凍るセカイ
宴会の次の日の朝。まどろみの中で僕は目を開いた。まだ睡魔の沼に意識が半分ほど浸かっていて、目の前に何があるのかもはっきりとしていなかった。
スマートフォンを探して手を伸ばす。しかし僕の手にあったのはあったかいふわふわで、でも触り心地が良かったから僕はそれを引き寄せた。
良い匂いがする。思わず顔を押し付けて匂いを嗅いでしまう。
なんだかとても幸せな気分だ。
白ともピンクともつかないふわふわに身を任せて、力いっぱい抱きしめた。
でも、こんなふわふわしたものが僕の家にあったっけ。毛布よりもふわふわだし、でも枕よりか少しだけ固い。ぷにぷにしたところもあれば骨のように固いところも――――骨?
僕は勢いに任せて上体を起こした。ふわふわの正体を確かめると、それは体毛越しですらわかるぐらい真っ赤に染まっていて、湿った吐息を吐いていた。
先ほどのぷにぷにした感触がまだ手のひらに残っている。指の間に彼女の毛が少し絡みついていた。
「平坂くんの……ヘンタイっ!!」
肉球が頬の肉にぶつかる感触と共に、僕の意識は再び闇に落ちた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「頭が高いっ!」
「り、理不尽だ……」
「なんか言った!?」
「いえ、なんでも有りません……」
大きなしゃもじを片手に持つ早乙女さんを前に、僕はただ平伏するしかなかった。僕だって好き好んで触ってたわけじゃないのに……触り心地は良かったけど。
「さぁひーくん。今日こそ怪異を作りますよ」
「りつ姉!?一体どこから入ったの!?」
「ちょっと鍵を拝借しまして」
「拝借しないで!!!」
りつ姉が鍵を片手に飛び込んでくる。それを何とかあしらっていると、今度はチャイムが鳴った。今日はどうやら忙しい日になるらしい。
「黒ちゃんかな?」
「ひ・め・ら・ぎ」
「あぁ、ゴメンゴメン……まだ慣れなくて」
早乙女さんがぽちぽちと歩き玄関へ向かっていく。僕は少しだけ、ほんの少しだけ、嫌な予感がして彼女に声をかけた。
「早乙女さ――」
「え?」
彼女が振り返ると同時に、扉が勢いよく開く。破裂音にも近い扉の開閉音が部屋に鳴り響いて、白衣をつけた一人の男が飛び込んできた。
「卯木くん!?」
意外にも真っ先に声を上げたのはりつ姉だった。卯木と呼ばれた白衣の男も彼女の姿を見て驚愕している。彼の胸には榊さんの名刺にあったのと同じ、ADAのロゴマークが記載されていた。
「瀬織津姫!?……いやむしろ丁度よかった!」
「そんなに慌ててどうしたんです?」
「今すぐ逃げてください!!話はあとで――――」
そう言った卯木さんが小さくうめき声をあげて倒れた。倒れる彼の奥、あけ放たれた扉のその先には、もう一人の男が立っている。卯木さんと同じように白衣を着ているが……手には銃のようなものが握られていた。
「卯木さんっ!!」
「全く穏健派だというのに、こういう時だけは仕事が早いのだから困るというものだ」
銃を持った男が卯木さんを足蹴にしながら入ってくる。灰色の髪の毛に灰色の口髭をたくわえたその男は、部屋を――僕らをゆっくりと舐め回すように見た。僕らに緊張が走る。
「そう怯えた顔をするな秋津平坂。用があるのはそこの二柱だけで、私はあくまで人間の味方だから安心したまえ」
「葉隠部長が直々にお出ましとは一体どういう案件なんだい。まさか赤雁でも返しに来たわけじゃあるまいし」
そう話す早乙女さんの声はわずかに震えていた。あの早乙女さんが怖がっている。というか赤雁ってなんだ?
りつ姉も身構えている。葉隠と呼ばれた男は彼女の視線に気がついたのか視線を動かすと、ふっと鼻息を漏らした。
「瀬織津姫、君の提案書を読ませてもらったよ」
「それはどうも。あなたにとってはあまり気分のいいものではなかったようですが」
「当たり前だ。《《異常体》》と協力するなど、ましてや組織の一員にしろだなどと、片腹痛い」
「| anthropocentric《人間中心的》 な考え方はいつか身を滅ぼしますよ?」
「そうさせないために君たち陰陽師達がADAを作ったのではないのかね?」
「理念を歪めたのは人間たち自身でしょう!?」
「拒絶しなかった時点であなたも肯定したのではないのかね?とにかく私と外に出てもらおうか。人の部屋を荒らしたくはないのでね」
「そんな指示に誰が従うもんか」
「――――突入」
葉隠が腕を前に軽く振った途端、後ろから特殊部隊のような恰好の男たちがなだれ込んできた。彼らはアサルトライフルを構えるとその銃口を僕に向けた。
早乙女さんが激昂する。
「人間の味方じゃなかったのか!!」
「勿論人間の味方ではあるが、時には犠牲が必要になることもある。神と対峙するなら尚更、贄は必要だろ?」
「……いう通りにするから、ひーくんには手を出さないで」
「りつ姉!!」
「大丈夫ですから、ここは私たちに任せて下さい」
「でも……」
そうやって僕らはADAの部隊の銃口に釘付けになりながら、初春荘の前に引きずり出された。玄関を出ると更に多くの部隊が僕らを待ち構えていて、早乙女さんの姿を見ると一斉に銃口を向けた。葉隠が腕を小さく上げると彼らは銃口を下げるも、トリガーから指を離してはいない。
葉隠が「やれ」と言うと僕は彼らによって地面に組み伏された。
「平坂くん!!」
早乙女さんが叫ぶ。「大丈夫です」って返事をしたいのに、息がし辛くて声が出ない。
葉隠の指示で、彼の足元においてある四角い物体がうなりを上げ始めた。それは一見ただの大きな白い物体のようだったが、起動した途端鉱石の結晶のように形を変え石柱のような物を飛び出させている。
「まさか、ボク達を凍結する気!?」
「凍結って……?」
僕は必死で声を絞り出した。隣のりつ姉が答える。
「制御できない異常体から人類を守るために安倍晴明が残した最終手段のことです。規定空間の時間を停止することで、それ以上異常体が活動できないように凍結させるんです」
「じ、時間を停止?そんなことができるの」
「凍結装置の数は限られています、ですが……確実に存在するんです」
「このっ!!」
早乙女さんが権能の手を凍結装置へと伸ばす。しかしその直後、葉隠が銃を構えると僕の耳元で銃声が鳴った。
思わず悲鳴をあげてしまう。死が明確な彩度をもって僕の心臓をわしづかみにした。汗が首筋を通り、弾痕へと落ちていく。
「次は当てるぞ」
「くっ…………分かった。もう抵抗しないから」
早乙女さんが後ずさる。この人、早乙女さんの見えない手が見えている?
……というか、こうなると打つ手がない。りつ姉だって怪異を呼ぶときは声を出さなきゃいけないし、いずれにせよ僕が撃たれるのだろう。
「早乙女さん、僕はいいから!!」
彼女は答えない。何もできないまま時間だけが過ぎていく。その間にも凍結装置はどんどんと姿を変え、今では回転する細かい四角形の集合体のようになっている。凍結装置やプロトコルについて詳しくないけど、事態は悪い方向に加速してることだけは分かった。
「な……なぜ、なぜ凍結するのですか!!」
りつ姉が叫んだ。しかし葉隠は全く動揺する様子も見せず、淡々と答えた。
「そもそも神ではなく人が支配する今の時代において、君たちの存在など社会の平穏におけるノイズでしかないのだよ。そのうえ我々に干渉する姿勢など、凍結されて当然ではないか」
「いつの間に偉くなったな人間が……!!」
「ようやく本性を見せたな瀬織津姫。分かるか?秋津平坂、我々とこいつらは根本から違う。相互理解など不可能なのだ」
「そんなの、お互いにリスペクトが無ければ人間同士でもそうなるよ!」
「あくまで神の味方をしたいのか?貴様も凍結対象に含めてもいいんだぞ」
「葉隠!!」
「黙れ。今の世界に神など不要。さっさと時空の狭間に堕ちるがいい」
その瞬間、凍結装置が白い光を発した。
僕の焦りも不安もあざ笑うかのように、早乙女さんの動きがゆっくりと遅くなっていく。
ダメだ。ダメだ。ダメ、絶対にダメだ。どうにかして止めないと。でもこんな状態で。
助けを求めるようにりつ姉を見た。彼女も悔しそうに首を振っているが、それでも少しずつ彼女の動きも緩慢になっている。
――もうだめだ。
絶望の淵に落ちかけたその時、僕の脳裏をある光景がよぎった。
……それは、僕と早乙女さんが初めて会った時の光景。
『君、大丈夫かい?』
早乙女さんの鈴の音のように澄んだ高い声。彼女の暖かくてふわふわな腕の感触。
『……一刻を争うかな。これを食べるんだ』
あの時食べた料理は何だったんだろう。暖かくて、甘くて、ちょっとだけ脂っこくて……ふわふわで。
いや、頭ではわかってたはずだ。一刻を争う中で、彼女に料理を準備する時間なんて無かったはずだ。それに彼女の――乙子狭姫の母のオオゲツヒメが自身の身体を食べ物にすることができるのならば、彼女だってきっと――。
ああ。理解したくなかった。僕はあの時、乙子狭姫の左腕を食べたんだ。餓死寸前の僕を救うため、彼女は自身の腕を僕の口に突っ込んだんだ。自分の左腕が食べられる感触も、食いちぎられる瞬間の痛みも我慢して、早乙女さんは僕を安心させるために微笑んだんだ。
今こそ恩を返さなければいけない。今返さないでいつ返すんだ。それに、僕が彼女の権能が見えるのも、きっとそういうことなんだ。
僕は自分の肉体の中にある早乙女さんに意識を集中させると、自分にもその感覚があることに気がついた。見えない手――というか小指しか感じられないけど。それでもこれで二人を救わなきゃ……!
ただ、理由は分からないけど葉隠には早乙女さんの手が見えていた。僕の小指だって見られるリスクがある。バレたら確実に撃たれる。今度は威嚇射撃じゃなく、本当に。
どうすればいい。
段々と2人は凍り付いていっている。
どうすればいい。
時間だけが淡々と過ぎていく。
もうダメかとヤケクソになって指を出そうとしたその時――――
「なななな何が起きてるんですかーーーっ!?」
106号室から外に出た彩華さんが、大声で叫んでいた。
その瞬間、一瞬だけ葉隠の視線がそれた。




