小比賀由美⑤
いよいよ、初めてのコンクールが明日に迫っていた。最後の練習が終わって、私たちは今、大きなトラックへ楽器を積み込んでいる。
『私……、もっと真面目に……練習します……』
塚原先輩にそう宣言したあの日から、はや三ヶ月くらいが経っていた。その間に一学期は終わり、今は夏休みのまっただ中。そして私は、好きな漫画を段ボールへ押し込んで封印し、涙を呑んで平井先輩との恋を我慢し、小林君のアトリエへ遊びに行くこともなく、ひたすらトランペットの練習に励んでいた。……ホントに励んだ。
その甲斐もあって、私は二カ所あるソロパートの内の一つを、塚原先輩から託された。時間にして十秒ないくらいの短い旋律だけど、今年で最後の三年生の先輩が私にソロを譲ってくれるなんて、普通に考えたらあり得ない。このことは、大きな自信に繋がった。
「……ここ最近、小比賀さんの音が凄く綺麗になってきた。ソロをやってアピールすれば、得点源になって入賞の可能性が高くなると思う。……理由はそれだけ。あんまり有頂天にならないで」
塚原先輩はつっけんどんにそんなこと言ってたけど、あの人はただ不器用なだけで、そこまで嫌な人じゃない……と、最近は思う。少なくとも私は、最初会ったときほど彼女の事は嫌いじゃない。ただ、大好きってわけでもない。平井先輩と仲良くすると、ヘソ曲げるしね。
「ユミちゃん、それ、僕が運ぶよ。ユミちゃんは休んでて!!」
それにしても、運んでも運んでも楽器が減らない。両腕にホルンを抱えてふぅふぅしてたら、平井先輩が全部引き受けてくれた。もぉ、ホントにマジでイケメン過ぎる。コンクールが終わって塚原先輩が引退したら、全力でアピールしてやるんだから……!!
「あのさ、一段落ついたら、二人でちょっと遊びに行かない?」
……なんて思ってたら、平井先輩からこんな言葉を頂いてしまった。驚いて先輩の方へ振り返ると、ニッコリ微笑むイケメンが……!! やべぇなんかもう全部見透かされてる気がするよイケメンやべぇー!!
「えっ、あっ、その……!! 私なんかで……よければ……!!」
「……まだ、この後定期演奏会あるんだけどね」
頬に両手を当てて精一杯女の子らしくもじもじしながらそう答えると、突然背後からドスのきいた塚原先輩の声が飛んできた。
「それに、コンクールだって終わってないんだから、余計なこと考えないでくれない? ……平井くん、はっきり言って小比賀さんよりだいぶ下手だし。遊ぶヒマあるなら、練習しなさい」
「す……すみません先輩……」
「あと、小比賀さんの荷物手伝うのもいいけど、ここまで来たらトラックまでの距離だって大してないんだし、どうせなら音楽室から運んできてよ。言い方悪いけど、それ、人が持ってきたの途中で横取りしたのと同じだから」
言うだけ言うと、塚原先輩は「スン」とそっぽを向いてさっさと先に行ってしまった。目を点にして固まる私と平井先輩……。なんていうか、怖い。会社の上司になって欲しくないランキングがあったら、絶対上位を占めるやつだと思った。
その後、どうにか楽器の積み込みも終わり、部活は解散になった。時計を見ると午後4時くらい。いつもより終わるのが早いんだけど、それは、楽器を積み込んでしまったせいで練習出来ないからだった。
「……明日、期待してるから」
荷物をまとめて帰る支度をしているとき、塚原先輩に声をかけられた。さっきの積み込みの件が頭を過ぎり、「ひぇいっ!!」……と思い切り変な声で返事をしてしまう情けない私。そして、さりげなく近くに平井先輩がいないことを確認した。……これ以上機嫌損ねられたら、明日の演奏に影響しそうだしね……。
「あ……わ……、任してくださいっ!! 全力で頑張ります!!」
「いや、別にそこまで意気込まなくていい」
「……はっ!?」
「だから。明日は小比賀さんの好きなように吹いて、楽しんで。小比賀さんの最善が尽くせれば、どんな結果でも私は構わないから。最善尽くしてダメだったら、諦めもつくでしょ?」
「え……っと、それはその……」
「小比賀さんの吹きたいように吹けば、評価されるってこと。だって、私は好きだからね、小比賀さんの演奏は。……じゃ、また明日」
……。……えぇぇぇ!? 何だろう今の!? よくわかんないけど、私を……労ってくれたってことでいいのかな!? そうだとしても、最後の「お前の演奏は好きだけど、お前は嫌いだからな!」みたいな台詞がめちゃくちゃ引っかかるんですが!? もぉ、不器用かよー!!
……って心の中で叫んだものの、実はちょっと喜んでたりする。だって、あのつっけんどんな先輩が、曲がりなりにも私を労ってくれたんだもん(たぶん)。色々を我慢して頑張った甲斐は……あったな。明日は、自信を持って演奏できそうだ。
ちょっと浮かれた気持ちで、窓から夕陽が差し込み始めた構内の廊下を歩き出した。……立ち止まるだけで汗が噴き出てくるこの暑さがなければ、もうちょっと情緒的な雰囲気だったんだけどね。
そして気が付いたら、美術準備室の前にいた。小林君とは同じクラスだから、平日は毎日顔を合わせる。でも、ここに来るのは本当に久しぶりだった。今は夏休みだし、さすがに小林君はいないか……。だけど、コンクールの前にもう一度あの絵を見ておきたかった私は、そっと、教室の引き戸を開けてみた。
「誰……? って、ユミ?」
「……あ、小林君……。いたんだ。夏休みだから、いないと思った」
準備室の中には、ちゃんと小林君がいた。部屋の窓を全開にして、そこから見える大きな木の梢を、キャンバスへ描き写していた。
「よいしょ……っと。へぇー、毎日来てるの?」
私は部屋の中へ入り、荷物を降ろすと、近くの椅子を小林君の隣へ移動させてから座った。
「うん。いつも、吹奏楽部の練習を聴きながら描いてるんだ。ここ、割とよく音が届くんだよ」
「そうなの? あの……、うるさいでしょ? ごめんね……」
「そんなことない。ユミのトランペット、いつも楽しんで聴いてる」
「私の? えー、それきっと、私じゃなくて塚原先輩だよー」
「絶対ユミだよ。んーんんんんーんーんー……って旋律。違う?」
「……あ、当たってる。そこ、私が吹くソロのところじゃん……」
「ユミの音は澄んでるから。聴けばすぐわかる」
私は照れ臭くなって、少し俯いた。まさか、毎日私の練習を小林君に聴かれてたなんて……。それにしても、小林君……、耳、いいんだな。さっきのハミングだって、しっかり音が取れてた。そういえば、一応……吹奏楽の経験者なんだったっけ、小林君……。
「……ちょっと絵、見てていい?」
「……うん。こんな絵でよければ」
私は立ち上がって、所狭しと飾られている絵を順番に眺めていく。相変わらず、繊細で美しくて、なおかつ力強い絵……。私の演奏も、この小林君の絵に少しは近づけただろうか……。
私が最後にここへ来てから、もう三か月くらいが経つはずなのに、そこまで絵は増えてなかった。そしてもちろん、例の私の絵も……まだ何も、進んでない。……ように思えたんだけど、よく見ると顔の下の余白に何かを描き込んで、消したような形跡がある。どうやら、続きを描こうとはしてくれたみたい。結局そこには、幾重にも重なった鉛筆の消し跡しか……残ってないけど。何かが気に入らなかったのか、満足いかなかったのか、素人の私に知る由はなかった。
「そろそろ帰えらない? ……途中まで、一緒に帰ろうよ」
描きかけのその絵を眺めながら色々と考えている私の耳に、そんな声が届いた。私は、慌ててその絵から視線を外す。
「うん、帰ろっか」
私と小林君は、一緒に校舎を出た。日が長くて、そろそろ五時半くらいになるくせに、外はまだまだ明るいし、暑かった。
「……明日、コンクールなんだ。高校入学して初めてのコンクールだから、緊張する……。失敗しちゃったら、美術準備室に駆け込むかも」
「ユミなら大丈夫だよ。自信もって」
「ふふっ、ありがと」
ぽつぽつと他愛ない会話を交わしながら、私と小林君は自転車を押して歩いた。違う道になるまでは歩こうって、私が提案したんだ。
「そういえば、もうだいぶ前になるけど……。ユミの先輩に会ったよ」
「……えっ!? そうなの!? 男? 女?」
「ショートボブの、ユミよりちょっと背が低い女の先輩。えっと……」
「あ、塚原先輩かな?」
「そうそう。褒めてたよ、ユミのこと。もっと練習すれば、どんどん良くなるのに……って、悔しがってたけど」
「……え? えぇぇえー!? 塚原先輩が!? ホントに!?」
「ホントホント。だから、ユミがたくさん練習するようになって……嬉しかったんじゃないのかな、塚原さん……」
……私にとってそれは、完全に寝耳に水だった。……うーん、何だろうあの人……。職人気質の頑固オヤジみたいな人だな……。
私たちは、途中にある大きな川にかかる橋の真ん中で、立ち止まった。地平線のずっと先まで続く川のさらにその先へ、太陽がゆっくりと沈んでいこうとしているのを、無言でしばらく見つめる……。
「明日、頑張ってね。応援してるから」
ポツリと呟かれた小林君のその言葉に、私もこくりと頷いた。そして、この橋を渡り切った先の丁字路で、私たちは別れた……。




