144 庶民の暮らしを知るために
国王の執務室で、ジェフリーが国王を相手に首を振っている。
「申し訳ございませんが、お引き受けできません」
「頼むよジェフリー。私が直接夫人に頼めば、命令になってしまう」
「しかし陛下、それは危険ではありませんか? 城外をご案内するのが妻というのも、あまりに責任が重く……」
「もちろん護衛はたっぷりつける。最初は適任者を選んで街を見学させようと思ったんだが……デルフィーヌはアッシャー夫人から話を聞きたい、アッシャー夫人の案内で民の実情を見てみたいと言うんだ」
ジェフリーはコンラッド国王の整った顔を眺めながら(そこまで頼まれたら、家臣の俺だって断れないでしょうが)と恨めしく思う。
母国の貴族がこの国の少女をさらって奴隷同様の扱いをしていたことで、デルフィーヌ王妃は一時的に心と体の調子を崩した。ビクトリアに励まされて持ち直したものの、「国母の在り方とは」と考え続けているという。
その結果、「民の生活に詳しく私に嘘をつかない者に王都を案内してもらい、民の実情を知りたい」という結論に至った。
民の生活に詳しく王妃を相手に話ができるだけの教養がある女性。
都合の悪い場面に出くわしても、保身のために取り繕った話でごまかさない女性。
しかもデルフィーヌに信頼されている女性。
そんな女性はこの国に一人しかいない。それはジェフリーもわかっているから、渋々話を引き受けた。
「承知しました。では護衛をたっぷり配置していただくということで、妻に伝えます」
「ありがとうジェフリー。今度、二人でゆっくり飲もうじゃないか」
ジェフリーは「殿下も私以外に信用できる人間を増やしてくださいよ」と、最後はコンラッドの子供時代から関わっている気安さで注文を付けた。
「ヘインズのことは信用している。だが、彼は民の実情に詳しくない」
「まあ、そうでしょうね」
「ではデルフィーヌにジェフリーが承知してくれたと伝えるよ。ありがとう」
「どういたしまして、陛下」
執務室をジェフリーが出ていき、コンラッドは急いでデルフィーヌに使いを送った。
◇
デルフィーヌも自分の執務室で書類に目を通していた。
嫁いでからずっと、貴族の夫人が行う慈善事業に名誉職の形で関わり続けてきた。それが今回の貧しい子供たちがさらわれたことで「自分がやってきたことは、本当に役に立っているのだろうか。貴族の自己満足や見栄のために利用されていただけではないのか」という疑問を抱えている。
ビクトリアから平民たちの話を聞けば聞くほど、自分の世間知らずを自覚させられてきたからこその疑問だ。
それともうひとつ、「自分の身分ゆえに人は嘘をつくことがある」と知った。
デルフィーヌが少女の頃に「お祭りに行きたい」と言った時、侍女のエリーは嘘をついた。お祭りで売られる屋台の食べ物は安全ではないことを、エリーはかなり大げさに言った。デルフィーヌがお祭りを諦めるように仕向けるためだった。その嘘にも、ビクトリアの話を聞いていて気付いた。
エリーは心からデルフィーヌを愛してくれていたから、保身のためではなく将来の王妃を思いやってのことだとわかっている。だが今にして思えば、「あなたが出かければ多くの人の手を煩わせるし、万が一にも屋台の食べ物で食あたりになってもらっては困るのだ」と正直に言ってほしかった。
自分は真綿で包まれて上手に真実から遠ざけられていたのだと、三十を超えて気づいた。己の愚かさが情けなかった。
(当時と同じことが今の自分にも行われているのではないか)
すべての人を疑うことなく育った深窓の令嬢は、遅ればせながら「人は上手に嘘をつく」ことを学んだのだ。
書類に向けていた目を窓の外に動かした。二人の息子の剣の鍛錬が、デルフィーヌの目が届く中庭で行われていた。第一王子のオスカーと第二王子のルーカスが、それぞれ軍人から指導を受けている。
穏やかな性格のオスカーは剣を振るうのも素直で穏やかだ。あまり剣の鍛錬が好きではないのか、険しい表情をしている。一方のルーカスは力任せに剣を振り回しているが、実に楽しそうな顔だ。
「同じ両親から生まれても、あんなに性格が違う。面白いわね」
そうつぶやいてまた書類に向かう。そこに国王からの使者がやってきて、ジェフリーが妻の同行を了承した旨を告げた。
「わかりました。ありがとう」
そう言って使者を見送り、ドアが閉まると微笑んだ。
十代で嫁いでから今まで、このような警備を必要とすることは要求したことがなく、これが初めてのことだ。
最初は「では世情に詳しい者を同行させよう」という答えだったが、その同行者はとある伯爵夫人だった。お茶会で何度か言葉を交わしたことがあったが、彼女が平民の暮らしに詳しいわけがないのはさすがにデルフィーヌにもわかる。
豊かな商人のところへ案内してもらいたいわけではない。他国の貴族に騙されて働くことを了承するような、そんな層の人間と話をしたいのだ。それが難しいことは重々承知している。それでも、と思う。
いつものようには引き下がらず「アッシャー夫人に案内してもらいたいのです」と言うと、国王は思案顔で黙り込んだ。
「いけませんか?」
「ダメとは言わない。少し時間をくれるか。ジェフリーの了承を得たいんだ。ジェフリーが嫌がったら、無理強いする形は取りたくない」
それを聞いて、(陛下のジェフリー贔屓はかなりのものね)と思う。
エリーがいた頃にどこかから仕入れてきた話では、コンラッドが少年の頃に剣の指導のみならず、臣下の者への対応の仕方を教えてくれたのはジェフリーだったらしい。
その話を裏付けるように、王太子時代のコンラッドが、「ジェフリーがいなかったら、私は権力の上でふんぞり返る愚かな王子になっていたよ。他の者たちは私に遠慮して、ほめることしかしなかったからね」と言ったことがある。
「ジェフリーの導きはあったでしょうが、殿下の聡明さは生まれつき備わっていたものだと思います」
「いや。ジェフリーは上に立つ人間としてあるべき姿を、いつも実践して僕に見せてくれていた。彼は得難い人物なんだよ」
コンラッドはそう言って話を終わらせた。
当時は「そこまで?」と驚いたが今ならわかる。デルフィーヌにとって、ビクトリアがそんな存在だ。
保身よりも己の信条を大切にする人。群れることなく自分の人生を生きる人。手を伸ばしても届かないのは知っているが、それでも彼女を尊敬する気持ちは捨てられそうにない。
いつでも自分が一番として持ち上げられ褒め称えられながら生きてきた。
結婚してからは自己主張はせず、夫に従うのが当然だと思って生きてきた。
子を産むことを求められ、役目を果たした今、「次の私」を目指したい。
手の届かない存在を目標にして努力する今の自分を、誇りに思いながら生きたいのだ。






