルが人気を呼び、ここ数年は毎年3倍近い倍率を誇っていた。ちなみに、僕が前の人生で進学したのはここじゃない。……いや、ここなのかもしれないけれど、少なくとも「坂之上高校」という校名ではなかった。きっと、世界が違うから校名も変わって……
……と、ここまで考えて、それはあり得ないことに気付く。前世の記憶に「坂之上高校」の名前があるのなら、前の世界にも「坂之上高校」が存在していなければつじつまが合わない。つまり、「坂之上高校」という名前の高校は、両方の世界に存在していたということだ。
僕にとって、これは感動的な出来事だった。なぜなら、「身の回りで両方の世界に共通するもの」が、自分を除いて一切確認出来ていなかったのだから。日本の首都は東京だとか、総理大臣は誰だとか、都道府県は47あるとか、そういう基本的な情報以外、前の世界の記憶と一致するものが、「今まで何もなかった」のである。
……ここは、「何かが微妙に違う世界」などではなく、ほとんど「何もかもが完全に違う世界」だったのだ。その、ノスタルジーのかけらも感じないこの世界で、初めて遭遇した「前世の世界と同じ名称」。僕はそこに、なにか大きな意味が隠されているような気がした。
だから僕は、迷うことなく進路をその高校へ定めた。担任からは「もっとレベルの高い高校を選んだ方がいい」なんてアドバイスを頂いてしまったけれど、そんなこと今の僕にはどうでもいい。
きっと、僕がこうして同じ人間の人生を繰り返していることには、理由があるんだ。単なる神の気まぐれなどではなく。
高校の学習内容まで思い出していた僕にとって、受験など赤子の手をひねるようなものだった。特に苦労することもなく坂之上高校への入学を果たし、あっという間に入学式の日を迎える。一度一通りの人生を終えているせいだろうか、妙に時間の流れを早く感じた。
そしてついに、ここ「坂之上高校」で、僕は運命の出会いを果たすことになる。
「えっと、名前は『おびかゆみ』です! 変わった名字だね、ってよく言われます!! 漢字は、えっと、小さいと比べる、それに年賀の賀で『小比賀』です!! トランペットが好きで、吹奏楽部に入ろうと思ってます!! これから一年間、よろしくお願いします!!」
明るく、ハキハキとした声でたった今自己紹介を終えた彼女、小比賀由美……。彼女を見た瞬間、全身に電撃が走ったような強烈な衝撃を受け、様々な記憶の断片が、僕の頭を渦巻いた。そして。
僕は、彼女と再会するためにここに来たんだ。……そう、確信した。