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第三話 残照の香(2)祭りの日

 毎年六月が近づいてくると、チーフは不機嫌になる。いや、不機嫌なのはいつものことだが、拍車がかかって機嫌の良い時がなくなる。その理由は梅雨になって気候がはっきりせず、湿気のせいでそのふわふわの綺麗な金髪がキマらないから——というのもあるが、メインはそれではない。

 何十年も前から、会社が地域住民との交流を目的として、役所と連携して開いているイベントがある。開催時期はその支部によって異なるが、中央本部の場合は年に一度、その開催日が毎年六月の第一週目の土日と決まっている。そして、チーフはその交流イベントがこの世で一番嫌いなのだそうだ。

 内側の人間でいる時は、山積みの仕事そっちのけで準備と片付けに追われ、当日は運営という名の雑用係としてひたすら二日間こき使われ、それはそれは充実した休日を過ごしていたと言うが、今思えばバックヤードからは出なくて済んでいたからまだマシだったと、最近チーフは考えを改めたらしい。なぜなら、もし今年開催されると、現在ヒーローとして前線に出ているチーフは(ゼロ)号、ハッピー・シャイニーとして当日表に出なければならないということに気付いてしまったからだ。

 そのせいでいつにも増してチーフのイベントに対する拒否反応は酷く、度々共に前線に送られていたマリーは、かなり早い段階からそのとばっちりをもろに受ける羽目になった。

 唯一、今年はモンスターが再襲来しているという緊急の状況下にあるため、おそらくイベントは中止になるだろうという希望的観測が、チーフの精神状態をずっと支えていた。が、その安直な目論見は見事に外れ、一週間前に予定どおり開催するという上からの通告が出たものだから、さあ大変。

「こんな緊急時に、上は一体何を考えているんだ?」

 完全に平和ボケした世間と会社に対して不満大爆発のチーフであったが、結局、今日は葵と三人揃ってそのイベントに駆り出されることとなってしまった。今日ほどモンスターに来てほしいと願ったことはない、と朝からげんなり萎れている。

「良いじゃない! 意外と楽しいかもしれないわよ?」

 マリーは正直なところ、この交流イベントが嫌いではない。屋台が出たりしてお祭りみたいだし、このイベントの一番の目玉は一般人がヒーローと直接話したり握手したりできることだ。ここ数年は一部の大人のファンも増えてきたが、子どもたちから可愛らしい声援をもらうのは気分が良いものである。

「この格好で焼きそば買いに行っても良いと思う?」

 今回初めてヒーローとして参加することとなった3号も、そんな調子で興味津々に雰囲気を楽しんでいる。イベント自体は昔ヒーローだった頃も開催されてはいたようだが、当時は戦況が激しく、幸子のシャイニーと組んで現場に出ていた3号は顔を出したことはないのだという。

「焼きそば美味しいよねェ、あたしも食べたァい」

「良いよねェ? 別に。ヒーローだってお腹は空くんだよ? あとで買いに行こ」

 年甲斐もなくはしゃぐ二人の隣で、シャイニーは深々と溜め息を吐いた。

 しかしシャイニーは膨れ面ではあるものの、常に『ヒーローはアイドル』と豪語していただけのことはあり外面だけは非常に良く、一旦表に出てしまえば一般人の前では何事もなかったかのようにニコニコと笑顔を振り撒き、手を振ったり握手をしたりサービスを尽くしていた。そうしていれば本当に、フィギュアとして棚に飾っておいても良いくらいのビジュアルをしていると思うし、まさかこれが口を開けば文句しか言わない四十歳のオジサンだなんて誰も思わない。シャイニーの一般人向け営業用ボイスも初めて聞いたマリーは、その表裏の切り替え技術の高さに恐々とした。

「あんたのその豹変ぶりが怖すぎる」

 昼頃に休憩テントに戻ってきたマリーは、一リットル紙パックの麦茶の口に長いストローを突き刺しながらそう呟いた。先ほどまで高校生くらいの女の子たちと楽しそうに写真を撮り、漸くバックヤードに引っ込んできたガラの悪いシャイニーがそこに立っている。

「どう? 華のJKと写真を撮る気分は」

「悪い気はしないわよ」素なら捕まるという自覚はあるらしい。「でも何を喋ってるのかわからない。アイツら何なの? 宇宙人?」

 それはおそらく皆同じ思いである。 

「お疲れ。あんたの分も買ってあるよ」ひと足先にパイプ椅子に腰掛けた3号は、自分で買ってきた焼きそばを早速頬張っている。「ねェコレ美味しいじゃぁん、やっぱ屋台のは違うよねェ」

「あぁん、あたしも食べる食べるゥ」

「これいっぱい入ってるよ。おニイちゃん良い人でさァ、この格好で行ったらオマケしてくれたの」

「ありがとォー!」

「ほら、そんな仏頂面してないで座んな、シャイニー。可愛い顔が台無し」

 3号に手招きされ、渋々近くのパイプ椅子に腰を下ろしたシャイニーであったが、長く息を吐いて項垂れたまま、目の前に置かれた焼きそばのパックには手をつけようとしない。

「……ごめん。全然お腹空いてない」

「大丈夫? 何か飲む?」

「疲れるよねェ、サービス業って」わかるわかる、と頷く3号の顔に疲れの色はまったく見られない。「ならあとで食べな? 名前書いといてあげるから」

 3号は近くに置いてあった太い油性マジックを手に取り、焼きそばのパックに『しゃいにー』と名前を書いた。ひと昔前のギャルが使っていたような歪んだ字体にしたのはわざとだと思う。

「……アンタ、あれだけ自分を叩いてた奴ら相手によくヘラヘラ笑っていられるわね」

 焼きそばを口一杯に詰め込んだマリーの幸せそうな姿を見て、シャイニーはそう呆れ返っている。ほんの少し前までSNSの炎上で周囲がアンチだらけだったマリーだが、モンスター討伐をするようになると掌を返したように世間の態度は一変した。黒衣の——3号の調整は一切入っていないにもかかわらず、今ではSNSでマリーの批判的な意見を出すと逆に袋叩きに遭うようなことまで見られるようになり、状況によってコロコロ態度を変える世の中に対して、シャイニーは不満を隠せないのである。

 元々シャイニーはマスメディアに反感を持っており、嫌いだと明言してはいたが、ここへきて自分自身も頻繁にメディアに露出することとなり、関わりが増えてしまったことでますますそのきらいが強くなったようだ。

 だが、マリーは相変わらずのお人好しで、叩かれていたことは過去のこととしてすっかり水に流してしまっている。

「良いのよォ、また応援してもらえるようになったんだから」マリーはそう言って笑う。「今じゃ『可愛いBBA(ババア)』で通ってるのよ。さっきなんて「マリママ、今度お弁当作ってぇー!」とか学生さんに言われちゃって。誰かさんが作ってくれたヒーロースーツのおかげかしらねェ」

「まず痩せなさいね」

「ねェ!」

「ああ失礼、——」機嫌が悪いせいでいつも以上に投げてくる視線が粘着質で嫌味たらしい。「訂正するわ。痩せなくても良いから締めなさい。前線に出てるのになんで変わらないのよ、どう考えても食べすぎでしょ」

「だからそれセクハラ!」

「本当のことでしょ⁉︎ アタシだって別にそれで業務に支障がないなら何も言わないわよ、支障が出てるから言ってんの! アタシの腰が逝ったらアンタのせいだからね⁉︎」

「ヒドイヒドイ! ねェ3号も何とか言ってよォ!」

「私ゴミ捨ててくるね」3号は空になった使い捨てパックを持ってそそくさと出て行ってしまった。

 たしかに討伐へ行くようになってヒーローとしての仕事はこれまでより格段にハードになったが、それでも一向に中年体型が改善されていないという厳しい現実は毎日鏡を見ている自分が一番よくわかっている。そしてその原因がシャイニーの言うとおり、ハードワークになったおかげで今まで以上に腹が減り、それに甘んじて相応に食べているからというのも薄々気付いている。

 でも、だからって、毎回討伐に出る度に『重い』と言うのはやめてほしい。二、三日前も現場で転びそうになったのをシャイニーにフォローしてもらい、その一言を食らったばかりだ。モンスターの攻撃と同じくらいの殺傷能力があることを理解しているのだろうか。

「あんたみたいなハラスメントの塊、絶対いつか訴えてやるんだから覚悟しときなさいよ⁉︎」

 フン、とシャイニーはそっぽを向いて休憩テントを出て行ってしまった。せっかくの美味しい焼きそばが台無しである。

 テントの中で残りの焼きそばをかき込んでいると、3号がチョコレートのかかったバナナの棒を二本持って戻ってきた。「あれ? シャイニーは?」

「知らない、あんな奴!」はあ、と溜め息を吐き、肩を竦める。「どっか行っちゃった。ほんと今よ。そこで会わなかった?」

「いや……あ、これルーレットしたらもう一本当たったの。マリー、食べる?」

「うん、食べ……——」いつもの調子で手を伸ばしかけて、ハッとする。「……やめとく」

「何、重いって言われたこと気にしてるの?」

「だァって……」

 3号はくすくすと笑っている。「気にすることないって。マリーはそれでマリーなんだから。良いじゃない、親しみやすくて。可愛いわよ」

「ありがとう」

「じゃあこれもシャイニーにあげちゃお」3号はそう言ってバナナを口に咥え、もう一本の入ったビニール袋にまたマジックで名前を書いている。「あの子何も食べないで行ったの? 倒れないと良いけど」

「3号もう行く?」

「うん、これ食べたらね」眉間に皺を寄せた3号は、かったるそうにバナナを齧っている。「なァんかまた来てんだよ、胡散臭い団体がさァ……」

 3号は現役ヒーローの中で唯一、片腕が欠損している状態でヒーローとして戦っている。そんなハンデを背負っているにもかかわらず、余裕の風格でモンスターを蹴散らしていく彼女の勇姿は今や世間の注目の的となっており、昔の彼女を知らない若者の間にもファンはかなり多く、午前中のファンミーティングでも特に二十代くらいの若い女性が訪ねてくることが目立った。

 それについては当然3号は歓迎している。彼女が胡散臭いと言うのは所謂ビジネスの香りを醸して近寄ってくる『ファン』のほうで、日頃から3号の元へは障碍者団体の類から様々なオファーが来ており、今日のイベントもまた然りなのである。

 彼女はそれらを「うざい」の一言でことごとく一蹴し、一切相手にしていない。

「純粋に応援してくれるのは良いよ? けど『片腕ない()()頑張ってる』って何? ない()()応援してるってこと? 別に私、腕ないから頑張ってるんじゃないし、あったって同じ風にやるよ。何が『障碍者の希望の星』よ? ちゃんちゃらおかしいわ。私を国から金を貪るための道具にしないで」

「3号、気持ちはわかるけど、それ外で絶対言っちゃダメよ、めちゃめちゃ叩かれるよ」

「わかってる、言わないよ、言わないけどさ、——」と、うんざりな様子で短く溜め息を吐く。「特別扱いしないでほしいとか、みんなと同じように扱ってほしいとかって、声を大にして訴える人がいるけど、そういう人ほど特別自分に気を遣ってほしいって思ってんだよね。私、あなたたちに「普通に扱って」なんて一言でも言ったことある? ないよね?」

 そういうとこだよ、と3号はどすの利いた声で話を締めた。普段あまり愚痴や毒を吐かない3号がこれに関してはベラベラと流暢に喋るところを見ると、相当嫌気が差しているのだろう。

 たしかに3号は片腕が失くとも何だって一人でやってしまうし、初対面の時Eightでノンアルコールカクテルまで振る舞ってくれたのをマリーはよく覚えている。討伐に行ったってまったく引けを取らないどころか誰よりも強いし、実際、マリーは彼女が片腕であることを時々忘れる。

 彼女はおそらくそれを自分の努力でやってきた。

「ま、オシゴトですから? やりますよ、ちゃあんとね」

 そう言って、にこやかな顔をした3号はバナナの刺さっていた棒を片手で真っ二つに折ってしまった。ヒーローという仕事には、運動神経や体力云々よりも、表裏を切り替えるという能力が最も重要かつ必要なのかもしれないと、マリーはつくづく思った。


* * *


 灰色の厚い雲が空を覆っている。今にも雨粒を溢したそうにしているくせに、(すんで)のところで堪えているから見るからに重たい。我慢していないで早く落としてきてくれたら、こんな馬鹿げた宴の場なんてさっさとおさらばできるのに。

 賑やかな場所は得意じゃない。遠くから眺めているくらいならまだ良いが、その中に身を置くのは非常に居心地が悪くて不快だ。慣れていないのもあるかもしれないが、ここは自分の居場所ではないと、四方からチクチクと針で全身を刺されているような感覚に陥る。

 わかっているよ。自分だって、こんなところにいて良い身分じゃないことくらい——そう思いながらにこやかにしているのは、討伐に行ってモンスターと戦うよりずっと疲弊する。そこにはヒーロースーツでは補えない強さが必要で、自分にはそれが圧倒的に足りない。

 ——焼きそば、食べたかったな……。

 でもあんなところで食べたって絶対に美味しくない。本当にお腹は空いていないし、たぶん味なんかわからない。それを幸せそうな顔をして食べていられるマリーのことは正直羨ましいとさえ思う。

 あと三時間これに耐えれば解放される。そうしたらEightに行って、あの焼きそばを食べよう。麺は冷たく伸びていて、ソースは干からびているだろうし、たぶんパックの形に固まっている。だがそれでも、今食べるよりはずっと美味しいはずである。

「ハッピー‼︎」

 すごく嫌な呼ばれ方だが、自分のことのような気がして渋々声のするほうを見やると、人混みの中から一人の少年が飛び出してきた。

 どこかで見覚えがある。一瞬考えて、いつだったか、指定避難所にぬいぐるみを届けに行った時のミニカー少年だと思い出す。

「よっ!」足元までやってきて、少年は嬉しそうに右手を軽く上げた。

「あのな、少年……」シャイニーは話し掛けながらその場にしゃがむ。「その『ハッピー』ってのはやめろ。マジでやめろ」

「なんで?」

「アタシは犬じゃないからだよ!」

「ねえ、シールちょうだい。もってるでしょ?」

 少年はその小さな掌をシャイニーに向けて差し出した。シールというのは各ヒーローが気紛れに配って良いと渡されている子ども向けの景品で、それぞれに持っているデザインが微妙に異なっている。その年毎にも変わるため、イベントに来る子どもたちの中には毎年それを全種類集めて回っているという強者も多い。

「……もう『ハッピー』って呼ばない?」

「わかったよぅ」口を尖らせて渋々頷く少年にキラキラのシールを渡してやると、ポケットから取り出した他のシールと合わせて嬉しそうに眺めている。見ると既にほとんどのヒーローに会っていて、コレクションはかなり進んでいるようだ。

「もうあげないからね? 失くさないでよ?」

「だいじょうぶだよ!」

 自信満々にそう言いつつ見事に失くすのが子どもである。取り出したシールを全部ポケットに突っ込むまでしかと見届ける。本当に生意気なガキだがそういうところは微笑ましいと思う。

「ホントにホントのヒーローだったんだな」

「だから言ったじゃん」

「お母さんにスマホで見してもらった。ずっと前もいたって書いてあったけど何さいなの?」

「教えない」

「ホントはオバサンなの?」

「キミの将来のためにアドバイスするけど、女の子にそういうこと言うと怒られるって覚えといたほうが良いぞ?」

「いーじゃん、ケチ。ねぎ食べらんないくせに」

「うるせェな」本当に最近のクソガキは躾がなっていない。「好きじゃないだけで食べられんの。大人だから。オバサンじゃない、オトナなの」

「ホントにぃ?」

「そんなこと言ってんだったらさっきのシール返せよな」

 小さな疑いの眼差しを向けられていると、群衆の向こうから少年の母親と思しき女性が小走りでやってきた。

「ユウマ、勝手に行かないでって言ってるでしょう。迷子になったらどうするの」

 まだ若い。もしかしたら自分とひと回りくらい違うかもしれないのに、淑やかで、大人しそうな女性だ。この少年の勢いに負けてしまうのではないかと心配になるくらいに。

 すみません、と彼女はシャイニーに向かって小さく頭を下げた。

「お母さん、この人、ユウナのぬいぐるみの人」ユウマ、と呼ばれた少年は叱られているのも気にせず、首を斜めに捻って母親を見上げ、シャイニーを指差した。

 立ち上がって挨拶をすると、母親は人差し指を立てる息子の手を掴みながら急に恐縮し出した。

「先日、下の子にぬいぐるみを届けてくださったそうで……ありがとうございました」

「いえ、勝手にしたことですから」

「避難所で泣き止んでくれなくて、困っていたんです。他の方のご迷惑になってしまって……本当に助かりました」

「お役に立てたのなら良かったです」母親は今時珍しいと思うほど丁寧に何度も頭を下げてくる。むしろこちらが恐縮してしまうくらいだ。「ご自宅のことは、災難でした」

「仕方のないことです。運良く、比較的すぐに仮設住宅に入ることができたので、良いほうですよ」

 母親はそう言って微笑んだが、滲む苦労は隠しきれていない。ミニカー少年によく似た目元に薄らと皺が寄る。何となく、昔見た母の笑い方に似ているような気がして、体の奥が疼いて不快だ。

 少年にせがまれて写真を撮っていると、やがて小さな女の子を抱いた男性が大股で近寄ってきた。このイベントには到底相応しくない不機嫌なオーラを全身から放っているのが遠くからでも見てとれる。

 抱き上げられた女の子は見覚えのあるクマのぬいぐるみをしっかりと抱いているが、その表情はあまり楽しげとは思えない。

「おい、まだか? いい加減にしろよ」

 女の子の不安げな仏頂面の原因がこの男性にあることは一目瞭然だった。父親と思われるその男性は、母親のところへやって来るや否や強い口調で詰め寄った。相手は自分の妻で幼い子どもまでいるのに、ひどく高圧的な態度だ。

「はい、ごめんなさい、今行きますよ」よくあることなのか、母親は短く溜め息を吐きながら適当にあしらう。「ユウマ、行こう?」

 少年はすぐに母親の隣に駆けていき、伸ばされた母の手を掴む。すると男性は少年に向かって上から叱りつけた。

「こんな奴らと写真なんか撮るな。ユウマ、こいつらのせいでユウマの家が失くなったんだぞ?」

「あなた、やめてちょうだい」

 母親が慌てて止めようとするのを見た男性はシャイニーのほうをキッと睨みつけ、声を荒げた。

「お前らがちゃんと仕事しないから家に住めなくなったんだろうが! こんなところでチヤホヤされて良い気になりやがって。死ぬ気で戦ってこいよ、金もらってんだろ?」

「あなた!」母親は先ほどまでの大人しさが嘘のように強い口調で男性を止め、シャイニーに謝ってきた。

「構いません。お気持ちは理解できますから」

 これは愛想笑いとセットの定型文である。実際、自身は家が失くなったこともなければ、避難所生活をしたこともないからこの家族の苦労や気持ちなどわかるはずもない。

 そもそも父親というものすらいたことがないため、この男性のことなどまるで理解できない。他人ならともかく、なぜ自分の家族に対してこんなにも傲慢なのだろう? 父親というのはそういう生き物なのか?

 元々の気質がそうなのか、父親になるからこうなってしまうのか。もし自分にも父親という人がいたなら、こんな感じなのだろうか?

 母親は申し訳なさそうに狼狽えているし、少年は母親にぴったりとくっついて顔色を窺っているし、妹は妹で父親の腕の中でグズグズと不機嫌そうにしている。父親だけが構わず苛立ちを放出し続けていて、何とも気の毒な光景だと思った。

 近頃この父親のようなクレームを受けることが多くなったと感じる。ヒーローは基本的に人命を第一かつ唯一の優先事項としているため、家やら物の保護は後回しにする。だが、その考え方が現代人には受け入れ難いらしい。

 命があるということこそが最高の贅沢であるはずなのに、平和によってそれが至極当然と教育されてきた現代人はそのことを知らない。口を開けばくだらない——家が狭いだの、食事が不味いだの、見た目が良いだの悪いだの、そんな文句ばかり。全部が自分にとって都合良く完璧に揃っているのが当たり前であり、揃っていても尚、不満しか出てこない。

 常に、どこかで、何かが足りない。けれどそのことを認めたくはない。足りないことは不幸なことで、自分が他人より僅かでも不幸であることは許されない。だから、苛々する。必死になって、足りていることにしたがる。どんな手を使ってでも。

 最近になって漸くそのメカニズムが何となくわかってきたような気がするのだ。本当に、なんて気の毒なのだろう。

「力が及ばず、申し訳ありませんでした」

 こんな安っぽい謝罪なんかでそれが満たされるのなら、いくらでも下げる頭はある。父親のほうはまだ何か言い足りないようだったから、それならば言ってもらって構わないとさえ思った。それで何かが変わるというわけでもないが、少なくともこの母親と少年がこれ以上とばっちりを受けるのは避けられるやもしれない。

 だが、父親は口を開かなかった。

「どうかされました?」

 気付くと傍らに3号が立っていた。彼女の視線も言葉も営業用のスマイルもすべて目の前の親子のほうに向いているが、右手が自分の背中に置いてある。

「あ、いえ、何でもないんです、うちの——」

「あ! スカイ・ハークだ!」母親が喋ろうとするのを遮り、少年が声を上げた。(かげ)ってしまっていたその顔に一瞬で光が戻る。

「お?」3号が膝を折る。「キミ、よく名前知ってんねェ、ありがとう」

「当ッたり前だろ! 今いっちばん強いヒーローだってみんな言ってる!」

 繋いでいた母の手を振り切り、前のめりになって3号と話し始めてしまった少年を後ろで見ていた父親はますます鬱憤が溜まっている様子で、苛々しているのがここまで伝わってくる。

「ハハハ、一番かァ……そう言ってもらえんの嬉しいけど、私全然一番じゃないんだよねェ」

「なんで?」

 興奮気味の少年に押され、照れ臭そうに顔の横を掻いている3号は、その父親の様子に気付いているのか否かわからない。おそらく気付いているだろうとシャイニーは思ったが、3号はそれを完全に無視して少年の言葉だけに集中している。

「いっぱいモンスターやっつけてるじゃん!」

「うーん……」3号は唸りながら首を傾げている。「やっつけてるけど、それって私一人でやってんじゃないし、みんながいないと全然強くないんだよ」

 ふぅん、と少年は不思議そうに頷く。おそらくまだ幼い彼に理解するのは難しい話だ。

 もう行こう、と母親が手を差し出して急かすも、少年は嫌がって言うことを聞かない。その様子を見ていた父親はうんざりしたように小さく舌打ちをして、とうとうどこかへ行ってしまった。

 だがそれも、今の少年には取るに足らない。

「ねえ、スカイ・ハークは本当に手がないの?」

「ないよ」

 突然の少年の純粋な質問に母親は慌てていたが、3号はすぐにそれを制止し、平然と垂れ下がった左の袖口を捲り上げて、肘から先の丸みを帯びた腕を露出してみせた。「昔はあったんだけど、モンスターに食べられた」

「へえぇー……」少年は3号の丸くなった肘から先をまじまじと見て、感嘆の声を上げる。「手がなくても死なないんだ」

「ただのラッキーだよ。キミは気を付けないとダメだよ?」

「なくなったらもう生えてこない?」

「うん、人間だからね。大きくなっても、たくさんご飯を食べても、生えてはこないね」

「いたかった?」

「よく覚えてないなァ」

 興味の向くままに遠慮なく質問を連発してくる少年に、見ていた母親はたいそう恐縮してしまった。「すみません、本当に……」

「ああ、良いんですよ、別に。これは名誉の負傷と思っているので」3号は笑顔でそう返し、再び少年のほうを見る。「覚えておいてね、少年。この世には、どんなにお金をもらっても、買えないものっていうのがあるんだよ。それを守るのがヒーローの仕事なのさ」

 そんなことを幼子に説明したところで理解できるかどうかはわからない。それでも少年は3号の言葉を真剣に聞いてくれている。

 だからね、と突然3号はぐいっとシャイニーの腕を引っ張ってその場に屈ませた。「私たち、頑張ってみんなの大事なものを守るから、これからも応援してくれる?」

 少年はしばらく3号の顔をじっと見て、それからシャイニーのほうに視線を向ける。その真っ直ぐな眼差しが眩しくて、痛い。

「うん、いいよ」

 その返事を聞いた3号はにっこりと微笑んで、ポケットからキラキラのシールを取り出して少年に差し出した。「じゃあこれをキミにあげよう」

 先ほどシャイニーがあげた景品シールの、3号バージョンである。

「やったぁ!」

「ほら、ちゃんとしまって、もう行きな。ママの言うことは聞かないと」3号は立ち上がり、少年の体を反転させる。「ママを困らせちゃダメよ? キミの役目はママと妹ちゃんを守ることなんだから」

 少年の旋毛(つむじ)に3号の言葉が落ちる。駆け出した少年は母親の手を取って、振り返った。

「ありがと、バイバイ! またな、シャイニー!」

 少年は張りのある高い声で叫んで大きく手を振り、何度も会釈を繰り返す母親と人混みの中に消えていった。

 ——なんだよ、ちゃんと名前言えるんじゃないか。

「……犬から昇格できた」

「は?」

「何でもない」シャイニーは小さく頭を振る。「ありがとう」

「可愛いねェ、あの子。あんたの小さい頃みたい」

「ええ……?」あんな生意気なのと一緒にされたくない。「もっと可愛かったでしょ」

「自分で言うな」

 3号が脇腹をどついてきて(くすぐ)ったい。自分が幼かった頃はあんなに、それこそこちらが引いてしまうくらい可愛い可愛いと言ってくれていたのに。

 あの頃はまだ、彼女にも左手があったのに。

「アンチに絡まれてるのかと思ったから声掛けたのに」

 ある意味正解だが、それほど神経質になることでもないとシャイニーは思っている。「まだ心配してくれてるの?」

「当たり前でしょ。許さないから。私」口調は軽いが、3号は割と本気で許さないつもりのようだ。「あんたを虐めて良いのは昔から私だけって決まってんの」

 その台詞に思わず吹き出してしまったが、3号は膨れ面になっている。そんな特別ルールがいつ承認されたのかは知らないが、どうやらそういうことになっているらしい。

 たとえ3号でも虐められたくはないのだが、彼女の場合、昔からちゃんとクッションを添えてくれるからまだ良い。先ほど背中に置いてくれていた右手のように。

「ねねね、それよりさ……——」

 3号は突然声を弾ませ、肩を叩いてきた、と思ったら、徐ろに自分のヒーロースーツの襟部分からその手を突っ込んだ。思わず目を背けてしまったが、3号は平然と自身の胸を(まさぐ)り、やがて何かを取り出して見せてきた。「見てェ、この子たち! 可愛いくなァい?」

 恐る恐る視線を戻すと、3号は嬉しそうな顔をして、掌より少し大きなぬいぐるみをごろごろと抱えていた。何となくいつもより大きいと思っていた胸部分はぺたんこに(しぼ)んでいる。

「何コイツら……」

「私らの()()」青色の3号と、オレンジ色のシャイニーをデフォルメしたぬいぐるみ——ボディの倍くらいのサイズの頭部が付いて、おそらくは自立できない。「さっき歩いてたらね、ファンの子が声掛けてきて、くれたの」

「へえェ……」

 ヒーローの着せ替え人形なら昔からあったし、理解できるのだが、最近はぬいぐるみにもなってしまうらしい。3号に抱かれてドヤ顔をキメている自分と目が合ったが、それにしてもスタイルが悪すぎやしないか? なのに、ぬいぐるみの分際で3号のヒーロースーツの中に入れてもらえるなんて、図々しい奴。

 ——なんかむかつく。放り投げてやりたいくらいだ。

「本物のほうが可愛くない?」

「馬鹿タレ! それはそれでしょ!」怒られた。「あとで『マリー』も探す」

 たしか、全ヒーロー分が存在するのだ。『シャイニー』は最近——公式ホームページに情報が解禁されてから追加された新しいもので、『マリー』は新スーツになってデザインが変更されたばかり。『スカイ・ハーク』も再登場してから追加されたが、今一番人気の3号関連のグッズは正規に手に入れるのが難しいとされており、ネットで高額転売されることもあるとか。今日のシールも本来は無料配布物だが、彼女のデザインは受け取った人がフリマアプリに出品して商売をする可能性があるため、彼女自身、基本的にはあげないことにしていると言っていた。あの少年は実に貴重なものを手に入れたというわけだ。

「じゃ、私行くから」再び『シャイニー』をヒーロースーツの中に押し込みながら、軽い口調で言う。顔が潰れていて、ザマアミロと思ったことは口には出さない。

「どこに?」

「決まってんじゃない。自称『NPO団体』様のお相手よォ」

 ああ、と思わず声が漏れた。時々彼女の元へはそういった特殊な団体の人間がビジネスをチラつかせてやってくる。聞いたこともない名前の怪しい団体でも、一応は相手をしなくてはならない。

 しかし面倒臭い、胡散臭い、うざいと3号は嫌がるが、本当に気の毒なのは『左手のない可哀想なヒーロー』を目当てにノコノコとやってきた相手のほうである。3号と面会した担当者は決まってゲッソリと頰が痩けた姿で部屋から出てきて、足を引き摺り肩を落として帰っていくのだから。聞き耳を立てているわけではないから知らないが、おそらく皆、3号にコテンパンに()()()()()しまうのだろう。

「ああ、そうだ。焼きそばの上にさ、バナナ置いといた」

「バナナ?」

「棒が刺さっててさ、チョコがついてるやつ。さっき、くじ引きしたらもう一本当たった」

「アンタって本当運が良いわよね」

「日頃の行いよ」ふん、と3号本体は得意げに顎を突き出しているが、まだ手元にいる『スカイ・ハーク』は優しく言う。「ちゃんと食べな? 元気出ないよ?」

 可愛らしい顔面デザインだが、特徴はよく捉えられていて、どことなくクールなお姉さん風である。

「……うん、そうする。ありがとう」

 片手を軽く上げて彼女を見送り、自分は踵を返す。くだらない話のおかげで少し力が抜けたのか、先ほどよりは食べ物を受け付けてくれそうな気がする。

 だが、——

 

「ユキちゃんなの?」


 反射的に声のするほうに顔を向ける。三メートルくらい離れたところに、一人の男性が呆然と立っていた。その表情だけは驚きに満ち、顔から目が落ちてしまいそうなほどまん丸に見開いてこちらを凝視している。

 ただのファンじゃない。一瞬のうちに思考を巡らせたが、自分の知り合いではないと思った。外見は非常に紳士的で、傍らに孫ではないかと思われる少年がいてしきりに服の裾を引っ張っている。

「ねえじいじ! じいじー!」

 幼い子どもから何度も名前を呼ばれて我に返っていたが、その対応はぎこちなく、どうしてもこちらのことが気になって仕方がない様子である。

 心臓が煩い。その男性の声が頭の中をリフレインしている。

 ——『ユキちゃん』……?

 それは、もしや、——。

 自分と間違えるような『ユキちゃん』なんて、一人しか知らない。しかも変身中の姿を見て、思わず本名を発してしまうような関係の人物なんて——。

 背丈は自分と同じくらい。年はおそらく、母とさほど変わらない。

 まさかとは思う。そんなはずはないし、そうだったとしても困る。だが自分の中の何かは既に、この間に漂う異様な空気感の中、確信めいたものを持っている。

 トントン、と腕を叩かれた。はっと肩を震わせると、足を止めてこちらを窺っていた3号がいつの間にか傍らに戻ってきており、眉を顰めて自分の顔を見上げていた。

「……ごめん。大丈夫」何を言いたいのか察し、咄嗟にそう返事をしたが、添え続けてくれる3号の手がやに温かく感じて、もう少しだけ離れないでいてほしいと思った。

 ずっと向こうに、男性の親族と思われる夫婦がいて、男性は寄ってきた孫をそちらに走って行かせると、戸惑いながらもこちらに向き直った。

「申し訳ない、あの……——」

 聞いたことのないはずのその声は、なぜだか親近感があり、強く懐かしさを帯びている。張り詰めているはずの疑念の膜が機能しない。

 そんなはずはない——ただそう蓋をするしか自分を守る手段がないことが、とても怖い。




 本部に帰還してチーフの姿に戻った後、イベント会場近くの喫茶店を訪ねた。男性は一人で、奥の二人掛けのテーブル席に座っていた。

 真理子は会場で男性を見ていないため、話を聞いてすぐに「大丈夫なの?」と怪訝そうに訊ねた。当然のことである。だが、男性を見た葵はきっと自分と同じことを感じたのだろう。自分が空くまで待て、とだけ言って、会うことに関しては否定しなかった。

 母から父親の話を聞いたことは一度もない。別れた原因はもちろん、ほんの僅かな間でも結婚していたことがあるのかとか、そういう話すら知らない。「なんでえいとくんのおうちはおとうさんがいないの?」と幼い頃に訊かれたことはあるが、なぜだろうと一瞬疑問に思ったくらいで、それがいるからといって何なのだろうとすぐに忘れてしまった。父親とのキャッチボールを自慢されても興味のない子どもだったのである。ただ一つだけたしかなことは、自分が物心ついた時、既に父親というものの存在はなかった。そして現在に至るまで、一度も目の前に現れたことはなく、写真ですらその姿を拝んだことがないということだ。

 だが、改めて近くで男性を見ると、もうそんなはずはないなどと悠長なことは考えられなかった。第六感というものが本当にあるのなら、おそらくそれが、この人が自分の父親だろうと、炳として言っていた。

 チーフの姿を認めた男性はすっと立ち上がり、その場で頭を下げた。つられて軽い会釈を返す。水を持ってきたウェイターに珈琲を頼んで、男性の向かい側の席に腰を下ろした。

 自分の後ろの席に葵と真理子がいるのは知っているが、脚の上に置いた自分の手が震えようとするから拳に力を入れていなければならなかった。だが、真理子が馬鹿みたいにフルーツパフェを注文したのが聞こえた途端吹き出しそうになってしまって、それからは不思議と力を抜いても震えなくなった。

 男性は一枚の名刺を差し出してきた。そこに書かれていた名前は自分の苗字とはまったく違い、よく聞く、どこにでもいるような名前だった。聞いたことのある大企業のシニアアドバイザー——おそらく定年した社員が就くポジションなのだと思う。

 目の前で、そのほとんどが白く染まった頭がゆっくりと下がる。「申し訳ない。あまりによく似ていたものだから思わず声を掛けてしまって」

 とても品のある人だと感じた。先ほどのイベント会場で好き放題に自分の都合を喚き散らしていたあの父親とは、種類がまるで違う。

「いえ、構いません。よく、そう言われますので」

 口を開いて初めて、自分の声が少し上擦った、営業用のものに近いことに気付く。意外に自分が微笑んでいるのもそのせいだ。考えてみたら、自分は一体何をしにここへ来たのだろう? この人と何か話すことがあるのだろうか?

 嫌な沈黙が流れかけたが、絶妙なタイミングでウェイターが珈琲を持ってきてくれたため、それは回避された。ひとまず運ばれてきたカップを手に取り、口に付けた時、ふと上目で男性のほうを見た。その仕草はまるでそこに鏡があるかのようだった。

 カップを口に当てたままその動きに見入っていると、先にソーサーの音を立てた男性が静かに話し始めた。

「幸ちゃ……幸子さんには、とてもお世話になったんです。まだ私も、とても若かった頃の話ですが」

「……そうですか」カップからは湯気が立ち上っていて、猫舌の自分には熱いはずだが、飲み下しても温度どころか味すらもわからない。だが、口だけは至って冷静に声を出す。「幸子は、母です」

「どうりで、よく似ているわけだ」

「そのようです。母を知る人からも、そっくりだと」

「ええ、そのとおりですよ」男性は頷きながら目を細める。「彼女の活躍は、当時テレビでも新聞でもひっきりなしに取り上げられていましたから、私も、よく見ていました」

「そうですか」

「こんな立派な()()()()がいらしたとは知らなかった。君も若いのに、ご立派なことだ」

「いえ」

「幸子さんは、お元気ですか?」

 訊かれるだろうと思ってはいたものの、やはり何と答えれば良いのか迷ってしまった。嘘をつくつもりは毛頭ないが、伝え方の問題だ。

「三ヶ月ほど前に、亡くなりました」結局、ストレートに言う羽目になった。誤魔化しているみたいで、遠回しに伝える気にはならなかった。

 男性は間違いなく驚いていた。それはそうだろう。世間的には六十歳なんて、まだまだこれからと言われる年齢である。

 男性はしばらくは何も言わず、ただ戸惑うばかりのその表情の中には物悲しそうな、申し訳なさそうな心持ちが滲んでいて、暫し物思いに耽った。

「そうですか……」やがて、男性はぽつんと呟いた。「その……差し支えなければ教えてほしいんですが、どこか体が悪かった、とか……?」

「いえ……まあ、そうですね。そんな感じです」

 半分正解だが半分は違う。これに関しては真実を話すわけにはいかず、迷って曖昧な回答をしてしまった。が、男性はその回答で納得したようにまた頷いて、珈琲を飲んだ。

 再びゆっくりとカップを置いた時、彼は意を決したように顔を上げ、一つの質問をしてきた。

「君に、お兄さんかお姉さんはいますか?」

 瞬間的にその問いの意図がわからず、小さく首を傾げた。頭の中で考えを巡らせ、「いません」と正直に答えた後、少し寂しそうな顔をして俯いた男性を見て漸くある可能性に辿り着く。

 この人は母が自分の子を身籠ったことを知っていたのでは?

 しかしその子がどうなったのか、その性別すらも知らない。だから、自分が今自身の息子と話をしているのだということにも、気が付いていない——。

 若いのに、と先ほどこの男性が何気なく言っていたのを思い出す。おそらく今、自分は実年齢よりも下に映っている。もしこれが自身の子だとしたら計算が合わないと考えているのだろう。

「そうか」彼は息を吐くように頷いた。「いや、良いんです、それなら。ありがとう」

 小さく首を何度も縦に振る彼を見ながら、珈琲を飲むふりをして、自分はどうすべきなのだろうかと考える。自分のことだと正直に名乗り出るべきなのか、知らぬふりを通すべきなのか——どちらもどちらで、特に前者のほうはあまり乗り気ではない。

 考えているうちに、男性はまた口を開いた。沈黙の間にもう自身の中で何かを吹っ切ったのか、爽やかに流れるような口調になっていた。

「君もヒーローをやっているなんて、やっぱり幸ちゃんの子だ。彼女、少し抜けているところがあっただろう? だからヒーローなんてやったら危なくて私の心臓がもたない。だから反対してね。それが原因で別れてしまったのだけど」

「……」

「すまないね。自分の母親の色恋なんて聞きたくないよね」彼はそう言って、力なく笑った。「君も怪我に気を付けて、頑張って」

 少し考えた末、珈琲代をテーブルに置いて席を立つことを選んだ。

 だが、男性に背を向けて一歩踏み出したその瞬間、この上ない不快感が全身を支配していることに気付いた。このまま黙って立ち去るには、どこか居心地の悪いものが胃の辺りに詰まっていて、どうにも不愉快だった。

「母は……——」

 だからといって、よりによってなぜその言葉を選んだのかは自分でもよくわからない。

「ずっと彼氏もいませんでしたし、生涯独身でしたよ」

 その男性に何を求めていたのか、どんな顔をしてほしかったのか、何か言ってほしかったのか、何もわからない。ただそれを聞いた男性は状況を理解できない様子で固まっていた。

 だが、それでも構わなかった。

「もう二度と会うことはないと思いますが、お身体に気を付けて」

 振り返らなかった。もらった名刺はテーブルの上に置いたまま、店を出た。

 ほとんど走っているにも等しい速度で少し歩いて、大きな交差点の信号機が点滅しているのが見えた。いつもだったら渡らないタイミングだったが、無理矢理に全力で走った。渡り終えてすぐに膝に手をついて立ち止まると、背中で車が激しく行き交う音が聞こえた。

 たったそれだけのことなのに息は上がって脚は震える。ヒールで挫いてしまいそうだ。自分の額や背中に汗が滲んでいるのがわかるのに、頭だけがひどく冷たい。

 なぜこんなにも自分は動揺しているのだろう? あの人が誰だったのか、何だったのか、結局のところ確かな根拠は何もないのに、ふんわりと立ち込めているだけの可能性に、なぜこんなにも揺り動かされなくてはならない?

 訊けば良かったのか? もっと、確実なことを。想像する隙間すらないくらいに訊いて、埋めてしまえば良かったのだろうか?

 ——もう、わからない。

 名刺は置いてきた。本当に、もう二度と会うことはないし、訊ねることもできない。

 それで良い。今さらもう、全部、どうでも良いことじゃないか。

 母は、知ってほしかったのだろうか?

 今さら?

 何のために?

 葵と真理子を置いてきてしまったことに、漸く思考がいく。もしかしたら二人も店を出て、自分を追ってくれているかもしれない。もしかしたら、今の信号を渡れなかっただけで、横断歩道の向こう側に立っているかもしれない。振り返って、確認して、待っていなくては。二人とも、自分を案じてついて来てくれたのだ。イベントで疲れているはずなのに、自分のために。

「……」

 上体を立て直し、再び前に歩き出す。振り返ったら違う何かがいて、追いつかれてしまうような気がして怖かった。

 駄目だ。これ以上、考えてはいけない。

 逃げたい。後ろでまた信号が変わってしまう前に。

 気が付いたら走っていた。会社に着いたら連絡を入れよう。葵も真理子も怒っているかもしれない。ごめん、ありがとう、と伝えよう。きっと会社に着いたら大丈夫だ、あそこでの自分は完璧な『チーフ』をやれる。

 そうしないと、今の自分では——


「ああ、桜庭クン!」


 正面玄関から入ってすぐ、本部長の太い声がロビーに響いた。珍しく開発室長が横に並んでいる。

 最悪のタイミングで戻ってきてしまったなと心底うんざりする。社外の人間である開発室長がいるということはおそらく会議にやって来たのだろうが、時刻は既に午後五時を回っている。この時間に終わるよう会議をセッティングして、今まさに外に出ようとしているということは、メインイベントの食事会にでも繰り出すところに違いない。

 勘弁してほしい。一緒に来なさいなどと言われても、今は無事に最後まで対応し切れる自信がない。

 本部長がにこやかに手招きをするので、仕方なくそちらに歩み寄る。たいていの確率で生乾きの洗濯物みたいな臭いがするから、正直あまり近寄りたくはない。

「お世話になっております」

「どうも。相変わらず麗しいね、君は」

「痛み入ります」差し出された手を取って握手を交わす。チーフの豹変ぶりが怖い、と真理子は言ったが自分でもそのとおりだと思う。この状態でなぜこんなにも愛想良く挨拶ができるのか、訊いてみたいくらいだ。「本日は、お打合せですか?」

「今度ヒーローに支給していただく試作品の報告にいらしたのだよ」本部長が得意げになって代わりに回答する。「今のヒーローは、対モンスター戦闘に慣れていないだろう? 実戦で限界を見誤ると危ないとお気遣いをいただいてな、危険域に達したことを知らせる装置を開発してくださったのだよ」

「いやいや、本部長、まだ途中段階ですから……」

「何を仰います。あの状態ではもはや完成したも同然でしょう」

「まだこれからですよ」台詞の割に満更でもない様子である。「個人差があるので、どこで警告を出すのか調整が難しくて、苦戦しているところです」

「何、室長にかかればそんな些細な問題、すぐに解決しますよ」

 気持ちが悪い。よくそんな歯の浮くような台詞を平然と交わせたものだ。聞いているだけで鳥肌が立ってしまう。

 開発室というのは、ヒーロースーツは元より対モンスター用の武器や化学薬品、それに伴う装置などの開発を行なっている研究機関で、政府の直下にある公的な組織である。元々はこの会社もその一部分にあったものが、ヒーローというものが誕生して間もない頃に、ヒーロー部門だけが独立して民間企業化したのである。その心は、ヒーローが実は『人体兵器』であるということを国が黙認していたことがいつか万が一にもバレた時に都合が悪いからという、大人の事情である。

 成り行きはどうあれ、一民間企業の立場からすると、開発室長というのはそれはそれは偉い御役人様に等しい存在で、本部長は常日頃からご機嫌取りに勤しんでいる。たしかに開発室が様々なものを研究開発してくれなければヒーローは現場に出ることすらできず、命の危険に晒される可能性もあるため、仲良くやっていくのは不可欠だろうが、なんだか人質を取られているかのように感じられてチーフとしてはどうにも不快なのである。

 ただ、現在の開発室長の視点はさほど的外れというわけでもなく、実際に出来上がってくるものはどれもたいてい現場のヒーローたちの役に立っている。純粋に発想や技術のことだけを見れば、協力を惜しむ理由はない。だからチーフ自身、好きではないが、敵対するつもりは毛頭ないのである。自分が愛想を撒いておくだけで円滑に進むのなら、少しくらいの不快感は許容しなくてはならない。

「そうだ、ちょうど良い!」本部長が突然、大袈裟なほどに抑揚のついた声を上げて、チーフの肩に手を置いてきた。「ご協力しますよ。どうだろう桜庭クン、キミがこの装置を試させてもらっては」

「はい?」

「今日は皆イベントで出払っているからねえ、試用は後日と思っていたが、キミがいるじゃないか。ちょうど良いよ」

 あまりに突然すぎる展開に頭が追いついていない。

 戦闘中に危険域に達することを知らせる装置——フリーズ状態になりそうだと警告をしてくれるということだろうが、その警告がうまいタイミングでなされない。それを試すというのは、つまるところ、わざとフリーズするまで力を使って戦い続けろという危険極まりないオーダーをされているわけで、そんな無茶苦茶なことを開発途中の未熟な装置で試すなんて、通常ならば間違いなく断る事案である。

 だが、たしかにうまく発動してくれればその装置の存在はありがたい。モンスターを前にしてフリーズすることは、即ち死を意味する。そのリスクを避けたいというのは、自分を含め誰もが望むところだ。完成は可能な限り早いほうが良い。

 それに実際に実用化するとなれば、必ずいつかは誰かが試用しなければならない。他の誰かにそんな危険なことをやらせるくらいならここで自分が受けたほうが良い。

 ——何だろう?

 どうにも体が疼くのだ。腹の底で、何かが沸々としていて、それを抑えていられない。

「いやいや、さすがに現役のヒーローにお試しいただくほどの完成度ではありませんから——」

「構いませんよ」

 遠慮する姿勢を見せる室長を制してそう返した自分はおそらく、とてもにこやかだったと思う。

 この感覚、ずっと昔に、経験したことがある。率直に言って、よろしくない、感覚。このまま放っておくと誰かを傷つける予感がする。

 そうなる前に、自分で何とかしなければならない。

「ワタクシでよろしければ、是非、ご協力させてください」

 なぜなのだろう?

 もしかしたら、今日がイベントの日だということは前々からわかっていたはずなのになぜ室長は本部を訪ねてきたのか理解に苦しむとか、嫌いな上司の汚い手で肩を抱かれたからとか、そんなくだらないきっかけだったのかもしれない。

 一番大きな訓練場が空いていたから本部長は上機嫌だった。更衣室に寄り、再びシャイニーに変身する。髪が上手く結べないだけで苛々する。行ってはいけないと、止められているような気がして。

 更衣室を出ると葵と真理子がいた。喫茶店に置いてきて、未だ連絡もせずにいるなんて無礼千万なことをして、さぞ怒っているかと思いきや、二人はとても不安げな顔色でこちらに駆け寄ってきた。

 でも、今は話せない。廊下を進む足は止めない。

 今の自分が口を開いたら何を言うかわからない。頼むから話し掛けないでほしい。

「ねェ、シャイニー——」

 無視して歩いていたら、ふと視界の隅に入った葵の視線が泣き出してしまいそうに見えて、逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。

 ——なんで、そんな顔すんの……?

 何も言わなくともあんな顔をさせてしまうのか。自分は。

 心臓を掴まれているみたいだ。痛くて立っていられずその場に蹲る。懸命に息をしても苦しくて、そのまま握り潰されてしまいそう。

 ——いっそのこと、そのまま、握り潰してくれたら良いのに。

 どうしようもない。

 そんな自分なら、いらない。

 そんな、いるだけで、傷つけることしかできない自分なら。


* * *


 最初にあの男性が目の前に現れた時、この人が父親である以外に何があるのだろうかと感じた。どこがと問われたら即答は難しいが、同じなのだ。その初見の僅かな一瞬に、自分の中に入ってきたものが似ている。おそらく英斗が男性の姿で歳を取ったらあんな雰囲気になるのだろうなと思っていたものが、そっくり具現化されていたものだから、さすがの3号も一瞬反応を見失ってしまった。

 本人も似たようなことを感じたのだろう。近くで聞いていてくれないか、と言ったのは意外にも英斗のほうだった。頼まれなくても同行するつもりだったが、まさか自分からそれを頼んでくるとは予想外だった。いつも邪魔をしている意地なんてものは最初からなかったかの如く鳴りを潜め、なんだか先生に叱られる前の子どもみたいに小さくなっている。

「すぐ済ませて来るから、私が空くまで待てる?」

 うんうんと小さく何度も頷いて、彼は彼の仕事に戻っていった。私事とはいえあれだけ乱されてしまってはと案じたが、午後の役割も変わりなく務めたところはさすがにプロだと思った。今日に限っては自分のほうがおそらく心ここに在らずだった気がする。

 ただ、一緒にステージに上がったりファンサービスに回っていたマリーは、一連のことを何も知らないはずなのに隣に立つシャイニーの異変に気付いたようだ。前々から思っていたが、彼女は恐ろしいほどに勘が鋭い。

「ねェ、何かあった?」

 本人に直接訊くのは気が引けたらしく、バックヤードで再会した時、開口一番にそう訊ねられた。3号は一瞬迷ったが、起きたこととこれから起こることを正直に伝えることにした。完全な個人の領域であって、もしかしたら英斗は勝手に喋ったことを怒るかもしれないが、こればかりは自分の手にも負えない予感がしたし、不思議とマリーがいたほうが、何となく英斗が落ちていかずに済むかもしれないと思ったのである。

 きっと自身も焦っていたのだ。彼女にはお粗末な説明しかできなかった。だが、それも彼女は汲み取ってくれて、ちょうどそこへ戻ってきたシャイニーに、大丈夫なのかと声を掛けた。

 自分を見上げて眉根を寄せるマリーを見て、自分のプライバシーがダダ漏れになっていることを察したシャイニーだったが、怒ることはなく、むしろそのほうが良いとさえ感じているようだった。

「喧嘩はしちゃダメよ! あと、怒っても『クソジジイ』とか言っちゃダメだからね⁉︎」

 こんな時、お母さんは強いと感じる。年齢も立場もどちらが上だかわかったものではない。

「はい。気を付けます……」

 苦笑いを浮かべて誤魔化しても、自信がないのは伝わってくる。行く先は同じはずなのに、会社に戻る、と慌ただしく先に出ていったのは、その動揺を悟られたくないという表れだったのかもしれない。

「……マリー。予定が平気なら、一緒にケーキ食べない?」英斗は嫌がるかもしれないが、いてもらったほうが良いと思った。「今日頑張ってたから、奢ってあげる」

「え! 本当⁉︎」やったー、と今度は子どものように目を輝かせてはしゃぎながら、いそいそと身の回りの片付けを進める。先ほどのお母さんっぷりやチョコバナナを断っていた彼女はどこへ行ってしまったのやら。

 折り畳み式テーブルの上で、昼に置いた名前入りの焼きそばとチョコバナナが冷たくなって忘れられている。結局この時間まで何も口にしていないのが非常に気掛かりだ。無駄になりそうな気がするが、ひとまず袋に入れて持っていくことにした。

 真理子と共に会社に立ち寄り、指定された喫茶店に向かう。二人の近くの席に座って珈琲を注文した。

「ねェ、ケーキじゃなくてパフェ食べても良い?」

 キラキラの眼差しで真理子がそう訊くので、快くOKを出す。この雰囲気の中で元気にフルーツパフェを注文している真理子の声は、おそらく後ろを向いている英斗にも聞こえていると思う。

 男性が差し出した名刺は遠くて見えない。英斗はそれをテーブルの隅に置いて話をしている。心なしか、ここへ来たばかりの時よりは肩の力が抜けているように見える。

 思ったとおり、男性は過去に幸子と交際していたことがあるらしい。昔、幸子が自分に子どもがいることを初めて葵に話した時、「結婚はしなかったが勝手に産んだ」と言った。だから、あの男性は生まれた子どもには一度も会っていないはずで、それが目の前にいる英斗だということも知らない可能性が高い。

 最悪の場合、子どもの存在自体を知らないのではとも考えたが、それは男性のある質問によって否定された。

「君に、お兄さんかお姉さんはいますか?」

 英斗のことを『若い女の子』と認識して、計算したのだろう。だが、知らないにしてもこの事実は、本人にしてみればかなり酷ではないか?

 だって、彼は幸子が妊娠したことを知っていたにもかかわらず、別れて、その結果その子どもがどうなったのか——生まれたのか、生まれなかったのか、男の子なのか女の子なのか、何も知らないということだ。どんな経緯があって、どういう理由かも不明だが、子どもごと幸子を捨てて逃げた父親と解釈しても何らおかしくはない。

 英斗が変なほうに受け取っていないかどうかが不安だ。あの子はすぐ自分の存在を悪いほうにしたがる癖がある。

 あまり突っ込んだ話をするのもと思い、幸子には英斗の父親のことは詳しく訊かなかった。こんなことになるなら訊いておけば良かった。せめて、幸子が亡くなる前に。もう他に誰も、真実を語ることができる人はいない。他人が何を言ったところで、英斗にとっては都合の良い気休めの解釈にしかならない。

 男性は、幸子がヒーローを続けることに自分が反対し、それが原因で別れたと言ったが、それ以上は口を噤んだ。話を聞いている英斗の顔が見えないのがもどかしい。どんな顔をしてあそこに座っているのか、想像がつかない。

 真理子はいつの間にか運ばれてきていたフルーツパフェを長いスプーンで突いているが、これが大好きなパフェを目の前にして浮かべる表情とは到底思えない。味なんてほとんどわかっていないのではなかろうか。

 やがて、英斗はテーブルの上に財布から出した札を置くと静かに席を立った。怒っているのか、悲しんでいるのか、と思ったが、こちらを振り返った顔にはどちらの表情もついていなかった。そして、何を思ったのか、一瞬躊躇った後に再び男性のほうに向き直る。

「母は、ずっと彼氏もいませんでしたし、生涯独身でしたよ」

 勘の良い人なら、その一言で十分だったはずだ。或いは、もしかしたらと、どこかに引っ掛かるくらいには。

 男性の返事を待たず、英斗は店を出ていった。残された男性は困惑した様子で茫然と席に座ったままだ。

 ——わからない。

 何を考えている? そんなこと、教えてやらなくたって良いじゃないか。もしかしたら母親ごと自分を捨てて逃げたのかもしれない父親に、何たってわざわざそんなことを?

 そんなことを言うくらいならはっきりと訊いてやれば良い。なぜ母と結婚しなかったのですかとなぜ訊かない? それが知りたかったからここまで話しに来たのではないのか? 父親も父親だ、中途半端に情報開示しやがって。英斗が口下手なのは十中八九アイツのせいだ。

「……ねェ、葵ちゃん」ぽつんと、目の前の真理子が小さな声を漏らす。「ごめん。これ、残しても良い……?」

 真理子はまだ半分くらいカップに残っているパフェを目線で指して、申し訳なさそうに俯いている。その姿に、何となく救われている自分がいることに気付く。

「……うん。良いよ。もう行こう?」

 落ち込む真理子を宥めつつ、席を立つ。憤るよりも、自分にはもっと大切なやらねばならぬことがある。

 店を出る直前、もう一度あの男性のほうを見た。彼はやはり席に座ったままで、両肘をテーブルに突き、その白髪の頭を抱えていた。

 さほど遅れは取らずに出てきたはずだが、先に外にいた真理子は英斗が見当たらないと報告してきた。たしかに周囲を見渡しても姿はない。

「どこ行った……?」

 この時間だと会社に戻っている可能性が高そうだが、なんだか嫌な予感しかしない。今日はイベントのために社内は皆出払っているだろう。

「——、真理子ちゃん、ありがとう、私会社戻るね」

「あたしも行く」真理子はすぐにそう言い、葵が止めたタクシーに乗り込んできた。

「え、おうち、平気なの?」たまには早く帰ったら、と言おうとしたが、真理子のほうが先に得意げな顔を向けて拳に親指を立てた。

「ええ、こういう時の旦那サマサマよ。あたしこんなんで帰ったら御夕飯食べられないわ」

 呆気に取られる葵を尻目に、真理子はさっさと運転手に車を出すよう指示している。何とも頼もしい同僚ができたものだと、葵は思わず笑いを漏らしてしまった。

 会社に着いてすぐ、ロビーの受付嬢にチーフが通らなかったかと訊ねた。

「先ほどお戻りになられて、そちらで開発室長とお話しされていましたよ」

「は? なんで室長がいるの?」

 開発室長というのは、厳密に言えば社内の人間ではない。ヒーロースーツや武器の研究開発を行う機関があり、その責任者だ。こいつがまた厄介な曲者で、葵は正直昔から好きではない。

「本日は本部長と御打ち合わせの予定が入っております」

「そう……で、桜庭統括はその後どこに行ったか知ってる?」

「訓練場を予約されていったので、おそらくはそちらにおられるかと」

 本当に、嫌な予感しかしない。

 受付嬢に礼を言い、急いで階段で二階に上がると、ちょうど更衣室から出てきたシャイニーの姿があった。

「なんでその格好なの?」思わずそう訊ねた。今日は討伐の出動要請は出ていないはずだ。

「室長が新しい装置? 作ってるから、協力してほしいんですって」

「装置? 何それ?」

 シャイニーはそれ以上質問には答えず、足も止めない。そこにはただ淡々と何の感情もない言葉が並ぶ。「ごめん。さっきはありがとう、一緒に来てくれて。助かったわ」

「それは良いんだけどさ、あんた——」

「悪いんだけど——」決して強い口調ではないのに、完璧に遮られた。その視線だけで自分を黙らせてきたのは、もしかしたら初めてかもしれない。「アタシまだ仕事があるの。今度お礼する。真理子、アンタもう帰って良いから、たまには家でのんびり過ごして」

「……」

「ねェシャイニー、あの——」

 全身で、絶対に来ないでと言っている。葵の話も真理子の話も素っ気なく(かわ)し、まったく相手にしてくれない。一緒にエレベーターに乗ることすら拒否され、無情にも目の前で扉は閉まる。

 扉の上の階数表示を睨んでいると、案の定十一階で止まった。予約された訓練場のあるフロアだ。ここまで来ると予感はほぼ確定で、あとは程度の問題だろう。

「葵ちゃん!」

 気付くと真理子がもう一台のエレベーターを呼んでいて、中から手招きをしていた。咄嗟に開いた扉に飛び込み、十二階を押すよう頼んだが、あとのことが何も考えられない。とりあえず、そこから観覧室へ行ける。何をする気なのか知らないが、言うとおり新しく開発した何かに協力する目的なら、おそらく開発室長と本部長はそこにいるだろう。

「葵ちゃん、大丈夫?」

 真理子が自分の顔を覗き込んでいる。

「……なっさけな……」その顔を見ていると、不思議と心の声が漏れてしまう。英斗が良いも悪いも無意識に全部喋ってしまうのも何となく頷ける。

 三十年以上付き合ってきて、たいていのことは何でもわかっているつもりだったのに、根本的なところは何も知らないどころか理解すらできないのだと思い知らされる。自分は両親と上手くいっていないが、父と母は仲の良い夫婦だったし、元々は自分とだって関係が悪かったわけではない。そんな自分が今、何を言ったら良いというのだろうか。

 先ほど言葉を遮られた時、何も返せなかったのはその負い目があったからだ。彼は間違いなく自分を拒絶していて、それ以上触れてさらに拒絶されるのが怖いと思ってしまった。

 昔はそんなこと、考えもせず、抱き締めてあげられたのに。

「大丈夫よ、葵ちゃん」真理子はニコニコと微笑んでいる。「チーフはちゃんとわかってるわ。あの人、葵ちゃんのこと大好きだもの」

 何を根拠があるのかわからないが、彼女は自信満々にそう言い切る。「あの人、何したって葵ちゃんはどっかいなくならないって、信用してるのね、きっと。だから葵ちゃんは、ただいるだけで良いのよ」

 いるだけ? いることすら拒絶されているのに?

「あの人が甘ったれなの、葵ちゃんが一番よく知ってるでしょう」

 真理子のその言葉が妙にしっくりと自分の中に落ちた。エレベーターの扉がゆっくりと目の前で開いた。


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