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明石・星空時計の十日間  作者: 明石竜


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第一話 明石の時間が、一分なくなる

 その日、明石の時計は、一分だけ遅れた。

 少なくとも、わたしにはそう見えた。

 夏休みまで、あと三日。

霧ノ星小学校六年二組の教室の窓から見える空は、朝からまぶしいくらい青かった。

「自由研究は、自分が気になったことを選んでください。明石だからこそ調べられるものも、おすすめです」

 朝の会で、先生がそう言いながら、黒板に大きく文字を書いた。

 明石だからこそ。

 その言葉を見た瞬間、クラスの何人かが「子午線!」と声を上げた。

「日本標準時とか?」

「天文科学館もあるやん」

「たこはあかんの?」

 教室が笑いに包まれる。

 わたしは黒板横の壁時計を見た。八時三十三分。

 東京から明石に引っ越してきて、三か月。

 この町が「時のまち」と呼ばれていることは、もう何度も聞いていた。

 でも、時間なんて、どこにいても同じだと思っていた。

 八時三十三分は、東京でも明石でも八時三十三分だ。

 このときのわたしは、まだ知らなかった。

 同じ時刻を指す時計が、同じ時間を刻んでいるとは限らないことを。

 そして、明石から、本当に一分がなくなることを。


 自由研究のテーマを決めるのに、わたしはあまり時間をかけなかった。

 ほかに思いつくものもなかったし、「明石だからこそ」と言われて、すぐに頭に浮かんだのが「日本標準時」だった。

 町のあちこちに「子午線のまち」「時のまち明石」と書かれた看板があるのは、もう見慣れている。駅前にも、商店街にも、似たような文字が並んでいる。

 調べれば、きっとすぐに終わる。

 そう思っていた。

 わたしは、はっきりした答えが出ないことが苦手だった。観察したり、予想したりする自由研究より、決まった答えを探して、きちんとまとめるほうが性に合っている。日本標準時なら、東経百三十五度という数字を調べて、それがどう決まったかを書けばいい。たぶん、三日もあれば終わる。


        ☆


 夏休み初日の、七月二十一日。

 三宅ナナと商店街を歩いていると、自由研究の話になった。明石に来て最初に話しかけてくれたクラスメイトだ。

「ひより、自由研究のテーマ、もう決めた?」

「日本標準時のことにしようと思ってる」

「なんで?」

「調べれば答えが決まってそうだし、楽そうだから」

 ナナは、少し考えてからスマートフォンを持ち上げた。

「それ、うちも一緒にやってええ?」

「ナナも?」

「明石らしいし、写真もいっぱい撮れそうやん。二人でやったら、早く終わるかもしれへんで」

「それなら、いいけど」

「決まり。明日、天文科学館行こ」


 こうして、わたしとナナは、日本標準時について一緒に調べることになった。

 けれど、まだ思ってもいなかった。

 その計画が、少しずつ崩れていくなんて。


        ☆


 夏休み二日目の、七月二十二日。

 わたしとナナは、天文科学館へ向かった。

 ナナは、歩きながらもスマートフォンで町の看板や時計を撮っている。短い髪の片側を黄色いピンで留め、気になるものを見つけるたび、丸い目をいっそう大きくした。

「自由研究の記録にもなるし、映える写真も撮れるし、一石二鳥やな」

「どっちが本当の目的なの」

「どっちも本当やで」

 ナナの目的は、たぶん写真のほうが少しだけ上だった。それでも、わたしにとっては好都合だった。日本標準時を調べるなら、天文科学館はちょうどいい場所だ。

 天文科学館は、白い塔が目印の建物だった。塔のてっぺんには大きな時計があり、その下には『J.S.T.M.』と書かれた文字が見える。

 入口の前には、地面に一本の線が引かれていた。

 子午線、と書かれた表示板がそばに立っている。

「これが、あの子午線?」

 わたしは線の上に立ってみた。地面の線をまたいだだけで、何かが変わるわけでもない。ただの白い線だ。

「写真、撮っとこ」

 ナナがスマートフォンを構える。わたしは、なんとなく落ち着かない気持ちで、線の上から動いた。

 画面には、肩までの黒い髪をきちんと耳にかけ、白い帽子をかぶったわたしが映っていた。こうして見ると、子午線の上に立っているというより、証明写真を撮られているみたいだ。


 館内に入ると、思っていたよりも空いていた。展示室には、星座の模型や、古い天体望遠鏡、標準時の歴史を説明するパネルが並んでいる。

 わたしはノートを片手に、パネルの説明を写し始めた。

 東経百三十五度。

 グリニッジを通る本初子午線との時差、九時間。

 日本標準時は、ここを基準に決められている。

 書き写しているだけなら簡単だ。それなのに、なぜか言葉の意味がうまく頭に入ってこない。九時間差、と書かれていても、それが自分の生活とどうつながっているのか、よく分からなかった。

「それ、写すだけやったら、もったいないで」

声をかけられて振り向くと、日に焼けた男の子が立っていた。少し伸びた黒い髪はあちこちにはね、人なつっこそうな目が光っている。古いショルダーバッグを肩から下げていて、星座や惑星の名前らしき文字が見える。 

「東経百三十五度がなんで日本標準時の基準になったか、知ってる?」

「……知らない」

「地球は一日で一周するやろ。一周は三百六十度で、一日は二十四時間。三百六十を二十四で割ったら、十五や」

「十五度で、一時間?」 

「そう。経度が東へ十五度ずれるごとに、時刻も一時間ずつ進む。東経百三十五度は十五度の九倍やから、グリニッジより九時間進んだ時刻になる。九時間ちょうどになる経度なんや。区切りのええ数字にしたほうが、みんな分かりやすいやろ」

 男の子は、わたしが知りたがっていると決めつけたように、得意げに話した。

 自由研究に必要なことだけ分かればよかったわたしは、少しむっとした。聞いてもいないのに説明してくる人は、東京でも苦手だった。

「それよりあんた、誰?」 

「黒田ソラ。ここ、よう来るねん」

 そう言ったとき、館内放送が、もうすぐ始まるプラネタリウムの上映を告げた。ソラは「あ」と小さく声を上げた。

「やば。次の上映、見ようと思ってたんや」

 そう言うと、慌てて走り出した。

 上映時刻ぎりぎりになって駆けていく後ろ姿を見送った。

 知ったかぶりで、時間にもルーズ。

 それが、黒田ソラの第一印象だった。

「プラネタリウム、見に行かへん?」

 ナナが聞いた。

「今日はいい。日本標準時のことだけ調べたいし」

「うちも何回か見たことあるから、どっちでもええで」


わたしは展示のパネルに向き直り、説明を書き写す作業に戻った。

 しばらくすると、ナナに呼ばれた。    

「ひより、こっちこっち。倉庫っぽいとこ見つけてん」


廊下の奥へ行くと、「関係者以外立入禁止」と書かれた扉があった。閉まっているはずのその扉のすき間から、かすかに何かが転がるような音がする。

「今、なんか音せえへんかった?」

「した」

わたしとナナは、そろって扉に近づいた。

 すき間から、小さな金属の音。

 足元に、古い鍵が転がってきた。

 錆びた鉄の鍵で、ひものようなものがついている。誰かが落としたのだろうか。それとも、扉の向こうから転がり出てきたのだろうか。

 わたしが拾い上げると、扉の奥でまた音がした。

「そこ、入ったらあかんで」

 声に振り向くと、いつのまにかソラが戻ってきていた。

「プラネタリウム、終わったの?」

「そうや。戻ってきたら、気になる音がして……二人も聞いた?」

「うん」

 ナナが扉を指さした。

「この中からやと思う」

 ソラの目は、もう扉のほうを向いていた。

 わたしの手の中の鍵と、扉の鍵穴は、形がよく似ていた。

「……開けてみる?」

 ソラが言った。

「いや、関係者以外あかんって書いてあるで」

 ナナはそう言いながらも、扉から目を離さなかった。

 本当は、関係者以外立入禁止と書いてある場所に勝手に入るなんて、わたしの性格には合わないはずだった。決められたことを守るほうが、ずっと得意だ。

 それでも、鍵を握った手は、なぜか扉のほうへ動いていた。

 鍵はすんなりと回った。


 扉の向こうは、薄暗い資料倉庫だった。古い天体望遠鏡や、色あせた星図、段ボール箱が積み上げられている。

 その奥に、見たことのない道具があった。

 星座盤のような円盤と、時計の文字盤が組み合わさった、不思議な形をしている。表面には細かい目盛りが刻まれ、中心には小さな針が止まっていた。

「星空時計、って書いてある」

 ソラが、台座に貼られた古いラベルを読み上げた。

 わたしは吸い寄せられるように、その道具に手を伸ばした。

 指先が表面に触れた瞬間、止まっていた針が、かすかに動いた。

 文字盤の中心から、小さな光がこぼれる。

 光が形を取り、灰色がかった羽を持つ、小さなフクロウになった。手のひら二つ分ほどの大きさで、胸には星のような白い模様がある。頭には古びた小さな制帽を乗せ、片方の目には丸い単眼鏡をつけていた。

「……我を起こしたのは、そなたらか」

 フクロウは、偉そうな声でそう言った。

 わたしとナナとソラは、しばらく言葉を失っていた。

「我は、日本標準時の番人である。時を知りたくば、まず空を見上げよ」


 最初に動いたのは、ナナだった。反射的にスマートフォンを構えかけて、それから手を止めた。

「これ、撮ってええやつ?」

「よくないでしょ」

「我に許可を求めるとは、多少の礼儀は心得ておるようじゃな」


 わたしの口から出た次の言葉は、われながらまぬけなものだった。

「……しゃべるフクロウ?」

「フクロウではない。我は──」 

 名乗りかけたフクロウは、棚の隅にあった懐中電灯のスイッチが何かの拍子に入り、急に光が当たったことに驚いて、文字盤の陰に隠れてしまった。番人を名乗るわりに、現代の道具にはずいぶん弱いらしい。

 ソラが笑い出した。

「強そうな名乗り、台無しやん」

「うるさい。不意打ちが卑怯なのじゃ」

 文字盤の陰から顔だけ出して、フクロウは不満そうに言った。

「それで、名前は?」

 ナナが尋ねると、フクロウは制帽をかぶり直した。

「我が名はテン。覚えておくがよい」

「フクロウやのに、イタチの仲間のテンなん?」

 ナナが首をかしげる。

「名前と種族に何の関係がある」

「いや、なんとなく」 

 その騒ぎの中、わたしは段ボール箱の隙間に、古びた一冊のノートを見つけた。表紙はすっかり色あせ、角は丸くなっている。

 展示されている資料とは違う、誰かの手書きの観測記録だった。

 ページをめくっていくと、几帳面な文字で、星の位置や影の長さが書き込まれている。けれど、後ろのほうのページになるにつれ、文字は乱れ、所々で消した跡が残っていた。

 最後のページに、わたしは目を止めた。

 子どもの字で、こう書かれていた。


 七月三十一日。

 明石の時間が、一分なくなる。


 わたしは、思わず壁のカレンダーを探した。今日は七月二十二日。

 今年の七月三十一日まで、今日を含めて、あと十日しかなかった。

「……これ、いつの記録?」

 ソラがのぞき込んで、首をかしげる。

「さあな。何十年も前のもんかもしれぬ」

 テンは、ノートの文字を見つめたまま、何かを言いかけてやめた。

「……それ、知ってるの?」

「我は、知っていることしか語らぬ。だが、今は語らぬ」

 はぐらかすような言い方に、わたしはますます落ち着かなくなった。

 窓の外で、塔の鐘が時を告げ始める。

 わたしは反射的に、自分のスマートフォンを見た。

 四時。

 けれど、塔の時計の音は、スマートフォンの時計より、ほんのわずかに遅れて聞こえた気がした。

 気のせいかもしれない。

 それでも、わたしの中で、何かがかちりと音を立てたような気がした。

 明石の時間が、一分なくなる。

 その言葉の意味を、わたしはまだ何も知らなかった。

 けれど、七月三十一日までの十日間が、わたしにとって、これまでとはまったく違う夏休みになることだけは、なんとなく分かっていた。

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