1日目-07
「…………え゛っ」
巨大な月の姿に気付いた小枝は、声にならない声を出しながら、ピタリと固まった。そんな彼女の反応に気付いて、リンカーンが問いかける。
「……コエダちゃん?大丈夫か?」
「……月が……」
「月?……あぁ、今日はよく見えているな。最近、天気の悪い日が多かったから、あんなに綺麗に見えるのはかなり久しぶりだ」
リンカーンはそう言いながら、小枝に合わせるようにして空を見上げた。
地平線の先には黄色く染まり始めていた2つの太陽の姿があって、頭の上には大きな月の影。その光景は、まさしく異世界そのもの。小枝の目は、鮮やかな空の色を映して、光り輝いていたようだ。
と、そんな時。
「リンカーンさーん!すまん!やっちまった!」
冒険者の1人であるジャックが、包丁片手にやってくる。なお言うまでもないことだが、リンカーンを襲いに来たわけではない。
「ジャックさん、とりあえず落ち着こうか?その包丁、危ないんだが……」
「ん?ああ、すまない……」
「それで何だって?何があったんだ?」
「ああ、そうだ。さっき、蟻どもに襲われた時……実はフライパンを落としてきちまったみたいなんだ」
ジャックの腰には、本来、しゃもじより少し大きいくらいのサイズの小型のフライパンが下げられているはずだった。防具兼、武器兼、調理器具のフライパンである。それが、巨大蟻との戦闘の際に、何らかの拍子で落としてしまったらしく——
「じゃぁ、火を使った料理は難しい、ってことか?」
「申し訳ないことに、火を使わない料理になりそうだ。むしろ、料理なんて言えないかも知れん……」
「そうか……」
——料理の内容を想像したリンカーンは、思わず溜息を吐いた。火を使わない料理となると、干し肉に乾燥パン、それと水だけ、という保存食のメニューになるのである。かろうじて水を湧かして白湯を作るくらいはできるはずだが、疲れた状態でそのメニューというのは、精神的に辛いことだろう。
絶望的な表情を浮かべていたのは、リンカーンだけではない。ミハイルも、クレアも、げっそりと痩せこけたような表情を浮かべて、消沈したように俯いていたようである。もちろん、ジャックも同様だ。彼らは火を使った料理を食べられないことを残念に思っている他にも、フライパンを落としてしまったことについて罪悪感を感じているのだろう。本来なら、雇用主であるリンカーンが材料を提供し、冒険者たちが料理して、皆で舌鼓を打つはずだったのだから……。
そんな中でリンカーンは、小枝に向かって視線を向ける。そして彼は申し訳なさそうな様子で、こう口にした。
「すまない、コエダちゃん。本当は君のことをもてなしたかったんだが、どうやらそうも言っていられなくなってしまったみたいだ。町に着いたら、美味しいご飯をごちそうするから、それまでは我慢していて貰えないか?」
そんなリンカーンの言葉に対し、小枝は、不思議そうに首を傾げる。
「あの……フライパンなんて無くても、料理できますよね?」
「「……えっ?」」
「ほら、あるじゃないですか?石を加熱して、その上でお肉を焼いたり、パンを焼いたり、ご飯を焼いたりする料理とか。だからフライパンなんて作れば良いのですよ。例えば、こんな感じで」
小枝はそう言った後、近くにあった大岩に手を掛け——、
「(おっと……人間アピール、人間アピール……)」
——手を掛けずに、地面に転がっていたこぶし大の石ころを拾い上げると……。それを使って大岩を軽く叩き——、
コツン……
ズドォォォォン!!
——木っ端微塵に吹き飛ばしてしまった。普段やらないことだったので、どうやら力が入りすぎてしまったらしい。
「「「「…………」」」」
「えっと……あ、そうです!なんか、岩が脆かったみたいです!」
「「「「…………」」」」
「あの……皆さん?岩が脆かっただけですからね?」
「「「「…………」」」」
「……いま見たことは、忘れるように」
「「「「…………」」」」こくこく
遂に言い訳が思い付かなくなったのか、真顔に戻って忘却を指示する小枝。対する4人に、彼女の言葉を無視するつもりは無かったらしく……。皆、小枝に対して、何度も繰り返し、首を縦に振り続けるのであった。
その夜は、小枝が大岩から削って作った石製のフライパンを使い、調理を行うことになったのだが——、
「おいしい……(やっぱり、この世界のお料理も普通に食べられるんですね……)」
「「「「…………」」」」げっそり
——食事の味を感じられていたのは、恐らく小枝だけだったのではないだろうか。
その後、どこかぎこちない会話を交わして、夜の見張りの順番を決めて……。小枝だけは見張りをしなくても良い、ということになった後。彼女はリンカーンに貸して貰ったテントの中で、毛布を頭から被りながら横になったのである。