小比賀由美⑪
「……あなたもしかして、小林彰人くん……じゃない?」
信じられない奇跡が起きた。12年前に失明して盲学校へ転校し、そのまま生き別れ状態になっていた小林君が、突然……私のコンサートに現れたんだ。律儀に、私のデビューアルバムまで持参して……。
だけど、様子が少し変だった。私はこんなに嬉しいのに、彼の方はまるで、今日初めて会ったかのような反応をしてくる。そんな彼を目の当たりにして、私は……12年前に彼が言ったことを、思い出した。
『僕……、この一年のこと、何も覚えてないかもしれない』
……そうだ、彼は確かに、治療の副作用で記憶が無くなるかもしれないけど、僕であることに変わりはない……って、そう言ってた。今、彼の目は見えてるみたいだから、治療に成功して、でもその代償に記憶をなくしてしまったのかもしれない。
……それならそれで、構わない。記憶が無いのは寂しいけれど、小林君はこうして、ちゃんと私の演奏を聴きに来てくれたんだ。それだけでもう、とてつもなく嬉しかった。
私はすぐに小林君と連絡先を交換して、今後も会う約束を取り付けた。もしかしたら、何度も私と話してるうちに、記憶だって……取り戻すかもしれない。そしたら、二人であの頃を懐かしむことだってできるんだ。……時を超えて掘り起こした、タイムカプセルみたいに。
小林君と再会してからは、なんだか高校生の頃に戻ったような気持ちになり、毎日が楽しく色づいて見えた。久々に感じた幸せだった。
……だけど。そんなワクワクした日々は、一瞬で消え去った。
彼に……私の夫に、小林君と密会してたことが……バレたんだ。夫のことは小林君にも相談してて、別れた方がいいって……ずっと言われてた。だけど、恋をしていた頃の思い出とか、今でもたまに見せる優しい一面とか、そういうのが邪魔をして、どうしても離婚を切り出せなかった。私がしっかりすれば彼は優しいんだって、そういう気持ちが拭いきれなかった。
それに、私はまだ、彼に愛されてると思っていた。私を愛してくれるのは彼しかいないって、むしろそうとしか思えなかった。
だから、小林君と会ってるときも、夫に対しては常に申し訳ない気持ちで一杯だった。内緒にしなくて済むのなら、内緒にしたくなかった。……でも、言ったところで夫が首を縦に振ってくれるワケがない。
小林君との密会がバレた日。夫はかつて無いほどに怒り狂い、拳で私の頬を思い切り殴り飛ばした。衝撃で視界が歪んで、弾き飛ばされて、滝のように鼻血が出た。
「ユミ、これは不倫だよ。大変なことをしてしまった。こんなことがバレたら、もう演奏の依頼だって来ないかもしれない」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!!」
「ユミが謝ったって仕方ないんだよ。ヤツが、週刊誌にたれ込んだらどうする? もう、人生が台無しだ」
「ごめんなさい、許して……!! どうすればいいの!?」
「分からないか? 彼がいたら、ユミはずっと怯えて暮らさなきゃいけない。邪魔なんだ、彼が。そうだろ?」
私は何度も何度も頷いた。頷かないとまた殴られると思って、必死だった。すると彼は台所へ行き、包丁を持って戻ってきた。
「いいかい? 悪いのはユミなんだ。責任もって、ヤツを殺してこい」
出来るわけない、そんなこと。だけど、断ったら私が殺されると思った。泣きながら包丁を受け取って、小林君に「今すぐ会いたい」と連絡を入れる。返事はすぐに来て、その日のうちに会えることになった。……私は、腫れた顔をマスクで隠して、家を出た……。
最初から、小林君を殺すつもりなんてなかった。彼には演奏ツアーのスケジュールを相談してるときに殴られたと嘘を吐き、レストランへ入り、ただ話をして、別れた。……夫に尾行されてるとも知らずに。
「ユミは何のために彼と会ったの? 楽しくおしゃべりするため?」
小林君と別れてすぐ、彼に捕まって問いただされた。私がブンブン首を横に振ると、お腹に思い切りパンチされて、その場にうずくまった。
「平井さん……? 平井さんっ!?」
……しかも。こんな最悪のタイミングで、小林君が来てしまい……。
「……えっ? 待ってダメッ!! 逃げて小林君っ……!! 来ちゃダメ!!」
私は咄嗟に叫んだけど、間に合わなくて……。小林君は逆上した私の夫に、包丁で刺し殺されてしまった……
……と、思っていた。いや、確かに小林君は、夫に刺された。だけどその夫は、駆けつけた警察によってあっけなく現行犯逮捕されてしまった。まるで、ここで事件があることを事前に知っていたんじゃないかと思うほど、鮮やかに。私は、呆然となった。
「……僕が呼んだんだ。怖い思いさせちゃってごめんね、ユミ……」
そんな声に驚いて振り向くと……。うずくまる私の後ろに、小林君が、いた。……ちょっと待って、どういうコト? だって、ついさっき小林君は夫に刺されて、救急車で搬送されたのに……!?
「え……えっ!? どうなってるの!? 君は……小林君、だよね!?」
「うん。僕は小林君。小林彰人。もう大丈夫だから、安心して。今まで大変だったと思う。そばにいてあげられなくてごめん」
「覚えて……るの? 記憶、ちゃんとあるの!?」
「うん、記憶もある。視力も取り戻した。大人になったね、ユミ」
分けが分からなかったけど、もうどうでもよくなっちゃって。私は小林君に抱きつくと、久しぶりに嬉しくて泣いた……。
事件の翌日。夫が逮捕されてしまって一時的に保護された私は、被害者支援センターで心理士のカウンセリングを受けることになった。
「……こんにちは。平井さんのカウンセリングを担当することになりました、臨床心理士の菅崎です。今日はよろしくね」
私のカウンセリングを担当してくれることになったのは、妙齢の綺麗な女性。ショートボブ……っていうのかな? つやっつやの黒い髪の毛で、前髪は揃ってて、目はぱっちりした二重で……って!!
「つ……塚原先輩っ!?」
「やっぱりバレた? 今は菅崎なんだけど。久しぶり、小比賀さん」
……ちょっと待って、もう懐かしい人多すぎて泣きそう。
「先輩も結婚されたんですね……。てか、心理士になったんですか!?」
「うん。そんなつもりはなかったんだけど、なんか成り行きで。……それにしても、やっぱり……こうなっちゃったか……」
塚原先輩は、ため息を吐きながら言った。見た目だけじゃなくて、ため息多いのも変わらずですか……。それより、「こうなった」……とは?
「私は、平井君に精神病質があることを見抜いてた。だから、あなたと平井君を引き離そうとしてたの。気付いてなかったでしょ?」
「はい……。先輩は光彦君のこと、好きなんだと思ってました……。……あっえっ、じゃあもしかして、あのマウスピース事件も……!?」
「あー、あったね、そんなこと。まぁ、私ってことにしといていいよ」
そう言って、クスッと笑う先輩。そんなぁ……。時効後に暴露なんて、ズルいですよ……。あと、先輩の笑顔……今初めて見ました。
「だけど、あの絵の上手な子……えっと、小林君? だったっけ? あの子とは、上手く行かなかったの? 期待してたんだけどなぁ」
「……それが、途中で転校しちゃったんです。連絡先もわからなくて……。あっ、でも最近再会できたんですよ! 小林君、ぜんぜん変わってなかった。彼とやり直したい気持ちも、あるんですけど……。今は、男の人が全員怖いんです。光彦君も、最初は優しかったから……」
「小林君なら大丈夫。私が保証する」
伏見がちになる私へ、先輩は……力強く言ってくれた。
「それでも、もし万が一何かあったら、遠慮しないですぐ私に連絡して。私はずっと、小比賀さんの味方だから。まぁ、私の分析は外れないし、大丈夫だと思うけど。小比賀さんだって、ちゃんとプロのトランペッターになってるもんね。……私が思ってた通りに」
先輩の言葉にハートをぶち抜かれて。私は、思わず叫んでしまった。
「せ……せ……せ……先輩っ……!! 大好きですっ!!」
その後、塚原先輩とかつて無いほどたくさんおしゃべりした私は、先輩の言葉を信じて、小林君に……気持ちを伝えた。
「好きです……。あなたは私を、ちゃんと愛してくれますか……?」
「もちろん愛すさ。もう、ユミを悲しませるようなことは絶対しない」
彼はそう言ってニッコリ笑い、私の頭をくしゃくしゃ撫でてくれた。
結局、夫は殺人罪で懲役18年の刑が確定した。……殺人罪なんだから、小林君は死んでしまったということになる。だけど、今私の隣にいる小林君には、高校時代の記憶も、最近再会してからの記憶もあって、顔も小林君だし、別人とは思えない。どういうことなのか聞いたら、
「えー……っと、正直僕にもよく分からない。実は僕は双子で、意識を共有してるみたいなんだ。……とにかく、気にしないで!」
……と言われたので、気にしないことにした。世の中には、私の知らない不思議なことがたくさんあるってことにしょう。
その後私は、平井光彦くんと正式に離婚した。だけど、私と小林君で話し合って、再婚はしないことにした。彼は、「ユミに好きな人が出来るまで、僕はユミを愛し続けるから」って言ってくれた。
再婚はしなかったし、子どももできなかったけど、私と小林君はずっと一緒にいた。小林君は私の演奏活動を全面的にサポートしてくれて、そのお陰で私は、演奏家としての地位を確固たるものにできた。私が成功する度に、小林君は自分のことみたいに喜んでくれた。
一緒に笑い合い、慰め合い、思い出を語り合い、時にはちょっと喧嘩もしたけれど、とっても充実した人生は、瞬く間に過ぎ去っていき……。お互い86歳になった年のある日、彼は……病に倒れた。
小林君が入院したのは、外側に面した壁が全てガラス張りになっている、白を基調とした近代的なデザインの病院。その巨大なガラス窓からは、シンプルな形の高層ビルがたくさん並んで見えた。この病院もそんな高層ビルの一つで、彼の病室はその九十八階にある。
……いつの間に、こんな世界が訪れていたんだろう。私が生まれた頃は、もっと緑が……たくさんあったのに。
私は、ベッドの隣にある椅子に座って、彼を見つめた。目が合い微笑む彼に向かって、私も笑顔を返す。ずっと支えてきてくれたんだ、今はゆっくり休んでください。……そう、心の中で呟きながら。
病室の壁には、絵が掛けてある。一糸まとわぬ姿でモミの木の根元に立つ、凜々しい少女の絵が。




